「パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?」(1)
標記の本は「ミヒャエル・エンデの夢見た経済・社会」という副題のある、子安未知子監修、廣田裕之著(オーエス出版社)の読みやすい本である。著者は2001年現在、東京大学大学院総合文化研究科で地域通貨を研究中とある。MY・HPのリンク集に彼のHP「Miguelの雑学広場」がリンクしてある。それでは内容に入る。
@お金の歴史。
昔は山の人は山の幸を、海の人は海の幸を、野の人は野の幸を手に入れていたが、物々交換によってより豊かな生活をしていた。物々交換はシンプルな仕組みなのであるが、お互いの欲しいものがぴったり合わないとうまくいかない、不便な面がある。そこでお金という道具を使うことになった。最初は子安貝や金や銀など、何かその社会で価値のあるものをお金にしていたが、持ち運びに便利な道具として紙のお金が発行されるようになった。19世紀から20世紀初めにかけてのお札は金本位制といって、金と引き替えることが出来るものであった。しかし、お札を発行する中央銀行の手持ちの金の不足から、1930年代に世界の国々は次々と金本位制を廃止していった。アメリカは二次大戦後金本位制に復帰したが、結局1971年に廃止し、今世界で使われているお金は、金の裏打ちのないものとなっている。
このように金と交換できるという保証のないお金は、どんどん価値をなくしてゆくという危険性を持ったものである。90年代にメキシコ、タイ、インドネシア、ロシア、韓国などで起きた通貨危機は、その国のお金が外国から何らかの理由で信用をなくしてしまったときに起きる。つまり今のお金は一瞬にして信用をなくしてしまう危険性と隣り合わせの、とてももろいものである。
A株の話。
世界で一番古い株式会社は東インド会社である。当時ヨーロッパからアジアまでの航海をするには大変な費用がかかり、リスクも大きかったのでお金持ちの商人でも一人でまかなえるようなものではなかった。そこでみんなでお金を出し合い、その出したお金に応じて儲けを分ける方法が考えられた。その持ち分を意味するのが株で、分け前が配当である。その成り立ちから、株式会社の経営は配当を出来るだけ出すようにどんどんお金儲けに走り、効率的な経営が行われていく。しかし、それはあくまでも株の持ち主のためであり、そこで働いている人のためということではない。
株はやがて証券市場で売買されるようになる。会社は資金を得るために株を発行して売る。買った人は配当がもらえることもあるが、会社の業績によって株価が上がったり下がったりするので、株を安い時に買い高くなった時に売れば儲かる。そこで証券市場というものが成立する。
通常の場合はそういうことであるが、1980年代後半の日本でバブル経済が起きた。金利が低かったために投資家にお金がだぶつき、どんどん株を買った。すると株は値上がりするが、それは買い手が多く売り手が少ないから値上がりするのであって、その株を発行している会社の業績(本業の)が良いというわけではない。株だけでなく、土地も同じような現象が起きたことは周知のことであろう。ただこういう経済は長続きするはずがない。1990〜1年にかけて実体経済が裏打ちする値段に戻る「バブル崩壊」が起きた。株や土地が値上がりするという前提でそれを担保にしてお金を貸したり借りたりした個人、銀行、会社はエライことになって、破産、倒産、公的資金の投入、合併、外国資本に身売り、リストラなどが続き、いまだにそこから抜け出せないでいる。
B資本主義の目指すもの。
国内総生産(GDP)─日本なら日本、アメリカならアメリカ一国のなかで外国人も含め1年間に生産されたモノやサービスなどのすべてを金額に換算した総額。普通ドルで表す。─を上げることを目指している。GDPというパイが大きくなれば貧しい人もそのおこぼれにありつけるはずだから、とにかく経済成長を優先しようという考えである。しかし90年代のアメリカは景気が良く、GDPもかなり成長したが、多くの中流階級の人の給料はほとんど上がらず、インフレを勘案すると生活は苦しくなっている。ビルゲイツに代表されるお金持ちはますますお金持ちになっているが、多くのスラムに住む人たちは悲惨な生活を強いられている。
