<ナボコフ日記>

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第17回 モントルーの過激な訪問者 (2003年9月1日)
コンビニで『週刊文春』9月4日号を拾い上げて、いつものようにまず坪内祐三の連載を開いたら、ロバート・エヴァンズの『くたばれ!ハリウッド』(文春文庫) →amazonを取り上げていた。エヴァンズという人のことは寡聞にして知らなかった。ヴァージンシネマズ六本木ヒルズへの呪詛で始まるこの文章で、坪内氏はこう紹介している。

<伝説の、というのは、若くしてパラマウント映画の製作責任者となり、『ローズマリーの赤ちゃん』、『ある愛の詩』、『ゴッドファーザー』といった話題作を送り出し、しかし八〇年代に入り薬物スキャンダル、『コットンクラブ』の大コケや殺人事件への関与などによってどん底を味わい(一千百万ドルあった年収がたった三十七ドルにまでなった)、そしてその後また巻き返しつつある、ロバート・エヴァンズは、そんな人物なのだ。>

それから別な本屋に行って、意外に分厚い『くたばれ!ハリウッド』を何の気なしに立ち読みすると、突然ナボコフの名前が飛び込んできた。

66年にパラマウント社の若き製作責任者となったエヴァンズは、実は『マルゴ』(『くたばれ!』では『闇の中の笑い』と表記されている)<お気に入りの五冊>に入れるほどのナボコヴィアンだった。そんなエヴァンズに、ナボコフが新作の草稿を書き終えたという連絡が入ってくる。この章の最後の段落で明かされるように、この<新作>とは『アーダ』のことなのだが、いち早く草稿を確認し映画化の権利を得るために、エヴァンズはLAから飛行機に乗る。行き先はもちろんスイスのモントルー・パレスホテル。ナボコフ晩年の居城である。

<およそ二日間一睡もしていなかったので、どうにか気を引き締めようとした。奥行き六十メートル余りもあるがらんどうも同然の食堂を歩いていくときは、すっかり畏怖の念に打たれていた。そこには巨匠、ウラディミール・ナボコフそのひとが奥さんとすわっていた。自己紹介し、いっしょにモーニングコーヒーを飲んだ。>

若いエヴァンズ(『アーダ』出版は1970年のことである。時期的にエヴァンズがスイスを訪れたのは、同年乃至その前年のことではないか)はそこで、まだ疑い半分の二人から、<旅行鞄より重>い新作の原稿を手渡される。これを自分の部屋に帰って読む場面がすばらしい。ナボコフ読者なら誰でも経験のある、あの先に進もうにも進めない痛痒感、あれが数十倍に膨れ上がったような感覚がページに充満している。だってこの読書は研究のそれでも道楽のそれでもない。よりによってテキストは、難度Aと言ってまちがいのない『アーダ』であり、エヴァンズは可及的速やかに読了してナボコフと契約する必要があり、しかも酷いことに、エヴァンズは<二日間一睡もしていな>いのだ!

<ホテルの部屋に入った。眠るためではなく読んで読んで読みまくるためだ。一つ問題があった。何を読んでいるかわかなかったのだ。時差ぼけかな? わたしは当時人気のあったアンフェタミン、デクサミルを飲んだ。役に立たなかった。何を読んでいるのかはまだわからない。興奮しすぎて眠ることもならず、かといって書かれていることを把握するにはぼうっとしすぎていた。顔に冷たい水をかけることからブラックコーヒーを一ガロン飲むことまで、脳細胞を活性化させておくためにあらゆることをやった。その晩十時にようやく読み終えた。冷たいシャワーを浴び、鏡に映った自分を見て叫んだ。「なんてざまだ、エヴァンズ。ついに大物をつかむチャンスだというのに、内容がさっぱりわからないじゃないか」
 今や眠らないまま七十二時間目に突入しようとしていたが、九百数ページをもう一度読み返した。拷問だった。自分の理解力のなさに腹が立つあまり、ベッドから下りて何度もドアに頭を叩きつけた。>
(200ページ)

