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□5年居座ったこの場所も、member.niftyのサービス終了とともに8月31日で消滅だ。新天地はロリポップ(未完成)。似合わねえブログツール駆使しての丁々発止を見よ。31日で完全に消えるので、アンテナの変更などよろしくお願いします。ちなみに移転先のテーマは「アンチブログ」。ブログツールに安閑と乗っかったまま垂れる高説は「反・ブログたれ」。ダブルバインドを超えてアウフヘーベンするおれ、2004年に措いて反時代であること、反コミュニケーション主義であることとは何か。てめえの体を使って考えていく予定(8月17日)。
□音楽カメ更新。にせんねんもんだいのサイトなどを追加した。はなれも 同時更新(7月19日)。 □放っておくとすぐに不備が出る「しょもつひらさかひらおよぎのアンテナ」にメンテナンスを施し、『週刊読書人』のサイト、高円寺円盤スケジュールを追加(5月4日)。 □トップページを若干更新(4日)。 |
| 8/2 Mon さまざまな遍歴 |
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<『ドン・キホーテ』を読みだした唯生が眠れなくなってしまったのは、この書物が滅法おもしろいものであるからという理由もたしかにあるが、より彼を睡眠から遠ざけることになったのは、物語を読みすすめてゆくうちに、主人公のドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが眠らない人物であることを知ってしまったからだ。>(阿部和重『アメリカの夜』講談社文庫)(→amazon) <この「ドン・キホーテ的」という語は今では、まったく好き勝手な意味合いで用いられている。本当は「妄想にかられた」、「自己催眠にかかった」、「現実と衝突して芝居をする」というような意味であるべきなのだ。それなのに、どのようにして「みごとに理想主義的」という意味を持つように至ったのか−−その点をナボコフはこの講義で解明しようとしている。>(ガイ・ダヴェンポート「解題」ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフのドン・キホーテ講義』晶文社)(→amazon) <「誰か、ですって?」と、床屋が応じた。「あの方こそ世の恥辱を濯ぎ、不正を正し、女たちを庇護し、巨人たちの度肝を抜く歴戦の勇士、その名も高きドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ殿よ。」>(『ドン・キホーテ前篇』第53章) 小林信彦の『面白い小説を見つけるために』(知恵の森文庫)(→amazon)や金井美恵子の『目白雑録』(→amazon)をつづけて読んだせいで、小林氏の言う、<登場人物とともに長い人生を生きたと実感できるような小説>を無性に読みたくなった。3巻の初めで中座して2、3年になる牛島信明版『ドン・キホーテ』(岩波文庫)(→amazon)を棚をひっくり返して2時間かけて探し出し、なかなか進まないベールイの『ペテルブルク』上巻(講談社文芸文庫)(→amazon)と併読している。 『ドン・キホーテ』といえば、騎士道物語の読みすぎで、自分が遍歴の騎士であるという妄想に取りつかれてしまった男の風変わりな冒険の物語である。こう書くとまるで10年前のライトノベルのようだが、この小説は決してライトノベルというジャンルには実現できない表現をしている。それは「何を書くか」以上に「どう書くか」について(無意識であったかもしれないが)力が注がれているということである。 『ドン・キホーテ』を紐解く現代の読者は、まず登場人物たちのとても長い会話に圧倒される。ドン・キホーテの語彙を尽くして自分の狂気を正当化する大演説や狂気と現実をふらふらと行き来するサンチョ・パンサのファニーな言葉は、現代の小説ではほとんど見ることのできない、異様なまでのドライブ感を持っている。それがなんら新しい発見や知的刺激をもたらさなくても、読むことはそれ自体が楽しさに満ちている。