ていこくこうじんし
帝嚳、名は高辛。
『史記』五帝本紀によれば黄帝の長子・玄囂(少昊氏)の孫で、黄帝の曽孫に当たる。
帝嚳は生まれながらにして神霊で、自分の名を言ったという。
このとき名乗った名前が「夋」だという説があり、また殷王朝の祭祀の記述などから、帝嚳と舜はもともと同一人物で、殷王朝の始祖としてあがめられていたらしい(白川 静氏の説)。
帝嚳に関する説話で有名なのが、蛮夷の起源に関する説話である。
高辛氏の王宮に年取った婦人が住んでいたが、長い間苦しんでいた耳の病を医者が診たところ、繭ほどの大きな虫を耳の穴から取り出した。
その虫を笊に入れ、盤をかぶせておいたところ、たちまち五色の毛並みをもつ犬にかわってしまった。
この犬は「盤瓠」と名づけられ、王宮で飼われることとなった。
その頃、呉の国の夷狄がさかんに辺境を侵略したので、高辛氏は将軍を派遣して夷狄の大将を捕らえようとしたが、失敗続きであった。
そこで高辛氏は「夷狄の大将の首を捕ってきたものには金千斤を贈り、戸数一万戸の諸侯に封じ、王の末娘を妻として与える」との布告を出した。
それからしばらくすると、盤瓠が人の首を加えて王宮に入ってきた。これを調べてみると、賞金をかけた夷狄の大将の首であった。
高辛氏の相談を受けた家臣たちは、
「畜生に官位や俸禄を与えることも、嫁を与えることもできない」
と答えたが、これを聞いた高辛氏の末娘は、
「天下に公約したことを破るのは、国の禍のもとになる」
と言って、ついに盤瓠の嫁となって、ともに南山へ登って行った。
高辛氏はたびたび使いのものを送って娘を探させたが、そのたびに風雨がおこって探し当てられなかった。
三年後、王女は男児と女児を六人ずつ生み、彼らは盤瓠の死後、たがいに相手を選んで結婚した。
都へ帰った王女からこの事を聞いた高辛氏は彼らを都へ呼び寄せたが、彼らが山の中を恋しがるため、大きな山と広い沼地を領地として与えて「蛮夷」と呼んだ。
(晋・干宝『捜神記』巻十四より)
気づいた人もいるだろうが、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のモトネタの一つである。
帝嚳の子供について『史記』五帝本紀は、諸侯の娵訾氏の娘との間に長男の摯が、また陳鋒氏の娘との間に放勲が生まれたという。
また、帝嚳の正妃は有邰氏の娘で姜原と言い、次妃は有娀氏の娘で簡狄と言ったが、正妃・姜原との間には弃(き)、次妃・簡狄との間には契(せつ)という子供が生まれた。
このうち弃は周王朝の、契は殷王朝の、それぞれ先祖とされている。
帝嚳の死後、帝摯が即位したものの「その徳は微弱で功が著われなかった」とされているが、一説には帝摯とは少昊氏のことだとする説もある。
帝摯の死後に弟の放勲が即位したが、これが帝堯(尭)である。
帝嚳を葬った場所について、『山海経』は、海外南経には、
狄山は帝・尭を山の南に葬り帝・嚳をその北に葬る。
としており、大荒南経には、
驩頭の国あり。帝尭・帝嚳・帝舜を岳山に葬る。
と、二つの記述が載っている。