赤川雑記録


私がセクシュアリティの社会学をやっている理由(1)


 三〇すぎて、ひょっとしたら人生残り半分しかないのかなあ、なんて思えてきました。まあ、「自伝」や「手記」を書くほどに人生経験積んでいるわけではないし、学者としてはまだまだこれからだと思っているのですが、私にとっての二〇代−−それは社会学とともに過ごした二〇代であったわけですが−−とはいったい何だったのかをいったん再確認しておく必要があるかなあ、という気もしてきました。そこで、これから何回かにわけて、私の知的バックグラウンドとでも申しましょうか、なぜに現在のような形で社会学の研究を行うことになってしまったのかについて、述懐してみたいと思うのです。


 私が「社会学」という言葉を知ったのは、高校生の頃でしょうか。現代社会の先生がわりとマニアックな人で、教科書はいっさい使わず、自分の手書きレジュメを毎回大量に使う授業をする人でした。そんな中に、ウェーバーやらパーソンズやらといった人名をみかけ、その人たちが「社会学者」として紹介されていたような記憶があります(まだ当時は、レヴィ=ストロースとかフーコーは教科書には登場しない。せいぜいサルトル止まり)。

 とはいえその頃、私は歴史学(日本史)に興味があり(といっても今から考えれば歴史好きの素人に過ぎなかったわけですが)、まあ地元の大学(=金沢大学)にいって高校教師にでもなれればいいか、なんて考えておりました。東大に入学したのも大した理由があるわけではなく、ま、どういう職業につくにせよ、日本の最高学府と言われている大学のレベルがどのようなものか体感しておくのも悪くないだろう、くらいの軽い気持ちでした。いま考えると、「何になりたい!」とかいう強い希望はほとんどなかったなあ。七倉園子(白線流しの酒井美紀)と同じですね(笑)。

 大学の教養科目に「社会学」があり、私がはじめて社会学なるものにふれたのはそのときでした。講師は見田宗介さん。『現代社会の存立構造』を基に淡々といろんな話をなさっていたのですが、私はほとんど聞いていなかった(=寝ていた)ような気がします。いまから考えると勿体無い話です。しかしそれでも、社会をトータルに語るというか、社会がいくつかの基本的な原理によってできており、その原理の組み合わせ方によって社会のバリエーションができてくるといったような物の考え方、つまり比較社会論的なモノの見方というものをずいぶん新鮮に感じたような記憶があります。「これは歴史をやる上でもけっこう必要な考え方なのじゃないか」、そんな感想を持ったような気がします。

 当時、東大には進学振分けという制度があり、1−2年は教養学部で過ごし、二年の中盤で3年以降の専攻を決めることになります。最終的には国史学科に行けばいいや、と考えていた私ではありますが、やっぱり自分の進路のことですから、それなりに真剣にならざるをえません。大学一年の時に何となく興味を惹かれた(その後『気流の鳴る音』なんかを読んじゃったりした)、社会学のゼミでもでてみようかなと思って出席したのが馬場修一さん(故人)のゼミでした。思えば、これが大きかった。フロムの『自由からの逃走』を輪読するのが基本なのですが、とにかく周りの連中がすごいのです。けっこう議論ができるというか、好きなこと話しまくっている、というか。歴史系のゼミに出て、慣れないくずし字を読むのにうんうん唸っていたのとは、ずいぶん異なる雰囲気でした(そういえば中世史の東島誠さんは元気かなあ。「こいつが国史に来るんだったら、勝てないなあ」と思わされたもんです。あと現代史では小池利明。いま何やっているのかなあ)。

 松本由紀子さんという、私と同期の、現在専修大の同僚でもある、優れた社会学者に出会ったのも、このゼミででした。彼女や福島弘明さん(現NHK)とも酒を飲みながらずいぶん議論したような気がするのですが、たいてい負けてました(笑)。まあ哲学的なことにも社会科学的なことにも素養がまったくなかったのだからしょうがなかったのですが。そんな中でも、たしか松本さんから、「社会学にいれば歴史もできるけど、歴史学にいったら社会学はできないよ」みたいなことを言われ、ああ、それもそうだなあ、と妙に納得させられたものでした。

