えんていしんのうし
先農、薬王、五穀爺とも呼ばれる。姓は姜姓。火徳の王であったので炎帝と称したという。
その姿は人身牛首、身の丈は八尺七寸。
図像で表現される時は、長い髯をもち木の葉で作った衣または腰蓑を着けた男性の姿で現されることが多く、頭に短い角が描かれるのが普通だが、省略されることもあるようだ。
姜水のほとりの生まれで、生まれて三日にして口をきき、五日で歩き、七日で歯がはえたという。
神農氏は赤色の鞭で草木を打ち、百草を嘗めて毒か薬か、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べ上げた。
この事から神農氏は医薬の祖とされ、また本草学の祖と見なされたこともある。
また、発見した数々の有用な植物を育てる方法を人々に教えたことから、農耕の祖とみなされることもある。
『史記』三皇本紀から、その他の事跡をあげてみよう。
母は女登といい、有媧氏の娘で少典の妃であった。神竜の徳に感応して炎帝を産んだ。
姜水のほとりで生長したので、姜を姓とし、火の字を使って官名をつけた。
木を切って鋤を作り、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を広めてはじめて耕作を教えたため、神農氏と号した。
五弦の瑟をつくり、また日中に市を開き、物々交換して夕方に帰ることを教えた。
はじめ陳に都をおき、のちに曲阜へ移った。
王位について百二十年で崩じ、長沙に埋葬された。
神農氏はもともと烈山(今の湖北省)からおこった。
(唐・司馬貞・補撰『史記』三皇本紀より抜粋)
また、『史記』三皇本紀は、易の八卦を重ねて六十四卦をつくったのも神農氏だとしている。
「炎帝」の称号の由来については、神農氏が油性の木を束ねて火をつける「松明」を発明したため「炎帝」と呼ばれた、という説もある。
神農氏は、三皇の中では珍しく子孫に関する伝承がある。
『史記』三皇本紀によると、神農氏は奔水氏の娘の聴詙を妃とし、帝魁を産んだ。以後、
帝魁 → 帝承 → 帝明 → 帝直 → 帝氂 → 帝哀 → 帝克 → 帝楡罔
の八代、五百三十年の王朝が続いた後、軒轅氏(黄帝)が興った。
『史記』三皇本紀は神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげている。
このうち、甫侯(と、上には名前が見えないが申侯)は、周王朝の宰相となり、斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っていた。