そんな中でグローバリゼーションということが喧伝されている。つまり世界規模でモノやサービス、情報などのやり取りが行われるということで、東側と呼ばれた共産主義諸国が資本主義的な体制に移行し始めた1989年を境に一気に推し進められた。自国内のライバル企業の競争だけを考えればよかったのが、世界を相手に自分を売り込まねばならなくなり、人件費を削減するために(そうすると商品コストが下がり競争に強くなる。)アメリカや日本では工場を東南アジアなどに移転し、空洞化が起こっている。
資本主義は、それまでにあった人間味のある伝統的な生活をメチャクチャにして発展しているといえる。アメリカ先住民しかり、衣食住に全く困っていなかったアフリカしかり。発展途上国の大都市では農業で暮らしてゆけなくなり、多くの人が都市に流入し、犯罪率が非常に高い。自立して運営していた生活が他人に使われる生活になり、一旦景気が悪くなると仕事が無くなり、日本でも多くのホームレスを生んでいる。景気の良し悪しは個人の努力とは関係なく、そういうものに生活が左右されて不安定な生活が強いられている。
銀行にお金を預けると利子が付く。そのお金を借りた人はその利子の分まで返さなければならない。現在の日本では預けると利子はほぼゼロだが、個人が借りるとかなりの利払いを要求される。経営のまずかった企業には銀行が債権放棄をし、不良債権をかかえる銀行には国が公的資金といえば聞こえがよいが、要するに税金を注入する。なぜか正直者が馬鹿を見る仕組みになっている。その根本に100万円のお金にはいつまでも利子が付き、100万円で買ったモノは段々値打ちが下がっていく、ということがある。お金はモノとの交換手段に過ぎなかったのに、この差は何だ!!ここに諸悪の根源があるのではないか、ということだ。
「パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?」(2)
@パン屋のお金とカジノのお金の違い。
カジノで儲かるお金は、自分で何かを人に差し出して、その対価としてお金を得たものではない。このお金はどこから来るかというと、カジノで負けた人の財布からであって、自分で何か新しく価値あるものを作り出して得たお金ではない。結局人の財布の間の出入りがあるだけである。パン屋はおいしいパンを作って、パンを欲しい人に差し出してその対価としてお金を得る。欲しいモノやサービスを手にするための交換手段としての、社会的な意味を持つ道具としてのお金である。パンの欲しい人がいくらお金を持っていても、パン屋の無いところではパンを買うことが出来ないということから分かるように、お金は本来それ自体では何の役にも立たないものである。「お金とは、われわれが何でも欲しいものを得る前に、あらかじめ何かを与えて得る無である」という意味のことをフレデリック・ソディは言っている。
現在はカジノ的な金融市場のウエイトが非常に大きなものになっている。だからそっちがおかしくなると、普通の交換目的のお金までおかしくなってしまう。真面目に働いている人がクビになったり、働きたくても働けないということが起こっている。日本では中高年者の自殺も増えている。そうならないためには、投機市場と無縁なお金を作る必要があるのではないか。目的に応じて道具は使い分けるべきである。お金は人間が作ったものだから、良いように作り替えることは可能である。金融システムは競争を前提として機能している。われわれが競争関係でなく、協力関係を結びたいなら、別の通貨が必要なのである。
A地球の共生問題に関連して。
以前は日本では化学工場は毒になる廃液を川や海に流していた。チッソの水俣病のことを知らない人はいないであろう。公害物質を出さないようにするとお金がかかり、製品の値段を高くする。すると市場での競争力を失う。したがって良心的な企業はマイナスの報いを受けるということになる。そこでグローバリゼーションが進むにつれて、公害の輸出がなされるようになった。すなわちアジア、アフリカ、中南米などは多くの借金を抱えていて、借金を減らすために国内産業を活性化させようとしており、そのために環境を多少犠牲にしてもしかたがないと考えている。そこで環境対策費がかからないことと、人件費が安いということで、多くの先進国の企業が発展途上国に工場を移している。
グローバリゼーションというすさまじい国際競争の中で、地球上の人間の10%位はどんどん金持ちになっていく。そして残りの90%は生活の余裕を犠牲にした現状維持が出来ればいい方で、大部分はどんどん貧しくなっていく。ODAで途上国に資金援助をするのは、まず途上国を乞食同然にしておいてその後に援助する、あるいは援助物資を送るために、前もって乞食にしておくという構図である。日本はODA援助の一番多い国であるが、資金供与(あげる)でなく「円借款」という形で貸し付けて国際貢献をした気になっている。有利子貸与は途上国を更に悲惨にすることでしかない。
