人生奥の別院

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★05.1.6 去勢雑話
  
 田中香涯「奇 珍 怪」鳳鳴堂書店より。
 東洋は去勢の本場であり、かつ発源地であって、古代バビロニアやことに中国においては夙に有史以前の頃から行われていた。苗族(雲南省および貴州の一部に今も住む少数民族)の間に刑罰の一種として行われたが、いつ頃からか漢民族に伝わって、刑罰に応用され宮刑とも称され死刑に次ぐ重刑となった。最初は姦通強姦等の性的犯罪に行った刑であったが、その後になり危険な犯罪者の子孫を除く目的のために、謀反大逆の罪人に宮刑を科すことになった。あの前漢時代の歴史家で有名な司馬遷(B.C.135頃〜?)も謀反をした将軍を弁護して武帝の怒りにふれ、宮刑に処せられている。その屈辱のなかで10数年を費やして太古から武帝時代に至る通史「史記」を完成した。史記はその後の歴史書のお手本となっている。
 ところが隋の時代に至って宮刑は廃止となった。その理由は、昔から宮刑に処せられた者は後宮の延臣すなわち宦官として用いる規定となっており(そのお役目の一つは皇帝のすべてのセックス活動を記録することで、「某年某月某日、某宮殿において某女を召したまう」とえんま帳に記入し、女が子をはらめば慎重を期してえんま帳と照合される。お世継ぎの候補者の正確を期するため。─陳舜臣「妖のある話」講談社より)、その宦官が朝廷内に勢力を得て政治を私する程の権勢を占めるに至ったためである。宦官が勢力(性力ではない)を持っていた頃は、親が富を成さんがためにその子を去勢せしめて宦官にすることもあった。これを私白という。自己の意志で去勢手術を受けて宦官を志願するものを自宮という。宮刑廃止後は自宮、私白は宦官供給の最大の源泉となり、清朝時代の末に至るまでも尚存在した。
 去勢した男子を後宮に使用した風習がローマに入ったのはA.C.2世紀の頃であった。ローマ人に行われた去勢は4種類あった。@両側の睾丸と陰茎とを除去、A睾丸のみを除去する(これが最も多い)、B睾丸を除去せず挫滅させるもの、C単に輸精管を切断したもの、である。
 この風習は変化してキリスト教に入り、性欲を断ち独身を重んずる教徒の間に行われるようになった。マタイ伝19章9〜12節を読むと、イエスが天国を求めるものが去勢した場合に、これを是認したことが分かる。原始キリスト教の行われた時代に、その教徒の中に禁欲のために自ら去勢し、または強制的に他人にこれを行わしめた者も少なくなかった。オリギネスは19歳にして自ら去勢を実行し、その法弟ヴァレリウスはA.C.250年頃に去勢宗、いわゆるヴァレリウス派を開いた。かくして去勢者が続出するに至ったので、遂にローマ皇帝は勅令をもって去勢を禁じたが、熱烈な信徒の自ら行う去勢は公認せざるを得なかったという。
 その後、趨勢としては故意に肉体を毀損することは神に対する冒涜であるとし、去勢を禁ずることとなった。ただ去勢すると、その音声が高く鋭くなるために、歌手の中には去勢した者(カストラート)がかなり多く、ローマ法王の寺院には数十年前まで歌手として去勢者を採用する風があったそうである。
 去勢者は性欲は消失するものと普通思われている。しかし、それは幼少の頃去勢された場合の傾向であって必ずしもそうだという訳ではなく、成人後に去勢した者は通常人と変わらないという。つまり性欲は欠乏せず、性欲を遂行する器官の欠損にあるということらしい。ところで史書に記する所によれば、唐の玄宗皇帝に仕えた宦官高力士は妻を持っていたばかりでなく、多くの貴婦人に通じたといわれる。こりゃどういうことか? さすがに子供を生ましめたということは書いていないが。少なくとも生殖腺と性欲との間には直接的な関係が無いことは確からしい。従って性欲を悪とみて去勢した原始キリスト教の熱烈な信徒は、やり損?であったといえるだろう。
 幼年時に去勢すると、のど仏などは隆起せず、声変わりもしない。性格的には、少なくとも中国歴代の宦官に限って見れば、利己的、狡猾、残忍、陰謀性がある、といったことがあるようであるが、真偽の程は分からない。ただ後漢、唐、明の三代は最も宦官が実毒を流したことは事実である。宗教家など禁欲者一般が、洋の東西を問わず冷酷で陰謀術策を好んで血なまぐさい争乱を引き起こしたことを考えると、去勢者がその傾向を持っているのは当然かもしれない。家畜について見ると、去勢された雄鶏や牡馬が荒々しい性質を失って、温順となることは周知の事実である。人間の場合、脳が発達しているのでそうはならないケースが多々あるのかもしれない。
  


★03.10.1 「こんなもんじゃ」(3)
  
 方代さんの最終回です。人の生き方って色々ですねぇー。照る日があり、降る日があり、季節が巡って、時間は確実に進んでいきます。それは誰にでもおかまいなしにです。しかし私は心豊かにマイペースで時間を自分なりに消化していきたいと思います。方代さんと同じように、また違ったように。
  
