なっちゃん/田中麗奈が切り開く「新しい萌え」

1.アイドル緋の革命と、日常に生きるなっちゃん

田中麗奈による「なっちゃん」の新しいCMは必見だ。ここには進化した新しい萌えの形がある。

街の商店街で、なっちゃんが歩きながら携帯で喋っている。服装もオフの日なのかシンプルだ。
「あさ早いんだー、明日。7:30?じゃあ電話で起こしてあげる。大丈夫、わたし朝強いんだから。おやすみなさい」。
相手は彼氏だろうか、↑のようなことを言って電話を切ると、急いで別のところに電話をかける。
「あ、もしもしおかあさん?明日ね、起こして。もう絶対だよ!」。

「なっちゃん」のCMシリーズの面白いところは、架空の新進女優なっちゃんが、CMが回を重ねるごとに、いろいろな失敗をやらかしながらも女優として、そして一人の女の子として成長していくという、今どきめずらしいビルドゥングスロマンになっているからだ。そして言うまでもないが、ここで描かれるなっちゃんと田中麗奈の姿は、視聴者の目に重なって映る。今でも田中麗奈をなっちゃんと呼んでしまう人はとても多く、田中麗奈は幸か不幸か、なっちゃんのイメージを未だに引きずっている。

冒頭のCMのどこが良いのか、文字ではうまく伝わらないと思うが、健気でかわいらしい女ごころが描かれてる点に、胸が締め付けられるような萌えを止められなかった。短い時間になっちゃんは彼氏(あえて断定する)、母親と電話して、けっこう畳みかけるように喋っているのだが、そのスピード感も心地良い。そして彼氏の役に立とうという健気な最初の電話と、母親にちょっとわがままに頼み事をするという2番目の電話の両方が、田中のイメージにぴったり合っているのも良い。

また、商店街で緑のシャツか何かを着てるなっちゃんは、今までの作品が比較的、撮影現場のなっちゃんを描いたものが多かったのに対して、「日常のなっちゃん」だ。特別オシャレしてたり特別ファンに手の届かない存在という気持ちを起こさせない、いつも安直にこの言葉を使ってしまうけれど、多分にヒロスエ的な女の子がここにいる。

そしてここが重要なのだが、ここでのなっちゃんは彼氏からの電話を受けているわけで、ここでは「純潔のアイドル」像みたいなものは一笑に付されている、というか、過去数十年に渡ってファンや事務所やメディアが強制してきた「純潔のアイドル」像を、彼女は軽やかに かわしている(この断定は、なっちゃんと田中麗奈の境界が受け手にとって曖昧であることを考えると、さして強引ではない。携帯でモーニングコールを約束しているのは、なっちゃんであり、田中でもある)。

90年代終盤になると、広末涼子やモーニング娘。、それにジャニーズタレントなど大物から、三田佳子邸の地下室の人まで、「アイドル」という職業を持つ若者たちが好き勝手に異性配合をやりまくっているというニュースは、私たちファンのところに、逐一報道されるようになった。もちろんそうしたアイドルの「男女交際」は、もちろん昔から頻繁にあったのだろうけれど、大手芸能事務所などは主要メディアに圧力をかけて処理したり、あとは教育や監視などで発覚を防いできたわけだ。しかし昨今のインターネットや『噂の眞相』などに代表される、様々なゴシップメディアの台頭によって、事務所の握りつぶしが及ばないエリアが生まれ、↑のようなウラ情報が逐一ファンの側に報じられるような仕組みができてしまった。これを盲信するのか、こめかみに青筋立てて否定するのか、それとも絶えず否定と肯定の境界を往来し葛藤しつづけるのかは受け手の自由ではあるが、90年代末、『週刊宝島』に寄せられた、たった数枚の「ヒロスエ、男と都内マンションで下着姿」写真によって、ファンとアイドルの蜜月時代はひとまず終わる。

つまりこの「なっちゃん」の新CMは、田中の笑顔の裏にこうした血塗られた歴史を暗黙に踏まえている。なっちゃんは、商店街での携帯通話に象徴される日常を生きることで、アイドルが勝ち取った血染めの自由を謳歌し、勝利を宣言している。

また、闘いの勝利宣言をする なっちゃんという女の子を田中麗奈が演じることは、もはや私たちにとって何の違和ももたらさない、言ってみればこれもまた日常の風景である。しかし裏情報を扱う雑誌やネットによって、ことごとく過去の「かわいい同級生」的なイメージを削り落とされ、スキャンダルで蹂躙され、アイドルの顔と日常の顔を使い分ける職業アイドル(というよりもはや映画・CM女優)というクールな認識をファンに持たれてしまったのは、広末涼子でも もちろんモーニング娘。でもなく、むしろ一番に田中麗奈ではなかったか。