長文の引用ですみません。これはもうテキストとの血みどろの格闘である。しかも読後にナボコフと再謁見しなければならないというのがハードすぎる。それはシャブも呑むだろう。結局エヴァンズは、一度読んでも理解できないものは自分には向かないと結論し、『アーダ』のバイイングを辞退する。帰国したエヴァンズは、良い報告を待っていた上司に、それが映画化に適さないものであることを懸命に説明するのだが、彼を嗤うようにその二週間後、『アーダ』はコロムビアによって、100万ドルという空前の金額で買われてしまう。そこに来て自分は「えっ?」と驚いてページをめくる。

< 四半世紀を経て、ナボコフの小説は映画化されなかったばかりではなく、脚色もされていない。あれを理解できる脚本家が一人もいなかったのだ。熱狂的なナボコフ信者にしても同じだった。コロムビアの連中も理解できなかったに決まっている。彼らはおよそ間違った理由であれを買ってしまった。……最高に金のかかったスター信仰だ。>

歴史が証明したように、ヘロヘロのエヴァンズが行ったのは正しい選択だったのだ。

#ナボコフ作品を原作とする映画については、富士川義之の『ナボコフ万華鏡』がやはり詳しい。これによれば2000年の『愛のエチュード』まで、8つのナボコフ映画が作られている。そしてこの中にはもちろん、『アーダ』を原作とする豪毅な作品の姿はない。



第16回 ナボコフズ・ビューティフルシーナリー・オーヴァー・ザ・ウィンドウ(2002年7月16日)
□前回書けなかったことを少し書く。風景や人物に関する描写は、書き手の技量が高くとも、長くなるほど退屈になりがちだ。しかしナボコフは言葉を駆使して、ありきたりな風景ですら驚くほど活き活きとした新世界に描き換えてしまう。自分が見ている世界と他人が見ている世界はこんなにもちがうのかと、ナボコフは読者を俄か現象学者にさせる。中でも自分が好きなのは列車の車窓から見える光景の描写だ。たとえば『魅惑者』ではつぎの部分(ちなみにこれは男の空想です)

<電柱がヴァイオリンの駒のように、痙攣した喉音を立てて飛び去ってゆく。車両の仕切り壁の鼓動が巨大に膨れ上がる翼の羽搏きのようだった。二人だけで、はるかな国に住もう。時には丘に、時には海辺に。未開人のように裸がごく自然な習慣になってゆく、温室さながらの暖かさのなかで、ただ二人きり(召使も傭わず)、誰にも会わず、永遠の子ども部屋に住んで。>

引用部は途中から妄想になってしまうが、要は最初の二文のことだ。ここを鈍行列車のような遅読で通り過ぎたとき、『ナボコフの1ダース』(サンリオ文庫)にも同じように印象的な列車のシーンがあったことを思い出した。

<その窓の外で電線が――黒々と細い電線が六本、斜めに上がったり高く空に昇ったり、電柱がやってくるたびピシャリとやられながら、たえず天に昇ろうとしていた。勢いよく調子づいて窓の上端にさわりそうになると、とくに手きびしくピシャリとやられてどん底に沈み、また初めからやり直すことになる。>(「初恋」)

自分はここは、文学史上最高の「列車の窓から見える電線を書いた文章」だと思うのだがどうか(半分冗談、半分本気)。しかもこの表現がすごいのは、高速で走っている列車から見ると電線の連なりは実際このように見えるのだけれど、それを懸命にたどっていくのは普通子供でしょう。つまりナボコフは「初恋」におけるこの風景を、「ナボコフ少年」の視点で書いているのだ。だから「初恋」の主人公が大人だったら、この描写もまた変わってくるだろう、ということだ。そういうもんかね、と首を傾げられそうだが、最初に引いた『魅惑者』の文章をもう一度ご覧いただければ、「初恋」の視点よりも『魅惑者』のペドフィリア中年の視点の方が、より洒脱で大人びていることを確認していただけると思う。

