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九州新幹線開業を控えた西鹿児島駅 平成八年(1996)に新しい駅舎が完成した。当初から新幹線の開通を見越して建てられたもので、設計は九州新幹線「つばめ」のデザインも手掛けた水戸岡鋭治氏。赤い建物の屋上部分に新幹線ホームが設けられている。平成16年(2004)の3月13日の新幹線開業をもって、駅名も「西鹿児島」から「鹿児島中央」へ変更される。現在、駅周辺は駅ビルや地下通路の建設、路面電車の駅側への軌道修正工事等が慌ただしく行われており、これらの完成によって、鹿児島市の中心部の人の流れが大きく変わることが予想される。

左:西鹿児島駅を出発する「なのはな」号 「なのはな」号は平成四年(1992)指宿枕崎線に投入された。菜の花を連想させる黄色の配色がとても眩しい。
中:慈眼寺駅-坂の上駅間にて 快晴に恵まれ、一路山川を目指す。遠く左から霧島連山、桜島、高隈連山の稜線が連なっているのがお分かりだろうか?
右:快速「なのはな」の車内にて 小学生だろうか。運転席の方を見つめている。

 日本の最南端部を進むJR指宿枕崎線は、まず西鹿児島と山川の間が昭和11年(1936)に開通、その後昭和38年(1963)に山川と枕崎間が完成し、全長87.9キロの指宿枕崎線が誕生した。海岸線に沿うように錦江湾を南下する、この路線の車窓に映える景色は壮観で、桜島、高隈山系といった大隅の山々を見渡せる。国道226号と平行して走るため、国道沿いに植えられた椰子をはじめとする亜熱帯の木々が、いやが上にも旅人の抱く南国情緒を掻立てることになる。山川駅を過ぎると、やがて開聞岳が進行方向に悠然として待ち構えており、旅のクライマックスを演出する。
 ところでJR九州が発表した計画によれば、九州新幹線開業後は在来線の強化策として、 鹿児島中央−指宿で運行中の快速列車「なのはな」に観光用指定席車両を連結し、三両編成の「なのはなDX」とするとのこと。平日3往復、休日4往復させ、特に観光用指定席車両は展望窓や木を使った内装で旅行気分を盛り上げる工夫をするらしい。

左、中:五位野駅にて 国鉄時代には駅職員も常駐し、田舎の風情が残る、いい感じの木造の駅舎であったが、現在はその駅舎も取壊され、無人駅となってしまった。周囲も宅地化が随分進んでいるようだ。平川動物公園最寄りの駅で、歩いて20分ほどの距離である。
右:ボディーに付されたマーク 開聞岳をイメージしたものだろうか?恐らくそうだ。確認する必要もないだろう。

左、中:平川駅-瀬々串駅間にて 
右:「赤い快速」と並列する「黄色いなのはな」(山川駅) 快速「なのはな」号は山川駅が終点となる。朝夕の通勤、通学の時間帯を除いて、ここから先は列車の本数が極めて少ないため、開聞岳へは駅前より開聞駅の直行バスを利用するのが一般的なようだ。

 三国名勝図会には「瀬々串、上之村の海辺にありて、小村落なり。この浦より眺望すれば、海を隔て、隅州の連山、縹緲として画のごとく。その中に高隈岳秀出し、桜島岳海中にそびえ、烏島、沖小島、その側に侍立し、風帆賈舶、煙際に来往し、風景絶勝なり。」とある。西鹿児島駅よりしばらく内陸を走行していた列車は平川駅を過ぎると、すぐに海岸線に出る。この平川駅から瀬々串駅にかけての沿線はまさに絶景で、海を挟んで、晴天の日には桜島や高隈山系の大箆柄岳や御岳、小箆柄岳等の稜線が連なる。さらに運が良ければ、遥か彼方に霧島連山の高千穂峰や韓国岳等の峰々も確認することができる。殊に上の真ん中の写真のように線路がやや国道よりも高みにあるため、とても見晴しが良い。「なのはな」号による南薩周遊を是非ともお勧めしたい。
*三国名勝図会 藩命により五代秀尭、橋口兼柄らが編纂。薩摩藩内の名勝を図解入りで解説してある。なお三国とは薩摩、大隅、日向をさす。 隅州-大隅国 縹緲-かすかで、はっきりしない様  風帆賈舶-帆掛けの商船  煙際-かすみの際