百円ショップやディスカウントストアにある外国産の安い商品は、それを作っている労働者が非常に安い賃金で働いているから可能になっている。外国人労働者が安定した生活が出来る適正価格にしなければいけないと思うのだが・・・。いずれにしても、こういうお金の使われ方は地球をダメにしてしまうと思える。
B生活がどんどん薄っぺらいものになってやしないか。
一日は24時間であり、誰にでも均等に与えられているが、この24時間をどういう風に使うかは自分である。出来れば本当に必要なことに時間を使いたいものだ。余裕をもって、ゆったりと楽しく。ところが現代社会では効率が何よりも大切にされている。お金を得るための仕事は様々な社会的制約のなかで、いつのまにか時間に追われ、やっつけ仕事になりがちである。自由主義経済というのは、結局経済におけるダーウィニズムで、簡単に言えば優勝劣敗、環境に適合した者が栄えるということになる。いつのまにかつまらない競争という勝負をさせられ、負けると悲惨だし、何とか負けないでも時間に追い立てられる生活を余儀なくされる。
そんな仕事につけたらまだましということも言える。より儲かる企業が生き延びていくから、儲からない企業はどんどん潰れるか吸収合併されていく。その際リストラは避けられない。そうでなくても人件費を切りつめるためのリストラは日常茶飯である。そんなことをして購買層を切り捨てれば、やがてまわりまわって自分の首を絞めるとも思えるのだが。
Cこのようなシステムの犠牲者は第三世界の人々と自然である。
今の経済は大量生産、大量消費によってGDPが成長し続けないと機能しない仕組みになっている。成長は降って湧いてくるものでなく、主に第三世界の人々と自然を犠牲にして成り立っている。大量生産ということでいえば先進国内では設備過剰になっているが、やがて世界中でみて設備過剰になるだろう。その時は、今の経済システムは崩壊する。放っておけば、であるが、もしそうなった場合はこれまで一度も無かったような本当に悲惨な結果が待ち受けている。
イラクの大部分は砂漠が果てしなく広がるだけの場所であるが、紀元前の昔メソポタミア文明が栄えた頃は、この土地は「肥沃の三日月地帯」と呼ばれるほど豊かな穀倉地帯であった。しかし地下水をくみ上げ過ぎてしまったために、塩が地上に噴き出すようになり、繁栄が終わった。今、アメリカの農業でも塩害が問題になっている。余談だが。
「パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?」(3)
@シュタイナーの「社会三層化構造」
世界は主に<経済><法律・政治><精神・文化>の三層から成り立っている。フランス革命の合い言葉「自由・平等・博愛(友愛)」がある。自由は精神・文化面において、平等は法律・政治面において、博愛(友愛)は経済の面において実現されなければならない。経済と自由を結びつけてはならない。お互いに協力関係(友愛)を基盤とした経済をつくらねばならない。
フランスには雇用連帯経済省というお役所がある。今の資本主義ではうまくいかない分野をフォローしている。たとえば社会や環境にも気を配り、”持続可能な経済”を目指している。また生活協同組合があって、フェアトレード(発展途上国のモノを公正に買い、そこで働いている人にきちんとした額の給料が支払わえるようにする運動)や生産物やサービスの交換を行い、文化団体や文化財保護活動などを行い、誰かが儲けるためでなく、みんなでお互いによい生活をするために経済活動を行おうという姿勢で行動している。
A持続可能な経済。
環境やそこで働く人などに無理な負担をかけることなく、ずっと続けてゆける経済システムを構築しなければならない。たとえばエネルギー面から言えば、石油や石炭より太陽光や風力などの自然エネルギーを活用すること。農業なら、土地をこき使って化学肥料を使って、土地の養分を無くしてしまうのではなく、時々きちんと土地を休ませること。人を雇う場合も、安い給料で長時間働かせるのではなく、人間の心身に無理がかからないようにすること。日本であれば週5日、8時間労働という固定的なものでなく、週3〜4日、4時間労働など、働きたい中高年、女性とのワークシェアリングをすること。
