□気が付くと前回から半年経ってしまったが、ナボコフ熱が衰えたわけではない(しかし一区切り付いた、という感じはする。『アーダ』と『青白い炎』はもう一生手に入らないのではないかという気もする。そういう状態だから先週久しぶりにEasySeekで検索をかけたら上下揃いの『アーダ』が6000円で6月に出ていて、しかしながら速攻で売約成立していたのを見つけて酷く落胆した)。半年の間には、ナボコフ協会の大会に参加させていただいたり、『ナボコフの1ダース』(サンリオ文庫)を読んでナボコフの短篇を味読するには自分はまだちょっと経験値が足りないのではと肩をおとしたり、何冊かのナボコフ本を新たに手に入れたりとそれなりにいろいろあった。でも今日は、読み終えたばかりの『魅惑者』(出淵博訳,1991年,河出書房新社)について書く。
『魅惑者』はナボコフの没後に刊行された中篇。邦訳版ではまず、「作者覚書一」「同二」「本編」が並び、その後にドミトリ・ナボコフによる「『魅惑者』という題の本について」、そして出淵氏による「訳者あとがき」が収められている。特にドミトリの文章は、本編に匹敵するほどのボリュームで、資料的価値が高い。それによれば本書の原型である"Volshebnik"は、80年代の初めにナボコフ研究の第一人者、ブライアン・ボイドによってナボコフ家の文書の山の中から発見されたという。その未発表稿をドミトリが英訳、86年に刊行し、「ヴォルシェブニック」は"The Enchanter"となって初めて日の目を見ることになった。
このみじかい小説が注目に値するのは、本書が『ロリータ』のプロトタイプと呼べる作品だという点にある。『ロリータ』で、ハンバート・ハンバートが幼いロリータに狂おしい熱情を抱いたように、『魅惑者』でもペドフィリアの主人公が、12歳前後の少女に心を奪われ、人の道を外れていく。ナボコフの小説について、あまり粗筋をくどくど言うのは野暮だけれど、もう少し細かい部分でも類似点は多くある。主人公が少女に近づくために、未亡人である彼女の母親と結婚し、直後に母親が死亡し、葬式など万事障りなく済ませた後で少女と二人で車で旅に出、やがて破滅がおとずれるというところまで、両作の基本ストーリーは似ている(『魅惑者』では少女の母親が、娘の危機を察知することなくわりと幸せに死ぬというところとか、相違ももちろん多いが)。
その辺りの比較は出淵氏の「訳者あとがき」に詳しい。このあとがきにしては長めの文章は、独立したナボコフ論としても出色のものだ(氏の<読みの切れ味>については、氏の葬儀での弔辞で丸谷才一が語っている。『挨拶はたいへんだ』(朝日新聞社))。『ロリータ』において、キルティ殺しと大人になったドローレス・ヘイズに出会うシーンは、ハンバート・ハンバートの妄想ではないかという読みが一部にあるというのは驚いた。漱石の『こころ』論争ばりのアクロバティックなテキスト読解だ。ナボコフと記憶や時間という概念の結びつきについてはよく言われているが、作品の引用からナボコフの「時間観」を導き出しているのも勉強になる。自伝『記憶よ、語れ』にはまだ手を着けていないから、ベルリン時代にボクシングやテニスの先生までやって生計を立てていたとか、奥さんのヴェラとはエキストラ出演した映画の撮影で出会ったとかいう記述には驚いた。未完の長篇『ローラ』が読める日は来るのだろうか。
…なんだかあとがき評のようになってしまった。何しろ210ページちょっとの『魅惑者』日本版のうち、本編は約半分程度しかないのだ。自分が面白いなと思ったのは、『魅惑者』で、少女の家で主人公と少女が二人きりになる場面がある。男の妄想と情欲について少女はまったく気づかずに窓辺に立って、家の前で起こった交通事故の様子を見ている。男は事故を覗くふりをして少女に後ろから近づく。
<「ああ、事故(アクシデント)だ。……タクシー衝突(タクシ・デント)だ」と彼はつぶやき、彼女の頭ごしに虚ろな窓を覗くふりをしたが、その絹のような頭頂部に小さな雲脂(ふけ)の塊りだけが見えた。>(カッコ内は、作中では読み仮名として書かれている)