 声をあげて泣いてみたいね夕顔の白い白い花が咲いてる
 とぼとぼと歩いてゆけば石垣の穴のすみれが歓喜をあげる
 うす赤い色もつ花がこぼれいるこんな平和の一日もある
 くちなしの白い花なりこんなにも深い白さは見たことがない
 青梅がぽつんと土を打つ音に遠い歳月がある
 春の日はしずかなりけりつぎつぎと鰌は鶴の喉くだりゆく
 見て御覧なさい古来よりほおずきは只赤く熟れて下れる
 ゆく秋のわれの姿をつくづくと水に映して立ち去ってゆく
 地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし
 一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
 雨もりのしみさえあなたの顔にみえ今日のうつつにこがれゆくなり
 一度だけ候文で恋文をこさえてつけしことがありにき
 独身を処世の方針に初めからきめて歩いて来たわけではないよ
 このようになまけていても人生にもつとも近く詩を書いている
 歌を作れ歌を作れと呼ぶ声が巖とともにとどろきせまる
 広告のちらしの裏に書きためし涙の歌よわが涙なり
 おほらかに乳をほりて泣くつゝぬけの声におよばぬ歌を今日も作る
 太書きの万年筆をたまわりぬキリスト様は何も呉れない
 つくづくと五本の指を遠ざけて見つめるほどの幸せもなく
 幸せは捨てた子猫よわれよりも先に帰りているではないか
 北斎は左利きなり雨雲の上から富士を書きおこしたり
 なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない
 長い長い一日である私は何処にもいない一日である
 ゆきずりのせわしき人も両の手を交互に振りて歩み去りゆく
 一本の糸をたぐりて下り来るこの蜘蛛ほどの安定もなし
 ひとりよがりのはにかみを持ちいでゆけばみんなせわしく働いている
 鳥の巣はたえまなく風にさわげども中の卵は動くことなし
 一息に般若心経の一巻を写し終えたりまだだいじょうぶ
 一粒の卵のような一日をわがふところに温めている
 遠い遠い空をうしろにブランコが一人の少女を待っておる
 丘の上を白いちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり
 茶の花の咲ける小径を下りて来る少女が一人今下りて来る
 本当の嘘をまじえたお話をして少女子(おとめご)の心ほぐせり
 近づいて来る足音に追い越されいつもの道の足も弱った
 大工道具をさがし集めてひっそりと眺めることが夢だった
 八階の病床にありてしみじみとめしをたべてるうたをよんでる
 めずらしく晴れたる冬の朝(あした)なり手広(てびろ)の富士においとま申す
  


★03.9.22 「こんなもんじゃ」(2)
  
 死ぬほどの幸せもなくひっそりと障子の穴をつくろっている
 さびしいから灯をともし傍らの土瓶の顔をなでてやりたり
 食べてみて食べられるゆえほくほくと冬の茸の汁にあずかる
 行く先をもたざるわれも夕方になればせわしく先をぞ急ぐ
 三日目も雨は止まらないくらがりに貧乏ゆすりをして待っている
 夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である
 冬の日が遠く落ちゆく橋の上ひとり方代は瞳(め)をしばだたく
 間引きそこねてうまれ来しかば人も呼ぶ死んでも生きても方代である
 みの虫は袋を吊しゆられおるこの人生にはかのうまいぞい
 つかのまのつかのまなれど冬の日が左の頬をすこしなぶりぬ
 これもまた幻なるか水甕の肌にぼんやり日が当りおる
 秋が来て夕日が赤い来年も夕日にあいたいものだ
 お隣の古屋さんもあの世へいってから咳一つしない
 手のひらをかるく握ってこつこつと石の心をたしかめにけり
 さらさらと川は流れて石のみがじっと止っておりにけるかも
 ころがっている石ころのたぐいにて方代は今日道ばたにあり
 移りゆく冬の時雨にぬれながら石青々と静まりかえる
 足もとの石ころばかりに気をとられ歩き疲れて来てしもうたよ
 ひっそりと坐っていると月が出て畳のへりを照らして去った
 両の手を闇にひろげて二月(にんがつ)の雪くろぐろと受けとめている
 すてられし下駄にも雪がつもりおるここに統一があるではないか
 なんという悲しいことだ冬枯れの地上に家がかたまっている
 降りやみし雪うすうすと受けとめし朴の葉っぱのそのやさしさよ
 一本の傘をひろげて降る雨をひとりしみじみ受けておりたり
 そして夜は雨が激しく降ってきてただ暗がりにひとり寝るだけ
 ここ過ぎてうれいは深し西行の歌の秘密はいまも分からない
 何のため四十八年過ぎたのか頭かしげてみてもわからず
 しょんぼりと五十二歳の手をひろげうらを返して今日を過しぬ
 六十になればなればとくり返し六十歳を越えてしまえり
 幸は寝て待つものと六十を過ぎし今でも信じています
 職歴はおこがましいが無職業古稀を迎えることにはなりぬ
 明け方の酒はつめたく沁みわたるこれも供養というものなのだ
 かくれんぼ鬼の仲間のいくたりはいくさに出でてそれきりである
 明日のことは明日にまかそう己よりおそろしきものこの世にはなし
 くりかえしつたうる朝の報道の事実といえど信じる勿れ
 人間が人間をさばくまちがいを常識として世は移りゆく
  


★03.9.17 「こんなもんじゃ」(1)
  
 「こんなもんじゃ」(文芸春秋)は山崎方代(やまさきほうだい、1914〜85)の全短歌(1932〜85作)から制作年時を問わず413首を任意に選び、構成したものである。彼の短歌を読めば、何故「人生奥の別院」かが分かるであろう。種田山頭火や尾崎放哉の自由律俳句を連想させる。ただ彼らの俳句と違って何となくユーモラスな感じがする。生涯妻子を持たなかったので負い目が無いからかもしれない。
 ところで彼は全く働かないという訳ではなく、靴修理、歯科技工の手伝い、雑用・農作業などをしている。58歳のとき、鎌倉市の根岸氏に四畳半のプレハブを建ててもらい、「方代艸庵」と木の札をつけ、ここを終の住処とした。
  
