| 涙の訴え |
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時は平安中期のことです。
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、関白藤原兼通(ふじわらのかねみち)から 右大将の職を奪われたあげく、治部卿におとされてしまいました。 失意の兼家は東三条院の邸に籠り、内裏にも久しく参内しませんでした。 兼家は、やりきれない自分の気持ちを長歌に詠んで奏上しました。 「あはれ我(われ)、帝(円融天皇)がかつて五の宮と申された時に、 私は親王別当となり、身を挺してお仕えして思ったことがありました。 御両親に相次いで先立たれてしまわれた小さき宮様を、 世間の荒い風からお守りしよう、塵(ちり)もすえず磨き申して、 宮様の栄えを私以外の誰が拝しようかということでした。 畏れ多くも、兄宮(為平親王)を超えて立太子なさった時には、 どれほど頼もしく思われたことでしょう。 行く末までもと願いつつ、天皇の位につけるように取り計らったのは、 誰あろうこの私でした。 しかし、いざ帝位につくと、お世話したかいもなく、 実った稲穂を人に任せるように、他人に帝を任せることになってしまいました。 私は案山子のようになすすべもなく、二春三春と過ごしてしまいました。 兄伊尹が亡くなり、今度こそ私に関白職が廻ってくると期待していましたのに、 非道にも下位の兄兼通が関白の職に就いてしまいました。 それをみて、我が身もこれ限りと思いました。 それでも命さえあれば、機会が巡って来るかもしれないとの思いを 支えにしてきましたのに、下位の者に官位を超されるだけでした。 下位の者が、私を超え立派な官職に就く中で、私一人水屑のままでした。 そのあげく、大将職を奪われ、治部卿におとされ、 前途もふさがれ涙に沈んでおりました。 数えてみれば、冬も三月を過ぎました。 長き夜を眠ることもできず、嘆き暮らしているのは、我が身のためではなく、 私の降職を人々が残念にも帝の治世の汚点と騒いでいることです。 まして藤原氏の中にあって、枯れ果てたまま終わった人は今だおりますまい。 春日神社、大原野神社に誓って、私は罪を犯してはおりません。 もし罪を犯したのであれば、春日の神も許さないでしょう。 私にやましい心があるというならば、 照る月も潔白の身を御照覧あれと祈っています。 もし、今年のうちに潔白が示されないなら、我が身は朽ち果てるでしょう。 谷の埋もれ木のように、私の子孫もこのまま終わることでしょう。 立春に吹く春風も心あるならば、我が袖の氷を溶かして欲しい、 とお願い申し上げる次第です。」 この兼家の訴えに対して、円融天皇からの返事の文にはこう書かれていました。 「承知したが、しばし待て。」 兼家は、もう一度訴えました。 「しばし待てとおっしゃいますが、しばしの間、命が耐えられないとしたら、 一体どうしたら良いのでしょう。」 しかし天皇からの返事は、またも次のようなものでした。 「承知したが、しばし待て。」 兼家は一時失意の時代を過ごしますが、娘詮子(せんし)を帝の後宮に入れ、 詮子が後の一条天皇を儲けることにより、外戚競争に勝利をおさめます。 そして、念願の関白の地位を手に入れるのです。
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| 参照、 「大鏡」 |
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東三条院(とうさんじょういん)址
(押小路釡座の角の立札) 東三条院はこの辺りを中心に、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた 東西約130メートル、南北約280メートルに及んだ |
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