前払い
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時は平安中期のことです。

藤原伊周(ふじわらのこれちか)は参内した時、朔平門(さくへいもん)から入り、

西の方へ向かいました。

その時、ちょうど藤原道長(ふじわらのみちなが)も参内してきており、

梅壷の東の塀の外側の狭い所に、道長の下人が大勢いました。

伊周の供の者たちは、道長の下人たちを一方的に追い払いました。

道長の下人たちは行き場がなくなり、梅壷の塀の内へ入りました。

道長は、これはいったいどうしたことかと思いながら見ていました。

道長の供の者も、けしからんと思いながら見ていましたが、

伊周に遠慮して手出しできずにいました。

その時、道長のある随身の者が主人の名誉を守るため、

そ知らぬ顔をして、伊周の供の者たちを荒々しく梅壷から追い返しました。

伊周の供の者たちは、追い返されて梅壷から外へなだれ出てきました。

伊周は太っていたので、すぐに退くこともできず、

筋向いの登花殿の塀に押し付けられてしまいました。

伊周は「やや」と言いましたが、狭い所に雑人たちが多く追い払われてきたので、

退くにも退けず、大変な不体裁なことでした。

身分の低い雑人に、体を押され接触されるなどということは、

身分の高い貴族としてはあってはならないことだったのです。

このことは伊周の過失というわけではありませんが、

「伊周が派手な出歩きや振る舞いをしなければ、このように軽んじられまいに」

と人々は申したそうです。


大内裏略図

藤原伊周 ふじわらのこれちか
973〜1010
関白藤原道隆の二男
父道隆の存命中は、異例の栄達をするが、
道隆の死後、権勢は叔父の道兼、道長と移っていく



参照、 「大鏡」

内裏を模倣している京都御所
紫宸殿 清涼殿
紫宸殿 清涼殿


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