 結局悩んだ挙げ句、社会学科を選択した私。いま考えると、あのメンバーともうちょっと議論してみたい、というくらいの動機だったのかもしれないですね。「構造機能主義」なんて言葉もほとんど知らず社会学科に入ろうとしていたんだから、私も大した度胸の持ち主でした(笑)。ただ、当時は多少、現代思想にかぶれていて、フーコーとかドゥルーズ=ガタリとかデリダとか、一応は読んでいたんですね。特にドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』。あれは面白かった。馬場ゼミでの最初の個人発表はそれだったし、結局、卒論までそれを引きずってしまいました。このあたりになると、日本史学とはほとんど関係なくなってくるのですが、そこはそれ、今から考えると社会学者の無節操さ、ということで一貫した説明が可能ではあります。(^ ^)

 2年後半から社会学の授業が始まるのですが、私の師匠である盛山和夫先生とは、社会調査法の授業ではじめて出会いました。そのときは、とにかく確率統計学の難しい話に終始していたような記憶があります(中心極限定理とか)。そういえば西部邁さんのゼミに顔を出したのも、この頃のこと。当時はいまとはまったく異なる印象で、構造主義とかソシュールとかひきながら「社会科学の言語論的転回」みたいなことをテーマにしていたような気がします。レポートの提出にかこつけて、本郷の社会学研究室を初めて訪れたのもは大学2年の終わり頃でした。当時から『現代思想』に連載をもっていて、社会学の世界でも、現代思想かぶれにも、ちょっとした有名人だった大澤真幸さんが助手をなさっていて、「ああ、この人が有名な大澤さんか。あの硬い文体から推察されるのとは、ずいぶん印象が違うなあ」と思った記憶があります(この後、大澤さんが林家ぺーに似ているというのが格好の話題となるとは思いもよらない)。

 初回は、このあたりでやめておきましょう(笑)。

偏狭な「科学主義」におさらばを


 突然ですが、私が勤務する部屋は、学生たちと共同のパソコンルームです。その一角を自分の仕事スペースにして、ほとんど「部屋住み」状態で日々の研究を行っております。なかには騒々しい学生もいるし、卒論の時期になると慌ただしくて自分の研究に集中できる環境ではなくなります。赴任した当初はずいぶんうんざりしたし、今でもそのような気分になるときが皆無ではないのですが(だから暇つぶしにゲームをやってしまう)、しかし悪いことばかりではありません。学生たちの雑談の中に、いろいろ興味深い発言があったりするからです。

 私の所属する講座は、言語学、図書館情報学、心理学、科学技術論、社会学と、教官の専攻がばらばらですので、学生たちにもいろんな専攻の学生がいます。ここ2年あまり学生たちの雑談を聞いていて、私は時折、悲しい思いになることがありました。それは、主として心理学系の学生たちが、しばしば社会学的手法に対して批判を行っているときです。心理学系の学生たちには実験や調査が義務づけられていて、せっせと質問紙づくりをしたり、「なんとか尺度」という、主として個人のパーソナリティを「客観的に測定する」尺度づくりをやったりしています。そういう苦労をしている人から見ると、理論的な考察だけでもO.K.だったり、ときには「経験」(しかも他者の経験でなく自己の経験だったりする)だけに依拠して語ることが許される社会学的な手法は、ずいぶんうさんくさいものに映るようです。「理論を調べるだけで(=調査をしないでも)卒論になるなんてうらやましい」と皮肉を直接いった学生もいるし、「個人的・主観的な経験なんて恣意的でしょう」と、したり顔でいう学生もいます。

 私はそういう批判には正しい一面があるし、それがある程度、社会学に妥当することを認めます。社会学にはいろんな調査スタイル(質問紙、聞き取り、文献調査など)があり、心理学のように「これをやらないと論文にならない」という調査スタイルが定まっていません。それを「学問の未成熟」と捉える人もいるでしょうが、しかし逆にいえば、心理学の手法では捉えきれないくらい社会的な現実は複雑だからこそ、いろいろな調査スタイルが求められているともいえます。私はそうした状況を「方法論的バーリ・トゥード(なんでもあり)」という形で肯定的に捉えていますが、私が悲しいのは、心理学系の学生たちが、他の学問(特に社会学)を貶めるために、調査法の定型化(あえて成熟とはいわない)を心理学の優位性の指標としてもちだすからです。私は心理学も社会学も学問的に対等だと思っていますが、そのような形で「喧嘩を売られた」ならば、その喧嘩は買わざるを得ないわけです。