『ドン・キホーテ』が現代の読者に教えるのはまずそういうことだ。 これが特別良い例だとは思わないが、一つ好きなところを引いておこう。滔々と流れるラ・マンチャの郷士の呪詛の言葉と、怯え方もコミカルなサンチョ。 <「おお悪辣などん百姓、性悪な無作法者、口のきき方を知らぬ虚け者、傲岸不遜な恥知らず、中傷好きの陰口屋! よくも拙者の面前で、またこれらの高貴な御婦人方の面前で、そのような下劣な言葉を吐きおったな! よくもまあ、おぬしのどんよりと濁った頭でそのように不埒な、はしたないことを考え出したものよ! さあ、拙者の前から消えうせろ、このできそこないの怪物、嘘の貯蔵庫、いかさまの保管箱、悪意の土蔵、恥辱の創作者、醜聞の触れ役、貴人に対する礼儀の仇敵め!………」 こう言いながらドン・キホーテは眉をつりあげ、頬をふくらませ、四方を睨めまわし、さらに右足で地面を一回、どしんと強く踏みしめたが、それらはすべて彼の腸が煮えくりかえるほどの憤怒のあらわれであった。………サンチョは、すっかり怯えて縮みあがってしまい、その瞬間にも足もとの地面が大きく開いて自分を呑みこんでくれたらありがたいと思うありさまだった。>(前篇46章) セルバンテスが遍歴の騎士とその従士に与える旅は、打倒すべき君主も、恐ろしい怪物も現れない、平凡なものにすぎない。文庫本で1200ページ前後にもなる前篇を通しても、二人は旅籠だとか野原だとかを往来するばかりで、大して遠くに移動するわけでもない。ラノベ作者ならこの旅をもっと波乱に満ちた、予測不能なものに仕立てることは難しくないだろう。 しかしながらキリスト教徒の大義を守るための海戦で左手を失ったこの作家は、それをしない。彼は異形とも言えるほど発達した「書くための筋肉」を持っていた。書くべき出来事がいくら平板であってもものともせず、ドライブ感のある文章を連ねて、読者を飽きさせることがない。 <そしてこの『饗宴』が、「青帯」よりも「赤帯」にふさわしいと思われたのは、そんなふうな気持ちにさせるためではないかと思った。その面白さが「実に小説的」だと思われるのは、そういう錯覚を起こさせる仕組みにあるのではないか。> <しかし、それにしてもプラトンは何故こんなにややこしい書き方をしたのだろう? 何故(例えば『ソクラテスの弁明』のように)、直接ソクラテスに語らせなかったのだろう? 何故「対話」の中に二重、三重の対話をはめ込んで、そういう仕組みの奥の方からソクラテスの言葉がきこえて来るような構造を作ったのだろう? 何故そういう方法を使ったのだろう? これは、一小説家であるGにとって、まさに興味の中心であり、何としてでも知りたいと思わずにはいられない秘密だった>(後藤明生「饗宴」『汝の隣人』河出書房新社) 後藤明生はプラトンの論文が持つ、複雑な語りの構造に小説的な面白さを感じ、影響を受けた。『ドン・キホーテ』は、それほど複雑な構成を持っている訳ではないが、現代の小説にない、漱石の『こころ』のような「バランスの悪さ」を持っており、それが小説に厚みを与えている。 最近はそういうことも少なくなったけれど、だれかと小説の話をしていて好きな小説を褒める時、自分は「厚みのある小説」という言葉をよく使ってきた。それはどういうことか。『ドン・キホーテ』を例にすれば、うまく言えるかもしれない。 『ドン・キホーテ』はいくつかの短編を内包した長編である。しかしながら個々の短編はなんの繋がりも持たず、かつ本筋の物語ともあまり関係しない。前篇32章でドン・キホーテらは宿屋に到着するが、大元の物語はそこで一旦休止し、33章から35章までは、司祭がサンチョ・パンサら宿屋の人間たちに暇つぶしのために読んで聞かせるという形で、『愚かな物好きの話』という小説が挿入される。アンセルモとロターリオという親友同士がアンセルモの妻カミーラをめぐって悲劇的な別れをとげるこの物語は、小説の中の小説としてはいかにも長いし、唐突にはさまれる。しかもその後の大元の物語とほとんど連関するところがないし、伏線になっている訳でもない。同様に、<捕虜>がアルジェから脱走してきた自分の身の上を語る39章から41章も、『ドン・キホーテ』の本筋自体とはほとんど関係しない、独立した読み物になっている。 こういったことは、現代の小説では滅多にない。