安いパルプ、建材を得るために、熱帯雨林から木材を一度に切り出してしまうと、森が失われ、はげ山になってしまうと洪水が起きやすくなったり、森が回復しなくなる。企業にとっては経済的ではあるが、環境を回復するコストまで考えると、外部不経済が起こっている例である。企業が森から木を切り取って得た利益の中から、このような損失分を差し引くべきではないか。炭素税のように排気ガスを出す人には地球温暖化の責任を取ってもらい、その資金で新しく木を植えたり、温暖化防止技術を開発することに使うという風にしていくのも一つの方法である。
Bシルビオ・ゲゼルの「自由土地」「自由貨幣」。
ゲゼル(1862〜1930)は土地の国有化を提案している。政府が国土全部を買い上げた上で、それを必要とする人に貸し与えるため。そして本来ならばその国に住むすべての人ものである土地を借りている人から地代を取り、その分を年金などの福祉に割り当てるという。よくよく考えると極めて合理的な考えだ。
お金もほかのモノと同様に年がたつに従って価値が減るようにしてはどうか、という考えをお金に関しては提案している。この老化するお金という考え方は主に1930年代に世界各地で出まわったが、歴史上特に有名なのがオーストリア・チロル地方のヴェルグルという田舎町で1932〜3年に流通した「労働証明書」と呼ばれるスタンプ貨幣である。この時代、世界大恐慌のまっただ中にあり、失業者があふれ、物価がとめどもなく下がり続けていた。ヴェルグルでも同様であった。この労働証明書は毎月1日になると額面の1/100の値段のスタンプを貼らねばならない。つまりその分、一ヶ月で価値が減っていくので、皆ができるだけ早くこのお金を使い切ってしまおうとする。町役場が職員の給料や、町の公共工事に支払うとお金の流れがあっという間に町内を循環し、経済が立ち直り、1年で失業者が1/4に減ったという。オーストリアの中央銀行が禁止したが、それはお金は中央銀行のみが管理すべきである、という単なるお役所的発想からであった。1980年代頃から世界のあちこちで、地域通貨と呼ばれるものが発行されて注目をあつめている。
「根源からお金を問うこと」(1)
標題は「エンデの遺言」河邑厚徳+グループ現代(NHK出版)のサブタイトルである。前回の「パン屋のお金と・・・」と話が重なるが、この本に沿ってひつこく追求してみる。
現在の世界では宗教や民族の対立が激化しているが、その時々の対応に終始し、根源にさかのぼる解決法を我々は見いだしてはいない。解決を先送りし、辻褄合わせをしているだけである。すべての宗教、民族が共生して事に当たらねばならない環境問題は言うまでもない。人は目に見える危機(地震や台風の被害など)には対処できるが、目に見えない危機(地球温暖化など)には無力な存在のようである。目に見えないと言うより、解決の糸口が無いような、見つかっていない根源的な問題に対しては、目をそむけるというか、見ないことにしていると言った方がよいかもしれない。たとえば身近な例でいうと、自分の死は必ずいつかやってくるのだが、それを直視して、自分の今の生き方にフィードバックしている人は少ない。お金の問題で言うと、アメリカが地球温暖化の京都議定書を批准しないのは、結局大資本のためというか、お金の問題である。戦争をやると、冷戦後在庫のはけ口のない兵器産業は潤う。とにかく、ほとんどの問題にお金の問題がつきまとっているのだが、これをどう考えるべきかの規範が過去には何も無かった。だからこの問題が将来どうなるかを、環境問題のように予言的に直視しなければならない。私の予言は、現在先進国で生産設備過剰になっているが、これがやがて世界市場において設備過剰になるということである。今は途上国に売りさばいて何とかやっているが、それが出来なくなるということは一体どうなるのか・・・。環境問題でもそうだが地球は全てにおいて有限なものだから、いつか飽和状態になることは避けられないのである。なぜそういう方向に進んでいくかというと、工業国の生産と消費を貫いているのが、一種の成長に対する強迫観念である。世界はおしなべて工業国を目指す傾向にある。大量生産大量消費の成長の強制は、資本主義国が共通して持っており、各国が互いに関連している金融構造(お金の発行、管理、運営、保証など)全体にあり、それが成長の強制のエンジンとなっている。
