応天門の変
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清和天皇が、まだ幼かった頃のことです。

事件は、貞観8年(866)3月10日の夜に起きました。

何者かが、応天門に放火したのです。

応天門はあっというまに、物凄い勢いで燃え上がりました。

あたりは、現場へ駆けつける検非使や騎馬の廷尉、楕兵で騒然となり、

朱雀門付近は、見物の群集でごったがえしました。

火の勢いはおさまらず、黒煙は都の空を覆い、応天門は炎上してしまいました。

事件後、大納言伴善男(とものよしお)が天皇に申し出ました。

「左大臣源信(みなもとのまこと)の仕業です。これは、重大な罪です。」

天皇は、源信を処罰し死罪にしようとしました。

このことを聞いた時の太政大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、

すぐさま天皇の御前に馳せつけて、天皇を諌めました。

「このことは申す者の讒言かもしれません。事件をよくよく糾明した上で、

真偽のほどをはっきりさせた後、処断されるべきです。」

よく調べてみると、左大臣源信の疑いは決定的ともいえませんでした。

源信は許されましたが、

「朝廷に仕えていると、とかく無実の罪に遭うことになるものだ」

と言って、隠居してしまいました。

その年の9月頃になって、事件の真相が発覚しました。

伴大納言の家の出納を司る役人の幼い子供と、舎人(とねり)の幼い子供が、

喧嘩をした時に、親どうしも言い争いになり、

隣近所の人々が周囲に群がってきました。

そのとき出納係のあまりの暴言に対して、舎人は黙っていたことを口にしました。

「お前の主人大納言を偉い人だとでも思っているのか。

お前の主人は、私が口を閉じているおかげで無事でいられるのだ。

私が喋れば、お前の主人はただではすまないのだぞ。」

この舎人の発した言葉は世間に広まり、天皇の耳にまで達しました。

舎人は呼び出され、厳しく糾問されたので、自分の見たことを語りました。

それによると、

舎人が3月10日の夜更け、家に帰るため応天門の前を通りかかった時、

人の気配がしたので廊下脇に隠れていると、

柱にしがみつきながら降りてくる者があった。

変に思って見てみると、伴大納言であった。

次にその子が降り、さらに下部が降りてきた。

そして3人は、降りるやいなや一目散に、朱雀門の方へ走り去った。

舎人も家の方へ向かって帰って行ったが、途中で人々が「大内裏の方が火事だ」

と言って騒いでいる。

走り戻ってみると、応天門が半分ほど燃えていた。

「さては、さっき応天門から降りてきた3人の仕業だな」と思ったが、

一身上にかかわる重大事であるから、今まで口を閉ざしていた、

ということでした。

伴大納言は、応天門の放火を左大臣源信の仕業にして失脚させ、

その後釜として自分が左大臣になろうと計ったのでした。

伴大納言は、伊豆の国へ流罪となり、その子息たちも諸国へ配流されました。




このように応天門の変は、讒言によって人を陥れようとした事件だと

語り継がれています。

ただし、本当に伴大納言が真の犯人、真の黒幕だったのでしょうか?

一説には、藤原良房こそ隠れた首謀者ではなかったのか、とも言われています。

なぜならこの事件により、伴大納言が再興を期していた大伴氏は没落し、

連座して紀氏からも多くの者が流罪となり衰退し、

源信は引退し源氏の力も弱まりました。

その反面、藤原良房は摂政となり、藤原氏繁栄の基礎を築くことになったからです。

もしかしたら、平安貴族の勢力図を塗り変える大事件だったのかもしれません。



参照、「宇治拾遺物語」
応天門の変


平安神宮の応天門 平安神宮の応天門


大内裏の応天門を模倣している
大きさは大内裏応天門の八分の五
応天門は、大内裏にある朝堂院の南の正門


大内裏略図

平安年表

平安時代の摂政


伴大納言 正式名は、伴善男(とものよしお)
809〜868
大納言まで昇進するが、応天門の変で失脚
伊豆へ流され、同地にて没


藤原良房 ふじわらのよしふさ
804〜872
変の当時、太政大臣
応天門の変以降、藤原氏繁栄の基礎を築いた


源 信 みなもとのまこと
810〜868
嵯峨天皇の七男
源姓を賜って、臣下に下る




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