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左:烏島展望所 大正3年の大噴火により、桜島の溶岩流が沖合いの烏島まで及び、島全体を呑み込んでしまった。今は全くその痕跡を知る由もなく、わずかにこの記念碑が歴史的な事実を物語っている。
中:深くえぐられた山襞 絶えず降り積もる火山灰が、この標高1100mほどの山の頂上部への生命の進出を頑なに拒んでいる。(古里温泉にて)
右:噴煙を噴き上げる昭和火口(有村溶岩展望所にて) 昨年(2008)の暮れより昭和火口からの噴火が活発になってきた。垂水方面に向かう途中、噴煙が気流にのって大隅半島へ流れていくのを目撃。
 「それは、青いものが一本もない、代赭色の巨大な土塊の堆積であった。赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはや之は山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非常の強さで私の眼を圧迫した。憑かれたように私はそれに見入っていた。-下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)66頁からの引用-」薩摩半島側の鹿児島市街地から眺め観る桜島は、どっしりと鹿児島湾の真ん中に鎮座し、悠然とその威容を誇るのだが、ひとたび爆発が始まると、人間の手に負えない大自然の猛威を残酷なまでに振い、致命的な災害をもたらす。大正3年の大爆発では、農地の多くが甚大な被害を受け、農業を諦め島から移住する人々が後を絶たず、爆発の前は人口2万人を数えたが、残った住民はその3分の1に過ぎなかった。

左、中、右 古里温泉にある林芙美子文学碑 
 「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」は林芙美子の言葉としてあまりにも有名だが、その出典ははっきりとしていないようだ。「放浪記」から引用されたものでもなく、ただ「花のいのち-の言葉が人口に膾炙するにあたっては、芙美子自身の色紙の存在がある。-下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房 9頁からの引用-」ということらしい。また「芙美子の女性観では、一度つまずいたら、坂をころびおちるように、没落の歩く弱い女ばかり多い。(中略)自分の人生を悔いなく生きていきなさいというエールを世の女性たち全体に送っているのである。-下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房 212頁〜213頁からの引用-」という意図があるようだ。
 
 林芙美子は明治36年(1903)12月31日に生れた。父は行商人の宮田麻太郎、母は林キク。キクが鹿児島の出身であったため、本籍地は東桜島村古里になっている。麻太郎とキクは入籍しておらず、その後二人は別れ、キクは同じく行商人の沢井喜三郎と結婚。芙美子ともども各地を転々とすることになる。一家の商売は上手くいかず、芙美子は一時期、鹿児島の祖母のもとに預けられた。その後、一家は尾道に移住し、芙美子は懇意にしてくれた師に恵まれ、尾道高等女学校に進学し、この時、文学的才能を開花させることとなった。
 「放浪記」の冒頭は次のように始まる。「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。-下線部は林芙美子 放浪記 新潮文庫 8頁からの引用-」
 作家の向田邦子が、林芙美子について次のようなコメントを残している。「放浪記の林芙美子女史は、電車に乗ると、まわりを見廻して、いまこの瞬間事故にあったら、どの男の手を取って逃げようかと空想したそうだが、甲斐性も度胸もない私は、ひとさまの懐具合を想像したのだった。-下線部は向田邦子 眠る盃 講談社文庫 87頁からの引用-」二人の恋愛観、人生観の特徴が表現されているようで、興味深い。

左、右:牛根大橋 2008年3月に開通。全長381メートルで、上方に反ったアーチ型の構造で、バランスドアーチという形式で呼ばれている。国道220号の垂水市牛根麓地区は、大雨等による土砂災害の恐れがある場合、通行止めとなるため、それを回避するためのバイパスとして牛根麓〜桜島口間の2.7kmが整備され、牛根大橋は1999 年度に工事を着手。約 9 年の工事期間と約 220 億円を費やして完成した。
中:噴火活動が再び活発になってきた桜島昭和火口 昭和火口は2009年1月より噴火活動が顕著になり、更に2月に入って噴火が頻繁になったことから、気象庁は2月2日、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から3(入山規制)に引き上げた。その後活動が沈静化したため、一旦は噴火警戒レベルを3から2に引き下げたが、2月28日以降、再び爆発的噴火が多発し、3月2日に噴火警戒レベルは3に戻された。そして4月9日午後3時半ごろ、昭和火口が噴火し、噴煙は高度4000メートルに達し、鹿児島市街地に9年ぶりとなる多量の火山灰が降り注いだ。

左:黒神埋没鳥居 大正3年の大爆発による火山灰のため、鳥居が、その上部を残して、殆ど埋まってしまった。地中に埋もれたままの状態で保存されており、爆発の凄まじさを現在に暗黙裏に伝えている。
中:桜島の至る所に火山の爆発を想定した退避壕が設けられている。右:小学校の校舎の背後に慄然とそびえ立つ桜島。そこには潜在的な危険と隣り合わせの日常がある。
結びとして
 この「桜島」の特集を「発見・鹿児島!」のサイトにアップするため、今週末に記事をタイプしていた。一昨日、その桜島が9年ぶりに規模の大きい噴火をした。噴煙は高度4000メートルに達し、風向きの影響で、鹿児島市内は一面の火山灰に見舞われた。最近活動著しい昭和火口からの噴火であり、久しく桜島の活動による被害から遠のいていた鹿児島の住民にも、以前の活発だったころの桜島の火山活動の記憶が甦ったに違いない。
 ところで、桜島の東桜島小学校には、大正3年(1914)の大爆発の惨劇を教訓にした爆発記念碑がある。そこには「本島の爆発は古来歴史に照らし後日またまた免れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は未前に避難の用意もっとも肝要とし、平素勤倹産を治め、何時変災にあうも路途に迷はざる覚悟なかるべからず。」と記されている。これは当時の鹿児島測候所が大爆発の発生を予知できず、避難勧告を出さなかったため、測候所の「爆発はない」の予想を信頼して村の責任者がそのまま居残り、そのため犠牲者を出してしまったことに鑑み、将来への教訓を唱ったものとなっている。
 4月9日の噴火は、久方ぶりに鹿児島市街地に大量の火山灰をまき散らしたのだが、この9年間のインターバルというものは、桜島の気の遠くなるような生命の歴史からすると、ほんの瞬きほどの時間に違いない。大正の爆発から100年近く経つが、彼の未曾有の大惨事の再来を否定する経験的根拠は存在しない。したがって我々は理論に全幅の信頼を寄せることなく、過去の教訓を踏まえて、常にこの桜島と向き合わなければならない、そう考えた次第である。尚、大正3年の桜島大爆発については、「桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会」が、著者のジャーナリストの立場から、詳細に論じているので、一読をお勧めする。
 それでも桜島には魅力的な希有の財産が豊富にある。これらの貴重な財宝を慈しみながらも、同時に危険な自然災害に対する配慮は忘れない気概、それはかなりの忍耐をともなうけれど、が必要であろう。なぜなら桜島は端的で分かりやすい鹿児島を表現する象徴であるからだ。

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
鹿児島県の歴史散歩 鹿児島県高等学校歴史部会 山川出版社(1992)
桜島大噴火 橋村健一 春苑堂出版(1994)
桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会(1984)
林芙美子「花のいのち」の謎 宮田俊行 高城書房(2005) 
放浪記 林芙美子 新潮文庫(1979)
梅崎春生 桜島 講談社文芸文庫(1989)
向田邦子 眠る盃 講談社文庫(1982)


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APR/15/2009/NO.9