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夔


 三皇五帝説話には、二種類のが出てくる。
 これらは本来同じものであったのが、長い間に全く別のものに変容してしまったようだ。

・流波山の「夔」

 『山海経』大荒東経には、東海の海上七千里のところにある流波山の上に棲む「」という獣のことを記している。
 この獣は「夔牛」とも言い、姿は牛に似て角が無く、色は蒼、足は一つ、水中に出入りするときは必ず風雨をともない、日月のような光を発し、雷鳴のような声を出すという。
 黄帝はこの獣を捕えて、その皮で太鼓を作り、雷獣の骨をバチにして叩くと、その音は五百里のかなたまで聞こえ、天下を驚かせた。
 清代の『繹史』に引く『黄帝内伝』という書物によれば、黄帝の皮で太鼓を作ったのは蚩尤との戦いのときのことであるらしい。

 黄帝蚩尤を伐った。玄女黄帝のために夔牛鼓を八十個作り、一度に五百里を震わせ、あいついで三千八百里を振るわせた。

 夔牛鼓を八十個作ったというのは、一頭のから八十個が出来たのか、八十頭のを捕らえて鼓を作ったのか、この文だけでは残念ながら良くわからない。

・さまざまな姿

 神獣としてのの姿については、『山海経』に記されたものの他にもいろいろな説が伝わっている。

 龍に似るが一足。(の文字は)夊(=一本足)から構成され、角や手があり人面である形にかたどる。
        (『説文解字』
 龍のようで角がある。
        (張衡『東京の賦』に対する薛綜の注
 鼓のようで一足。
        (唐代、『法苑珠林』に引く『白沢図』
 一足で、越人は山繰といい、人の顔、猴の体をしていて、人の言葉を解する。
        (『国語』魯語に対する三国・韋昭の注

 『白沢図』の「鼓のよう」という表現はよくわからないが、が黄帝に鼓にされた話が混同されている可能性もある。あるいは『山海経』西山経に人面龍身の「」という神が出てきており、もしかしたら人面龍身であることを「のよう」と表したのかもしれない。
 これらの記述は相互に矛盾する(『東京の賦』の注は「角が無い」とする『山海経』と矛盾している)ものの、どれもみな「一足」という点では共通している。
 逆に、一本脚の神獣がみな「」の名前で同一視されてしまった可能性もあるだろう。

 牛、龍、鼓(?)、猴、といろいろな姿をしているとされるだが、そのもっとも古い形はどうやら猴の体をしているものらしい。
 殷代の甲骨文の中では祭祀を受ける神々の一つとして登場しており、その字形は大型のサルを横から見た象形で表されている。
 当時、はその年の農作物の出来を左右する自然神の一つと見なされていたらしい。
 時代が下るとは祖先を示す「高祖」という称号をつけて呼ばれるようになり、殷の王朝の系図が神話・伝説を取り込んでいく中で、神話時代の先祖として取り込まれていったようである。
 こうして殷の王系に取り込まれたは、字形を変化させていき、後に「」、さらに「)」となっていったという説もある。

・臣としての「夔」

 こうした一本脚の神獣としての姿の他に、にはもう一つの伝承がある。
 それがの楽官としてのである。
『書経』舜典によれば、が即位したとき、臣下達にそれぞれ役割を命じた中で、を「典楽(音楽のつかさ)」とし、冑子(貴族の若者)たちを音楽で教育するように命じた。
 これに対しては、

 「ああ、われ石を撃ち石を拊たば、百獣率く舞う。」

 と答えている。
 また、同じく『書経』益稷にも「堂上で鳴球をうちならし、琴瑟をかなでて詠唱すれば祖孝(先祖の霊)が降りてくる」と語った後で、同様に石を打って演奏すると百獣が舞う、と言っている。
 この楽官としてのが、黄帝に皮をはがれて太鼓にされたの伝承が変化したものであるのは間違いなさそうだ。

 また、張紫晨『中国の巫術』には、この「われ石を撃ち石を拊たば、百獣率く舞う」という一節を、狩猟に出る前、または後に、人々が獣の毛皮などをまとって舞い踊り、それに対して石を投げて獲物を捕らえる様を再現する呪術儀礼を表しているのではないか、という説があげられている。

