えき
伯益とも言う。
普通、益は堯、舜、禹に仕えた賢臣とされている。
一般的な益の伝承の代表として、『史記』五帝本紀および夏本紀に書かれた益の事跡をあげて見よう。
益は、帝堯の時代から挙用されていた。
はじめは特に担当する職務も無かったが、舜が天子の位につくと、みなから山林川沢の草木や鳥・獣をつかさどる官に推薦された。益は謙遜して朱虎や熊羆にゆずったが、結局、舜の命令通り益が虞(山林川沢をつかさどる官)に任命され、朱虎と熊羆は益の副官となった。
益は、禹が行った治水事業に協力して大いに功績をあげた。
その後、舜が死去して禹が天子となると、禹は始め皋陶を後継者として指名していたが、彼は禹より先に死んでしまった。
そこで禹はあらためて益を挙用して政治をまかせた。
益が政治をまかされて十年目に禹は死去し、死に際して益に天下を授けて後継者とした。
しかし益は、三年間喪に服した後、禹の息子・啓に位を譲って箕山の南に隠棲した。
啓は賢人だった上、益が禹を助けて政務にあたった期間が短かったため、天下の人々に益の徳が広く知られていなかったこともあって、諸侯はみな益のもとを去って啓を君主とした。
以上が、普通に知られている益の伝承で、『史記』の他、『孟子』万章章句上にも同様の伝承が記されている。
しかし、禹のあとを益ではなく啓がついた経緯については、上で見たような平穏な話だけが伝えられていたわけではないらしい。
『楚辞』天問に、以下のような一節がある。
啓は益に代わって君となろうとして
にわかに禍に遭うた
どうして啓は禍に遭うても
よくその拘禁から脱れたのか
啓の一党は皆益から排撃されたが
啓の身を害なうことはできず
何ゆえに益は天子の位を失い
禹の血筋は伝わったのか
(目加田誠・訳)
この一節は、明らかに『史記』や『孟子』が伝えるのとは別の系統の伝説によるものだろう。
晋の時代、西暦280年ごろに、戦国時代の魏王の墓から出土したといわれる『竹書紀年』という書物には、その「もう一つの伝説」が記されている。
それによると、
益は禹に代わって立ち、禹の子啓を拘禁した。
啓は反起して益を殺して、禹のあとを継いだ。
とあるという。
目加田誠氏は『楚辞』の訳注で「孟子のいうところの如きは、伝説を美化したものであろう」と書かれている。
それが当たっているとすれば、益は儒家のおかげで共工の様な反逆者の烙印を押されずにすんだ、と言えるだろう。
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