うーん、でもちがうか。「初恋」の主人公はナボコフ少年だけれど、語り手になっているのは間違いなく現在の作家・ナボコフだ。「初恋」は回想小説なのだ。

そのあたりはまた考えるとして、窓があってハイスピードで走るのは何も列車だけではない。『魅惑者』のタクシーから見える風景も引こう。この場面にいたっては、森がぴょんぴょん跳ねる!

< さあ、出発。彼は森を眺めた。その森は中腹から中腹へと波打ちながらぴょんぴょん片脚飛びをして近づいてきて、やがて勾配を滑り降り、道の行き止りで躓き、そこで跡切れて、消えてしまっていた。>

一刻も早く少女と二人で暮らせる楽園にたどり着きたいという焦燥と、あと少しで計画が完成するのだという歓びが、森に片脚飛びをさせ、蹴つまずかせたのだろう(#)。

また、ドミトリも示唆していた気がするが、この部分は主人公の末路を暗示しているようにも見える。『ディフェンス』を読んでいて自分は、主人公ルージン(初段)と作者ナボコフ(プロ)が「ディフェンス」というチェス戦をやっているように感じたが、別にナボコフの小説には筒井康隆が堂々とやってのけたように、直接「作者」が出現するわけではない。作者はちゃんと自分の書斎なりバスルームなりにいて、物語の上の階層に収まって作品を書いている。けれども上の引用のような細部に目を凝らすと、やはりそこには明白に作者が「いて」、男の運命、小説の結末を暗示するような記述の向こうで薄笑いしているように見える。あからさまなメタフィクションよりもより緊張感のあるこの微かな「作者の実在」が自分を夢中にさせていることは明らかだが、さて、これは単なる深読みだろうか?

#若島正はリチャード・パワーズの表現について、「猛獣使いが獣に火の輪くぐりをさせるように、ある名詞に本来むすび付きようがない動詞をくぐらせる」というように評した(6月9日の池袋ジュンク堂での新元良一のイベントにて。発言は大意です)。『ガラテイア2.2』はそれゆえに読み手に労力を要求する作品だが、この「猛獣の火の輪くぐり」的特性は、まさにナボコフについても言えるだろう。また、その点のみにおいてパワーズはナボコフの遺産を継承している。



第15回 ナボコフズ・タクシデンタル・テンデンシー(7月14日)  
□気が付くと前回から半年経ってしまったが、ナボコフ熱が衰えたわけではない(しかし一区切り付いた、という感じはする。『アーダ』と『青白い炎』はもう一生手に入らないのではないかという気もする。そういう状態だから先週久しぶりにEasySeekで検索をかけたら上下揃いの『アーダ』が6000円で6月に出ていて、しかしながら速攻で売約成立していたのを見つけて酷く落胆した)。半年の間には、ナボコフ協会の大会に参加させていただいたり、『ナボコフの1ダース』(サンリオ文庫)を読んでナボコフの短篇を味読するには自分はまだちょっと経験値が足りないのではと肩をおとしたり、何冊かのナボコフ本を新たに手に入れたりとそれなりにいろいろあった。でも今日は、読み終えたばかりの『魅惑者』(出淵博訳,1991年,河出書房新社)について書く。

『魅惑者』はナボコフの没後に刊行された中篇。邦訳版ではまず、「作者覚書一」「同二」「本編」が並び、その後にドミトリ・ナボコフによる「『魅惑者』という題の本について」、そして出淵氏による「訳者あとがき」が収められている。特にドミトリの文章は、本編に匹敵するほどのボリュームで、資料的価値が高い。それによれば本書の原型である"Volshebnik"は、80年代の初めにナボコフ研究の第一人者、ブライアン・ボイドによってナボコフ家の文書の山の中から発見されたという。その未発表稿をドミトリが英訳、86年に刊行し、「ヴォルシェブニック」は"The Enchanter"となって初めて日の目を見ることになった。

