源頼政 (悲憤を抱いて)
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時は平安末期、平家全盛の頃の事です。

源頼政は、二度の鵺退治で武名を上げました。

ただし平治の乱で頼政は、平清盛側に味方しました。

そのこともあって、平清盛が勝利をおさめるのですが、

世の中は、「平家にあらずば人にあらず」 

と囁かれるようになってしまいました。

窮屈な日々を送りながら、頼政は文人として名を成していきます。

歌人として多くの歌を世間に知らしめました。

そんな頼政が、以仁王(もちひとおう)の館を訪ねました。

以仁王は一時期皇位継承を取りざたされたこともあったのですが、

望みかなわず、今は政治とかかわりのない立場にいました。

頼政は、以仁王に言いました。

「君は天照大神より四十八世、神武天皇より七十八世にあたられます。

それなのに、ただの皇子のままとは残念ではありませんか?

謀反を起こし、平家を滅ぼして、後白河法皇に御孝行いたしませんか。」

「勝てるのか、あの平家を滅ぼせるのか?」

以仁王の問いに、頼政は答えました。

「もし令旨(りょうじ)を下されるなら、全国の源氏が蜂起するでしょう。」

以仁王は迷いましたが、決心し令旨を発したのです。

やがてこの令旨によって、源頼朝をはじめとする全国の源氏が蜂起し、

平家を滅亡させるのですが、それはもう少し先のこと。

熊野別当、湛増(たんぞう)という者が謀反を察知し、清盛に通報しました。                 

「是非に及ばぬ。以仁王を絡めとって、土佐へ流せ。」

平清盛は指示しました。

そのことを知った源頼政は、以仁王を三井寺へ落とし、館に火をかけると、

嫡子仲綱、次男兼綱らを引き連れて、自らも駆けつけました。

三井寺の僧兵の他に、叡山延暦寺と奈良興福寺からの応援を期待したのです。

しかし、延暦寺には清盛の手がすでにのびてをり、味方についてくれません。

興福寺の援軍もまだ来ません。

清盛のいる六波羅では、数万の兵が臨戦態勢を整えました。

頼政は、いったん奈良興福寺に退却することを決意しました。

奈良に向かう頼政を中心とする兵力は、わずか壱千に過ぎません。

まして以仁王は、馬に慣れておらず、宇治の平等院に着くまでに、

六回も落馬する有様でした。

平家の追手は迫ってきます。

頼政は宇治川の南側、平等院に陣を張り、平家を迎え撃つ覚悟をしました。

戦が始まりました。

頼政の軍勢は、勇猛果敢で宇治川の橋の上の平家を押し返します。

平家は、数に任せて、いっせいに川を渡る作戦にでました。

こうなると多勢に無勢、どうしようもありません。

激戦の末、長男仲綱及び次男兼綱が戦死。

頼政も覚悟をします。

「もはや、これまで。」

以仁王を逃がした後、

平等院の片隅に扇を敷き、辞世の歌を詠んだ後に自害しました。

「埋もれ木の花咲く事もなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」

自分の生涯は埋もれ木のように、花が咲くこともなかったが、
このような身のなれの果てで死んでいくのはなんとも悲しいことだ、
という意味

頼政の首は、家来の渡辺長七唱が平家に気づかれないように、

宇治川の底に埋めました。

平等院の片隅には、「扇の芝」と称され現在も石碑が建っています。

結局、以仁王も奈良まで逃げ切れませんでした。

興福寺からは、七千の兵が応援に駆けつけていたのですが、

間に合いませんでした。

以仁王は、光明山の鳥居の前で平家の追手によって討たれました。

頼政も以仁王も死に、三井寺は炎上してしまいました。

ですが、二人の企てが完全に失敗だったともいえません。

以仁王が発した令旨が、やがては全国の源氏を動かし、

平家を滅亡へと導くことになるからです。

                      (完)




頼政は詠った


源頼政 二度の鵺退治で武名を上げる。
歌人としても名を残す。
乱を起したとき、すでに七十歳を超えていた。


以仁王 後白河法皇の第二皇子。
弟(高倉天皇)の即位、その子(言仁親王)の出生により、
皇位継承の望みを完全に絶たれていた。 



参照、「平家物語」

宇治平等院 扇の芝
宇治平等院 平等院の片隅
「扇の芝」
頼政自害の場所


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