 こんなところに釘が一本打たれていていじればほとりと落ちてしもうた
 るり色の支那の土瓶には耳がない 口さえあればよいからである
 貧乏な詩人が一人住みついて酒をたしなみめしは食べない
 手のひらに豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲りて帰る
 大きな波が寄せてくる 大きな笑いがこみあげてくる
 こおろぎが一匹部屋に住みついて昼さえ短いうたをかなでる
 ある朝の出来事でしたこおろぎがわが欠け茶碗とびこえゆけり
 小屋のふた内からひらき陽を入れて心の底から暖まりおる
 股ぐらに手をおしあてて極楽の眠りの底にわれ落ちてゆく
 うすぐらき棚に価をつけられてわが著書があるここにいたかよ
 さいわいは空の土瓶に問いかけるゆとりのようなもののようなり
 机の上に風呂敷包みが置いてある風呂敷包みに過ぎなかったよ
 いつまでも転んでいるといつまでもそのまま転んで暮したくなる
 留守という札を返すと留守であるそしていつでも留守の方代さんなり
 顔面に畳のあとをはりつけて真昼の小屋に寐とぼけている
 虫眼鏡四つ重ねてさがしおるさがしあぐねているていたらく
 かさかさになりし心の真ん中へどんぐりの実を落してみたり
 約束があって生れて来たような気持ちになって火を吹き起こす
 冷えて来てねむられないので風呂敷をかむりて顔をくるんでしまう
 甕の中覗いてみると薄明かり春の夕がとけこんでいた
 一日が浮き世のように長いので急須の垢をこすって落す
 卓袱台(ちゃぶだい)の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
 こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
 へり黒き湯のみ茶碗を遠ざけて眺めておれば日が暮れてゆく
 へり少しこぼれておれどこの壺のつぼの姿勢は常に正しい
 親子心中の小さな記事を切りぬいて今日の日記を埋めておきたり
 ねむの木のこのしなやかな弾力にゆだねることを許し給えよ
 コップの中にるり色の虫が死んでおるさあおれも旅に出よう
 吸いおわるタバコにタバコの火をうつし煙りにすぎぬ夜を明しぬ
 今日は今日の悔を残して眠るべし眠れば明日があり闘いがある
 道ばたに焚火があればまたぐらをあぶりてまた歩き出す
 どうしても思い出せないもどかしさ桃から桃の種が出てくる
 戦争が終った時に馬よりも劣っておると思い知りたり
  


★03.1.11 金茎和歌集(3)
  
 最終回。前回の続きから。
  
  愛(は)しき身のはしのはしまで汝(な)がすがた万(よろづ)の女(め)らにたち勝るらむ
  みな人もさぞ振向かむ誇らしや見目かたちよききみがみ恵み
  不知哉(いさや)川いささ芽を吹く腋草(わきぐさ)の唇(くち)にちくちくするわぎもかも
  下腹(このかみ)をくちづけ行けば汝(な)がひなと思はへてしか清まれてけり
  かしこくもあつき火之門(ひなと)と名づけたる雪の膚(はだへ)を溶かしむるごと
  あがこころ脚交(あが)ひの繁(しげ)に汝(な)が津水(つみづ)にじみありたる味の淡しさ
  君待つとつと止めをれば麿が背をこそぐりつつぞ玉の汗落(あ)ゆ
  百ひだを摩るぞ快(うま)しき白真弓いましは射るをきみやゆるさむ
  冬さらば越(こし)のふるさと降りしきるゆきてし汝れに麿もゆかるも
  燕子花(かきつばた)さきつたび吾(あ)は行きけりと珍らの言の葉わすれかねつる
  しなやかに応ふる汝(な)が身つくごとに貴(あて)なる乳房(ちふさ)あそそ反(そ)りけり
  男茎(しじ)させば広ごる肉(しし)の押張りて汝れが乳(ちち)ふさ反(そ)りや増すらむ
  乳(ちち)くびの立つ双たの房(ふさ)ほのぼのに反(そ)り身と離(か)りて交(ま)ぐ夕まぐれ
  夕づく夜つきづきしくもつく露に蟋蟀(こほろぎ)なかず汝(な)がややなくも
  かぎの音(と)も果てにしいまは鳥のごとなけ隣びと外出(そとで)なるらし
  撞くなべに美(うま)し汝(な)がほと弾まひてさせば包(くく)みて退(ひ)けばひた閉づ
  真葛(さねかづら)左(さ)ひだをこすり卯の花の右(う)しわを摩りてひた為果(しは)つるも
  磯馴(そな)れ松なれし足腰くみかへてまだ見ぬ交位(かた)をいざ求(ま)ぎてみむ
  飽けるかと交位(ラーゲ)を変ふる小動(こゆる)ぎにぬくとや追へる汝(な)が愛(めぐ)し女陰(ほと)
  葦(あし)の根の分きて懇(ねもこ)ろちぎらまし濡れも濡れずもいざ求(ま)ぎてみむ
  妹(いも)はゆき腰のうねりもやすまりぬ汝と麿おほふ背の布(のの)もがも
  ちから攻め誘(さす)へば汝れのあらがひて腕(かひな)に歯がた血の見ゆるまで
  ゆくりなく裾捲きかへしなすゆふべ否ぶ弱音(よわね)のやがてあへげる
  あてかきに千摩(ちす)れど転(うたて)き麿の夜をいかがつれなき汝は過(すぐ)すらむ
  はるがすみ他(よそ)にぞ今は四十(よそ)あまり枕寝(まきね)しきみに恋ひやわたらむ
  
 前回に続く以上が「黄陽集」から選んだ和歌である。どうも生涯最高の恋はこの最後の二首から察すると終焉を迎えたようである。次は「神彩集」で全部で28首よりなる。著者の後記によると、藁をもつかむつもりが、神をつかんでしまったドキュメントに他ならないということである。
  
  御霊(みたま)てふΨ(プシー)は似たり籠もりたり向股坐(むかももま)せるきみが女陰(ひなと)に
  汝(な)がすがた奇(あや)にぞ愛(は)しき怪かしは御(み)ほとに霊(たま)をかくす現(うつ)し身
  むかももに霊魂(みたま)をはさみて天降(あまくだ)る天(あめ)のよすがの影ぞ吾妹子
  愛(は)しき唇(くち)ふくらむ乳(ち)ふさ盛る恥丘(ほがみ)三種(みくさ)のきよく神しのばるる
  和歌(ことのは)をもも枝(え)ももたびかさねてぞ汝れが股坐(ももま)す霊(たま)にたむくる
  かしこしや神代さながら草むして岩戸の狭間(はざま)かがやく汝れは
  みこころのまま股(もも)の奥(く)の神遊(かむあす)びあかき月水(つきみづ)きざさむ日まで
  並(な)み立てばをりふし目尻(まじり)に拝むかな神も降(くだ)らむむねの高嶺(たかね)を
  神殿(かむどの)を真中(もなか)にはさみふくらなる恥丘(ほがみ)の迫(せ)るる可愛(めぐ)し汝(な)がほと
  千よろずの神坐(ま)す襞のかずかずのかすかに薫れる天上の花
  汝(な)が女陰(ほと)のはさみたまひし神処(かむど)なれ空(うつほ)ながらもたふとかりけり
  魂極(たまきは)るうつつの膣(つつ)の御めぐみになみださながら射精(しなたり)なせり
  麿が身の黄金(くがね)とこしへ美(まぐは)しききみと交合(まぐ)ひしたまぐきのあと
  