しかし読むことが自体が快楽を生み出すこの物語において、これらの挿話は読者の障害にはならない。 『愚かな物好きの話』も<捕虜>の身の上話も、誰かが他人に語って聞かせるという形で浮上してくる。『ドン・キホーテ』には、なぜだかとにかく面白い物語で他人を喜ばせようという人が多く現れる。51章で唐突に出現した山羊使いもそうだ。この男は山羊使いとなる以前は、レアンドラという金持ちの娘をめぐって、奇しくもアンセルモという名を持つ友人と恋の鞘当をしていた。二人のみならず、他の村の男たち、ひいては村の周辺の男たちからも求婚されていたレアンドラは、しかしながらイタリア帰りの伊達男に篭絡され、山の洞窟に捨てられてしまう。あわれレアンドラは修道院に、二人は村を捨て羊飼いに…という話なのだが、前篇のクライマックスに来ても悠長に挿話を繰り出してくるこのマイペースぶりはなんなのかと、21世紀の読者はあきれて笑ってしまったのだった。下の文章なんかは清涼院流水を400年先取りしているようで面白い。 <あげくの果てに、アンセルモとわたしはいっしょに村を出てこの谷にやってくることにしたのです。ここで彼は彼自身の所有になるかなりの数の羊を、またわたしも自分の群をなす山羊を飼いながら、樹木のあいだで日々をおくり、おたがいに悲哀を慰めたり、いっしょに歌いながら美しいレアンドラを称えたり恨んだり、はたまたひとり離れて、ため息をついては天に向かって愚痴をこぼしたりしています。ほかの多くのレアンドラの求愛者たちも、われわれにならってこの険しい山地にやってきて、われわれと同じことをするようになりましたが、その数があまりにも多いものですから、このあたりは羊飼いと家畜の囲い場だらけになり、まるで牧歌的なアルカディアになってしまったかのようです。> <要するに、皆がみな彼女のことをけなしながら、それでいて恋い焦がれているというわけです。そして熱狂が高ずるあまり、中にはレアンドラと口をきいたことさえないのに彼女の冷淡さを怨んだり、さらには、彼女が誰に対しても抱かせるはずのなかった嫉妬という恐ろしい病いに苦しんで身を焦がしたりする者もいるという始末です。>(前篇51章) 誰かが人に何かを語って聞かせる。考えてみると、告白体や書簡形式というような、地の文が読者に直接語りかけてくるような小説に自分はフェティシズムを感じている。後藤氏をはじめとして、佐川光晴(『生活の設計』) (→amazon) 、佐藤亜紀(『戦争の法』、『バルタザールの遍歴』(→amazon) 、そして一番チャーミングな『モンティニーの狼男爵』(→amazon))、太宰治、あと少しずれるがヴォネガットの小説への強い気持ちは、根っこの部分で多少つながっている気がする。むかし、<本当の事を云おうか>という詩があっというけれど、自分だけに本当のことを打ち明けてくれる感じがするからという理由ではない。もっと素朴な、語りのメカニズム自体に自分は惹かれるのだ。 で、『ドン・キホーテ』だが、この小説を会話の部分と会話でない部分で分けていったら、おそらく良い勝負になるだろう。ロターリオとアンセルモの物語も読んで聞かせているのだから会話なのだと言ってしまえば、いっそう伯仲してくるだろう。要は『ドン・キホーテ』は会話による小説であり、語り部が物語を物語る時のドライブ感やワクワクする感じをそのまんま封じ込めた小説だと言える。ブッキッシュの極みであるドン・キホーテを主人公とする物語としては不思議かもしれないが、そうなのである。もう一つ言うと、ドン・キホーテは読んできた物語を、自分の大演説の中でつぎつぎと引っ張り出して、何かの例に出したり、苦境の解決策としたりする。後藤明生は「読んだ」上で「書く」千円札文学論を提唱したが、ドン・キホーテはそれを地で行く、「読んだ」上で「喋る」人なのだ。 この文章は特にテーマもなく、行ったり来たりしているが、そのつもりで書いているからいいのだ。でないと『ドン・キホーテ』のふくよかなおなか周りを包み込んでいくことができない。 『ドン・キホーテ』に詰め込まれているのは短編だけではない。山羊使いの章の手前・47章で、聖堂参事会員が登場するが、ここは前篇のハイライトだろう。