黄帝の子。東海に住む神。人面で鳥身、二匹の黄色い蛇を耳飾りにし、二匹の黄色い蛇をふまえて立っている。
禺京という子があり、こちらは北海に住んでいる。
(『山海経』大荒東経 )
黄帝の長子。少昊金天氏のこと。
(詳しくは「少昊氏」の頁を参照。)
黄帝の孫。北方の異民族である北狄を生んだとされる。
(『山海経』大荒西経)
黄帝の娘。干魃の女神とされ、後に「魃」とも書かれた。
黄帝が蚩尤と戦った時、黄帝は応竜に命じて蚩尤を攻めさせたが、蚩尤は風伯・雨師(風の神と雨の神)を味方につけ、応竜を撃退してしまった。
そこで黄帝は天上に暮らしていた娘の妭を天下らせ、その力によって風雨を押さえ、蚩尤に勝利することができた。
蚩尤との戦いの後、バツは天に帰ることができなくなり、彼女のいる所は雨が降らなくなってしまった。家臣の叔均がこのことを黄帝に告げ、その後妭は干魃の神として「魃」の字で呼ばれるようになり、赤水の北に暮らすようになった。
魃はときどき赤水の北を逃げ出してきて、その結果、干魃を引き起こしてしまうことがある。
その時は「神よ、北に帰りたまえ」ととなえ、水路をきれいにして溝をさらうと良いとされている。
(『山海経』大荒北経)
黄帝の母。
電光が北斗枢星をめぐり、その光が荒野を照らすのを見て身篭り、二十五ヶ月の後に黄帝を産んだ。
(『竹書紀年』)
黄帝の次妃。
「錘(おもり)のような顔、斧のような鼻、色黒で体が大きい」という大変な醜女だったが、その徳の高さを聞き及んだ黄帝に迎えられて妃となった。
正妃の嫘祖の死後、彼女の祭りを守ったことから、のちに死者を悪鬼から守る方相氏(鬼やらいに使用する恐ろしい仮面)の元となった、とする伝説もある。
(『琱玉集』、『軒轅本紀』など)
黄帝の史官(書記官。祭祀の記録などを司る)。鳥獣の足跡を見て、文字を発明したという。
(詳しくは「蒼頡」の頁を参照。)
翼を持つ龍。黄帝の命を受け、蚩尤と戦った。
(詳しくは「応竜」の頁を参照。)
黄帝の臣。
『山海経』大荒西経によれば帝・俊の孫で、后稷の弟・台璽の子となっており、俊(舜)を黄帝の子孫とする『史記』五帝本紀などの記述とは世代的に矛盾がある。
『山海経』大荒西経では「父の台璽や伯父の后稷に代わって百穀をまき、初めて耕作をした」とされ、また『山海経』海内経では「后稷はいろいろの穀物をまき、稷の孫の叔均がはじめて牛耕をした」となっており、もともと農耕神であったらしい。
黄帝の娘・妭が日照りを引き起こしていることを黄帝に言上し、彼女を北へ移させたため、田祖(田の神)となった。
死後、舜と同じく赤水の東、蒼梧の野に葬られた。
(『山海経』大荒北経、大荒南経)
『淮南子』天文訓等に見える、中央の帝としての黄帝の、補佐となる神。
「后土」とは元来、土地神(あるいは大地の神)の意味である。
『山海経』海内経や『国語』魯語によれば、共工の子であるとされる。
また『山海経』大荒北経によれば、太陽を追って渇き死にした巨人・夸父は、后土の子・信の子(つまり后土の孫)であるという。
黄帝の臣。力墨、力黒とも。
太山稽とともに黄帝を補佐して、日月の運行や陰陽の気を整え、四季の移り変わりや暦の計算を正し、男女の別や貴賤の分を定め、弱者や少数派が虐げられないように取り計らい、天下に太平をもたらした。
(『淮南子』覧冥訓)
『黄帝四経』第二篇「経」によれば、黄帝の命を受けてひそかに四方の国々をめぐり、個々の事柄に合わせて善悪を判断して、制度を決め規則を定めた。
また、蚩尤との戦いに際しては、太山之稽の教示を受け、高陽を補佐した。
黄帝の臣。太山之稽とも。
力牧と二人で黄帝を補佐して、日月の運行や陰陽の気を整え、四季の移り変わりや暦の計算を正し、男女の別や貴賤の分を定め、弱者や少数派が虐げられないように取り計らい、天下に太平をもたらした。
(『淮南子』覧冥訓)
また、蚩尤との戦いに際しては戦況を案ずる力黒(力牧)に助言を与え、いわば軍師として黄帝の勝利に貢献した。
(『黄帝四経』第二篇「経」)
黄帝の臣。
天下の人々に倹約・誠実・身分秩序などを教えようと、自ら粗末な破れ衣を着、甕をかついだ姿で食物を乞いながら四方を流浪し、貧賎の極みを示してみせた。
(『黄帝四経』第二篇「経」第四章)
黄帝の臣。
麻をつむいだ糸で、初めて衣服を作ったという。
(『淮南子』氾論訓)
黄帝の臣。
初めて衣服を作ったとされる人。あるいは伯余と同一人物かもしれない。