 以上です。なんか心なしかATOKがだんだん学習してHになってきたような・・・。
  


★03.1.4 金茎和歌集(2)
  
 前回の続きを早速始めよう。
  
  男(お)に負くるを拒み濡るるも厭ふてふ女(め)のしとどなり麿は告(つげ)ねど
  しかばねと交接(くな)ぐとも見む試みに吐息な添へそ逝きし女(むすめ)よ
  隣室(となるま)に脱きてあるてふ女(め)のしづか忍べば灯消し蒲団に屈(くく)めり
  思ひきや富登(ほと)こそことに冷たきと女(め)の繁みにぞ露の置くなる
  谷深み腹にしとどの汗しづく拭ひてやれば女(め)はふと目覚む
  傘さすと膝間を分きてはさみてし鞄(バッグ)の暫(しま)しはまろをはさみし
      よみ人しらずにならへる
  友どちは今日はな訪ひそ他人(よそびと)の妻も籠もれり麿も籠もれり
      家隆にならへる
  狙へどもそことも知らず滑る茎(のこ)きみが指添へ濡れしほとの女(め)
  
 ここまでは、前回分と合わせて独弾集(どくだんしふ)というサブタイトルのある歌群で、1972年頃から古典名歌の響きと詞藻の妙に陶然とし、それらに学んだ、数百首をやみくもに継いだ、とある。つまり伝統にのっとった歌であるが、某歌会に幾度か出詠して婦人方の反応を楽しんだ(さぞかし色んな反応があったでしょうなぁー)他には使い途とてなく、歌草は「独弾集」と名づけて今に捨ておかれたと後記にある。次の黄陽集(かうやうしふ)は、生涯最高、かつおそらくは最後(?)と思われる恋におちいっての歓喜、懊悩のうめきを詠んだものだそうで、ものすごーい!!
  
    黄陽集
  
  横須賀の仮り寝のふしど麿が男茎(しじ)は君と交合(まぐ)ひて黄金(くがね)となりぬ
  思ひつめし高根の花の下ひもの解けてめしべの蜜に濡れける
  いくさぶね横須賀のやどで玉茎(しじ)染めし茜の月の行方知らずも
  箱根やま清き出で湯を潜(くく)らひてきみが玉藻を追ふがうれしも
  箱根やま出で湯の厳(いは)のはだを荒み背を擦りがちに汝(な)と交(くな)げるも
  旅やどの乱れの小床(をどこ)そと離(か)りて湯浴(ゆあ)みし終へばまた交接(くな)ぎみむ
  御手(みて)づから脱ぐてふ汝れの片肌も見ぬ間(ま)のまろの徒(あだ)の真はだか
  永けしく今(ま)も交(つが)へども好色(すき)めかぬ幼(あど)なのきみが讃むとはなくに
  幾十(いくそ)たび交(ま)げども明日はうけあはぬ汝れや今めく女(むすめ)なるらん
  汝(な)がほとや幾ひと経ぬる鄙(しな)さかるこしの拙(たど)きは験(けみ)あさみかも
  汝(な)がこしはなほたづたづし麿が上(へ)に揺らせ吾妹子そは帆掛け舟
  ちぢれなす千(ち)すじの美草(みぐさ)おしふせて露けかるらむきみが白妙
  たまくしげ脚のわかれの御割(みわ)れにて茂なす叢(くさ)のあやにゆかしき
  玉ゆらの露もしととのあしの間を分きてし迫(せ)れば目も露けかる
  汝(な)が御言(みこと)かしこむ風(ふり)もふり解きて間なく時なくひた求(ま)ぎてけり
  朝まだき屈(くく)みて睡(ねぶ)るあたたかき汝(な)を待ちがてに男茎(しじ)立てたるも
  舐むらへば腹(おな)のひくつき乳(ちち)ふさを越してし見れば笑ひくくむも
  岩ばしる滝のとどろや否をかも素(す)はだのきみが髪すすぐかも
  お湯殿(ゆどの)のおと絶えにけり玉叢(たまぐさ)の湿(しと)り乾すらしおと絶えにけり
  万葉にしば歌はれしあきはぎの脛(はぎ)も飽かざる愛しききみはも
  汝(な)が脛(はぎ)を胸分けしかもあながちに割りてぞ舐むる股(もも)は締むとも
  百夜草(ももよぐさ)ももの間わりて吸ひつけど惜しくぞ離(か)れぬ君が身振りに
  またも来(こ)よ国有鉄道(みくにのてつだう)ストなればきみをむかへて共寝の七曜(しちえう)
  沖縄(うちなは)やコザのなか空ジェット音(ね)のやむ時もなし麿恋ふらくは
  あづさ弓張る上反(うはそ)りの汝(な)がひなと優りて時じ入れやすくけり
  反(そ)るや疾(と)き湿るやおそきむりむりに抗(あらが)ふひだも楽(たぬ)しびけるかな
  麦酒(ビール)食べ交接(くな)ぎし最なか汝は尿(しし)をはにかみつぞ申し出でける
  汝(な)が御手(みて)のとりてたまへるその茎(くき)のなほその先に舌ぞ待たるる
  


★02.12.28 金茎和歌集(1)
  