ここで聖堂参事会員は、憂い顔の騎士を妄想から解放しようとして、まるでセラピストのようになって論理的な説得を試みる。ここでかわされる会話の応酬は、もう小説というよりは批評である。しかもテーマはいまでも言われているような普遍的なものだから面白い。 <実を言えば、司祭さん、わたしも騎士道物語と呼ばれる書物は社会にとって有害だと思っているのですよ。これまでにわたしも、暇をもてあました折の虚しい興味にかられて、印刷された物語のほとんどすべてを、出だしの部分だけは読んでみました。ところが、………どれもこれも似たりよったりで、いずれも同工異曲、このほうがあれより優れているとか、そのほうがこれよりましだなどということもないように思われたからです。わたしのにらむところ、この種の書き物あるいは作品は、………ただただ読者を楽しませようとするだけで教化しようとはしない、一般に軽薄で淫らな、ばかげた物語のことを指すのです。>(前篇47章) この後で展開されるのはリアリズム賛美であり、自然主義論であり、社会と個人を向上させるための文芸の待望論である。聞いたことのある内容が、聞いたことのない語り口で語られるのを読むのはとても楽しい。参事会員はこれだけ騎士物語を貶しておいて、なぜか優れた騎士物語のすばらしさを評価し始める。どうなっているのかと思いながら48章に入ると、参事会員が100枚以上の騎士物語を書いている日曜作家であることが自身の言葉によって判る。47章と48章が「批評」だとしたら49章は「論争」だ。ここでは騎士道物語がノンフィクションであると信じて疑わないドン・キホーテと、それが虚構であることを論証し、史実に基づいた伝記を読むことをすすめる参事会員の、言葉の応酬が繰り広げられる。ドン・キホーテの博学ぶりが遺憾なく披瀝される章でもある。 先に、『ドン・キホーテ』の形式はあまり複雑でないと書いたが、そうでもない。『前篇(一)』にある、訳者の故・牛島信明氏 による「訳注」を抜き出してみる。 <セルバンテスは、『ドン・キホーテ』の原作者として、アラビア人の史家シデ・ハメーテ・ベネンヘーリを設定し、自分を「第二の作者」と規定している。つまり、まずアラビア語の原典があり、それを(バイリンガルのモーロ人が)スペイン語に翻訳し、それを第二の作者たるセルバンテスが編集することによって成立したという技法上のからくりを用いているのである。ちなみに、架空の作者の設定というのは、『ドン・キホーテ』がパロディの対象としている騎士道物語において頻繁に用いられた手法であった。> この原作者→翻訳者→セルバンテス→読者という架空のルートは、前篇を読んだ限りでは技法的に成功しているとは思えない。後半になってどう変ってくるのか判らない。ぱらぱらめくっていたらつぎのような文章が見つかった。後篇では何かやってくれるのか。 <ところで作者はここで、ドン・ディエゴの家の様子を細大もらさず描写し、裕福な農民たる田舎の郷士の家にあるものをわれわれに教えている。しかしながら、この物語の翻訳者は、あれやこれやの細かな描写は黙殺したほうがよいと判断した。というのも、そうした描写は、味気ない些事に流れるよりは真実により力を注ぐべきであるという、物語の主要な課題に合致しないと思ったからである。>(後編18章) ほかにも作中にカメオ出演のように自らの影をしのばせたり、自身が書いた『ドン・キホーテ』以外の小説を作中に登場させたり、これこそメタフィクションのはしりだとか文学部の学生が興奮しながら持論を展開し始めかねない仕掛けが『ドン・キホーテ』にはある。<捕虜>のエピソードは、牛島氏の訳注によれば自身のアルジェでの捕虜体験に基づいて書かれているという。 短編小説と、批評とルポルタージュをそのたっぷりとしたお腹に内包した『ドン・キホーテ』の『前篇』をとりあえず読み終えた。これから後篇の三冊に取り掛かり、おそらく『ナボコフのドン・キホーテ講義』を待ちきれずに並べて読み始めるだろう。その先には牛島信明氏の『反=ドン・キホーテ論 セルバンテスの方法を求めて』(弘文堂)(→amazon)が控えている。何年か前、ROVOを見るついでか何かで京都で買った本だ。そしてその先はどうしよう。先週末に立教そばの文庫ボックスでまとめ買いした岩波の赤を読んでいくか。それとも停滞気味のナボコフ読書を再開するか。紙の上をあてどなく回遊するしょもつひらさかひらおよぎの遍歴は果てしない。『ドン・キホーテ』をめぐるこのだらだらとした文章もまだ続く(『贋作ドン・キホーテ』のことも書いておきたい)。 □銀座で『ライトノベル完全読本』(→amazon)、『サイゾー』8月号、『ユリイカ』8月号、『remix』9月号買う。 |