 まず最初の非難、「調査をしないでも卒論になるなんて、うらやましい(皮肉)」について考えてみましょう。実は私、社会学の世界については、「調査なくして発言なし」の格言があてはまるのではないかと考えています。現実へのリファーのない、純粋な理論研究が存在しうるとは思えませんし、社会学者たる以上、何事かを語るときには現実ないしそれを擬似的に表現しうるデータに依拠して語ることは一種の義務だと考えます。ただし「調査」の範囲を、心理学系の学生たちが行っているような調査票調査だけに限定する必要はありません。調査票調査以外にも、聞き取り調査があるし、すでに発表されているデータを再編集することもできるし、新聞・雑誌・書籍の記事だって使える。ときには「個人的な経験」が重要なデータになる場面も存在するでしょう。データの特性について、きめ細かい配慮を行いさえするなら、社会学者の身の回りに存在する世界すべてがデータとなるでしょう。むしろ、同じ大学の授業を受講している学生たちせいぜい400-500人のデータをもとに、人間の心理メカニズムについてなにか普遍的な真理が語れると想定しているのならば、そのほうが不自然です。心理学の場合、「人間の心的なメカニズムは誰をとってもある程度同じ」という暗黙の想定があるのか、ランダム・サンプリングの重要性は意外に無視されています(実際この講座でも、ランダム・サンプリングを行った卒論はない)。しかし社会的属性の差異がさまざまな行動や観念の差異を生んでいると考える社会学的調査にとって、サンプルの偏りの把握、ランダム・サンプリングの重要性は強調してしすぎることはありませんし、基本的には心理学の世界でもそれはいえるでしょう。

 しかし実際には、ランダム・サンプリングによる調査というのは、難しいのですね。技術的にも金銭的にも。大学に職を得た学者であってもそんなに容易に行えることではないくらいだから、はっきりいって卒論レベルにランダム・サンプリングを要求するのは酷なことです(それでも富山大学ではやっているそうですが)。心理学系の学生たちがランダム・サンプリングを行わないのはそれなりにリーズナブルな選択ですが、しかし自分たちの調査がいわゆる確率統計学的な方法論をまったく無視して成り立っていることくらいには自覚的であるべきでしょう。つまり自らの不十分さに対して十分な理解もなしに、他人を非難するなってこと。

 また調査票調査の最終的な限界は、そこで造成された質問項目が調査・実験する側の世界のリアリティによって構造化されており、必ずしも調査される側のリアリティに合致している保証はないことです(先行研究に依拠したからといってそれが保証されるわけではないことは、いうまでもない)。私が思うに、調査票調査とは、調査される側の意味世界・リアリティを、調査する側が勝手に一部だけ分断・裁断して取り出してくるようなものです。調査される側の意味世界の把握がかなり重要な要素を占める社会調査の世界では、ぶつぎりの調査票調査よりも、少数のサンプルにじっくり聞き込みを行って、彼らの意味世界をまるごと救いとるような方法のほうが適切であることも、しばしばなのです。

 次に、「個人的な経験なんて恣意的だ」という批判について考えてみましょう。私だったら、「恣意的で何がいけないんだ」と最終的には開き直りますが(その場合、経験の「真正さ」を問題にするよりも、恣意的だろうと何だろうと、経験がある形式の下に語られてしまうこと自体を分析の対象とするでしょう)、それ以前に、こういう物言いをする学生たちが、心理学の優位性として主張する「なんとか尺度」なるものが、いかに不十分であり得るかについて、充分な懼れをもっていないことに私は不安をもちます。通常「なんとか尺度」は、複数の質問項目を複数の回答者に行って質問項目を洗練させる過程を通して、個人のある特性(「男らしさ/女らしさ」でもいいし「自己意識」でもいい)を「客観的に」測定できるものとして想定・期待されています。たしかにそういう「なんとか尺度」は、どんなど素人でも手軽に使用することができるという意味では使い易いし、それゆえに客観性(共同主観性というべきだと私は思うが)をある程度有しているようにみえます。しかし本当の問題点は、そういう複数の質問項目が、個人のある特性=パーソナリティを本当に正しく捉え切れているかどうかにあります。そういう観点から考えるならば、その正しさは必ずしも初めから保証されているわけではない。たとえば、個人の「パーソナリティ」といってもそれは、誰と、どういう状況に置かれているかによってずいぶん変わってきます。逆に、そういう状況に拘束されない特性をパーソナリティと定義するのならば、「なんとか尺度」が測っているのは人間が生きる現実のほんの一部でしかないことになります。なぜなら個人の行為やパーソナリティは、いかなる時でも、ある特定の対人関係、ある特定の状況下において生じる関係的な産物であるからです(少なくとも社会学はそのように発想します)。