田中麗奈の暴かれた過去について、万事の詳細を知っているわけではないが、ここで紹介せずに素通りすることはできない。田中麗奈の福岡時代が、初期の彼女のキャラクターにそぐわないものであったことはよく知られている。曰く、地元福岡時代からガラの悪いヤンキーとばかり親交があった、元カレが大学でレイプ罪で逮捕された、そのうちの一人と付き合っていて部屋に入れたりしていた、云々。文字にしてアップすると、我ながら根も葉もないゴシップ・中傷のたぐいに見えるが、これらは一般誌に報道されたこともあり、おおむねが事実として認識されている。

ネットと雑誌にガッチリ包囲された田中麗奈の過去に逃げ場はなく、これらの情報は芋づる式に暴き出された。話が逸れるが、そうした裏マスコミによる暴露から生まれた、言ってみれば田中麗奈の過去から産まれた鬼子のような存在が、2chの伝説的スレッド「田中麗奈の彼氏」である。ここには次々伝えられる田中のスキャンダルに動揺し、アイデンティティーの危機を感じた一人の田中麗奈ファンが、処女映画「がんばっていきまっしょい」ロケ地の海や、田中のふるさとを車で旅し、葛藤の中で現実に向かっていく過程と、それを見守る2ちゃねらーたちの心の交流が書かれている。

過去、映画「がっばっていきまっしょい」や「なっちゃん」CMでブレイクした直後、急激に田中麗奈はギャル化し大人の女性になった。その過程で、少なからぬ数のロリコンテイストの田中が好きだったファンは、一方的にファン切り離しを告げられた(その変化のさなかに撮影された田中の第一写真集『rena@19』(ワニブックス)は、その時期の田中にだけ立ち上った、もう戻らない一瞬の美しさが凝縮されている)。田中麗奈が自ら変わったのか、または環境の変化や激しい裏報道の中で変わらざるを得なかったのかは、本人にしか判らない。

2.新しい萌えへ

冒頭で「新しい萌えの形がある」と書いたけれども、言い換えるならこのCMには、「全てを諦めてしまった者の萌え」がある。芸能界という作りごとのフレームの中にいるアイドルに恋愛感情を持ったり、胸を締め付けられたりすることは、はっきり言ってくだらない。ある程度まで行くと救いがない。それでもアイドルは自分たちが作りごとの中で生きていることに触れず、私たちを温かく迎え、癒してくれた。そうした欺瞞的な構図が90年代末までのアイドルとファンの関係だったとすれば、田中麗奈のCMはそれを完膚無きまでに粉砕した。

しかし彼女はただの破壊の女神ではない。彼女はまだ粉塵立ちこめる荒れ野の中から新しい萌えを提案する。それは何も、「作りごとだと認識しながら、でも萌える」というような陳腐な萌えのことではない。言ってみれば、ファンを「画面からは見えない彼氏」に感情移入させてしまうという萌えである。

通常、アイドルがドラマなどで ある役がらの人間として振る舞うとき、ドラマの中には相手役の異性が出てくる。そしてアイドルと恋愛関係になり、それはたいてい恋愛以外に これといった主題無きドラマにおいて、中心的出来事になる。ここで熱心なファンは、自分の贔屓のアイドルとの疑似恋愛を愉しんだりアイドルに萌えたりするために、相手役の人物に感情移入するなり、頭の中で相手役と自分をすげ替えてみたり、いろいろな術策を弄する。しかし大抵の場合、それは難しく、ひどく虚しい。

なぜか。それはアイドルがアイドルであるように、相手役の男優女優もたいてい容姿が美しいからだ。相手役に乗り移ってやろうという私たちの切実な試みは、連中の顔やスタイルによってはじき返される。容姿端麗でモテまくってそうなやつに自分を置き換えてみたところで、現実感がないし、虚しいだけだ。ひどい場合、憎しみや妬み、絶望といったネガティブな感情まで浮かんでしまう。

だからアニメやゲームを除く(後述)映像メディアで恋愛を扱うのは、むずかしい。たとえば木村拓哉と松たか子がドラマの中で恋愛していたとして、私たちは2人にどう萌えればいいのだ? 感情移入しようが妄想しようが、この2人に一般人が入り込むスキがあるだろうか?(映像メディアであえてブスを扱おうという野心的なドラマは過去にいくつかあったが、菅野美穂かだれかを特殊メイクで太らせた作品なんかにしても結局「減量して恋愛に人生にサクセス」って結末だったと思うし、視聴者とドラマの溝は、なかなか埋まらない)。