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| 7/18 Sun にせんねんもんだい『それで想像するねじ』レコ発 |
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□にせんねんもんだいの新譜「それで想像するねじ」発売記念ライブを見にO-NESTへ。
1組目、フロアで演奏するgroup_inouは大学生風の二人組。なんというか、若い。今日は俺はこんなもんじゃないのサックスの人と、もう一人のMCがゲスト参加していた。ヒップホップユニットなのだが、ターンテーブルを用いず、サンプラーをぎりぎり動かしてエレクトロニカ風のトラックを鳴らし、それにMCが自意識や閉塞感、外側と自分への苛立ちのようなものが渾然となって迸る、しかしそれでいて爽快感のあることばを吐き出し続けていた。見ていてやはりどうしてもイルリメを思い出してしまうが、しっかりと要所要所で持っていってくれるトラックと、ツンツンした不器用な若さを感じさせるラップが、荒削りではあるけれど刺激的だった。こういうラップトップやサンプラーを使った、文系なヒップホップをやる人はけっこう多いのだろうか。そのMCはuri gagarnというバンドもやっているそう。 NATSUMENを見るのは久しぶり。だいぶメンバーチェンジしたみたいで、トランペットとサックスをふくむ7人編成になっていた。いろいろな人物が好き勝手に動き回る長編小説を読んでいるようで、カッコいいけれど終わるとけっこう疲れた。A.S.Eはかなり孤高の音楽家の道を突き進んでいる。コントロールされたバンドの演奏ぶりには、彼が何度かライブで参加しているDATECOURSE PENTAGON ROYAL GARDENの影響を感じるけれどもちろんこのバンドはそれだけではない。 メンバーがケタケタ笑い、アルバムタイトルである「想像する」「ねじ」という言葉を言語実験のように繰り返す。それがこの企画の幕間につかわれたSEの一つ。なんとも人を食っている。そんなにせんねんもんだいはそのバンド名から、majikickかどこかにいそうな、控えめでちょっと浮世離れした実験音楽集団を連想していたが、かなり違っていた。NATSUMENの後に出てきたのはスリーピースの女の子バンド。この時点で予想は裏切られているが、よく見ると3人ともお面を被っている。お面といってもビークルのような愛嬌のあるそれではなく、大中に売っていそうな、YMOの『Solid State Survivor』のジャケットで3人と麻雀卓を囲んでいたマネキンに似た、どこか不吉な感じのするリアルな表情をしているやつだ。しかしまだこの時点では衝撃はない。 持ち場に着いた3人はノイズパンクっぽいインストを鳴らし始め、舌足らずでかわいらしい声でギターが「ねじねじねじねじ…」と繰り返す。これを5分から10分やってメンバー退場。今日は2セットやるということだったが、これで半分が終わったということなのだろうか、狐につままれたような感じで待っていると、お面を外して3人が再登場。ここからが持っていかれた。おれは度肝を持っていかれた。 こういう場合に音楽性が似ているバンドをただ列挙していく他に手段がないことに対して非常に無力感があるが、YEAH YEAH YEAHSや、Sonic Youth、Mogwai、gang of fourなんかを好きな人が聴いても驚きがあるだろうし、ROVOやOOIOO、kirihito、mono、Limited ExPress(has gone?)のような轟音や反復によってトランス感覚を生み出すバンドが好きな人も非常に刺激を受けるだろうと思う。オルタナを飛び越えたトランスミュージックだ。