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時は平安中期のことです。
藤原兼通(ふじわらのかねみち)は、弟の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が すでに中納言であったにもかかわらず、自分はまだ参議だったので、 非常に辛い思いをしていました。 時の天皇である円融(えんゆう)帝の御后安子(あんし)は、兼通の妹でした。 安子はすでに亡くなっていましたが、その存命中に兼通はある事を頼んでいました。 「関白職は兄弟の順序どおりにお任じ下さい」 との文を安子に書いてもらっていたのです。 そしてその文をお守りのように首にかけて、大事に取って置いたのです。 兼通は、出世が後れていたので面白くなく、参内もあまりしていませんでした。 そのため、円融天皇も兼通のことを疎遠に思っていました。 そんな時、兄の一条摂政藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)が亡くなりました。 兼通は、この御文を持って参内し、円融天皇に訴えました。 「御奏上申すべき事がございます。」 そして、この御文を差し出したのです。 円融天皇が手に取って見てみると、母安子の筆跡で次のように書かれていました。 「関白職を兄弟の順に従って、御任じなさいますように。 ゆめゆめ違えませんように。」 天皇は「亡き母の筆跡だな」と言うと、その御文を持って奥へ入ってしまいました。 その結果、兼通はあっというまに関白に任じられたのです。 天皇が母の遺言に背くまいとしてのことでした。 兼通が関白になってから数年後のことです。 兼通は病気が重くなり、危篤の状態になりました。 そんな時、兼通の邸の目と鼻の先にある兼家の邸の方で先払いの声がしました。 兼通の病床に付き添っている人たちが「誰だろう」と話していると、 誰かが知らせました。 「東三条の大将殿(兼家)が、お出ましでいらっしゃいます。」 兼通は思いました。 「仲の悪いまま長年過ごしてきたが、私が危篤になったと聞いて 見舞いに来るのだろう。」 そして兼通が、身の回りにある見苦しい物を片付けさせていると、 また知らせがありました。 「もうすでに門前を通り過ぎて、内裏へ参られました。」 兼通は危篤でありながらも、怒り狂いそうになりました。 「私の傍に控えている人たちも、私を間抜けだと思っていることだろう。 もし見舞いに来たら、関白職を譲ろうと申そうなどと思っていたのに。 いつもこんな態度だから、長年仲たがいのまま過ごしてきたのだ。 私の邸を素通りして、参内するなど許せないことだ。」 兼通は叫びました。 「かき起こせ。」 「車の支度をせよ。御前駆の者たちを集めよ。」 まわりの人々は、気でも狂ったのだろうかと驚いていたのですが、 兼通は冠を持ってこさせ、装束に着がえ、子息たちの肩にもたれて 参内して行きました。 昇殿すると、天皇が清涼殿の昼の御座におり、その御前に兼家が伺候していました。 兼家は、兼通がすでに亡くなったと聞いて、関白のことを秦請しているところでした。 そこへ兼通が目をかっと見開いて現れたので、天皇も兼家も大変驚きました。 兼家は立ち上がると、西隣の部屋の方へ行きました。 一方、兼通は天皇の御前に膝をついて、とても機嫌の悪い顔つきをして言いました。 「最後の除目を行いに参内いたしました。」 そして兼通は蔵人頭を召して、関白には藤原頼忠を任じ、 兼家からは大将職を取り上げ、大将職には藤原済時を任ずる宣旨を下し、 さらに兼家を治部卿に貶(おと)しました。 それだけの事をやり終えると、兼通は退出し、まもなく亡くなりました。 兼通は無理にでも我意を通す性格だったので、危篤の状態であったにもかかわらず、 除目のことを秦請するなど、他人には真似もできないことでしょう。
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| 参照、 「大鏡」 |
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現在の京都御所内 「清涼殿」
清凉殿は天皇の日常的な住居 平安京内裏内の清涼殿を模倣している |
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