 『ふぞろいの林檎たち・パート2』における本田さん(国広富之)のエピソードは、そうした事態を思い知らせてくれる格好の事例です。同居中の恋人・夏恵との関係においては暗くて喧嘩ばかりしている本田さんは、石原真理子がいる飲み屋ではなぜか明るく陽気になり、ときにはダンスまで踊ってしまいます。夏恵がそのことを咎めると、本田はいいます。「人は、関係によって変わるんだ。僕と君との仲が最悪だとしたら、それはどちらかが悪いのではなく、関係そのものが悪いんだ。人は、他人との関係によって、明るくなったり暗くなったりするんだ」と(意訳)。

 こういう立場からすれば、パーソナリティを個人の内面に独自に存在するものと考え、具体的な対人関係や状況とは独立に取り出すことができるかのように想定する尺度化の方法にはそもそも限界があります。特にそれが社会学的方法に対する難癖として利用されるのならば、勘違いもはなはだしいと反撃せざるをえません(いわゆるTit for Tat戦略です)。

 だからといって、私は「なんとか尺度」よりも「経験」の方が重要だなどと論じているわけではありません。「経験」の方が恣意的である可能性を認めています。だからこその方法論的バーリ・トゥードなわけでして。たしかに、こういう考え方をすると不安が多い。「社会的現実」という極めて複雑な素材を、どう料理したらうまく行くのか私自身、毎日悩んでいますし、よかれと思ってやった方法がうまくいく保証もない。ほとんど個人芸・職人芸の領域になってきます。しかし私は、自らの調査方法に対する懼れを有しているという点において、「なんとか尺度」を素朴に信奉する「科学主義者」よりはよっぽどましな地点に立っていると断言できます。

 しかしここまでの論述、実は心理学一般を否定しているわけではないことには注意を促しておきましょう。おそらく優れた心理学者は、尺度化の場面でもより慎重ではないかと思います。信頼性検定のα係数がいくつ上がったとか、因子構造がきれいに別れたとかだけで喜んでいるとは思いたくない(あくまでそれらの数値は必要条件にすぎません)。行為やパーソナリティの文脈依存性を無視するという限界を抱えつつも、尺度化の方法が有効であり得るためには、最低限、一つ一つの質問項目が調査される側のリアリティに即していることが必要であり、それはα係数によって測られるものではなく、やはり勘と経験が大きくものを言うはずです。だとするならば、苦労の質は社会学の場合とそんなに変わらないし、己の方法の限界を自覚するという意味で対等なのだと思う。

 願わくば、心理学系の学生たちが、「科学主義」の名の下に他の学問を否定するだけの排外主義者や、自らの方法−−「なんとか尺度」−−を盲信する、もう一つの「科学教」信者になり下がることがありませんように。  (97.12.2、15:43記す)



97年10-12月期テレビドラマ総括(でもあんまりみてない)


 年の瀬もおしせまるこの時期は、ドラマの世界も例年、クリスマス・イブに向けて恋愛尽くしとなります。今年もまた、『ラブ・ジェネ』(CX、月9)に代表されるように怒涛の恋愛ファシズムが展開されたわけですが、ワンクールとしての作品群を総体的にみてみると、個人的な感想ですが、一つの特徴が浮かび上がります。それは、主演の女性キャラに納得がいかない!!ということ(笑)です。そういう展開になってしまうと毎回きちんとフォローする気力が萎えてしまうので、最後まで見通したのは、『ナースのお仕事・2』(CX、火9)、『シングルズ』(CX、火10)、『恋のためらい』(TBS、金9)、『青い鳥』(TBS、金10)のみ。『ラブ・ジェネ』、『心療内科医・涼子』(日テレ、月10)、『成田離婚』(CX、水9)、『恋の片道切符』(日テレ、水10)、『不機嫌な果実』(TBS、木10)は途中で脱落してしまいました・・・。

