競射 (きょうしゃ)
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時は平安中期のことです。

藤原伊周(ふじわらのこれちか)が、21歳にして藤原道長(ふじわらのみちなが)ら

3人を超えて内大臣となりました。

そのため藤原道長は、1年ほど不遇な時期を過ごしたのです。

しかし道長は、どんな境遇にあっても力を落としたり、気後れしたりしませんでした。

公的な政務や儀式には、伊周の下輩としての身分に従って行動しましたが、

私的な場では伊周に遠慮することはありませんでした。

伊周が関白(父道隆)の東三条殿南院で、

人々を集めて弓の競射を行った時のことです。

道長が参加したので、関白道隆は驚きましたが大変歓待しました。

弓の競射は、先方(さきかた)と後方(あとかた)に分けて競い合い、

身分の高い者が先行するのが慣例でした。

しかし道長は、伊周より下級の立場であるにもかかわらず先方に立ち、

先に射ました。

競射の結果、伊周の射当てた矢数は、道長に二つ負けてしまいました。

関白道隆や御前に付いている人たちが言いました。

「もう二度延べさせたまえ。」

競射では、勝負を度数でいい、一度で二回矢を射るのです。

したがって二度で四回矢を射ることになり、伊周に勝てる機会ををつくり、

道長に対し、暗に勝ちを伊周に譲れと求めたのです。

道長は、心中穏やかならずも答えました。

「されば延べさせたまえ」

道長は、また先に立ち、次のような言葉を発して矢を放ちました。

「道長の家より天皇・后が立つはずならば、この矢当たれ!」

すると道長の放った矢は、的の中心に当たったのです。

次に射る伊周は、気後れし手も振るえてしまい、放った矢は的の近くにさえいかず、

まったく見当違いの所へいってしまいました。

伊周の父関白道隆は、真っ青になりっました。

二度目の道長が射るときには、こんな言葉を発して矢を放ちました。

「私が摂政・関白になるべきものならば、この矢当たれ!」

すると一度目と同じように、的が割れるほど同じ的の中心に当たったのです。

こうなると、道長をもてなしていた方も興ざめしてしまい、気まずくなってしまいました。

伊周は二度目を射ようとしましたが、関白道隆が止めました。

「もう射る必要はない。射るな!射るな!」

その場は大変白けてしまいました。

道長は、矢をもとの場所に戻して帰りました。

道長が発した言葉が、すぐに実現するはずの事ではありませんが、

その発した言葉やその趣旨に、伊周は圧倒されて気後れしたのでしょう。



藤原道長 ふじわらのみちなが
966〜1027
兼家の五男
26歳で権大納言ついで左大将を兼ねる
同年、兄の関白道隆、道兼が相次いで薨じた後を受けて内覧の宣旨を受ける


藤原伊周 ふじわらのこれちか
973〜1010
関白道隆の長男
18歳で参議、その後道長らを超えて内大臣となる
父道隆の死後、叔父道兼、ついで道長へと権勢は移った


摂政・関白

平安年表



参照、 「大鏡」

東三条院址 東三条院(とうさんじょういん)址

(押小路釡座角の立札)
東三条院はこの辺りを中心に、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた 東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、
平安時代隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。

はじめ、醍醐天皇皇子重明親王の邸であったが、平安時代初期藤原良房が譲り受けて後は、 藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。

藤原兼家(東三条殿と称した)の姉超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、 妹娘詮子は円融天皇の女御となって一条天皇を、 それぞれここで産んでいる。
殊に詮子は一条天皇の即位後皇太后となり、出家して東三条院と称した。

その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、 邸内は尊美を極め、邸内池には竜頭船を浮べて、 天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。

しかし、邸は1177年に火災で焼失した。


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