 最近さる女人から私のHPは趣味じゃない、見たくないという趣旨の(その人のHPの)掲示板を見て、そんなに悪趣味か・・・こりゃいかんと思ってずーっと私のHPを今更ながらつぶさに見ていった。ところが我ながら格調の高さに驚いただけで、どこが悪いのかさっぱりわからない。一休禅師の逸話などは高雅なエロスだし、もう消えてしまったかと思うが、一茶の句に関するエッセーもどうということもない、小学生の教科書に載せてもよいような迷文だ。そこで当方に落ち度はないと判断し、その人のHPへのリンクを抹消した。自分のHPの楽書帳の書き込みがないか確認してから、そのHPの掲示板を見て賑わっているか必ず確認していたが、その必要もなくなってすっきりした。
 そんな時、ふと思い出したのが皮肉にもその昔、曾根崎署近くの旭屋の書棚でふと見つけた中川道弘の「金茎和歌集」仮面社、である。ははーんと思って、ちょっと手にとってぱらぱらっと見てみたのだが、その時は邪道のように思えて買わずに元に戻した。それから20年たった今頃になってふと思い出し、気になって「日本の古本屋」で検索すると・・・あったー!!一冊、それも初版(昭和54年刊、多分版は重ねていないのではないかと思うが)でなんと1000円。早速注文して手にすると、開いた形跡もない美本だ。副題に Chants de penis d'or とある。ま、金のペニスの歌集というところか。今読んでみると邪道とはとても思えない。それとも私が邪道に迷い込んだのだろうか。いつものように私が良いと思い、しかも分かり易い歌をひいておく。
  
  麿が宿の寝台(ベッド)は吸へりをとめらの汗となみだといささかの経血(メンス)
  柔草(にこぐさ)の生(お)へしばかりにその胸に双つの果実生(な)らすさをとめ
  あぢさはふ女(め)の胸元を吸ひにけり尋(と)めゆく舌に血の薫るまで
    大伯(おおく)の皇女(ひめみこ)にならへる
  吾妹子を絶頂(いただき)へやるとさも攻めて飽かずの露にまろ立て濡れし
  饗(とよ)もして集(すだ)ける児らの衣(きぬ)のうち早や花乳(はなちち)の揺らげるもあり
  戯(ざ)ればみて熱きめわらべ背(そ)に負へばとがとが恥骨腰をくすぐる
  向股(むかもも)をたまさか見せしめわらべの恥丘(ほがみ)の左右はつかに違(たが)ひき
  女童(めわらべ)のほがみは白くふくらかにむかももの上(へ)に神(かむ)さびたりき
  白鳥(しらとり)に餌(ゑ)をまきちらすをとめの裾にこぼるるなほ白き羽根
  さをとめの踝(くるぶし)のみの白くして短靴下(ソックス)のあとに夏陰(なつかげ)のあり
  わきまへてそれながら抱(むだ)くさをとめの落ちし釦(ボタン)にこころ遅らゆ
  背(そ)をだかれ心もとなくさをとめは落ちし釦(ボタン)の行方を見やる
  神代より世々にかはらで乳首(ちちくび)の房(ふさ)より遅れそだつさをとめ
  くちづけを否ぶと決めば少女子(をとめご)の悍(おぞ)しき力ぞぴりとも動(あゆ)かず
  なべて事に興薄きをとめ麿は困(こう)ずさるにぞ男色(ホモ)の話に乗りて来(く)
  今風(いまぶり)の少女(をとめ)逃るるの乱(らう)を厭ひ唇(くち)ゆだねてありき歯は閉ぢしまま
  歯はとぢて唇(くち)触れさせし少女子(をとめご)の珈琲(コーヒー)の味のやがて消えけり
  触れ合はぬ心を説けるをとめごの其(そ)を頷きつつ指は這はする
  三尊をあふぎて坐するむすめらの膝の僅(はつ)かにひらかれてあり
  白鷺の濡れ衣(きぬ)にブラジャーの透け見えて雨に逐はれし大原の里
  眼交(まなかひ)をくちづけたれど女(め)の息の喉くすぐれば永らへざりき
  項(うなじ)添はする麿のくちびる熱くして締合(フアスナー)の金(かね)の冷たきに至る
  女(め)の腋を潜(くく)りて指(および)の胸おそふ手首はきつくあつくはさまれ
  指先も疾(と)く触れがてに躊躇(いさよ)へばまよひなき手は裾をふたぎぬ
  はやる手に奪(と)りし下着の縮くれて女(め)の息ふとく横ほりてけり
  パンティーを滑せど夏のなごりとて尻むた白し脱がぬごとくに
  


★02.10.5 「山頭火について」 (出典:「日本怪僧奇僧事典」祖田浩一、東京堂出版)
  
 種田山頭火(1882〜1940)は萩原井泉水(せいせんすい)の主宰する「層雲」に属する自由律の俳人で、尾崎放哉(ほうさい)と並び称される井泉水の高弟であるが、一応出家である。一応出家というのは、四十四歳の時、妻の咲野と幼い息子を置いて熊本の報恩寺(曹洞宗)の望月義庵の許で剃髪、得度したことになっており、耕畝(こうほ)と名乗る禅僧になり、堂守をしたりしていたが、やがて一笠一杖の流転の行乞の旅に出る。本人は「行乞(ぎょうこつ)」のつもりで宗教的な行の一つだと思っていたかもしれないが、実態は乞食と殆ど違わなかった。離婚した咲野や友人たちは、様々な金品を行く先の郵便局止めで送っている。
  
  分け入っても分け入っても青い山
  うしろすがたのしぐれてゆくか
  笠へぽっとり椿だった
  窓あけて窓いっぱいの春
  鴉啼いてわたしも一人
  まっすぐな道でさみしい
  乞ひあるく水音のどこまでも
  何を求める風の中ゆく
  水を渡って女買ひにゆく
  猫もいっしょに欠伸するか
  さて、どちらへ行こう風がふく
  この道しかない春の雪ふる
  山羊はかなしげに草は青く
  
 酒は目的意識的に飲んではならない、酔は自然発生的でなければならない。酔ふことは飲むことの結果であるが、いひかへれば、飲むことは酔ふことの原因であるが、酔ふことが飲むことの目的であってはならない・・・と何やら「其中(ごちゅう)日記」に書いているが、要するに酒が好きであった。
  