 しかしそれでも文句を言わせてもらうぞ、『ラブ・ジェネ』。一言でいって、「キムタク(ないし松たか子ないし内野聖陽ないし純名理沙)が画面に出てればそれでいい!!」という層をのぞけばあまりにもみるべきところのないドラマ。「普通の男女の恋愛」を描くとかいっていて、やってることは、『東ラブ』+『ロンバケ』−(両者の魅力)。「おいしいとこどり」をしたつもりで、まったくそうなっていないところが悲しい。これ以上の説明が、必要でありましょうか。

 え、必要?? では、仕方ありません。簡単に。

 東ラブからの本歌取り:社内恋愛。女のほうが積極的。男は初恋の女性にうじうじ悩む。手前勝手なロジックを持ち出し、仲がうまくいかなくなるとすぐに実家に帰ってしまう女・・・といったところでしょうか(笑)。

 ロンバケからの本歌取り:松たか子(爆)、おまえ何でそんな高価なところに住めるんだというマンション(爆爆)、恋のレフェリーからプレイヤーに突然転身する女・・・、といったところでしょうか。

 まあね、別にいいんですよ。お茶くみ腰掛けOLが、職場のかっこいい男に惚れたってね。しかし『東ラブ』の赤名リカは、もっと仕事ができたぞ。自立してたぞ。「セックスしよ」と突然言い出す、素晴らしくエキセントリックな女性でもあった。しかも彼女の行動は、なんだかんだいってカンチの立場をおもんばかってのものでした。しかし、松たか子演じる理子ちゃん、こいつはあまりに魅力がないよ。少しは、男以外の目的で仕事をやってみろ!!(まあね、お茶くみと接待がきちんとできることは評価してあげてもいいけど)。仕事中にデレデレした目でキムタクをみるんじゃあない!!(怒)。女友達のまえでずうずうしく彼氏自慢をしたり、彼氏に対する独占欲が異常に強かったり、相手のことを考えない自己完結的なロジックで暴走したり・・・、あー、話にならん。私はキムタクもあまり好きじゃないけど、「あーキムタク、君のために忠告する。こんな女を相手にするんじゃない!!」と同情のつっこみをしてしまいましたよ。キムタクはキムタクで、元クリエーターが営業に配置替えになるという複雑な事情を抱えていながら、すぐに自分の薄っぺらい哲学を語ったり、それを押し通そうとして仲間と軋轢を生んだり、そのくせ女のことで仕事をさぼったり・・・、はっきりいって君は「できない男」だよ!!。上司の平田満がかわいそう・・・。『ロンバケ』のキムタクみたいな、「自信のなさからくるかわいげ」がみたかった気がします。

 それから純名理沙。こいつはいったいいつまでカマトト続けるつもりなのかね。そのカマトトがどれだけキムタクや、その兄貴を傷つけているのがわからんのかね。行動にも感情にも、まったく一貫性のない女。以上。

 しかし、「なんでこんなドラマにつきあってしまったんだ」という後悔と自己反省があったりするわけです。もしかして、実はこれって大方の視聴者に共通する見方なんでしょうか。あまりにお約束な展開につっこみを入れつつ、そんなドラマをみている自分をもつっこんでしまうという・・・(笑)ダブル・ツッコミの構造。それが仮に制作者の狙った効果だとしたらすごいな。私も見事にはまっていたことになる・・・。