国際貢献と称し、日本は世界中にお金をばらまいているが、世界から敬意を持たれるような知的事業をこそ実現すべきである。それにお金を使うべきなのである。環境問題、お金の問題、広く宗教、民族、自然の共生の問題に何らかの解決の糸口をみつけ、一歩一歩問題を解決していく事業を起こし、世界に広げたいものである。
人間は一方で精神的存在であり、一方では物質的存在である。人間の持つ霊性を否定して、あくまでも物、金を追求するよう誘惑する悪魔的な原理がこの世に常に存在している。私たちは目先の利潤のために、おのれの畑を荒らし、土壌を不毛にしている農夫と同じ事をしてはいないか。自然的資源は手入れし、養い育て、次世代に受け継がれるようにしなければならない。社会構造も、次第に良いものにしていき、次世代にバトンタッチしなければならない。
現代人が、物質的な豊かさだけが人生を価値あるものにすると考える限り、この悪魔的原理=お金の問題は解決しない。金融システムの問題の変革と、メンタリティーの変革(目に見えるもの以外のものでとても大切なものがあることを学ぶこと)が必要である。後者は前者よりむしろ難しく、後者が解決すれば自然に前者の問題は、何の問題でもなくなる可能性すらある。メンタリティーの変革は本来宗教の問題であったはずだが、現在の宗教団体はがっちりと悪魔的原理に組み込まれている。
我々は、大体民主主義システムの中で活動している。民主主義ではいつも理性が勝利するわけでなく、近視眼的な利得が勝利をおさめることも少なくない。そして、国民はマスメディアによって無意識裡に情報操作されて、ムードに押し流されることがないでもない。マスメディアは日本はアメリカ程ではないが、所詮大資本とつるんでいる。当面の利益に反するような資本主義の変革を行うことは、そういう意味では容易ではない。そういうことを考えること自体、国民大衆の意識の中には無いようだ。しかし、何かこの世の中の動向に不安を感じ、行動を起こしている人はいないわけではない。そういう人を含めて、国民の多数意見となるような考え方を提起しなければならない、ぎりぎりの時期に今はある、と言っても過言ではないだろう。
「根源からお金を問うこと」(2)
お金は@モノや労働にやりとりされる交換手段としての機能、A財産や資産の機能、B銀行や株式市場を通じてやりとりされる資本の機能を持っている。Aの機能としてBで運用される投資マネーと、貯め込まれたまま流通しないお金とがあるが、多くは何らかの形で投資マネーの資金となっている。錬金術的と言ってもよい自己増殖するお金の問題とは、このBの資本としての機能と、Aの機能がその資金にならざるを得ない点にある。
ビンズヴァンガーはこの問題を解決する一つの方策として、株式会社という企業のあり方を財団や基金、生協といった形に変えることを提言している。株式会社は成長を基盤としており、成長とは株式投資によって更なる利益を得ようとすることである。このことが、ガン細胞のように企業を増殖させ、健全でも弱い細胞は食いつぶされ、吸収されていく。過当競争が生産設備の過剰をもたらし、それによって弱肉強食の原理によって淘汰が成されていく。株式会社という形態が最後まで残るとすれば、ラストシーンは世界は少数の株式会社によって占有されるか、様々な多数の特色ある株式会社が共存共栄するかどちらであろうか。言うまでもなく私は前者のケースとなり、自由主義経済の長所と言われている自由競争による切磋琢磨は無くなるのではないか、と思っている。
多くの財団や基金、生協の形態に株式会社を変えるなら、後者は可能である。ボロ儲けをしたい少数者には不満だろうが、安定して人が働くことが出来、おおむね必要性に応じて給料が支払われる社会が実現可能である。
あらゆるエコロジープロジェクトはお金が足りないことが障害になっている。木の成長はいつか止まるが、お金の成長は果てしがなく、この二つの成長の間には橋を渡しようのない食い違いがある。Aの資金を、利子は払わないが、元金は保証するというやり方で財団や基金、生協の資金にまわすようなシステムにならないだろうか。借金の利子を払うためにあくどいこともやりがちなのである。自由競争を金科玉条のごとく言うが、お互いに学び合い競い合うことが自然に出来るはシステムは考えられないのであろうか。社会主義のように、一部の人が仕切ることは不可能であることは分かったが、それ以外に方法がないのだろうか。自由競争は世の中が殺伐となる大きな弊害を伴う。何とかしたいものだ。