(『淮南子』修務訓)
軒轅氏(黄帝)の師。
黄帝の命により「五行の情を採り、斗機(北斗の柄)の建するところを占」って、十干・十二支を制定したという。
(『五行大義』第二論支干名に引く、後漢・蔡邕『月令章句』)
離朱は、視力の良い人の代名詞として、諸子百家の書物にしばしば登場する。
捷剟は物を拾うことの名手。「攫掇」とも呼ばれる。
忽怳の名前は「物忘れがひどい」という意味。
黄帝が玄珠(黒い宝珠。「玄」には「奥深い」の意味もあり、ここではものごとの真理を象徴している)をなくした時、部下の離朱と捷剟に探させたが見つからず、そこで忽怳にやらせたところ、今度は見つけることができた、という。
この話は無為自然をたっとぶ趣旨の寓話である。
この三人が実際に黄帝の臣下としての伝承があったのか、単に寓話として古代の聖天子の名に黄帝の名が使われただけなのかは、はっきりしない。
『淮南子』氾論訓に名前の見える、黄帝の時代の人。
極めて鋭い味覚の持ち主であり、春秋時代の易牙とならんで「二つの川の水を混ぜても、一口嘗めて、その甘さ辛さを知った」とされている。
黄帝の陶正(陶器製造を司る長官)。古い仙人の一人。
ある時、彼のもとへ一人の神人がやってきて、窰の火加減を見る仕事にあたった。すると炎から五色の煙が出るようになり、その方法を封子にも伝えてくれた。
封子は薪を積んでみずから火に焼け、煙にのって自由に上下したという。
その後、人々が燃えた後の灰に残っていた骨を甯北の山中に葬ったため、甯封子と呼ばれた。
(『列仙伝』巻上)
この伝説は、「肉体を炎で焼くことにより遷人(=仙人)となり、残った魂が天に昇る」という信仰の名残らしい。
「燃えた後の灰にその骨が残っていた」というのが、昇仙したのは魂だけだったことを示している。
黄帝のころの馬の医者。古い仙人の一人。
馬の診察・治療の達人だったが、ある時、一匹の竜がやってきて、師皇に向かって耳を垂れ口をあけた。師皇は、
「この竜には病気があって、わしが治せることを知っているのだ」
と言って、その唇の下に鍼を刺し、甘草湯を飲ませてやり、病をなおした。
竜はその後も病気になる度にやってきたが、ある朝、竜は師皇を背負って姿を消したという。
(『列仙伝』巻上)
赤将子輿とも書く。黄帝の頃の人。古い仙人の一人。
五穀を食べずに草花を食べ、尭の時代まで長生きして木正(木官とも。大工作業の監督官)をしたり、いぐるみ(鳥を取るための糸付きの矢)を売ったりしていた。
そのため「繳父(繳は「いぐるみ」の意)」と呼ばれた。
(『列仙伝』巻上、『捜神記』巻一)
古い仙人の一人。
山中の石室に暮らしている広成子を黄帝が訪ねて教えを乞うたところ、
「そなたが天下を治めるようになってから、鳥は季節になる前に飛び立ち、草木は黄色く色付く前に散るようになった。至上の道を教えてやるわけにはいかん」
と言ってことわった。
そこで黄帝が三ヶ月の間閑居した後に再び訪ねた所、はじめて精神の安静をたもつ法を教えたという。
(『神仙伝』巻一)
危は貳負の家臣。危と貳負は共謀して窫窳を殺害したため、帝は疏属の山へ縛りつけ、右足に足かせをはめ、両手と髪を後ろで縛って頂上の木につないだ。
(『山海経』海内西経)
『山海経』の記述では「帝」としか書かれていないが、前漢の宣帝の時代に石と化した危と貳負が見つかった時、当時の学者・劉向は彼らを「黄帝の時代の者」だとして上の説話を説いた。
この時、宣帝は劉向を世迷い言を申す者として獄につないでしまったが、劉向の子・劉歆が父を弁護して進言した、
「七歳の童女にその石を授けてかわいがらせれば、元の姿に戻るでしょう」
との言葉どおりに試した所、生きかえって宣帝の質問に答え、劉向の言葉が正しかったことを証明したという。
ちなみに、生きかえった二人のその後は定かではない。
(『独異志』)
黄帝のころの名医。黄帝の武将とも言う。
病を治すのに薬や鍼、按摩などを使わず、患者の衣服をちょっと開いてみるだけで病の徴候を見て、そのうえで「皮を裂き、肌を解きひらき、脈絡を通じ、経筋を結び、髄脳をおさえ、荒幕(五臓を隔てる膜)をさらえ、胃腸を洗い、五臓をすすぎ、心を治め身を修めた」という。
(『史記』扁鵲倉公列伝・唐・張守節『史記正義』)
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