このみじかい小説が注目に値するのは、本書が『ロリータ』のプロトタイプと呼べる作品だという点にある。『ロリータ』で、ハンバート・ハンバートが幼いロリータに狂おしい熱情を抱いたように、『魅惑者』でもペドフィリアの主人公が、12歳前後の少女に心を奪われ、人の道を外れていく。ナボコフの小説について、あまり粗筋をくどくど言うのは野暮だけれど、もう少し細かい部分でも類似点は多くある。主人公が少女に近づくために、未亡人である彼女の母親と結婚し、直後に母親が死亡し、葬式など万事障りなく済ませた後で少女と二人で車で旅に出、やがて破滅がおとずれるというところまで、両作の基本ストーリーは似ている(『魅惑者』では少女の母親が、娘の危機を察知することなくわりと幸せに死ぬというところとか、相違ももちろん多いが)

その辺りの比較は出淵氏の「訳者あとがき」に詳しい。このあとがきにしては長めの文章は、独立したナボコフ論としても出色のものだ(氏の<読みの切れ味>については、氏の葬儀での弔辞で丸谷才一が語っている。『挨拶はたいへんだ』(朝日新聞社))。『ロリータ』において、キルティ殺しと大人になったドローレス・ヘイズに出会うシーンは、ハンバート・ハンバートの妄想ではないかという読みが一部にあるというのは驚いた。漱石の『こころ』論争ばりのアクロバティックなテキスト読解だ。ナボコフと記憶や時間という概念の結びつきについてはよく言われているが、作品の引用からナボコフの「時間観」を導き出しているのも勉強になる。自伝『記憶よ、語れ』にはまだ手を着けていないから、ベルリン時代にボクシングやテニスの先生までやって生計を立てていたとか、奥さんのヴェラとはエキストラ出演した映画の撮影で出会ったとかいう記述には驚いた。未完の長篇『ローラ』が読める日は来るのだろうか。

…なんだかあとがき評のようになってしまった。何しろ210ページちょっとの『魅惑者』日本版のうち、本編は約半分程度しかないのだ。自分が面白いなと思ったのは、『魅惑者』で、少女の家で主人公と少女が二人きりになる場面がある。男の妄想と情欲について少女はまったく気づかずに窓辺に立って、家の前で起こった交通事故の様子を見ている。男は事故を覗くふりをして少女に後ろから近づく。

<「ああ、事故(アクシデント)だ。……タクシー衝突(タクシ・デント)だ」と彼はつぶやき、彼女の頭ごしに虚ろな窓を覗くふりをしたが、その絹のような頭頂部に小さな雲脂(ふけ)の塊りだけが見えた。>(カッコ内は、作中では読み仮名として書かれている)

この文章には、言葉あそびと、美しいシーンや愛すべきものの中に一点だけ、不浄な異物を挿入するというナボコフ作品の二つの特徴があらわれているが、タクシーに関する印象的な言葉あそびは、『ロリータ』にも登場する。最初の妻ヴァレリアに、ハンバート・ハンバートは次第に幻滅と憎悪の気持ちを強くする。8章はヴァレリアがロシア人の男と一緒に、ハンバート・ハンバートの元から遁走するシーンが書かれる(佐藤亜紀は8章を独立した短篇としても十分読めると評したが、この章は『ロリータ』でも傑作なパートのひとつだろう。『ベンドシニスター』ばりの理不尽に遭遇したハンバート・ハンバートが滑稽すぎる)。ハンバート・ハンバートはヴァレリアに浮気を告げられるが、タクシーの中でヴァレリアが指さしたその浮気相手というのは、他ならぬタクシーの運転手だった。