投資者に利子を支払わなくてよいなら、毎年毎年成長する必要がなく、長期的計画も立てられ、長く使える良い品を生産する工夫をすることも可能だ。今は長く使わず、どんどん捨てていくような生産とマーケッティングが工夫されている。何と無駄なことであろうか。すべての物価には生産者が借金した利子部分(これは預ける時の利子よりはるかに高い)が含まれている。
現在の物質的生活水準を維持するのに、もっと少なく働けばよくなるシステム、その分ゆったりとした精神的に豊かな生活水準が得られるシステム。自然と環境を破壊し、第三世界をますます貧乏にするシステムから、世界の国々がお互いの特徴を生かして働き、自分たちに合ったライフスタイルで生活するシステムにしなければならない。このままでは日本で国中が平均化して特徴が無く、おしなべてあくせくするようになったように、世界中がそうなるはずである。何と恐ろしいことであろうか。おそらくそうなれば、地球の自然破壊は人類では回復しようがなくなり、人類は自滅に向かうだろう。
私の家の近くの食品関係の店舗は、中堅スーパー、生協、小規模スーパーが互いにしのぎを削っている。三者三様に仕入れルートの関係からか、安い品物に特徴があり、普通の値段でおいしいお総菜などは、値段の安い他店のものに決して負けずに売られている。基本的には競合しながら棲み分けている。しかし昔あった市場(いちば)的なものはほとんど消滅した。
特別なものを除けば民営が望ましい。だが少なくとも市民の日常生活に関わるようなものは、内橋克人の言うように共生セクターにし、競争セクターの大資本の論理から守る手だてが必要だと思う。そうでなければ地域の住民にとって不便を強いることになりかねない。他方自動車産業のようなものは今のところ世界的な規模で競争し、いくつかの系列に分かれると思うが、こういうものは競争セクターとし、共生セクターととりあえずは併存していく方策を取ればどうかと思う。自動車なんて乗りたい人は乗ればよいが、公共交通機関の不便な所に、でかいスーパーなどを作って、身近にある小売店をつぶしてしまったら、車の運転の出来ないお年寄りなどはどうなるのか問題なのである。
「根源からお金を問うこと」(3)
建築家マルグリット・ケネディーは「利子ともインフレとも無縁な貨幣」という本を書いている。利子を無くし、安定した経済システムへ根本的に変革することは個人のレベルで出来ることではない。しかし、お金に対する意識を変えることは、いますぐにでも出来るはずである。シュタイナーの銀行のように、自分の預けたお金を倫理的に問題のない生産物やプロジェクトに投資されるようにできるよう希望すること、(利子を貰わないのであれば、適当な仕組みを作れば可能である。)購買者として、自分が購入する生産物が環境に優しい方法で、社会的に問題を引き起こさないよう、チェックすることを希望することである。(これは生協なら今でもある程度やっているし、徹底することは可能のように思える。)
我々のお金がどう使われているか、使ったお金がどういう問題を引き起こしているか、という意識を持つように多くの人が変われば、何かが始まる。日本でバブル経済の時に、市民や企業の預金が銀行にだぶつき、地上げ屋に融資されたり、海外資産の買い漁りに使われ、結局土地の値段が上がり、一般人は高い値段の土地を買わされ、今は逆に値段がどんどん下がって銀行の不良債権になって税金が投入されたりした。我々の預金の使われ先をしっかり把握する必要があるということである。
かといって市民が銀行にどうのこうの言えるだけの預金は持っていないのが普通だ。シュタイナーの銀行を設立することを銀行の専門知識を持った人、趣旨に賛成する識者にやってもらいたいものだ。現在日本では預金利子はほとんどゼロであるが、以前のように5%もの利子が付くのは何かおかしいことが起こっていることを知り、利子はゼロでいい、その代わり運用のされ方に関心を持つという絶好の機会であると思われる。
ここでシュタイナーの銀行について「シュタイナーの学校・銀行・病院・農場」ペーター・ブリュッゲ(学陽書房)から紹介する。ある銀行に思想を同じくする数十人の共同の大口座とメンバー一人一人の別の小口座からなるものを作る。メンバーの収入は自動的に全部共同の大口座に振り込まれ、各自は必要な金額を小口座からおろす。その小口座にマイナスが生じたら、銀行は大口座の残高からおろして、それを埋め合わせるという仕組みである。