 つづいて『シングルズ』。妹の恋人を横恋慕して妊娠。不倫相手の男の子どもを妊娠。人工受精して妊娠。という三者三様の母子家庭=「シングルズ」を描くこのドラマ。最初はけっこう期待してたんですけどね。社会派風のドラマとでもいうか。ただ伊原剛志と原田龍二がでてきた時点で、「あー、この二人、ふられるんだな」と予想がついてしまい、実際その通りになってしまうところが怖い(笑)。基本的には、「男はいらん。子どもがいればいい」というロジックと、「やっぱり男がほしい」という感情がぶつかりあうドラマではありました。脇役の二人(洞口依子と水野真紀)はその二つの感情に揺れながらもシングルズを選択するのですが、主役の天海祐希だけは、自分を慕ってくれる男(伊原剛志)と一瞬、一緒になるわけです。まーこれは、母子家庭の辛さに耐えかねたとみるのが妥当でしょう。しかし、赤子をおぶって男がつくったカレーには目もくれず、自分の仕事の話ばかりで喧嘩して、別々の生活(つまりシングルズ)を選択します。しかし伊原と別れたわけではないので、要するに、「私には子どもがいればいい。でも寂しいときには一緒にいてくれる男がほしい」と、まあ、都合のいい結論ですね。たしかに男が赤子をおぶってカレーつくっても評価されないのは、仕方ない。男は、女が赤子おぶってカレーを作ったってほめてあげないわけだから(そういう男ばかりではないと信じたいものですが)。しかしなあ、カレーつくってもらった挙げ句に「自分の時間がほしい」はないでしょう。「子どもおぶって、カレー喰って、生活背負うのが結婚だろ」とツッコミをいれてしまうのは野暮なんでしょうか。「伊原、もういい。こんな女はほおっておけ!」と、先のキムタクと同じようなつっこみを入れてしまいました。

 『不機嫌な果実』はどうでもいいからほおっておいて(石田ゆり子は頑張ったと思うが、やはり最後の最後で下品になりきれない)、『恋のためらい』。これはややおじさんくさい妄想がかいま見えるとはいえ、いいドラマでした。40男の独身・竹中直人が、昔の恋人でなぜか隣人の大竹しのぶと、見合相手でその後雇い主になった鈴木杏樹と、インネンつけられるも可愛いから追いかけ回してしまった中谷美紀という三世代の女性たちと浮き名を流す(^ ^;;;)ドラマなのですが、とにかく竹中は「いい人。」なんですね。私からいわせると、この三人の女性は、とんでもない奴等ばかり(笑)。一度は竹中をすげなく見捨てたにもかかわらず復縁を迫り続ける大竹しのぶ(とはいっても彼女がもっとも純真とはいえる)。見合相手をすげなくふった挙げ句、女一人でインテリア商をするのが大変だからという理由で当の見合い相手(竹中)を雇い、しかも自分の都合ですぐに商売をたたもうとする鈴木杏樹(お前、断られた人間の気持ちも少しは考えろよ。ねえ、○×さん)。自分の人生を独力で切り開こうとしながらもうまくいかず、そのことが男の憐憫感情を誘うのか、無意識の偽善者 unconscious hypocrite と化してしまうコケテッシュ・中谷美紀(お前は平塚らいてうか!!)。「おい竹中、そんな女たちはほおっておけ!!」とツッコミを入れたくなってしまいます(笑)。こんな女性たちに、竹中はある時はすげなくふられ、またあるときは彼女たちのわがままにつきあわされるわけですが、しかし竹中はあくまで彼女たちの人生を応援していこうというスタンスを崩しません。そこがこのドラマに好感をもてるところでもあり、また、制作者側の妄想が入っちゃってるな、と思うところでもあります。もちろんその一方で、「あわよくば・・・」という下心を竹中が隠せないのも事実でして、「俺って、こんなにいい人ぶってていいのかな」という逡巡をきちんと描いているところは流石でした。丁寧でした。

 またこのドラマは、日常会話のつまらなさ、「何事もおこらなさ」をけっこう脚本に取り込もうとしていて(アラスカとマラカスとか、くだらないダジャレがあったりする)、そういう意味ではお約束ドラマの文法崩しにもチャレンジしています。後々の展開につながっていかない、ムダな、意味のないシーンがけっこうあるんですが、それがドラマに厚みを与えていた希有な例でした。

 さて、評価が別れそうなのが『青い鳥』(TBS、金10)。ドロドロ不倫ドラマを書かせたらピカ一の野沢尚とトヨエツが組んだのは『この愛に生きて』(安田成美と岸谷五郎・主演)以来。TBSも異様に力を入れていました。八ヶ岳近辺を舞台にしていて、信濃境駅がロケ地になったりしていたので、風景はとてもきれいなんですが、どうでしょう。いまいち総括しきれないものがありましたね〜〜。

