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| ↑鹿児島駅前を発車する鶴岡号 現在、鹿児島市電には鹿児島市と姉妹都市、友好都市、兄弟都市の関係にある国内外の都市の名前を戴く路面電車がある。鶴岡(山形県)以外ではナポリ(イタリア)、パース(オーストラリア)、マイアミ(アメリカ)、長沙(中国)、大垣(岐阜県)がある。 |
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| 左:鹿児島駅前にて 昔のカラーリングが一昨年(平成13年)に復活した。 |
| 中:従来の9500形(左)や500形(右)に比べて1000形(中)は一回り大きいのがよく分かる。 |
| 右:超低床電車1000形(愛称ユートラム)は昨年(平成14年)1月にデビュー、超低床電車としては熊本、広島に次いで国内三番目のお目見得となる。全長14m、幅2.45m、高さ3.6m、総重量19tで、ホームと車両との段差はわずか5cmである。近年の公共施設のバリアフリー化に対応したもので、清涼感溢れるレモンイエローのボディは南国鹿児島のイメージにとても馴染む。 |
| 祝ローレル賞 |
| 鹿児島市交通局の1000形ユートラムは、国産初の超低床電車であり、先進的な電動バネブレーキを採用し、またそのような車両を一度に3両導入することにより、実用的な意図が見える点が評価され、鉄道友の会より2003年度のローレル賞を授与されました。本当におめでとうございます。 |
| 鹿児島駅はその名からも推察できるように、現在の鹿児島本線ができる以前の鹿児島線(現在の日豊本線鹿児島-隼人間、肥薩線)の始発駅であった。鹿児島駅周辺は古くから上町(かんまち)と呼ばれる地域である。鎌倉時代、現在の宮崎県都城市にあった島津荘の守護に補任された惟宗忠久は、荘園の名をそのまま名字にした。島津氏の誕生である。もともと島津氏は三代久経の頃までは鎌倉に在住していたが、13世紀の蒙古襲来時に、幕府の命により薩摩に下向してきた。その後、守護から戦国大名として南九州全体に支配地域を広げ、天文十九年(1550)、一五代貴久の頃に現在の鹿児島市北部に入城したと考えられている。上町と呼ばれる北部から、城下は南へ広がり、十八代家久が鶴丸城を築いた。更に現在の街の賑わいは天文館や西鹿児島駅周辺へと南下していったが、鹿児島発祥の地は北部の上町にあったとも言えるのである。 |
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| 左:市役所前電停 鹿児島市市役所庁舎は昭和12年に完成。設計は大蔵省営繕管財局工務部で、国会議事堂を設計した部局としても知られている。 |
| 中:朝日通電停 左手のレトロな建物は地元のデパート、山形屋である。山形屋は出羽(現在の山形県)出身の紅花商人、初代源衛門が祖とされている。島津家二十五代藩主、重豪は当時、保守的、閉鎖的な薩摩の気風を嫌い、国を開放することにより、他国人の入国を歓迎した。このとき薩摩入りし、呉服屋を営んだのが初代源衛門である。そして三代目善兵衛の頃から、藩への功績により、岩元姓を名乗ることが許された。明治に入り、五代目、岩元信兵衛の時代になると山形屋は大きく発展し、今日に至っている。 |
| 右:いづろ通電停 石灯籠(いしどうろう)が訛って、いづろになったと言われている。いづろ通の由来は海辺の屋久島岸岐にあった灯籠を移したためとも、又ここより松原神社まで灯籠が並んでいたためとも伝えられている。 |
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| 左、中、右:鹿児島市交通局にて 交通局玄関左手には市電センターポール事業の竣工碑が建っている。鹿児島市電のセンターポール化工事は昭和62年から平成3年にわたって行われた。その事業延長は8.75kmに及ぶ。それまでのサイドポール式は、架線とそれを支えるスパンワイヤーが道路上に蜘蛛の巣のように張り巡らされ、お世辞にも美しい景観とは言えなかった。近年、都市景観の改善にも注意が注がれ、歩道上の電線、電話線の地中への埋没化と同時に、センターポール化も進められた結果、道路上の空間にゆとりが生まれた。 |
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| 左、中:郡元電停 2系統(西鹿児島駅前経由)の電車はここが終点。谷山方面へは1系統(交通局前経由)電車への乗換となる。 |
| 右:涙橋電停 軌道上の架線がセンターポール化されたため、空間の広がりがとても美しい。ここを過ぎると路面電車は、いよいよ独立軌道の谷山線に乗り入れる。 |
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| 左:新川4号踏切道(涙橋と南鹿児島駅前の間) |
| 中:南鹿児島駅前電停 JR指宿枕崎線の南鹿児島駅に隣接している。 |
| 右:宇宿一丁目電停 谷山線の魅力は、鄙びたローカル線の雰囲気が感じ取られるところだろうか。 |
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| 左:宇宿一丁目電停にて |
| 中:脇田電停 二十八代島津斉彬が郡元、鴨池と並んで、南部の宇宿も新田の開墾をすすめ、郡元、鴨池が主な水田であり、対する宇宿は脇の田であったので、脇田と呼ばれるようになったようだ。谷山線はJR指宿枕崎線と平行して南へ延びている。そのため、脇田電停付近では踏切が二重になっており、通過待ちの自動車の列が長く連なる。 |
| 右:笹貫電停にて |
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| 左、中、右:笹貫電停にて 僅かな段差の1000 形(ユートラム)は老人や幼児にとっても乗降が容易である。車椅子のままの乗車も可能。 |
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| 左、中、右:谷山駅 1系統の終着駅となる。鹿児島は焼酎の生産量が日本一で、代表的な産業であるためか、電車のボディーの全面広告も酒造メーカーによるものが多い。 |