しゆう
蚩蚘とも書く。炎帝神農氏の子孫とされている。
兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。
その姿は『述異記』巻上によると
銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、……人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ
……秦漢の時代の説によれば、蚩尤氏の耳鬢(頬の髪、もみあげのあたり)は剣や戟のようで、頭には角を持つ
とされ、漢の時代に作られた書物『竜魚河図』では、
獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた
また、古い占いの書『帰蔵』には、
八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首?)
とある。
『述異記』巻上と『帰蔵』の記述は、どうやら「二頭の獣を合成した形」を、別の形容で表現したもののようだ。
すなわち、首が二つあるので目は四つ、八つある足のうち二つで直立していれば、残りの六つは手と見なすことができるわけだ。
『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、「蚩尤」の名こそ出てこないものの、
天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。
とあって、おそらく蚩尤と同じものだろう。
人面牛身であった神農氏の子孫であるとも言われることから牛形のイメージが強い蚩尤だが、『述異記』巻上には「四目、六手」という姿のほかに、山西の太原地方に現れた蚩尤は「亀足、蛇首」だったという別の説も載せている。
これは、古代の中国各地でまつられていた軍神が、のちに「蚩尤」の名前で一つの神格にまとめられて行った結果だろう。
さて、三皇五帝説話の中での蚩尤といえば、黄帝との戦いである。
蚩尤は八十一人(一説に七十二人)の兄弟とともに、武器をつくって天下を横行し、暴虐の限りを尽くしていた。
当時まだ天子となっていなかった公孫軒轅(黄帝)は、他の横暴な諸侯は征伐したものの、蚩尤だけは討伐することができなかった。
やがて黄帝が即位するに及んで、黄帝と蚩尤の対決が本格化することになる。
両者の決戦場は涿鹿の野(『史記』五帝本紀)とも冀州の野(『山海経』大荒北経)とも言われているが、戦いははじめ蚩尤の側が優勢だったようだ。
『竜魚河図』には「仁義に篤い黄帝でも、蚩尤を押さえることができなかった」と簡単に書かれているが、『山海経』大荒北経では、次のような展開があったとされている。
蚩尤は兵器をつくり、黄帝への攻撃を開始した。それに対して黄帝は応竜に命じて蚩尤を冀州の野において迎撃させた。
応竜とは、竜の中でも翼のあるものを言い、雨を降らせる力を持つものである。
ところが蚩尤はこれに対抗して、風伯(風の神)と雨師(雨の神)をまねき、暴風雨をほしいままにした。
そこで黄帝は、自分の娘である魃(妭とも書く)を天上から呼び寄せた。日照りの神である魃の力によって風伯・雨師の力は封じられ、ついに蚩尤も討ちとられたのであった。
『竜魚河図』の説話でも、黄帝の勝利は、天帝に遣わされた玄女から「兵信神符」という呪符を渡されたことがきっかけとなっている。
どちらの説話でも、蚩尤の敗北は天界の女性によってもたらされたのだ。
処刑された蚩尤を葬った塚は山東の寿張とも同じく山東の東平陸にあるとも言われ、一説には一方に頭と胴体、もう一方に手足を葬ってあるとも言われている。
『述異記』巻上によれば、冀州(河北)の人が銅鉄でできたような髑髏を掘り出し、これが蚩尤の骨だとされた。その歯の長さは2寸、固くて砕くことができなかったという。
また、山西の解州には塩池という場所があり、特産の河東塩を産出しているが、これは赤みをおびており、蚩尤が死んだ時の血が化したものだと伝えられている。
伝説では、蚩尤が神として祭られるようになった経緯を、次のように説明している。
……蚩尤が死んだ後、天下は再びあちこちの国で騒動が起こる不穏な日々が続いた。そこで黄帝は蚩尤の姿を描いて示し、これで天下の不心得なものを威嚇した。
この絵を見た世の人々は、みなあの恐ろしい蚩尤がまた生き返って現れたと思い、どの国々も蚩尤の絵にひれ伏した。
(漢代・作者不詳『竜魚河図』)
蚩尤の原形については、東方ツングース系の帝王神だったという説、南方の巨人族であったという説、風神の性格を持っていたという説、水神が本来の形であったという説、などなど、諸説あってはっきりしない。
これはおそらく、各地で独自に信仰されていた軍神が「蚩尤」の名のもとに統一されたため、いろいろな原形を合わせ持つことになったのだろう。
蚩尤の帝王神としての伝説は、『逸周書』嘗麦解に「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」とある。
ともあれ秦の時代までには、蚩尤は五兵(五種類の兵器)の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていた。
司馬遷『史記』封禅書には、天下を統一した始皇帝は泰山で封禅をおこなった後、東の海岸地方で祭祀をおこなった八神の一つに兵主の神を蚩尤の塚で祭り、また漢の高祖・劉邦は、挙兵した時に蚩尤をまつったという。
この兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられた。
しかし、蚩尤に対する祭祀は、その後、徐々にすたれて行ったらしい。
黄帝と敵対する邪神としての性格を強調された蚩尤は、祭祀よりも征伐の対象となって行った。
次の説話は、その典型といえるだろう。
宋の大中祥符七年(西暦1014年)、解州の塩池の水が減少して、塩の収入が少なくなった。皇帝が視察の使者を派遣したところ、その使者は城隍神(土地神)と名乗る老人と出会って「塩池の害は蚩尤のせいだ」と教えられた。
そこで皇帝が近臣の呂夷簡を解州へ派遣して祭らせると、夢に蚩尤が現れ、
「上帝(天帝)が自分にこの塩池の主宰をさせているのに、皇帝が自分の仇敵である軒轅(黄帝)の祠を池のほとりに建てたので、水を涸らすのだ」
と告げた。
この報告を聞いた侍臣の王欽若は「蚩尤は邪神であり、信州竜虎山の張天師に命じてこれを平定させるべきだ」と上奏し、召し出された張天師の、
「死後、神となった忠烈の士の中でも、蜀将関羽は忠勇を兼備しています」
という薦めに従ったところ、まもなく美しい髯をした武人が空から現れ、勅命をうけて消え去った。
ある日、解州の塩池の上を黒雲が覆い、風雨雷電にわかに起こって、空中に戦いの音がしていたが、やがて雲がおさまり晴天となってから見にゆくと、池の水は元のように満々とたたえられていた。
(『関帝録古記』)
明代の小説『平妖伝』では、蚩尤の血が塩池となったのは「蚩尤が兵器を創造した罪業が重いために、万世の人々が彼の血を食らうことになったためだ」と評している。
蚩尤は、こうして完全な敵役となってしまったのだ。
蚩尤の一族については、八十一人(または七十二人)の兄弟が有名だが、他にもわずかながら記録がある。
『国語』楚語とその注によると、少昊の衰えた時に反乱を起こした九黎(黎氏の九人)は「蚩尤の徒」であったという。
九黎たちが蚩尤の親族であったのか家来筋だったのかは判然としないが、蚩尤を殺した黄帝の子である少昊金天氏の天下の衰えを見て、反乱を起こしたもののようだ。
一方、蚩尤の支配下にあった民衆は、蚩尤が討伐された後、その善良なものは鄒屠の地へ、凶悪な者たちは有北(北の寒冷な不毛の地)へと移住させられた。
そのうち、鄒屠の地へ移住した者たちは鄒屠氏と呼ばれ、後に鄒氏と屠氏に別れたと言う。
前秦・王嘉撰『拾遺記』によれば、帝嚳高辛氏の后は、鄒屠氏の出身だったと言う。
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