<苦心のフランス語に、ひどいアクセントをつけながら、彼は娘ほども年のちがう妻ヴァレリアと、これから手に手をとってはじめるはずの愛と仕事の生活を描き出してみせた。><「たぶん彼女は『ジャン・クリストフ』なんか気に入るんじゃないですかね?」などと彼は言った。いや、まったくこの男は、この「運転手」(タクソヴィッチ)氏は、大した学者だった>(カッコ内は、作中では読み仮名として書かれている)

愛してもいないヴァレリア(愛していた?)とその間男から受けた恥辱を押さえようとして、二人を見下したように皮肉っぽく顛末を描写しようと努めながらも、ハンは怒りと動揺を隠せない。というか、滑稽なほど丸見えだ。しかも彼はそのドタバタから何年も経ってから、おそらく獄中でこの部分を書いているはずで、未だに思い出すだけで腸煮えくり返る、という感じである。ロシア人の運転手だからタクソヴィッチ、というやや侮蔑的な言葉あそびもたぶん、その感情の延長にある。しかも日本人からするとこの言葉には、「クソ」も入っていれば"bitch"も入っているし(名前にヴィッチのつくみなさんごめんなさい)、なおのことパンチが効いている。

ハンバート・ハンバートに名前をわすれた運転手をタクソヴィッチと命名させたナボコフは、約10年前のヴォルシェブニックで用いた「タクシ・デント」を意識していたのだろうか。ヒントになるか判らないが、タクシー運転手は『魅惑者』にも登場する。少女の母親の死後、少女を連れて別天地を目指す男はタクシーで移動するのだ(『ロリータ』では自家用車)。興味深いことにドミトリ・ナボコフは「『魅惑者』という題の本について」でこの運転手を、<クレア・クウィルティを予見させる胡散臭い運転手>と書いている。

これらの3台のタクシー(1台目は実在しないが)が示すものは、安逸から危機、自尊心の急激な崩壊、楽園から地獄、という「天国から地獄」的な、主人公の予期しない急激な降下ではないだろうか。『魅惑者』で、男は「タクシ・デント」なる駄洒落を口ずさみながら少女を抱きすくめようとするが、直後に少女の母親が帰宅し、彼は大袈裟で不自然な動作で彼女を迎える(あとにはふくらはぎに、<痛みを伴った、欲求不満の疼くような無力感>だけが残る)。『ロリータ』では浮気についてじっくり追及しようと、わざわざ乗ったタクシーが実は当の浮気相手の車で、しかもそれに乗って妻が去っていってしまう。『魅惑者』の2つ目では、少女との甘い生活が海辺の街で待っていたはずが、タクシーが導いた山中のホテルで男の計画と人生は水泡に帰す。タクシーが出てくるとロクなことはない。主人公の期待を突然に破壊して去っていく凶々しい存在としてのタクシー。

多少強引だが、そこまで来ると『ロリータ』『魅惑者』におけるタクシー像は、『ロリータ』においてドローレス・ヘイズを悪漢ハンバート・ハンバートから奪還する勇者であり、結果的にハンバート・ハンバートを刑務所に送ることになるクレア・キルティと極めてちかいものだと考えられる(ドローレスのみならず読者までがそれに気づいているにもかかわらず、ハンはキルティの接近に鈍いほど気づかない)。ドローレス・ヘイズに再会したのち、キルティ殺しに向かうハンバート・ハンバートには、十分な殺しの必然性が見えない。しかし前世としてのヴォルシェブニックからつづく宿縁を断ち切るために、『魅惑者』からつづく負債を返すためにハンがキルティ宅に向かったと考えれば、多少気持ちは変わってくる。ドミトリはややしつこいほどに二作の共通性を否定しているが、確実に『ロリータ』には『魅惑者』のこだまが響いている。たとえヴォルシェブニックがナボコフの記憶の底に沈んでいたとしても、自分にはそう思える。