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| ↑黒之瀬戸大橋(梶折鼻公園にて)鹿児島市から国道3号を北上し阿久根市内に入り、途中で左折、国道389号をしばらくすすむ。やがて視界が開け、空色の黒之瀬戸大橋が姿をあらわす。昨日まで黄砂の影響で遠方の視界がぼやけていたが、一夜明けるとだいぶいい感じになってきたようだ。以前より心待ちにしていた長島、天草の旅を始めることにしよう。 |
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| 左:万葉集歌碑 「隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも吾は 今日見つるかも」 黒の瀬戸に向かうように立つ歌碑に刻まれたこの歌は、今より1200年も前、天皇の命によりこの地を訪れた長田王によるものとされている。 |
| 中:小高い丘より東シナ海を望む。 |
| 右:伊唐大橋 伊唐島越しに獅子島の眺望が広がる。 |
| 長島は鎌倉時代初期より長島氏の領地とされてきた。南北朝時代には天草諸島は大矢野、上津浦、志岐、宮地、天草、長島の六氏によって統治されていたが、室町時代以降、栖本、久玉の二氏が加わり、天草八氏の時代が続くことになる。この地を初めて訪れたとき、少し驚いた。日頃鹿児島市周辺で見かける白っぽい砂状のさらさらしたシラスと違い、粘土質の赤土が田畑を被っている。島のあちこちに立派な石積みの土手で仕切られた畑が広がり、ある種の風格さえ感じる。歴史的には永く天草に属し、鹿児島の文化と少し異なった背景を持つ長島の印象が直感的に伝わってきた。 |
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| 左:スミレ スミレ科の多年草。大工道具の「墨入れ」から転じて「スミレ」となった。畑の畦道で眼にした。 |
| 中:島津常陸守忠兼記念碑 悲業の最期を遂げた忠兼の霊を慰めるために、記念碑とともに島内4ヶ所に若宮神宮を建て、現在でも毎年8月8日には「ご八日おどり」が奉納され、当日は島内が祭り一色となる。 |
| 右:指江古墳群 造られたのは6世紀の末とされている。長島の古墳は5世紀から7世紀にかけて肥君一族の勢力がこのあたり一帯に及んでいたためとされている。指江古墳群は昭和37年に島内で初めて、池水寛治氏によって発掘された。 |
| 天草氏との争いに破れた長島氏が居城である堂崎城を離れ、天草越前正が入城すると永禄8年(1565)3月23日、野田の城主、島津常陸守忠兼が長島を攻め、翌24日、堂崎城は陥落する。ところが3ヶ月後の7月8日、忠兼は出水の薩州島津家義虎によって暗殺される。(これは天草氏の薩州島津家義虎への密告であるとされている。)その後、長島の帰属を巡って、島津氏、相良氏、天草氏との間で対立が続く。天正9年(1581)、島津義久が水俣の相良義陽との戦いに勝利し、以後長島は島津家の領地として薩摩に属することになる。 |
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| 左:蔵之元港(長島)より牛深港(天草)へ向け、出港するフェリー。約30分で牛深到着となる。三和商船 09697(3)2103 |
| 中、右:牛深ハイヤ大橋 ポンピドゥーセンター、関西国際空港旅客ターミナルなど、世界一級の建築物の設計を手掛けたイタリア人のレンゾ・ピアノをはじめ、岡部憲明、ピーター・ライスによって設計された。その単純にして洗練されたデザインに圧倒される。全長883m 1997年8月竣工。 |
| ハイヤ節のふるさと、牛深 リズミカルで熱狂的なハイヤ節のふるさとは牛深である。交易のあった奄美大島の六調のリズムと熊本の二上がり甚句が融合したのが牛深ハイヤ節の源流とされている。牛深ハイヤ節をルーツとする民謡は全国に30以上あるといわれ、鹿児島のハンヤ節、長崎の田助ハイヤ節、佐賀の呼子ハイヤ節をはじめ、徳島の阿波おどり、新潟の佐渡おけさ、北海道の江差もちつきばやし等もその範疇に属するといわれている。牛深では毎年4月第3土、日曜日に「牛深ハイヤ祭」が開催される。 |
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| 左、中、右:崎津天主堂 崎津天主堂は永禄12年(1569)にアルメイダ神父によって崎津の地に創建された。現在の建物は明治18年(1885)に建てられ、昭和9年(1934)にハルブ神父によりゴシック様式のものに改築された。 |
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| 左:崎津魚港の入り口に立つマリア像 漁船の漁の安全を身守っている。 |
| 右:大江天主堂 明治16年(1883)、創建され、昭和7年(1932)、フランス人のガルニエ神父が私費を投じて現在の建物を造った。 |
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