シンプルなのだが憑かれたように叩きまくるドラムには力があり、ギターとベースがそれについていく形で黒くてビリビリ来る反復フレーズをやり続けている。この不意の遭遇に対して自分は一切の防御を解き、横に揺れ、垂直に跳び、嬌声を上げた。 このバンドの中核はまちがいなく、わが子を食らうサトゥルヌスのように苛烈容赦ないグルーヴをつむぎだすドラム。150センチくらいしかなさそうな身の丈で、自分を取り囲んで押し潰してしまいそうなドラムセットを、客席から表情が見えないくらいの突っ伏した姿勢で叩きまくる。最後のコーナーを曲がったところで駿馬に鞭当てる名騎手という喩えは健康的すぎるか。気を失いかけながらもロボットを統御するアニメの主人公に似た、もしくはエロ編が書いていたので思い出したけれど、獣の槍に乗っ取られる寸前のうしおのイメージ。体毛が一度にワッと総毛立つ、壮絶なドラミング。 にせんねんもんだい、今月はじめのカモロックでも会場を圧倒させたようだ。主催の井口啓子さんの<地上に降りた最後のオルタナ・チャーリーズ・エンジェル>という評言がおもしろい。来月はUSツアーに出るので見られないけれど、9月10日にパニックスマイルとの対バンがあるからその時にまた見るつもりだ。 終演後、自分が見たものに対して、まだうまく飲み込めない、整理しきれいな状態でバースペースに上がってきた自分にさらに追い討ちをかけたのが彼女たちの物販である。そこにはドラマーのお手製だという、ヘンプっぽい素材やコットンで作られた「手提げバッグ」「マフラー」「ブラジャー」「針山」「ブリーフ」などが、今日のライブの主役であるはずの新譜の山を押しのけるように、机の真ん中に所狭しと並べられていた。物販の人に聞けば、ドラマーにとってこの手芸活動と音楽活動は「どっちも本業」であるそうで、おれはもう、頭がくらくらしてきました。この夏最大の収穫はとんでもないタマだ。 |
| 7/9 Fri | ||||||
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□あぶらだこのワンマンが1時間の長さだったことや金井美恵子の『目白雑録』刊行イベントで聞き役の野崎歓がぱっとしなかったことなど書こうと思っていたことはあるけれど、前者については書くべき人が詳しく書いているし、後者についても日高さんのレポートがあり、自分としてはトークイベント終了後のサイン会でもらったサインが、書籍の見返しの色によく合った上品な緑色だったことを書いておけばさしあたって問題はないのだ。ただ書いておきたいのは、『目白雑録』(→amazon)が面白すぎたためにそれを止めることができないのだというここまで何行かに亘ってやり続けた金井文体の下手な模倣についてのエクスキューズと、土曜日のMARITIMEのライブでもらってきた、shibuya-Oのスケジュール冊子をめくっていて知った、先週O-NESTで行われた下のライブを見られなかったことへの後悔だ。
7/3 SAT ペンペンズ&あふりツアー2004 オシリペンペンズ/あふりらんぽ/にせんねんもんだい/マーブルシープ/俺はこんなもんじゃない 絶対良いライブだったと思う。文学とちがって、ヤバいバンドは名前で判ってしまう。ちなみににせんねんもんだいは来週末見に行く予定である(またしてもネスト)。
コンビニ雑誌を立ち読みして選ぶというシンプルである意味で健全な時代(外資系CDショップの試聴機と、そこに佇むリスナー、というカジュアルなイメージで!)は終了した。今後はコンビニ雑誌においても、アイドル写真集などと同じ、ジャケ買いの時代がやってくる。つまり表紙の写真とそこに載った少ない文字情報、そして自らの霊感を信じて雑誌を購入する、大衆決断の時代である。そこには買い手の雑誌を選ぶ眼力がいっそう重要になってくるにも拘わらず、それを磨く機会(つまりグラビアと接する機会)が減ってしまうという、まるで生活に窮するサラリーマンに、ある時突然「課税対象は給与の総額、即ち賞与も課税」という規則が課せられたかのような八方塞がりの困難がある。結果必然的に見込まれるのは、コンビニ雑誌ばなれする人々と一層の投資をする人々の出現であり、後者の男たちの購入後の悔恨の涙はドラム缶の一つや二つ、すぐに一杯にしてしまうだろう(夏目ナナの表紙に惹かれて『ウォーウルフ』を買ってしまった自分が既にそうである)。 