  月が酒がからだいっぱいのよろこび
  酔ひしれた眼にもてふてふ
  酔うて戻ってさて寝るばかり
  一杯やりたい夕焼空
  酒がやめられない木の芽草の芽
  酒がどっさりある椿の花
  ひとり雪みる酒のこぼれる
  ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
  酔ひざめの闇にして螢さまよう
  酒を買ふとて踏んでゆく落葉鳴ります
  ふる郷ちかく酔うている
  酔ひたい酒で、酔へない私で、落椿
  
 「山頭火はなまけもの也。わがままもの也。きまぐれもの也、虫に似たり、草の如し」と自ら記した如く、自由といえば自由、苦しいといえば苦しい、しかし多くの友人の援助もあって、何とか生きながらそういう彼にしか作れない句を作った。
  
  からまつ落葉まどろめばふるさとの夢
  酔へばさみしがる木の芽草の芽
  椿赤く思ふこと多し
  蓑虫もしづくする春が来たぞな
  春風の蓑虫ひよいとのぞいた
  寝ころべば枯草の春匂ふ
  
 芸術とか学問とかは、平凡な人生を送っていてできるものはたかがしれたものかもしれない。激しく何かを求め、求める理想が高いとき、自分だけでなくまわりの者にも悲惨な結果を招くが、時代を経て理解されるということだろう。私も結構悲惨な目に会ってき、会わせてきたが、まだまだ平凡なものなのか能力のせいか、未だこれといったものはできていない。
     


★02.9.21 「一休について」 (出典:「日本怪僧奇僧事典」祖田浩一、東京堂出版)
  
 一休(1394〜1481)は「とんちの一休さん」というかわいらしいイメージを持っている人が多いかもしれないが、臨済宗系の風狂に生きた禅者である。当時は戒律が厳しかったが、酒を飲み、肉を食らい、遊里に出入りする。そういう禁じられたことをこそこそやる僧侶はいたであろうが、彼は堂々とやり漢詩などに詠んでいる。非難の声が耳に入っても一休はいっこうに改めようともせず、破戒僧に徹した。
 正月を詠んだ有名な歌として
  門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
というのがあるのは知っている人も多いであろう。
 こういう話もある。一休が木津川辺りを歩いていると、女人が裸になって川で体を洗っているのが目にはいった。一休は足をとめてしばらく眺めていたが、ごく自然に女の陰門にむかって三度礼拝した。その心は
  女をば法のみ蔵(くら)というぞ実(げ)に釈迦も達磨もひょいひょいと生む
ということだそうである。
 一休は七十七歳位になってから、盲目の森(しん)女と愛欲生活を送る。愛欲という言葉はあるいは不適切かもしれないが。森は色白の美人で、四十歳位であった。森のことを幾つもの漢詩に詠んでいる。「一休狂雲集」二橋進編訳、徳間書店、から少し紹介しておこう。漢字がむずかしいので訳のみでご勘弁願いたい。
  
  森美人の午睡を看る
楊貴妃の美になぞらえて森女をみる。
艶歌をうたう声もよく曲は新たである。
そして、そのときのえくぼが愛らしい。
森女は一代の美人だ。
  
  我が手を喚(よ)んで森手と作(な)す
わが手をよんで森女はそえ、
森女の手はわれにそえる。
森女の風流は、玉茎の萌(きざし)をみせる。
われはこれを喜ぶ。
  
  美人の陰に水仙花の香あり
夢がさめたとき、
横たわっている白くゆたかな女体をみて、
さらに挑む。
梅樹のもとにほころんでいる水仙の花。
腰間(ようかん)にまといついて、
軽くゆらぐ。
  
  婬水(いんすい)
夢うつつのうちに上苑の美人の森に迷いこんだ。
枕上の梅の花はかぐわしい香りをはなっている。
婬水を口にふくめば清らかな香りがする。
故人も月色のなかでこの香りをかいたであろうか。
  
  美人の婬水を吸う
ひそかに言ってみずから慙(は)じるささやき。
情交終わって末世までの契りを約束する。
そこにこそ生身を畜生道に堕して
末世までも人びとを救おうとする
い山の情をたたえることができよう。
  
い山とは、い山霊祐という中国唐代の禅の高僧である。い山の「い」は漢字変換できなかった。
  


★02.9.7 「中西悟堂について」 (出典:「日本奇人・稀人事典」祖田浩一編、東京堂出版)
  
 中西悟堂(1895〜1984)は昭和期の野鳥研究家で知られるが、天台宗権僧正でもある。77年文化功労者。小さい時は虚弱児で、どうせ死ぬ子なら荒行をさせてみようということで、十歳の時秩父の禅寺へ修行に出された。その荒行というのがまず第一に百八日間座りきりの結跏趺坐行である。少年の悟堂が座っていると、野鳥が肩や膝に乗ってたわむれたという。十五歳で得度。
 蛇をかわいがり、青大将やヤマカガシを自分の部屋に遊ばせていたそうである。知らぬ人が訪ねて来ると、座敷に二メートル余りの青大将が這っているのに驚いて逃げ帰ることもあったという。そういえば中国の昔の坊さんでペットを飼っているという話を聞いた人が、「余り人に見せられないもので・・・」と断るのを無理矢理見せて欲しいと頼んだらしい。「大空や、小空や」と坊さんが呼ぶと、二匹の虎が出てきてびっくりして飛んで帰った、という話が確かあったように思う。
 悟堂は裸礼賛で(私のように女の人のではなく自分の)街へ出るのもパンツ一つ、鳥を訪ねて山を歩くのもパンツ一つ。執筆もパンツ一つ。
 「定本野鳥記、別巻」より短歌を66年、65年のものより少し紹介しておく。旧漢字はPCの都合により現行の漢字にした。
  