 幼い頃に川に溺れていた自分を助けて身代わりになった兄の遺志を継いで駅員になった柴田理森(豊川悦司)が、娘(鈴木杏)連れで清澄町長の息子(佐野史郎)宅に「買われてきて」、自分を篭の鳥状態だと感じていたかほり(夏川結衣)に誘惑(?)されて、三人の逃避行で出奔するものの、執念深く追いすがる町長の息子の勢いに押されてかほりは自殺。理森は殺人のぬれぎぬを着せられて(自ら着せて)服役(6年)。服役後、成長した娘・詩織(山田麻衣子)から旅行に連れていってとねだられ、それを誘拐事件とされて(自らそう申告して)またしても服役(4年)。10年後、理森と詩織は「男と女」として、出会うという結末。なんかいろんな伏線張りまくりなんですけど、それがドラマ的にどういう意味をもつのか、どういう普遍的なテーマとなりうるのか。「だから何なんだ〜」といってしまいたくなる場面、多数でした。

 とにかくかほり(夏川結衣)に魅力がないわけなんですよ。「トヨエツ、そんな女はほおっておけ!」とツッコミを入れたくなるくらいに(笑)。都会で暴力亭主のもとで悲惨な目に遭っていた母子を「金で買い取った」佐野史郎の家に連れてこられたかほりは、町長に女中扱いされて、辛い思いをします。それがトヨエツとの駆け落ちの遠因になるのですが、「お前、佐野史郎のことがそんなに好きでもないなら、はじめから結婚すんなよー。佐野史郎の気持ちをなんだと思ってるんだ。逆に、詩織のために覚悟の上で結婚したなら、ちーっとは我慢せいや」とつっこんでしまいます。また、かほり恋しさに復讐鬼と化した佐野史郎(いいですねえ、佐野史郎。90年代は佐野史郎の時代だった!!)に追いつめられて自殺を選んだときも、「お前、覚悟して駆け落ちを選んだんなら、ちょっとくらい修羅場の場面にも耐えろよ〜〜。それが修羅場を戦っている理森に対する礼儀ってもんだろう。残された理森や詩織はどうなるんだよ〜〜。自殺するくらいならはじめから駆け落ちすんな!!」と突っ込んでしまいましたよ。こんな女に惚れる理森っていったい・・・。まあ、娘の幸せを心配したんだと解釈したいところです。もっとも、トヨエツと夏川という、美男美女のラブ・シーンはたしかに絵になっていたと思います。

 どっちかっつうと、理森を想い続けてふられまくる幼なじみ・永作博美のいたいけさと、訳も分からず父親をとっかけひっかえされ、挙げ句の果てに自分を残して母親が消えた詩織の不憫さに涙してしまいます。トヨエツに関しては・・・かっこいい!以上。

 つうわけで、女性キャラに対する違和感ばかりが募った今クール。実はいちばん共感できたのは『ナースのお仕事・2』(CX、火9)だったりします。ドタバタコメディ風でいて、医療シーンには相当迫力があるんですよね。そして40分過ぎには必ず泣ける展開・・・。いやー、ドラマの役柄の中の新米ナースや研修医がだんだん成長していく過程とともに、このドラマ自体も成長している気がします。それ以外にも、長塚京三演じる沢田先生(澤田順次郎、ではない)と松下由樹演じる看護婦(主任)のプロ根性。子どもを産むことに対する夫婦間の葛藤(ほんとこの辺は、リアルです)。ただのアイドルだった観月ありさにも、きちんと役者としての演技をしてもらおうというスタッフの姿勢。すべてが素晴らしかったです。内容的には特筆すべきことは何もないんですがね(爆)。ではでは。(97.12.24、16:14記す)