ここでにわかごしらえの分析はしないが、エロ編が言うように、雑誌に封をしようが、未成年のエロへのアクセス可能性に変化はないことは確かだ。規制で激減するのは非健全な未成年の存在ではなく、自らにアストロン唱えたがごときなにものもうけつけない、装われた鈍感さで周囲の視線を遮断する立ち読み人たちであり、コンビニでエロに触れようという命懸けの跳躍をする果敢な青少年は、もとから立ち読みで本を選びはしないのだ、自分が生きて来たみぢかい人生の時間をかけてこれだというものを掴み、露骨に横を向きながら口元でな何かをつぶやきつつ、いちばん自分が大人っぽく見えるあらかじめ洗面台や風呂場で何日にも亘って研究した表情で、永遠とも思われるレジの時間をやりすごし、時間より速いスピードで町を駆け抜け、そして逃げ続けるのである。小五だか小六だかの夏、近所のちいさな商店街で『ドント!』が入ったビニール袋を持って走るおれがそうだった。 今回の条例改正にともない自主規制は、「青少年の健全な育成」には役に立たないだろう。青少年は最初ッから非健全な存在だから。ただコンビニからは飢えた眼の狩人たちが姿を消すだろう。そこで利を得るのは彼等の姿を見たくない健全な市民たちであり、不快なものには蓋がされ、また世の中は表面的に暮らしやすくなる。 自分はこのところ、すぐれた水着グラビアアイドルを生み出しているのは、健全な市民から疎まれるそのコンビニ雑誌だと思っている。行政や取次の目をおそれるあまり、雑誌全体に封をしてしまうという版元。その引け腰を非難する軽薄さは自分にはない。一つの雑誌でふたつも三つも袋とじがある不細工な雑誌も珍しくないという袋とじばやりなのだから、ヌードが載っているページだけを個々に袋とじにしたらどうかとか、エロへの批評的な問いかけとして、先鋭的な着エロ専門誌を小口止めなしでコンビニで流通させたらどうかとか、そんな冗談半分を言うのがせいぜいだ。願わくば、コンビニでのコンビニ雑誌の立ち読みに自由を。 □ゆくゆく、コンビニ雑誌の小口止めおよび青年・中年週刊誌からのヌードの締め出しは、折りからの着エロの流行と相まって、水着グラビアの過激化を生むだろう。そうした時に出来するのは、水着グラビアにおける「正統」と「異端」の二極分裂ではないか。水着グラビアがヌードの役目を代替することはないのだ。正統にも異端にも括れない、分類不能な中間層があってこその水着グラビア文化の爛熟ではないか。グラビア文化の衰退を危惧する。 □BEAT CRUSADERSの新譜のサンプルをいただいた時に、旧曲は当時の録音で入っていると聴いていたので、この「BE MY WIFE」は妙にピコピコしている、コーラスがそろっている、そしてヒダカのボーカルになんというか余裕がある、と不思議に思って二、三度聴いていたら新録だと判った。『FORESIGHTS』に入っているものと長さを比べてみると大体6秒くらい、『A PopCALYPSE NOW 〜地獄のPOP示録〜』(→amazon。CCCDだった)の方が長いのである。書いてみるとそれくらいのちがいに過ぎないのだが、聴くとなんかしっくりこないんだよな。その感じがまた面白い。 さて、その新生BEAT CRUSADERSだが、AXとロフトでの復活ワンマンを見逃し、満を持してO-NESTへ。DISMEMBERMENT PLANとpromise ringのメンバーが一緒になって結成した、MARITIMEと、OWENの来日ライブ。最終日のクアトロでの公演以外の全てに帯同するtoeと、後になって急遽出演が発表されたBEAT CRUSADERSが対バンとあって、非常に期待させる企画だ。しかしながら遅刻でtoeとOWENを見逃す。こないだのFROM THE MONUMENT TO MASSESの時よりずっと混んでいる(ビークルファンが多かったのだ。そしてヒダカの再三のMARITIMEリスペクト発言にもかかわらず、ビークルとそのファンは浮いていた)。 ヒダカという人に対して、ナンバーガールの向井秀徳に感じているのにちかい、人間への興味と親近感を持ちながら、遠くも近くもないところから自分はビークルの音楽に接してきた。