会田誠、モテと変態は両立するか

会田誠は変態である。

彼のマンガ作品『ミュータント花子』は、太平洋戦争とSFと超能力とセックスと変態をごたまぜにしたようなストーリーで、原爆を浴びてミュータント花子となったヒロインは、アメリカ軍にぐちゃぐちゃに陵辱されながらも果敢に闘いつづけ、最終的にはキングギドラと男根を足して割ったような怪物・ルーズベルト大統領を倒す。また処女小説の『青春と変態』は、スキー合宿での主人公の女子便所の覗きを日記形式で描いたものだ。排泄を覗きながらの妄想描写が切実かつナマナマしい。

例が出版物に偏ったが、もちろん本業の現代美術においても彼は、日本刀を握ったコギャルが集団で切腹している『切腹女子高生』や、なぜか巨大化したフジ隊員がキングギドラと格闘するものの、やっぱりなすすべもなく陵辱されて表情を失ったまま涙を流しているという『巨大フジ隊員VSキングギドラ』、そしてタイトルそのままの『スペース・ウンコ』など、すぐれて変態的な作品を多く発表している。また、そうした変態の流れを汲む新作としては、日本ゼロ年展が水戸で開かれているのと同時期に、表参道で開催された個展『男の酒 〜ミレニアム〜』がある。

この個展、まず入り口が肛門を思わせる円い穴になっており、そこに入ると吐瀉物が描かれた滑り台で滑りおりてくるという仕組みで(ふりかえるとそこには苦しそうな顔で吐瀉物を吐き出す顔が描かれており、鑑賞者は自分がいま、ゲロと一緒に吐き出されてきたのだと気づく)、各所に段ボールやベニヤの書き割りを多用するなど、チープで猥雑な空間がギャラリーいっぱいに展開されていた。また展示空間の中には無数のミニパックの清酒が散乱し、客は100円を輪ゴムケースに「おこころづくし」すれば自由にそれを飲むことさえできた。

つまり見る者が書き割りに描かれた肛門の中にずんずんと入り込み、吐瀉物とともに吐き出され、その上1ヶ100円の清酒に酔っぱらってこそ「男の酒〜ミレニアム〜」の理想の観賞状態が準備されるのであり、かつ横を見ればそこではこぎれいな美大生風のカップルがもうべろんべろんとなって、ヘタクソな似顔絵など二人して描き殴っているのである(スペース内にはサインペンと小さく切った画用紙が用意され、<知り合いの似顔絵を書いて下さい。出来るだけ下手に。右向きが不足しています>などと貼り紙がされていた。描かれた似顔絵は、右向きと左向きがキスをしている形で壁に貼られていた)。会田の猥雑な変態芸術は、こまっしゃくれた態度で青山なぞからふんふん歩いてきたインテリカップルさえもそのなかに取りこんで、猥雑さを感染させてしまうのだった。

会田誠はモテでもある。

実際日本ゼロ年展でも彼はモテをほしいままにした。例えば飴屋法水のVTR作品『インプリンツ・オブ・自分』において、画面上に村上隆ヤノベケンジが映っている時は、画面のまえには、ちらほらと人があつまる程度だった。しかしVTRに会田が現れた途端、そこにどこからともなく妙齢の女子が集まりだし、そこは間をおかず数人の女子が常駐する嬌声の巷となった。さまざまな展覧会においても、会田の作品の周りには、つねに若い女性の姿がたえない。加えてそんな会田自身の顔立ちは、物憂げかつ端正で、どことなく太宰治を思わせる雰囲気を持っている。これをモテと呼ばずして何と呼ぶというのか。

長々と書いたが、こうした会田の中の「モテ」と「変態」は相矛盾する、両立不可能なもののように見える。モテと変態は、本来水と油の関係にあるはずだ。しかし会田がそれを両立しているのはなぜか。

私は日本ゼロ年展で、そんな疑問に対するヒントを見つけた。

会田がゼロ年展に投入したのは『戦争画RETURNS』シリーズだが、その中には『美しい旗』という作品がある。となり合って並べられた2枚の屏風には、荒廃した大地に、それぞれの巨大な国旗を持って2人の女性が立っている。一方はセーラー服を着た日本人の少女、もう一方はチョゴリを着た凛とした表情の韓国人の女性。まっすぐに対峙する2者は生き残りの威信を懸けて最後の闘いに突入するのだろうか、それとも全てが終わったその場所で和解を結ぶのだろうか。 そんな様々な意味において挑発的であり、かつ緊張感のある『美しい旗』の屏風絵のすぐとなりには、日本と大陸を股にかけるようにして、人間のナマ首を使ってゲートボールをする醜悪な老人がマンガ的な筆致で描かれた『ゲートボール』があった。計算された冗談のように並べられた両作品は、一見した限りではとても一人の作家の作品とは思えない。

この配置は、会田のモテを考える上で示唆的である。

たとえばもし会田誠が、一貫して『ミュータント花子』や『スペース・ウンコ』だけの作家であったら、それはただのおバカ作家か、ともすれば単なる変態ということになってしまう。しかし会田の才覚というのは、その卓越した「バランス感覚」でもってぽつりぽつりと『美しい旗』や『紐育空爆之図』、もしくは『切腹女子高生』のような、一種神がかり的な着想や、社会的緊張感を持った作品を器用に織りまぜていくという部分にある。実際会田は、『広告批評』(99年12月号)のインタビューでつぎのように語っている

<「日本ゼロ年」展で見られるのがお行儀のいいパブリックな僕だとしたら、こっち(『男の酒〜ミレニアム〜』)は生の僕。真面目な絵を見たい人は水戸へ、会田誠の魂を見たい人は、どうぞこちらに来てください>。会田の健全に不健全なバランス感覚は、すぐれて自覚的なものなのだ。

そして会田のモテについてもうひとつ言えるのは、彼の持っている「変態」という球種が、どうしようもなく豊富であるということだ。前述したバランス感覚にも通じるが、あらゆる男子の共感と悔恨の涙を呼び起こさずにはおられない中学生的な変態から、社会的緊張感を持つ倒錯したインテリジェントな変態まで、ありとあらゆる変態の引き出しを会田は持っている。

だから会田のモテを自分たちの実生活に活かそうとする際、私たちが忘れてはならないのは、会田の(変態でありながらの)モテとは『巨大フジ隊員VSキングギドラ』や『切腹女子高生』などのハイブラウな変態作品や、『美しい旗』などの非変態系の作品があってのモテであり、従って自分がちょっと絵が描ける変態だからといって、安直に『ミュータント花子』のまねごとをしたり、もしくは自分が少しくらい工作が得意な変態だからといって、『男の酒』のようなものを部屋いっぱいにこしらえても、それじゃあダメだよ、ということなのである。

つまり会田の変態性は、自身の豊かな変態観と時にクールなバランス意識に裏打ちされたものなのであり、変態という座標軸から多種多様な変態の形(ときに座標《0,0,0》のマジメ作品も)をひねり出しつづける会田は、やっぱり一筋縄の変態とはいかないし、マネなど容易にできるものではない。そして、だからこそ今日も私たちは、嗚呼モテ遠し、と途方に暮れるのである。
 
 
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