目が覚めると、砂が詰まったように頭が重かった。布団の上で、身を起こす。凍えた空気が背中から熱を剥ぎとっていく。口元に手をあて、軽い吐き気をこらえた。隣に並ぶ空っぽの布団を、涙の滲む目でみつめる。通勤時間が長いため、夫は朝早く一人で家をでてしまう。
立ち上がろうと手をついたとき、枕元の紙片に気付いた。青い文字で「にごりみずのおしらせ」と記されている。深夜に近隣で水道工事があること、断水になる時間帯などの諸注意が細々と書き連ねてあった。
昨晩は騒音で寝付けなかった。削岩機が響き、絶え間なく砂利の鳴る音がしていた。民家が軒を連ね、細い路地がうねうねと這うこの辺り、深夜は思いがけず物音が響く。鈴虫の鳴く声がしたのは本当だったのか夢の中だったのか。とろとろと浅い眠りが訪れては破れ、幾度となく寝返りを打った。
寝間着の上にカーディガンを羽織り、立ち上がる。目の奥に痺れを感じながら台所に向かった。喉の渇きを癒そうと湯呑みをひとつ手にとり、水道の蛇口をひねる。とつん、と水の先端が流しを打った。
にごりみず。頭のなかに青い活字が浮かんだ。ああ、そうだった。あの案内に注意書きがあった。水道管を交換するので汚れた水が混じるかもしれない。汚れた水が抜けきるまで流したままにするよう指示があった。
細い流れをじっとみつめ、水の色が変わるのを待つ。十秒、十五秒。水は相変わらず清らかなまま。首を傾げた。なにか、大事なことを忘れている気がする。瞼を閉じ、息を吐いた。遠くから雨の降る音が聞こえてくる。
違う。雨ではない。ゆっくりと瞼を開く。あれはシャワーの音だ。蛇口を閉じ、廊下へ足を向ける。暗い廊下にシャワーの水音が反響している。息子だろうか。まだ小学生の息子が、こんな早い時間帯に起きてくることは滅多に無い。
胸の奥、じわりと不安が浮かんだ。昨夜、濁り水のことを息子に教えただろうか。いいや、教えていない。明け方、トイレに起きた息子が誤って水を飲んだとしたら。なにも知らずに不浄の水を口にしたとしたら。
硝子戸が、細く開いていた。薄暗い浴室を覗き込む。垢くさい匂いとカルキ臭が混ざりあって鼻腔を突く。降り注ぐシャワーの下、パジャマのまま立ち尽くす幼い姿があった。
短い悲鳴をあげながら、私は息子を冷水から遠ざけた。つかんだ肩は氷のように冷たく、息子はぐらりと頭を回転させる。目の焦点が合っていない。ぽかんと口を開け、唇の端からダラダラと涎をこぼしている。
頭が混乱し、なにをすべきかわからなかった。かけるべき声がみつからず、ただ何度も小さな肩を揺すった。熱はないかと額に手をあてたとき、足下をなにかが過ぎった。
見下ろすと、焦茶色の虫がいた。鈴虫だ。震える長い触角に、息子の涎が降りかかる。不意に、涎の色が変わった。血が混じったかのような赤茶色。
顔をあげる。幼い唇から、大量の赤茶けた水が溢れてきた。ガックリと首を後ろに反らし、天井に向けた大口から汚れた水が噴きこぼれる。左右の黒目がバラバラの方向を向いた。暗い口の中、赤い舌が金魚のように揺らめく。ごぼごぼと噴き出る泡とともに、黒いものが飛びでた。虫だ。鈴虫だ。
シャワーが雨のような音を立てながら冷水を撒き散らす。私は壺を抱くように息子の頭を支え持つ。ぐったりとした身体はそれでも重力に逆らい立ち続ける。飛びでる鈴虫が次々とタイルに降り立つ。洗面器に跳ね、浴槽の蓋に飛び乗り、やがて歌い始めた。浴室いっぱいに、悪い報せを告げる電話のような音が響いた。