この文章には、言葉あそびと、美しいシーンや愛すべきものの中に一点だけ、不浄な異物を挿入するというナボコフ作品の二つの特徴があらわれているが、タクシーに関する印象的な言葉あそびは、『ロリータ』にも登場する。最初の妻ヴァレリアに、ハンバート・ハンバートは次第に幻滅と憎悪の気持ちを強くする。8章はヴァレリアがロシア人の男と一緒に、ハンバート・ハンバートの元から遁走するシーンが書かれる(佐藤亜紀は8章を独立した短篇としても十分読めると評したが、この章は『ロリータ』でも傑作なパートのひとつだろう。『ベンドシニスター』ばりの理不尽に遭遇したハンバート・ハンバートが滑稽すぎる)。ハンバート・ハンバートはヴァレリアに浮気を告げられるが、タクシーの中でヴァレリアが指さしたその浮気相手というのは、他ならぬタクシーの運転手だった。
<苦心のフランス語に、ひどいアクセントをつけながら、彼は娘ほども年のちがう妻ヴァレリアと、これから手に手をとってはじめるはずの愛と仕事の生活を描き出してみせた。><「たぶん彼女は『ジャン・クリストフ』なんか気に入るんじゃないですかね?」などと彼は言った。いや、まったくこの男は、この「運転手」(タクソヴィッチ)氏は、大した学者だった>(カッコ内は、作中では読み仮名として書かれている)
愛してもいないヴァレリア(愛していた?)とその間男から受けた恥辱を押さえようとして、二人を見下したように皮肉っぽく顛末を描写しようと努めながらも、ハンは怒りと動揺を隠せない。というか、滑稽なほど丸見えだ。しかも彼はそのドタバタから何年も経ってから、おそらく獄中でこの部分を書いているはずで、未だに思い出すだけで腸煮えくり返る、という感じである。ロシア人の運転手だからタクソヴィッチ、というやや侮蔑的な言葉あそびもたぶん、その感情の延長にある。しかも日本人からするとこの言葉には、「クソ」も入っていれば"bitch"も入っているし(名前にヴィッチのつくみなさんごめんなさい)、なおのことパンチが効いている。
ハンバート・ハンバートに名前をわすれた運転手をタクソヴィッチと命名させたナボコフは、約10年前のヴォルシェブニックで用いた「タクシ・デント」を意識していたのだろうか。ヒントになるか判らないが、タクシー運転手は『魅惑者』にも登場する。少女の母親の死後、少女を連れて別天地を目指す男はタクシーで移動するのだ(『ロリータ』では自家用車)。興味深いことにドミトリ・ナボコフは「『魅惑者』という題の本について」でこの運転手を、<クレア・クウィルティを予見させる胡散臭い運転手>と書いている。
これらの3台のタクシー(1台目は実在しないが)が示すものは、安逸から危機、自尊心の急激な崩壊、楽園から地獄、という「天国から地獄」的な、主人公の予期しない急激な降下ではないだろうか。『魅惑者』で、男は「タクシ・デント」なる駄洒落を口ずさみながら少女を抱きすくめようとするが、直後に少女の母親が帰宅し、彼は大袈裟で不自然な動作で彼女を迎える(あとにはふくらはぎに、<痛みを伴った、欲求不満の疼くような無力感>だけが残る)。『ロリータ』では浮気についてじっくり追及しようと、わざわざ乗ったタクシーが実は当の浮気相手の車で、しかもそれに乗って妻が去っていってしまう。『魅惑者』の2つ目では、少女との甘い生活が海辺の街で待っていたはずが、タクシーが導いた山中のホテルで男の計画と人生は水泡に帰す。タクシーが出てくるとロクなことはない。主人公の期待を突然に破壊して去っていく凶々しい存在としてのタクシー。
多少強引だが、そこまで来ると『ロリータ』『魅惑者』におけるタクシー像は、『ロリータ』においてドローレス・ヘイズを悪漢ハンバート・ハンバートから奪還する勇者であり、結果的にハンバート・ハンバートを刑務所に送ることになるクレア・キルティと極めてちかいものだと考えられる(ドローレスのみならず読者までがそれに気づいているにもかかわらず、ハンはキルティの接近に鈍いほど気づかない)。ドローレス・ヘイズに再会したのち、キルティ殺しに向かうハンバート・ハンバートには、十分な殺しの必然性が見えない。しかし前世としてのヴォルシェブニックからつづく宿縁を断ち切るために、『魅惑者』からつづく負債を返すためにハンがキルティ宅に向かったと考えれば、多少気持ちは変わってくる。ドミトリはややしつこいほどに二作の共通性を否定しているが、確実に『ロリータ』には『魅惑者』のこだまが響いている。たとえヴォルシェブニックがナボコフの記憶の底に沈んでいたとしても、自分にはそう思える。
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