ビークルビークルと言っているが、彼らのライブを見たのは一度だけだ。それは3年前、ニートビーツ、妄走族、54-71、氣志團を招いての「FORESIGHTS」レコ発ライブという「ほんとにこんなライブあったのか?」と記憶を疑うくらいの強烈な企画で、そしてそれは今現在から見た時に記憶に残るとか伝説的なとかいう形容で振り返られるということではなくて、当時、クアトロの階段をかけ上がり重い鉄の扉に手をかけていたその時すでにそれは伝説的なライブだったのだ(唐突だが金井美恵子が『目白雑録』に書いていた文章を思い出した。<……雑誌というのは一冊に一つでも読むものがあれば、買ってもそんなに損をしたという気分にはならないものなのだから、その程度に変えるのはそんなに困難なことでもないだろう。二つ、三つならお買得気分で知人たちに読むことをすすめるし、四つもあったら一年は捨てずに保存する、といったようなものだ。>「老いの微笑」)。メジャーとインディーズを攪拌するというような発言を最近ヒダカはしているが、彼のポップセンスと運動量は、そうしたありがちな発言を空疎に響かせない。 オープニングの音楽に合わせて登場した5人は、見事に統一性のない風貌だ。原始人が持っていそうな骨のデザインのヘアピンを付け(ヒダカによればバンド内でヘアピンがブームらしい。自分たちがやっているので来年には窪塚なども真似するだろうというMCは支離滅裂で笑った)、風貌もそんな感じのドラム(ex-GREEN MIND)、王子様的な衣装のギター(ex-FUNSIDE)、ラーメンマン風の辮髪に作務衣のようなシャツのシンセ(ex-MONG HANG。半分以上が演奏しないで踊っている。森岡賢のようだ)。ベース(toeの美濃も所属したpopcatcherのメンバーであり、新生BEAT CRUSADERSの音源二枚をリリースしたCAPTAIN HAUS RECORDINGSの社長であるクボタ)はいかにもベース然とした地味なバンドマンのなり。そしてソフトモヒカンのヒダカ。5人はもちろんお面で登場し、揃うとそれを脱いで客席に投げ入れるが、脱いだ下にもお面を着けている、というネタ。「テレビが来ているんでお面を被ったまま演奏します」というMCでライブが始まる。 今日のライブはインディーズ最後のライブということになるらしいが、メジャーと契約して変わったのは、流通や音楽性以上に、「お面が頑丈になっている!」ということではないか。真横から見ると、お面の部分はかなり丈夫そうな厚紙で、ヒモの部分も、ヒモというよりはベルトという感じで、頭の真後ろを通るのと、頭頂部にちかい辺りを通るのの二ベルトでガッチリ固定しているようだ。聞いたところによると、メジャーデビューに伴い、お面が所属するデフスターレコードの制作になったそうだ。3〜4曲やって、その後ははずしていた。 「寄る年波も年波なんで、そろそろ音楽で飯を食っていくことにしました」というヒダカ(36)。昨年のメンバー脱退の後、母親から電話がかかってきて、エイベックスのボーカルのオーディションを受けることをすすめられたというMC。「CHRISTINE」、「LOVE DISCHORD」、プロミスリングのと思われるカバー曲などを演奏し、ラストは「BE MY WIFE」だ。マリタイムを見に来ていた客は身じろぎもせずにやり過ごしていたが、大いに盛り上がった。終了後には 「なつかしい〜」という声も聞かれた。つぎは池之端か?あるいはサマーソニックか? MARITIMEはエモを通過した達観なのか、大人しい、幸福感あふれる穏やかなロックミュージック。集中力のないおれ、ステージによりも舞台袖に掴まって、携帯電話のカメラでMARITIMEを撮影するヒダカの動作や、その隣で無表情にステージを眺めていた、メンバーの恋人と思われるツイッギー似の白人女性に気を取られ続けた。 #インスピレーションと(読んで書く)コンビネーションの千円札遁走記。 山本夏彦『私の岩波物語』(文春文庫)(→amazon)、金井美恵子『目白雑録』(朝日新聞社)。
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