ぎか
三皇五帝説話では、堯・舜時代の天文官として、暦を定めるのに功績があった人物とされている。
だが、本来は太陽と密接にかかわりのある神話上の人物だったようだ。
『楚辞』離騒に、
われ羲和をして節(運行)をとどめしめ
崦嵫(えんじ、日の入る山)を望んで迫ることなからしむ
という一節がある。
また、同じ『楚辞』天問にも
羲和のいまだ揚がらざるに
若華(若木の花)何ぞ光れる
という一節がある。
こここでの羲和は、太陽を乗せて天をかける御者とされているらしい。
『山海経』では、羲和は帝・舜の妻であり、太陽を産んだ女神として扱われている。
東南の海の外、甘水のほとりに羲和の国あり。女子あって名は羲和といい、いまし太陽を浴(ゆあみ)させている。
羲和は帝・俊の妻で十個の太陽を産んだ。
(『山海経』大荒南経)
また、大荒西経には、
女子がいる。いまし月を浴(ゆあみ)させている。
帝・俊の妻、常羲は月を十二個生んだ、そしてここで今はじめて産湯をつかっている。
というよく似た箇所があり、この「常羲」も羲和と同じものをさしているのではないかとされている。
これが正しければ、羲和は日月をともに産むという、天文にかかわる神の中でも極めて重要な立場にあることになる。
『書経』堯典では、羲和は暦法を司る羲氏・和氏という二つの氏族を意味するものとして使われている。
すなわち、羲仲を東へ、羲叔を南へ、和仲を西へ、和叔を北へ派遣し、春分・秋分・夏至・冬至の観測と暦の運用を行わせたとされ、この説はそのまま『史記』にも採用されている。
その後、羲和は天文・暦法を司る世襲の官名として受け継がれたとみなされたようだ。
同じ『書経』の「胤征」は、夏の仲康の時代、天文を司る羲和が職務を放棄し、酒に溺れて職務を怠ったため、夏王朝の臣・胤后によって誅殺される時の、胤后出陣の宣言文である。
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