 心影示現
  山中に荒行(あらぎやう)したる少年の日も還りきて甘き混沌
 赤き月
  そのかみの入峰(にふぶ)の行(ぎやう)を斯く恋ふは山に朽ちよとや年を老いなば
 脆きもの
  たまたまにひらく路傍の花ありて脆きはかくも美しかりし
  鉢にしてみのる檸檬(レモン)の逞しき実などにも心寄りゆく日あり
 アンリ・ルソオ展
  どう見ても少し可笑しきルソオの絵類なき素直さもちて貪欲
  大き花、猿もコンドルも交わりてこのジャングルの美は限りなし
  婚約といふ絵をわが壁に飾りなばわれの家庭も皆楽しまむ
  「アンリ・ルソオ夫人の前夫」も憎からぬ記念の如く描かれてゐたり
 高原初冬
  花鶏(あとり)らの群れつつ渡りゆくときを樹氷の林息するごとし
 早春余情
  季(とき)の花開くごとくにおのがじし人らが和(なご)む世や遠からし
 越前の旅
  橋下(はしした)に入りては出づる岩燕真白き腰の数めくるめく
  岩礁を翔(た)ちてしばしを舞ふ雲雀翼すぼめて岩にまた落つ
  蒼海(さうかい)も島のめぐりは波凪ぎて白衣の海女(あま)の潜(かづ)きては出づ
  わかめ採る海女が息つぐ笛の声哀しくきこゆ海の方(かた)より
  


★ 02.8.10 「ゆかい過ぎる数学者」 (出典:「今日は明日の昨日」藤本義一、朝日新聞社)
 岡潔(1901〜1978)は多変数関数論の研究を大体完成させた人で、その独創性については国際的に有名で、1960年に文化勲章を受章している。私はご本人に直接会ったことはなく、中学生か高校生時代に、岡部伊都子とテレビで対談しているのを見ている程度であるが、この方面では孫弟子と言えないこともない。私は多変数関数論は大体岡で終わり、多変数写像論をやらなければならないと主張し、少しずつそういう研究をやっている。
 ところで岡という人はなかなか変わった人で、その奇行ぶりは本当のものやそうでないものが数多く伝えられているようだが、矢野健太郎の「ゆかいな数学者たち」新潮文庫、を見るとこんな話が出てくる。勤め先の奈良女子大まで歩いて行く途中に、お地蔵様があって、その前迄来ると道端の石を拾って、これをお地蔵様に投げつけ、もしうまく当たればそのまま大学に行き講義をするが、当たらなければ家に引き返してその日は休講になってしまったという。矢野氏自身は本当にはしない話としているが、私はあり得る話だと思う。
 次の話は藤本義一の本の「ファスナー綺談」というのに出ているが、どうも本当の話らしい。藤本は岡を主人公にした舞台劇を書くため、お宅に通っていた時期があったそうである。三度目に訪ねた時、岡は浴衣姿で縁側に座り、新しいズボンを手にして、ファスナーを開けたり締めたりして「これは一体誰が発明したのかね。そして発明されたのは、いつ頃かね」と言うので、「さあ・・・。かなり前からあるようですよ、先生・・・」「そうかね、これはなにから発明したのかね。タンクかね、それともムカデかね。」戦車のキャタピラからの発想か、ムカデの脚からの発想か、というのである。「うまくできてる。さっと締まるじゃないか。今までのものよりも早くズボンが締まるな。」それまではズボンはボタンでとめていたのである。
 さて二人で講演に向かう折り、(テーマは数学ぎらいの子供を数学好きにするというものだったらしい)ズボンのファスナーを締めたり、開けたりしている。「先生、あまりなさると・・・」「そうか、故障するか」「いや大丈夫だと思いますが・・・」こんな会話をしながら二人はタクシーで講演会場に向かった。このタクシーの中でついに椿事が起こった。ファスナーが締まらなくなってしまったのだ。会場に裏口から入ってガムテープを借り、藤本がズボンのファスナーの部分に裏から貼り付けた。「あ、出来た、出来た。これでバンザイだな、藤本君。」ところが講演直前に岡はトイレに走っていった。帰ってきた岡の股間を見て仰天、ガムテープはズボンの裏側から表側に移っていた。
 ところが岡はそういうことには頓着無しで、さっさと壇上に駆け上がって、マイクを指でトントンと叩き、「あ、あ、あ、本日は晴天なり」と二回繰り返して、すたすたと帰ってしまった。集まったお母さんたちはただ唖然、藤本も唖然となった。結局彼が代役となって、国語嫌いの子供を国語好きにする講演をやったそうである。
  


★ 02.6.26 「真言立川流」 (出典:「さとりの秘密」金岡秀友、筑摩書房)
  
 日本人は、つい最近まで性に対して常にはじらいとつつしみをもってきた。枕絵と称するようなポルノグラフィーも以前から描かれてきたが、常に私生活の片すみで、ひそかに、はじらいをもって受け入れられてきたようである。それもヨーロッパのものとは質的に異なる慎ましさがあったと思われる。ヨーロッパ人の人間追求は、キリスト教の原罪観と不即不離なところがあり、いかに極端な人間肯定の書(ボードレールやサドの作品など)のように見えても、決して単純素朴なものではなく、一度は人間否定の教えを知った上での屈折した肯定の書なのである。つまりえげつないところがある。日本では、宗教はおだやかにその道を説き、性はかるく人生の楽をうたうものであったが、秘められた、閉ざされたものであった。
 インド最後期の仏教に次のように説くものがある。肉体は大河や大陸をその中に映しているところのマンダラにほかならないとし、人間の身体の左側には女性を意味するララナーなる神経があり、右側には男性としてのラサナーという神経がある。この二つが交じりあうところ、すなわち生殖器のあるところが、大楽のあるべき場所であり、この大楽のあるべき場所を通じて悟りの心が上へ昇り、脳髄にまで達するときさとりが完成されるという。しかし、さとりの心が大楽の場所へ下降することは厳に戒められている。さとりの心が下へ降り、大楽の場所から外へ出る(射精される)とき、それは単なる凡夫の欲情になってしまう。従って接して漏らさずということが大事であるという。
 真言密教には右道密教と左道密教がある。立川流は左道密教の系統で一般に邪教とされる。密教教理と陰陽思想を合わせ、阿と吽、理と智をそれぞれ男女両性に配し、その不二(ふに)なること(交会)をもって煩悩即菩提、即身成仏の境地を唱える。はっきりいえば人間存在の形式の一つである男女間の愛欲を肯定した。中世の真言宗の各流派に影響を与えたといわれる。理趣経が立川流をつくったと見られている。理趣経とはすべての実体性を否定し(空の立場)、その上に開ける自由な境地(般若の理趣)にこそ人間本来の清浄なるものが発露すると説いた。その底には煩悩肯定の思想がある。結論として、悟りを開けば全ての行為が(あの行為も)仏の行為となるとされている。しかし立川流に対し理趣経は責任を負う必要はないとと考えられる。男を不動明王とし、女を愛染明王に配し、二根交会、赤白和合をもって「大仏事を成ず」などという考えは理趣経のどこにもないからである。
 私は男女の和合を色々理屈をつけるのではなく、お互いに純粋に楽しめばよいと考える。歌人の吉野秀雄は鎌倉アカデミアという無認可大学で「交合(まぐわい)をしなさい!交合をしなさい!」と講義中に言っていたそうである。私もそうしたいところだが、認可大学のつらさ・・・、次の歌(風の歌所収)を引くにとどめる。
  