地球の共生ということを考えると、大口座は多くの個人口座からなるようにもっていかなければならないが、理想はさておいて、とりあえず共生財団なるものを設立して、その大口座に個人の口座を加入して、当面は個人口座の集まりにとどめ、その全体の預金を銀行がどこへ投資するか財団の協議会(民主的に選ばれた人達)がチェックしたり、共生事業に投資することを求めたりする。利子は無論受け取らない。また社会の為になる寄付先を、寄付金の使われ方までチェックして適正なところをいくつか推薦し、加入者個人の自由意志によって寄付するようにする。加入者個人に無利子で貸し出すことも様子を見ながらだんだんやっていってはどうか。物事は一気にやろうとすると失敗することが多い。シュタイナーの理想を頭に置いて、趣旨に賛同する人の預けている銀行ごとに口座を束ねて、それを共生財団が総括して銀行に対して発言力を持っていくようにし、個人の加入者で無利子で借りたい必要性が生じた場合、財政事情が安定していくにつれて便宜をはかっていくようにしたらどうであろうか。
このようにすれば、パンを買うお金とカジノ的お金ははっきり別れ、2種類のお金を作らなくてもよいのではないかと思われる。
「根源からお金を問うこと」(4)
物質世界と精神世界は一体のものである。個人のレベルでは、精神的な面が豊かになる程度の物質的充足を求めることが望ましいと思う。それにはそれ程沢山のお金がいるわけではない。しかし、余りにもお金を持っていないと物質的だけでなく、精神的にも貧困になりがちである。
なぜ余りにもお金を持っていない人がいるかを考えると、人間の営む社会活動全体の中で考えなければならない。日本人は以前は9割の人が中流を実感していたが、最近の不景気でそうでもなくなっていることをとっても分かる。経済活動として理想とすべきは、友愛にもとづく経済活動である。もともと、自分が必要とする服、パン、家を自分で作るより、専門家に任せた方が経済的かつ合理的であることから分業が起こり、お金が使われるようになった。自分が着たいもの、食べたいもの、住みたい家などを、それを欲している人の為に腕によりをかける・・・これは友愛にもとづく利他行にほかならない。お金は交換手段として円滑に経済活動が行われるように作られた。最初に言ったように、ある程度のお金を儲けようとして人は商売を始める。ところが供給過剰の問題が起こる。
私の住んでいる街を例にとると、ケーキ屋が散歩コースの範囲内に15軒位はある。ほかに花屋、ブチック、レストランなど小さな街にしてはやたらと目に付く。明らかに供給過剰である。人は勿論、私もお気に入りの店が決まっている。従って1軒、2軒と次から次へと閉店、開店が繰り返されている。長く続いている店は儲かるのか店は綺麗に改装されたり、余裕からか価格が安くならなくても内容が充実したりして、ますます繁盛する。ところで何故に必要以上の店が出来るのであろう。基本的には儲かりそうなことを狙っている人が多い。またケーキ屋さんや花屋さんはなりたい人気職業であることもあるのだろう。すなわちある程度の競争はどうしても避けられないものらしい。ま、だからこそ社会主義というものが考えられ、必要な分だけ作ることが考えられたのだろうが、現在のように多様化したニーズには適切に応えられないことを歴史が証明した。考えてみれば、小規模店の競争は昔からずーっと続いていて、これはこれで良いのであろう。かえって大きなケーキ会社などは潰れていくようである。
サービス面はどうであろうか。私の住んでいる地方には、阪急、JR、阪神電車が完全に棲み分けている。各種のバスが各電車の駅に連絡している。JRは他の私鉄に比して割高なのであるが、阪急と競合している区間は値段を特別に下げている。たとえば私は京都工繊大に教えに行く日は朝8:50から始まるので行きはJR新快速、京都地下鉄と阪急に比べ30分以上早く着き、しかも楽なコースをとり、帰りは阪急電車である。乗り換えが多いのだが、帰りは急がないせいか全く気にならない。チケットは非常勤であるので、回数券、金券ショップを利用している。JRも民営化後トイレの綺麗さはサイテイから最高になった。どうでもいいことのようだが愛想も一番いい。都会地ではこのような共存共栄効果が目立つ。ところが人口の少ない地方ではこうはいかない。またアメリカのようにだだっ広い国では、以前鉄道網が張り巡らされていたが、航空会社がこれを買収し、鉄道を取っ払って飛行機路線を作った。赤字路線は容赦なく廃止される。これは日本で赤字ローカル線が国鉄の民営化によって廃止されるのと同じである。
