こうてい
姓は公孫、名は軒轅。姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。
三皇の最後、または五帝の始めに必ず名前のあがる人物で、一般に中華民族の祖とされている。
特に道家思想では、道家の論者を「黄老の徒」と呼んだように、理想の君主として早くからあがめられてきた。
また、陳舜臣氏によると、黄帝の墓とされている黄陵には、歴代王朝のみならず今の中華人民共和国政府も、毎年参拝の使者を送って中国の現状を報告しているそうである(歴史読本WORLD'87-7)。
普通、黄帝の容姿に関しては立派な人間の姿でしか現されないが、「みずから雲師となり、竜の姿をしていた(劉向『列仙伝』より)」という伝承もあり、龍神としての原型があったのかもしれない。
また一説に、『山海経』西山経に出てくる、湯谷に住み「その姿は黄色い袋の如く、赤いことは丹の火のよう、六つの足、四つの翼、混沌として面も目もない」という神・帝江も、帝鴻氏=黄帝の事ではないか、と言われている。
黄帝は諸侯の少典の子で、生まれながらにして神霊であり、幼少のころからものいうことができ、また聖徳のすばやいひらめきがあった。
当時は神農氏の子孫が炎帝の称号をついで天子となっていたが、その徳は衰え、天下の人望を失っていた。諸侯はたがいに侵略し合い、人民をいためつけたが、炎帝はそれを征伐することができなかった。そこで、軒轅は軍備を整え、天子に朝貢しない諸侯を征伐した。諸侯はみな軒轅の徳になついて服従した。
黄帝が天子の位につくにあたって、彼は炎帝(の子孫)と争ったといわれている。
ときに炎帝の子孫が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯はみな軒轅に帰服した。かくして、軒轅は徳を修め、兵力をととのえ、木・火・土・金・水の五行の気を治め、五穀をうえ、万民を鎮撫して四方の安定をはかった。
熊、羆、貔、貅、貙、虎に戦闘を教えこんで、炎帝の子孫と坂泉の野に戦い、三たび戦ってのち志をとげた。
(司馬遷『史記』五帝本紀より)
貔、貅、貙は、虎や豹のたぐいの猛獣である。
この黄帝と炎帝の争いについては別の説もある。
むかし、少典氏が有蟜氏の娘を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水のほとりで育ち、炎帝は姜水のほとりで育った。両者が成長すると、それぞれの徳がちがっていた。そのため、黄帝は姫を姓とし、炎帝は姜を姓とした。この両者は徳の相違のため、軍隊を率いてたがいに討ちあった。
(春秋時代・左丘明『国語』より)
この説では、黄帝と炎帝が直接争ったことになっている。おそらくはこちらが古い形のもので、黄帝と炎帝をそろって聖人に祭り上げる都合上、炎帝の側が炎帝の「子孫」という形にされたのだろう。
公孫軒轅(黄帝)が横暴な諸侯を征伐した時、神農氏の子孫の一人でもある蚩尤だけはきわめて暴虐で、征伐できなかった。
黄帝が炎帝の子孫を破った後、蚩尤は再び兵を挙げて天下を乱したため、黄帝は諸侯の軍隊を徴収して蚩尤と対決した。
両者の軍は涿鹿の野で戦い、激戦の末、黄帝は蚩尤を捕らえて処刑した。
これ以降、諸侯はみな軒轅を尊び、炎帝の子孫にかえて天子とした。
軒轅は土徳の天子であったため「黄帝」と号したという。
『史記』五帝本紀によると、黄帝は従わないものがあるとそのたびに征伐し、平定すると立ち去ったという。
東は海辺までいたり、丸山(山東省)に登り、岱宗(泰山)にもおよんだ。
西は空桐(甘粛省)にいたり、鶏頭山に登った。
南は揚子江にいたり、熊山(湖南省)・湘山(湖南省)に登った。
北は葷粥(匈奴)をおいはらった。
(司馬遷『史記』五帝本紀より)
また、諸侯を釜山に集め、符契(割り符)を符合させて違命無きことを確かめたり、涿鹿山下の平地に一時の都を定めたりして、一定の場所に腰を落ち着けることが無かったともいわれている。
もちろん黄帝は外征や諸侯の管理ばかりしていたわけではない。
左右の大監を置いて万国を監督させて和同をはかったり、風后・力牧・常先・大鴻の四人を登用して人民を治めさせ、『史記』五帝本紀いわく「日月・星辰・水波・土石・金玉をも徳をもって覆」う
世の中を作り出した。
また黄帝は天地山河の鬼神を祭って封禅を行ったが、古来の帝王の行った封禅のうちで、黄帝の行ったものがもっとも盛大であったともいわれている。
黄帝の即位にあたって景雲の瑞祥があったため、官名すべて雲にちなんだものをつけ、それぞれの長官を「雲師」といった。
黄帝は蚩尤との戦いで苦戦した時に、霧の中で方角を見失わないよう、常に南を指し示す「指南車」を作った。
また、策(めとぎ)を操作して暦を作った。
黄帝の最期について『史記』五帝本紀は「黄帝が崩ずると橋山に葬った」としか記していないが、普通黄帝は竜の背に乗って昇天した、と考えられている。
黄帝は首山の銅を採って、荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、一匹の竜が髯を垂らして迎えに下り、黄帝はそれに乗って昇天した。臣下たちは悉く竜の髯をつかまえ、帝の弓にぶら下がって、帝について昇天しようとしたところ、竜の髯が抜け、弓も落ちてしまったので、臣下たちはついてゆくことができず、帝を仰いで泣き叫んだ。
(劉向『列仙伝』より)
別の伝承では、このとき黄帝の友人・無為子および臣下のもので従って昇天したもの七十二人、従えなかった他の小臣は、落ちた竜の髯と帝の弓を抱いて号泣したという(劉向『列仙伝』など)。
いずれにせよ、黄帝の身体は竜とともに天に昇ってしまい、今でも人民政府が祭っている黄帝の陵墓は、黄帝の衣や冠だけが収められた、いわゆる「衣冠塚」だということである。
黄帝には二十五子があったとされるが、黄帝以降、五帝に名前のあげられる人物は、すべて黄帝の子孫とされている。
黄帝が「中華民族の祖」とされる由縁であろう。