ぎょう
帝堯、尭とも書く。名は放勲。陶唐氏とも称する。一説に、太陽神の性格をもっていたとも言われている。
その姿は『淮南子』脩務訓によると、眉に八種の色彩を帯びていたという。
『史記』五帝本紀によれば帝嚳高辛氏の次子で、兄・帝摯(一説に少昊氏のことだとも言う)の死後、その後を継いで立った。
彼は質素な生活をおくって人民を教化すると、百官を定めて万国を和合させた。天文地理をつかさどる羲氏・和氏から人を選び、羲仲を郁夷(陽谷ともいう)へ送って春分を、羲叔を南方の南交(交趾ともいう)へ送って夏至を、和仲を西方の西土(昧谷ともいう)に送って秋分を、和叔を北方(幽都ともいう)へ送って冬至を、それぞれ観測・決定させ、人民に季節にあった農耕生活を指導した。
堯の治世に大洪水がおき、彼は四嶽(四方の諸侯の長官)に治水の責任者を推薦させた。
四嶽は鯀(禹の父)を推薦したが、堯は、
「鯀は、わが命にそむいて、一族をそこなっている。用うべきではない」
と反対したが、結局、
「ためしにやらせてみて、いけなかったらやめればよい」
との四嶽の意見を受け入れ、鯀に治水を命じたものの、九年たっても成果が上がらなかった。
堯は年老いた後、在位中から後継者を捜し求め、たびたび家臣に後継者候補を諮問していた。
家臣の一人、放斉は堯の嫡男・丹朱を、また讙兜は諸侯の共工をそれぞれ推挙したが、堯は、
「丹朱は徳をこととはせず、訴訟ごとが好きだ。用いることはできない」
「共工は言葉は巧みであるが心は邪僻だ。恭敬に似ているが実は天をも侮るような人物だ。用いるべきではない」
といって、取り上げなかった。
その後、在位七十年目を迎えた時、四嶽へ対して再び後継者を諮問したが、このとき四嶽が推挙したのが舜である。
堯は自分の二人の娘を舜の妻にあたえて様子を見、その人物に満足すると、舜を挙用して五典(義・慈・友・恭・孝、の五つ)を民に広めさせた。また百官の監督、賓客の接待、遠方への使者などに挙用したところ、舜はことごとく職務をまっとうして成果を上げた。
このため、堯は舜を聖人と認め、辞退する舜を説得して、堯の始祖・文祖の廟で舜を後継者として宣言し、天子の行を摂行させることとした。
以後、堯は事実上隠退し、舜の治世が始まることとなる。
『史記』五帝本紀に見えない伝承の中で有名なのが、羿の射日伝説だろう。
『淮南子』本経訓によれば、堯の治世に一度に十個の日輪が現れ、農作物や草木を焼き焦がし、民は食べるものを失った。また、数々の怪物が現れて民を害した。
そこで堯は、弓の名手である羿に命じて怪物たちを退治させ、さらに十個の太陽のうち九つを射落とさせ、民を救ったという。
『史記』五帝本紀には、堯の最後について、
堯は即位後七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて隠退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずってから二十八年たって崩じた。
としている。五帝本紀の舜の記述からすると「舜を挙用してからの二十年」と「事実上位をゆずってからの二十八年」は重なっているから、単純計算で九十八年間の治世の後に崩御したことになる。
彼を葬った場所について『山海経』には
狄山は帝・尭を山の南に葬り帝・嚳をその北に葬る。
(海外南経)
驩頭の国あり。帝尭・帝嚳・帝舜を岳山に葬る。
(大荒南経)
との記述が存在する。
堯はのちの舜とともに聖天子の代表格とされ、聖天子の代名詞として「堯舜」の語が使われた。
孔子の言葉として伝えられるものに、
子の曰く、大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大なりと為す。唯だ堯これに則る。
(『論語』泰伯第八)
とあり、春秋時代末期にはすでに聖天子としての評価が確立していたようである。