つまり日本のような小さな国の場合、日常生活面では内橋克人が言うように、競争セクターと共生セクターに分けて、競争セクターからの税収を共生セクターにまわして、どこに住んでいても大体等質の衣食住環境を作るべきではないのか。何かそういうことを保障すべきことが日本国憲法に書いてあったような気がする。
次回は世界的に生産設備過剰になりつつある巨大資本について考えてみたい。
「根源からお金を問うこと」(5)
お金に対する欲望は多くの人が持つ。子供がなりたい大人像がすでに収入が多い人である。野球が好きでプロ野球選手になりたいという人も、もしスタープレイヤーの収入が少なければ、そんなことはあまり思わないであろう。学生が勉強するのも、多くは収入が多くて良い暮らしがしたい・・・つまり収入がそこそこ多い職業に就きたいためではないのか。つまり勉強したり、スポーツの練習に励むのも、将来の高収入が期待されてこそであり、ただ単に好きでやっている人は趣味と割り切れる人であろう。それはそれで当然だと私にも思えるが、問題は貧富の差の問題である。いや差は少々あってもよい。貧者の存在である。働きたくても働けない人の存在である。リストラ絡みで自殺する人が1万人増えた事実である。リストラによって人員整理をするのであれば、全員の収入を少しずつ減らしてでもワークシェアリングをすべきではないのか。それが週4日労働制につながれば言うことはない。60歳以上の老人も、働きたい人は週3日とか、フレックスタイム制など働きやすい条件で雇用者と契約を交わし、年金になにがしかのプラスになって、ゆとりの持てる賃金を設定してはどうか。社会の制度を一律にする傾向が少なくとも日本では強すぎるように思われる。個人の欲望からみた欲望の解放体系であるところの資本主義はそんなところであろうか。
問題は企業の欲望である。現代は企業も市民的性格を持っている。つまり、地球上の市民として、持続可能な地球環境の維持に貢献するというか、方向転換していかなければならない義務を持つ。景気が悪くなるという理由でアメリカが京都議定書を無視するのであれば、グローバルスタンダードと言って、アメリカの流儀を他国に押しつけるのはやめてもらいたい。ところで日本企業は製造業など、どうも放っておくと生産コストを下げる競争をやるため、設備過剰になるらしい。製品を売りさばくために日本の市場だけでは足らず、世界の市場に競争で売り込む。最近は東南アジアの台頭などから、世界的に見ても設備過剰、即ち生産過剰になる傾向にある。この傾向はますます強くなるだろう。何故なら、現在生産設備は空洞化というか、東南アジアなどに移転しつつある。教育熱心なこの国々の人達は、やがて国産化の技術を持つようになるからである。つまり世界的な設備過剰、世界的な販売競争になる。これはエライことである。持続可能な地球環境の維持はとても出来そうにない。
そこで注目されるのがNPO(非営利組織)である。ボランティアでなくてもよい。営利のあくことなき追求をやめ、儲けた分を社会に還元してトータルで非営利的にすればよいのである。NPOについては、これからの組織のキーワードになると思うので、また別に項を改めて論じたい。銀行だったらソーシャル・バンク(簡単に言えば、社会の為になるプロジェクトに預金者が投資を指定できる、ただし利子は無いか少しにする銀行)といったものですね。
フランス革命のスローガンである「自由・平等・友愛」は自由は精神と文化において、平等は法と政治において、友愛は経済的生活において実現されなければならない。他人のために働くことが友愛にほかならない。ところが経済学では自由な市場での競争こそが経済の大前提であるとされ、友愛を原理とした経済はあり得ないユートピア思想とされている。しかし自由を原理として経済が世界に何をもたらしたか。オゾン層の破壊、温暖化、酸性雨、森林の減少、大規模な海洋汚染などのなどの地球規模の環境破壊がおこり、発展途上国の何億という人が飢餓に苦しむ一方で、大量生産、大量消費、大量廃棄の飽食的生活を続ける先進国。その先進国の内部でも、貧富の差はますます広がっている。現状においては役割やポストによって報酬が決まるのが普通で、どれ位その人の生活に必要とされているかは問題とされていない。皆が最低限の文化的生活を送れる位の分かち合いを行うべきなのである。分かち合い、即ち友愛、利他行なのである。