顓頊高陽氏の八人の子。
「斉、聖、広、淵、明、允、篤、誠」(中正、通達、寛宏、深遠、明瞭、信守、厚道、誠実、の意味)である才子として知られ、天下の民は「八愷(愷は「やわらぐ」の意)」と呼んだ。
その子孫は代々その美徳を受け継ぎ、先祖の名声を失わなかった。
堯は帝嚳高辛氏の才子・八元と一緒に登用しようとしたが果たせず、舜によって登用されると、大地を掌り諸政策を整備して、天地を平静にしたという。
(『春秋左氏伝』文公十八年)
伯奮は「仲奮」となっているテキストもある。
帝嚳高辛氏の八人の子。
「忠、粛、共、懿、宣、慈、恵、和」(忠誠、恭敬、勤謹、端美、周密、慈愛、仁愛、寛和、の意味)である才子として知られ、天下の民は「八元(元は善の意味)」と呼んだ。
その子孫は代々その美徳を受け継ぎ、先祖の名声を失わなかった。
堯は顓頊高陽氏の才子・八愷と一緒に登用しようとしたが果たせず、舜によって登用されると、四方の民に五教(父・母・兄・弟・子に対する接し方)を広めて、内外を平静に保ったという。
高辛氏の子。
曠林という土地に住んでいたが、互いに仲が悪く、武器をとって攻めあっていた。后帝(帝堯)はこの様子を心配し、閼伯を商丘に遷して辰星(大火とも、さそり座のアンタレスのこと)を祀らせ、実沈を大夏(太原)に遷して参星(オリオンの三つ星のこと)を祀らせた。
春秋時代、晋の平公が病気となった時、占い師は「実沈・臺駘の祟りが原因だ」と言ったが、見舞いに来た鄭の大夫・子産は「彼ら山川星辰の神は必要な時に祀れば良く、平公の病気は生活の乱れによるもので、祟りでは無い」と看破した。
(『春秋左氏伝』昭公元年)
有邰氏の娘で、帝嚳高辛氏の正妃。
野にでた時に巨人の足跡を見つけ、心楽しくなってその足跡を踏んだところ、身ごもって男子を産んだ。
はじめは不吉なことと思ってその子を捨てたが、通り過ぎる牛馬や鳥がその子を守るのを見て、不思議なことだと思い、育てることにした。
この子が弃、すなわち後の后稷で、彼は周王朝の先祖として崇められた。
(『史記』周本紀)
眛は金天氏の末裔。玄冥の師(水官の長)となって、允格・臺駘の二人の子を生んだ。
臺駘はよく父の後を継いで治水に功績があり、天帝から汾水の流域に封じられ、汾水の神として祀られたという。
春秋時代、晋の平公が病気となった時、占い師は「実沈・臺駘の祟りが原因だ」と言ったが、見舞いに来た鄭の大夫・子産は「彼ら山川星辰の神は必要な時に祀れば良く、平公の病気は生活の乱れによるもので、祟りでは無い」と看破した。
(『春秋左氏伝』昭公元年)
少昊の子。
降って緡淵という所に住んだという。
(『山海経』大荒南経)
『山海経』大荒北経によれば、魚山の近くに一つの目が顔のまん中にある人間がおり、これが威という姓で少昊の子であり、黍を食するという。
少昊の子。
はじめて弓矢を作ったという。
(『山海経』海内経)
『山海経』大荒南経に見える、成山・甘水の近くにあると思われる国。
ここの民は顓頊の子孫であり、黍を主食としているという。
顓頊の子。雲雨の山の近くに彼の国があり、その国の民は黍を食していた。
(『山海経』大荒南経)
顓頊の子。
『山海経』大荒西経によれば、禹が共工を攻めた国の近くに、淑士の国があるという。
顓頊の子。祝融、重、黎を生む。
帝(天帝)は重に命じて上天を支えさせ、黎に下の大地を抑えさせた。
彼の孫(祝融の子)・太子長琴は、はじめて楽曲を作ったという。
(『山海経』大荒西経)
大荒の野にいるとされる、三つの顔と一つの腕を持った人。
顓頊の子であり、不死であるとされる。
(『山海経』大荒西経)
顓頊の子。
『山海経』大荒北経によれば、西北の海のかなた、流砂の東に彼の国があり、その民はやはり黍を食するという。
驩頭は顓頊の子。苗民は驩頭の子で、顓頊の孫にあたる。
苗民は西北の海のかなた、黒水の北におり、姓は釐、翼を持ち、肉を食するという。
(『山海経』大荒北経)
二人の名前から考えて、舜によって四方に流された「四罪」のうちの讙兜、三苗のことと思われる。
顓頊の父。黄帝の孫にあたる。
首が長くて謹耳(意味は未詳)、人面で豕の口先、麟(=麒麟)の身体で大きな股、豚の脚をしているという奇怪な姿をしていたが、淖(読みは「シャク」)の美女をめとって、顓頊を生んだという。
(『山海経』海内経)
高辛氏の王宮で飼われていた、五色の毛並みを持った犬。
高辛氏の王宮に年取った婦人が住んでいたが、長い間苦しんでいた耳の病を医者が診たところ、繭ほどの大きな虫を耳の穴から取り出した。
その虫を笊に入れ、盤をかぶせておいたところ、たちまち五色の毛並みをもつ犬にかわってしまった。
この犬は「盤瓠」と名づけられ、王宮で飼われることとなった。
その頃、呉の国の夷狄がさかんに辺境を侵略したので、高辛氏は将軍を派遣して夷狄の大将を捕らえようとしたが、失敗続きであった。
そこで高辛氏は「夷狄の大将の首を捕ってきたものには金千斤を贈り、戸数一万戸の諸侯に封じ、王の末娘を妻として与える」との布告を出した。
それからしばらくすると、盤瓠が人の首を加えて王宮に入ってきた。これを調べてみると、賞金をかけた夷狄の大将の首であった。
高辛氏の相談を受けた家臣たちは、
「畜生に官位や俸禄を与えることも、嫁を与えることもできない」
と答えたが、これを聞いた高辛氏の末娘は、
「天下に公約したことを破るのは、国の禍のもとになる」
と言って、ついに盤瓠の嫁となって、ともに南山へ登って行った。
高辛氏はたびたび使いのものを送って娘を探させたが、そのたびに風雨がおこって探し当てられなかった。
三年後、王女は男児と女児を六人ずつ生み、彼らは盤瓠の死後、たがいに相手を選んで結婚した。
都へ帰った王女からこの事を聞いた高辛氏は彼らを都へ呼び寄せたが、彼らが山の中を恋しがるため、大きな山と広い沼地を領地として与えて「蛮夷」と呼んだ。
(『捜神記』巻十四)
『山海経』大荒西経に「孟翼が顓頊を攻むるの池」とある。
詳しい伝承は不明。
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