もしもあなたが夢の中、空を飛べそうな気持ちになったって、窓から飛び降りたりしちゃいけないよ。それはホントは、現実のことかもしれないからね。起きているのに夢をみている気持ちなだけかもしれない。
誰かがドアを叩いてる。ああ、認証が通らないんだな。早く行って開けてやらないと。そう思うのに身体が動かなかった。
ガクンと首が後ろに傾いて、目が覚めた。椅子をきしませながら振り返る。ドアに嵌め殺しのガラスがあって、暗い廊下が窺える。誰もいない、そのことに安堵しながらデスクの上のキーボードに指を乗せた。スクリーンセーバを解除し、パスワードを入力する。時刻表示を確かめると、とっくに日付が変わっていた。
客先ビルでの深夜残業だ。もう二週間以上、土日も無い激務が続いている。どうやら、いつの間にかウトウトしてしまったらしい。空欄が大量にある試験項目書を、溜め息混じりにスクロールした。ふらつく頭を手で押さえながら立ち上がる。眠気覚ましにコーヒーでも飲もう。
真っ暗な通路にでる。何気なく振り返り、ドアが閉まっていくのを見てヒヤリとした。このドアからオフィスに入るときは指紋認証が必要だ。外にでるときは不要でも、入るときは暗証番号の数字キーを叩いてセンサーを指でなぞらなければならない。ただ最近、センサーの調子が悪いのか、認証エラーで入れず困っている人をよく見かけた。自分以外はみんな帰ってしまったらしく、誰もいない。もしも自分の指紋がエラーになったら、誰かに内側から開けてもらうわけにもいかないから、入る方法がない。
ガチャンと音を立ててドアが閉まる。しかたない、僕は軽く頭を掻きながら、歩きだした。エレベータホールの向こうに休憩コーナーがある。突き当たりは壁一面がガラスになっていて、観葉植物の鉢が並ぶ向こうにオフィス街の夜景が広がっていた。深夜なのにどのビルも例外なくぽつりぽつりと明かりが灯っている。
おや、と思いながら足を留めた。休憩コーナーの手前にドアがある。白くペンキが塗られ、銀色のノブが突きでた、なんの変哲もないドアだ。こんなところに出入口なんてあったっけ。明かりが無いので、なんだか昼間と雰囲気が違う。ドアノブをひねってみた。予想外に鍵はかかっておらず、なんの抵抗もなく開く。
ジーという音がしていた。寿命が切れかけた蛍光灯みたいな音だ。狭い部屋が青紫一色に染まっている。殺菌灯だろうか。柑橘類に似た香りに一瞬だけ鼻の奥がツンとしたけれど、すぐになにも感じなくなった。
物置みたいな小部屋だった。ただし、置かれているのはガラクタではなく観葉植物だった。肉厚の葉をワサワサと広げた鉢植えがズラリとならんでいる。天井が低く、傾斜している。照明器具がびっしり敷き詰められている。見た目は普通の蛍光灯と変わらないのに、放つ光は青白い。青紫の光のせいで、緑色のはずの葉は光沢のある黒に見えた。
なんだろう、この部屋は。こんなところで育ててるんだろうか。てっきり、どこかの専門業者が外から運んでくると思っていた。手近な鉢に歩み寄り、そっと葉に触れてみる。濡れたような感触がして、思わず人差し指と親指をこすりあわせた。少しニチャニチャする。農薬だろうか。
目眩がした。額に手をあてると、低くモーター音が聞こえてきた。それは遥か下方から迫ってきて上方へと去っていく。エレベータだ。他の階にも、自分のように残っている者がいる。ふらつく足取りで、僕は回れ右した。謎の小部屋をでる。なんだかひどく気分が悪い。酔ってるみたいに足下がフラフラするし、寒気がひどい。風邪をひいたんだろうか。
ドアを開け、オフィスに戻る。なんとなく周囲を見渡すと、いたるところに観葉植物が点在していた。二十鉢以上はあるだろうか。今までどうして気付かなかったんだろう。誰もいないフロア、蛍光灯が放つ冷たい光の下、緑が沈黙している。寒い。ひどく寒い。後ろへ倒れ込むように、ドアにもたれかかる。背中越しに金属の冷たさが伝わってくる。ダメだ、そろそろ帰らないと。
突然、気付いた。いま入ってくるとき、指紋認証したっけ?
身を起こし、ドアを振り返る。そこには、認証装置があった。ドアノブの脇、テンキーとセンサーが据え付けられている。ああ、そうか、認証をしなければでられない。震えそうになる指で僕は暗証番号を入力した。ひとつひとつ、押すたびにピッと短く電子音が鳴る。番号を押し終えた指を軽く上着にこすりつけた。深く息を吸い、センサーをなぞる。
電子警告音。赤いダイオードのランプが灯った。エラーだ。認証エラー。肩が震える。首の後ろが痛い。僕はひとつひとつ慎重に暗証番号を入れ直す。大丈夫、大丈夫、もうすぐ帰れるから。
センサーをなぞる。エラーを告げる警告音が、高らかに鳴り響いた。ギュッと心臓が縮こまる。頭の中でなにかがプチンとちぎれた。脳裏を映像が過ぎる。青紫の光、ずらりと並ぶ観葉植物。葉に触れた指、濡れた感じがした指。ゆっくりと、手の平を見る。指が、真っ黒に染まっていた。五本の指がすべて、墨でも塗ったように黒汚れし、指紋が歪んでいる。流水模様のはずの指紋はところどころでブツブツ途切れ、交錯し、網目模様になっている。
奥歯がガチガチと鳴るのが聞こえた。どうしてこんなに寒いんだ。風邪のせいだけじゃない、気温そのものが下がってる。さっき目が覚めたときは、暖房が効いていたのに。疑問に思いながら振り返った僕の顔に、冷たい風が吹きつけてきた。
窓が、消えていた。すべての窓ガラスが消え、オフィス内の空気がビル街の夜にさらけだされている。うっとりと夢みるような気持ちで僕はゆっくり歩きだす。ああ、なんだ、あそこからでられる。認証なんて要らない、あそこから外にでられる。早くコートを着よう。コートを着て早く帰ろう。
もしもあなたが夢の中、空を飛べそうな気持ちになったって、窓から飛び降りたりしちゃいけないよ。それはホントは、現実のことかもしれないからね。起きているのに夢をみている気持ちなだけかもしれない。