せんぎょくこうようし
帝顓頊、名は高陽。
黄帝の次子・昌意の子で、黄帝の孫に当たる。
『史記』五帝本紀によれば「その人柄は静かでおくゆかしく、謀をひめており、物事にひろく通じていた。」とされている。
五帝本紀にはごく簡単な記述しかないが、顓頊高陽氏の名前は他の説話にしばしば見ることができる。
帝顓頊の生い立ちについて、『山海経』大荒東経には、東海のかなたの大きな谷にある少昊の国で養育され、顓頊はそこに玩具の琴瑟を置き忘れているという記述がある。
また、顓頊高陽氏の説話で比較的有名なのが、帝位を狙う共工氏と争ったことだ。
そのかみ、共工は顓頊と帝位をあらそい、怒りのあまり不周山にぶつかり、天の柱が折れ、地の維が絶ちきれた。天蓋は西北に高く傾き、さて日月・星辰もその高みへと移っていった。大地は東南がおちこんで空きができ、水潦と塵埃とはそこへと向かっていった。
(前漢・劉安・編『淮南子』天文訓)
この不周山の説話は、中国の河川が西から東海に流れ、日月や星が東から昇って西へ沈むことの説明としてしばしば引用されている。
また、『山海経』大荒西経には、顓頊について興味深い一節がある。
魚あり、扁枯、魚婦とよぶ。
顓頊は死んでもすぐよみがえる。
風が北から吹き出すと、天は河川を溢れさせる。蛇は化して魚となる。これが魚婦である。
顓頊は死んでもすぐよみがえる。
(『山海経』大荒西経)
なかなか不可思議な文章だが、「扁枯」とは中風などによる半身不随の症状をいう言葉で、普通、顓頊の子孫に当たる禹の特徴として使われることが多い。
白川 静氏は、顓頊が禹やその父の鯀と同じく洪水神としての性格を持ち、季節的に破壊をもたらしてはそれを克服した後の豊壌を約束することを「死してよみがえる」としたのではないか、としている(『中国の神話』)。
このほかにも『山海経』には顓頊に関する記述が見られ、顓頊の子孫の国がいくつか名前を挙げられている。
また、顓頊を葬った場所に関する記述もあり、それによると顓頊を葬った山は務隅の山(海外北経)とも鮒魚の山(海内東経)ともいわれ、帝顓頊を山の南に葬り、九人の女官を山の北に葬る、という。