左:山川港 山川駅のすぐ眼の前に広がる。天然の良港で、往時は中国や南蛮の国との貿易によって殷賑を極めた。慶長14年(1609)、島津氏が琉球へ軍を派遣した折にも、ここから出発している。
中:五人番所跡(異国船番所跡) 山川港入り口付近にあり、異国船の出入りや密航を監視していた。尚、碑銘は島津宗家30代当主、島津忠重の筆によるものである。
右:徳光神社 別名唐芋神社とも言われている。前田利右衛門が琉球よりサツマイモを持ち帰り、その栽培によって人々を飢えから救ったと伝えられている。後に彼の遺徳を偲び、地元民によって山川の岡児ヶ水に徳光神社が建立された。

歴史の舞台、山川港
 天文12年(1543)に三人のポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられて以来、南蛮人がしばしば日本に足を延ばすようになる。天文15年(1546)にはポルトガル人のジョルジェ・アルヴァレスがここ山川より日本に上陸、見聞録を著し、ヨーロッパに紹介した。これはヨーロッパ人による最初の日本見聞録で、日本人が極めて高い倫理観を持つこと、そして山川付近の風俗だと思われるが、米焼酎を飲むことや砂蒸温泉の様子なども記されている。ジョルジェ・アルヴァレスがマラッカに戻る際に、地元薩摩のヤジロウも同行し、フランシスコ・ザビエルはアルヴァレスやヤジロウに面会したことにより、日本行きを決断したと言われている。そして天文18年(1549)、ザビエルはキリスト教の布教のため、ヤジロウと共に鹿児島上陸を果たしている。
サツマイモの話
 甘薯のことは全国的にサツマイモと呼ばれていると思うのだが、当の薩摩すなわち鹿児島では、中国より伝わったために、唐芋(カライモ)の方が一般的である。通常サツマイモの呼称は、伝来先の地名ないし、そこでの通称をそのまま使っているようである。サツマイモの原産地は中南米であるとされている。それが東南アジア、中国を経て琉球、そして薩摩に伝播した。沖縄では今でもサツマイモのことをハンスと呼ぶことがある。これは中国語の発音である蕃薯(ファンスー)からきている。薩摩には17世紀後半から18世紀初頭に伝えられたと言われているが、当時は蕃薯、ハンス、リュウキュウイモと呼ばれていたらしい。記録の上では頴娃郡山川郷の前田利右衛門が宝永2年(1705)、琉球よりサツマイモを持ち帰っことが記されている。また年代的には薩摩とほぼ同時期には肥前(現在の長崎、佐賀)にも伝わっていたらしいが、元来サツマイモが寒さに弱いことや、当時の薩摩藩主が栽培に熱心であったことが理由で、肥前での普及は薩摩に遅れをとってしまった。そしてサツマイモの越冬技術の発達により、サツマイモの栽培は北上を続け、このことがサツマイモの伝承は薩摩からという印象を強め、青木昆陽(1698〜1769)が「蕃薯考」を著し、サツマイモの栽培の奨励したことにより、享保の大飢饉では民衆を飢えから救ったとされるに至った。

左、中:西大山駅にて お馴染みの駅である。昨年(2003)の8月に沖縄都市モノレール(愛称ゆいレール)が開業したために、標識を新しいものに作り直した。以前は単に「日本最南端の駅」と書かれていたが、一番上に赤く「JR」の文字が加えられた。日本最南端の地位は「ゆいレール」の赤嶺駅に譲ったが、開聞岳の端正な姿は何ら変わることはない。
右:西大山駅には旅ノートが置いてある。これは地元鹿児島の方がボランティアで運営管理しているようで、初めて訪れた人が落書き帳にメッセージを書き残すと、次回訪れた頃には、綺麗にワープロで清書され、別ファイルに綴じられているようだ。このさり気ない気持ちはとてもありがたい。良き旅の思いでとなる。

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JAN/26/2004/NO.7