・夔の家族

『春秋左氏伝』昭公二十八年の項に、楽官のの家族についての記事がある。

 昔、有仍氏に女が生まれ、髪は黒々として美しく輝き、鏡にして映せるほどだったので「玄妻」と名づけられた。
 楽正(楽官)の后夔がこれを妻に迎えて、伯封が生まれたが、これが豕(ぶた)のように貪欲、非道に限りが無いので、「封豕」と呼ばれ、有窮の后羿が(有仍氏を)滅ぼすと、も祀られなくなった……。

 ここでが「后夔」と敬称を付けて呼ばれているのは、あるいはが殷の祖先として帝王と見なされていた名残かもしれない。

・孔子の語る二つの「夔」

 『山海経』に見えるような神獣としてのと、の楽官としてのは、時に混同されつつも後世に伝えられていった。
 いくつかの文献に、孔子が「」について語ったとされる言葉が残っている。
 『史記』孔子世家には、孔子が怪物としてのについて語ったことが記されている。

 (孔子が四十七歳の時、魯の貴族)季桓子が井戸を掘ると、土製の缶が出、その中に羊がいた。そこでわざと仲尼(孔子)に、「狗を得たが、どうしたことだろう」と問うと、仲尼は答えた。
 「私の聞いているところからすれば羊でしょう。孔子の名)はこう聞いております。『木石の怪は魍魎であり、水の怪は罔象であり、土の怪は墳羊である』と。」

 この木石の怪としてのが、後世の山繰など人面猴身一脚の山中の怪と同一視されていったのだろう。
 一方、『韓非子』は、の楽官としてのについて、魯の哀公が孔子に質問したときのことを載せている。

 魯の哀公孔子にたずねた。
 「わたしのきくところでは、むかし、というものがいて、それが一本足だというが、はたして、ほんとうにそのものは一本足であったのだろうか」
 孔子は答えた。
 「そうではございません。は一本足ではありません。という人物は、おこりっぽく反抗的でひねくれていましたので、多くの人は彼を好みませんでした。しかしこんな人物でも人から害されなかったのは、信という徳があったからで、みな、ただこの一つで足ると言いました。それは、は一本足でなくて信一つで足りるという意味です。」
 哀公は言った。
 「全くそういうふうであるなら、一つで足りる」

 一説にはこうなっている。哀公孔子にたずねた。
 「きくところによると、は一本足だというが、ほんとにそうなのか」
 孔子は答えた。
 「は人間でございます。なぜ一本足でありましょうぞ。彼は、特にこれと言って特徴はありませんが、ただ音楽だけに通じていました。は、これ一つで足ると言って、楽官の長にしました。だから、世の君子が、には音楽一つあるだけで足るといったので、一本足だといったわけではありません」
        (『韓非子』第三十三 外儲説篇 左下

 後のほうの説については『呂氏春秋』にも同様の説話が記録されいている。

 魯の哀公孔子に質問した。
 「楽正(音楽をつかさどる官)のは一足(一本足)だと言うが、本当だろうか?」
 孔子が答えて曰く、
 「昔、は音楽によって天下を教えようと考え、重黎に命じて草莽の中からを推挙させ、は彼を楽正にしました。は六律を但し、五声を和しもって八風を通じ、天下は大いに服しました。
 重黎はまたさらなる人材を求めようとしましたが、は、
 『音楽は天地の精、得失の節である。ゆえに、ただ聖人のみが良く和すことができる。音楽の本意である。はよく調和させ、天下を平らかにした。のようなものは一人で十分足りている。』と言いました。
 ゆえに『一足』とは『は一人で足りる』の意味であり、一本足の意味ではないのです。」
        (『呂氏春秋』慎行論 第二 察伝

 これらは明らかに一本足のの伝説を、楽官としてのにこじつけたものである。
 『韓非子』『呂氏春秋』孔子からみれば後世の書物なので、こうしたこじつけを孔子自身が行ったという証拠は無いが、戦国時代後期に儒家の間にこうしたこじつけが広く行われていたのは、間違いないだろう。


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