  神々の まぐはひもかく ありけむや ともにむつみて わらはべのごと
  


 

★ 02.6.15 「不思議な等式」 (出典:「古事記数霊解序説」岡本天明、思兼書房)
  
 言霊(ことだま)というものがあることを知っている人は多いであろう。上代に、言語に宿っていると信仰された不思議な霊力で、我が国を「言霊の幸(さき)はふ国」と美称したことは、いかに昔の人が言霊を大切にしていたかを伺わせる。数霊(かずたま)とは西洋の数秘術みたいなもの(単純に言えば7がラッキーナンバーであるというような)に対応するもので、言霊とも深い関係にあるらしいのだが、要するに数にも不思議な霊力が宿っているという考えである。言霊、数霊を上代の人は強く意識していたらしく、標題の本は古事記に秘められた数霊を解明することによる、古事記解釈の本だったように記憶する。要するに書いてあったことはすっかり忘れてしまったのだが、次の等式だけははっきり覚えている。
   1+2+3+・・・・+35+36=666
36は言霊的に言うと弥勒(ミロク、マイトレーヤ)で、666も6が3つでミロクで、666は無論ヨハネの黙示録13章18節、「ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そしてその数字は六百六十六である。」というあれである。それではその人って何かわからないから16,17節を引用すると「また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」とある。
 弥勒は釈迦の死後56億7千万年後に現れるという未来仏で、釈迦の救済しそこなった人を救済するという。全員救済説と、釈迦が救済しよう、救済すべきであると考えた人だけ救済するという二説あり、後者であればキリスト教の考えと一致する。弥勒は元来釈迦より先に出現するはずであったが、天界でちょっとミスをしたためとか、釈迦の修行がモーレツであって追い抜かれたとか色々説があるが、とにかく釈迦が先に世に出ることになり、弥勒は今天界で修行して時期の来るのを待っているということらしい。56億7千万年後というのも66億6千万年後といってもいいし、明日といってもいいような、いつくるかわからんから、ちゃんと心を常に正しいにしとりや、ということであると思う。
 黙示録の666を指す人の名は、今まで暴君ネロだとか色々言われてきたが、私は弥勒のことだと思っている。黙示録数霊解珍説とでもしておこう。
  


 

★ 02.6.7 「コンドーム定理」 (出典:「秋山仁の数学渡世」朝日新聞社)
  
 あらかじめ断っておくが、この話は純粋に応用数学的問題について述べているが、しもねた嫌いな人は一通りじっくり読んで、しもねたと判断したら読まないでほしい。
 問題:男女それぞれ3人ずつ、甲、乙、丙、A子、B子、C子がいる。これら6人で乱交パーティーをする。ただし同性間の対戦はない。4個のコンドームT、U、V、Wを用いて総計9回の対戦をエイズが感染しないようにすませる方法を述べよ。
 もう少しやさしく、男女二人ずつ合計4人が異性間で対戦したときどうか考えてみよう。普通なら総計2×2=4の男女間の対戦に対し、4個のコンドームを使うが、男性を甲、乙、女性をA子、B子と呼ぶと、コンドームTを甲がつけ、その上に二重になるようにコンドームUをかぶせ甲とA子が対戦する。この対戦後、コンドームUの外側にはA子のウイルスが、コンドームTの内側には甲のウイルスが付着している可能性があるが、Uの内側とTの外側はきれい。従ってUをTからはずし、乙がUをつけA子と対戦する。また甲はTをつけたままB子と対戦する。さて乙とB子の対戦だが、乙がつけているUの上にTをかぶせB子と対戦する。これで誰も感染することなく、無事合体完了。
 この問題の場合、絵を書いて(事細かなリアルな絵を書かなくてもよい。コンドームと付着ウイルスの概念図でよい。それではイメージがわかないという人はお好きにどうぞ。)同様に考えると、4個のコンドームですませることができることがわかる。試みられよ。(乱交パーティーのことではない。念のため。)
 この問題は1974年にプリンストン大学教授のロバシェ博士が考えたものだそうである。彼は離散数学の大家である。彼のコンドーム定理はより一般な形、つまり男女の人数がそれぞれ6K人のとき総計6K×6K回の対戦を7K+1個のコンドームがあれば十分であることを具体的に示しており、論文になっているそうである。(実際問題に適用するとK=1の場合でも私ならふらふらになってダウン間違いなしだ。しかし数学的には美しい定理・・・かなぁ・・・?!)秋山氏はこの論文を初めて読んだとき、大変感激して、この定理について当時勤めていた医大で講義をしたそうだが、翌日女子学生の父親がけしからんと怒鳴り込んできて、始末書を書かされたそうである。今高校の性教育の時間などにコンドームを教材に使っているようだが、古き良き時代とでもいうべきか。しかし時代は変わってもコンドーム定理は不滅である。
  

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