一方、「なっちゃん」のCMにおいて、萌えの媒介となる彼氏はたしかに存在する。しかし、当の彼氏は「画面の中にはいない」。携帯電話を通じて、画面の外、存在するかも判らない虚無の世界から田中と通信(=関係)している。しかし彼には肉体がないくせに、きちんとCMの中で、2人の恋愛は成立しているのである。成立しているどころか、CMで描かれる恋愛のシーンはものすごくかわいらしくて、私は激しく萌えてしまう。田中麗奈ファンとしてもカラッとした気分で萌えられてしまう。ほほえましさまで感じてしまう。「姿なき彼氏」を媒介にしての自由奔放な萌え、これが私が新しい萌えと呼んだものだ。

言うまでもなく、私はこれをほとんど勢いで書いていて、いま読み返して気づいたのだが、実はオタク産業はすでに↑のような「新しい萌え」と私が呼んだものについて考えて、実践している。それはユーザーの名前を、キャラクターが実際に音声で呼んでくれる機能を搭載した恋愛シミュレーションゲームであったり、主人公の設定が冴えない人物だったりイタいオタクだったりする美少女ゲームに見られる(例外、つまり主人公がガタイや境遇も良くてモテモテだったりすることもある。しかしそういうエッチゲームでは、セックスに及んでいる主人公の顔にカゲが射していたり、顔の部分が画面から はみ出していたりすることが多い。つまりここでも、顔は萌えを遮蔽する悪として扱われている)。ユーザーを萌えさせなければハナから商売にならない分野、言い換えればビジネスと萌えが直結した分野は、萌えも先進的だと言える。

しかし例えばユーザーの名前を音声で画面の女の子が呼んでくれるという仕組みは果たして、どこまで有効だろう(制作者側の労力の高さと、その結果得られる萌えの総量は見合うか?)。それ以前に美少女ゲームに萌える人間はどうあっても大多数ではない。その点、「なっちゃん」のCMにおける、なっちゃんと「姿なき彼氏」の関係は、非常に効率よく私たちを萌えさせはしないか?

ここまで来れば選ぶべき結論はひとつである。私は、田中麗奈をまなざす媒介となるすべてのテレビやディスプレイから、すべての田中の擬似的(架空の)彼氏が消滅することを望む。しかし彼氏の存在自体は いなくなってはいけない。肉体を消失した彼氏は、メールや携帯電話、パソコン、人からの伝聞、風の便りなどを通して「姿なき彼氏」として、たえず物語の中に田中の彼氏として存在しつづけ、田中と恋愛しつづけ、その関係を通して私たちと田中麗奈を、より一層強固な萌えで結びつけなければいけない。特権階級から犠牲の羊へと引き下ろされなくてはいけない。そして驚くべきことにそのことは、物語内におけるアイドルの純潔を死守することにもつながるのである。


#捕捉:田中麗奈をアイドルと呼ぶのか女優と呼ぶのか、だれもはっきりしたことを言えないまま、ここ1、2年が過ぎているが、最近のアイドルトレカブームを通過したいま、私たちは次のように言うことができる。つまり「アイドルとは、それまでに何らかのアイドルトレカを出しているタレントを指し(マイナーな人は対象外)、出してないタレントはアイドルではない他の何か別のものである」。この定義にならえば田中麗奈はもう女優だ。それと、以前田中麗奈のオフィシャルページは、日記やムービーまで付いたすごくしっかりしたものがインフォウェブ内(ここ)にあったのだがもう繋がらず、かわりに規模縮小気味のもうひとつのオフィシャルが、今度はニフティのこっちにできている。たぶん移籍したということなんだろうけれど、非常に残念だ。

##読み返して気づいたが、この文章がまずいのは、前半と後半がそれぞれ全然違うことを言っているということだ。スキャンダルが隠しきれなくなったことでアイドルの処女性が重要ではなくなったことと、新しい萌えの出現の間には関係性がない。しかし、新しい萌えはアイドルの処女性を無化するのではなく、処女性を死守するという結末の意味では、2つは関連する。

###友人から<「あれはホントに彼氏なのか」という読み手の当然の疑問を括弧に入れては、「不可視の「彼」と視聴者との心的オーヴァラップ」という論旨も効果半減ではないのか?>というきちょうな指摘をいただきました。返す言葉が見つかりません(3月31日追記)。
 
 
 
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