98年1-3月期テレビドラマパイロット報告


 三月中盤までに、どうしてもやらねばならぬ仕事を抱えていながら、毎日のテレビドラマは欠かさない私・・・(^ ^;;;)。図太い神経です(でもストレスで胃が痛い)。

 今クールは正月休みがある、二月が短い、などの理由からたいていのドラマが10-12回しかないわけですが、みどころは多そうなクールではあります。

 まずは月曜日。午後8時の『おそるべしっ!!!音無可憐さん』(テレ朝)は、榎本可奈子の可愛さだけをてがかりに見始めたのですが、どうして、どうして、これがなかなか面白い。愛する軍司のために超ブリッコを演じ続ける可憐。普通こういう女は同性からは嫌われてしまうキャラですが、どんなブリッコも超・真剣に演じ続ければ他人を巻き込む(引きずり込む、といった方が正確か)パワーをもってしまう、というところがミソでしょうか。私も、「お・そ・い・ぞっ」とか「えへっ」とか可憐語が伝染してしまったりして(^ ^;;)。 「同級生」であるがゆえに対等な交際の範囲を超えられない小嶺麗奈とのライバル対決も見物です。フジの月9は青春群像だかなんだか知らんが、「ふぞろいコンビ」の長瀬と中谷美紀が共演する『Days』。設定は『白線流し』や『ふぞろい4』に通じるものがありながら、軽いノリのドラマで、長瀬君のイメージが変わってしまわないか心配するムキもあるようで。私は、中谷美紀と管野美穂が並んで立っているときに「芸能人はシビアな勝負をしているな」と感じます。どっちが勝っているかは、いわないことにしておきます(^ ^;;;)。しかし2回目をみて、意外にいいドラマだな、と思い直しました。

 火曜日は、午後9時、10時とフジの連ちゃん。監察医(法医学みたいなもの?)の事件簿みたいな『きらきらひかる』と、中村雅俊・久々の牧瀬理穂が夫婦やっちゃう『太陽がいっぱい』。最初のは、鈴木京香・小林聡美・柳葉敏郎と脇を固めるメンバーはすごい。のだが主役は深津絵里。『踊る大捜査線』の刑事役とだぶっちゃって、みるのが辛い(笑)。ドラマ的には法医学的なギミックが多いだけで、実は『はぐれ刑事純情派』みたいな人情ものとそんなに変わらないような気がします(いいすぎたか)。10時からの『太陽がいっぱい』は、とにかく牧瀬に注目。しばらくテレビから消えていたけれど、演技力は進化したのか?!っていう目でみてしまいます。でもやはり美しいな。

 水曜日は、午後9時『ニュースの女』(CX)と10時『サービス』(日テレ)。『ニュースの女』は、鈴木保奈美演じる性格破綻アナウンサー(^ ^;;;)が、死んでしまった配偶者の息子と同居するようになって云々、と『パパはニュースキャスター』を思わせる展開に。もっとも性格破綻者の改心をテーマにしている点は、『コーチ』や『それが答えだ』に通じるものがあるでしょう。『サービス』は、家事サービスをやっている松本明子が、おせっかい心から、クライアントの依頼に勝手に応じなかったり、実に泥臭い(浪花節的な)展開なのですが、これは「松本明子ドラマ」と割り切ってみないつらいです。

 木曜午後9時は、内舘牧子原作・脚本の『愛しすぎなくてよかった』。期待していいのだろうか。セリフ回しなんかは考えさせられることも多いけど。午後10時はCXが木梨憲武主演の『甘い結婚』、TBSが松嶋菜々子主演の『スゥイート・シーズン』。前者は、専業主婦の妻がある日突然作家になって、家を出て行かれた男の話。後者は不倫がテーマみたい。とりあえず松嶋の美しさとキャロル・キングとサザンのテーマ曲に託してみましょうか。家族社会学者的にはノリタケのも捨てがたいけどね。

 金曜日は、9時10時とTBS。『略奪愛・アブナイ女』は、大映テレビ制作。『ストーカー』の続編と考えてよいでしょう。『ストーカー』の頃はあまりのずさんさに観る気も失せていたのですが、実はあの、無理無理な展開、アダルトビデオも真っ青の(^ ^;;)安っぽい作りこそが大映ドラマのウリなのですね。視聴者に突っ込ませる余地を与え続けるという・・・リック・フレアーも真っ青の「受けの上手さ」。それを見抜けなかった私は愚かでした。赤井秀和と鈴木サリナの無理無理な標準語も笑えます(笑)。大映ドラマに出演すると、みんな演技がへたくそにみえてしまうところも凄い(笑)。しかし小林稔侍を脇役に使うという、一点豪華主義(^ ^;;;)。昨年ヒットしたGRAYのHOWEVERがテーマ曲というのも、安っぽくて実にいい。これは皮肉ではなく、ホメてます。

 いい加減に底がみえてきた野島伸司ワールドの『聖者の行進』。知的障害者がテーマになっていて、またしてもドロドロの展開となるのですが、善人側(無垢な人たち)と悪人側(世間)とはっきり分けられすぎているところが、ど〜〜も好きになれんのですよ。昔やってた『愛しあってるかい』みたいな良質なエンターテイメントは、もう野島には不可能なのか。だとしたら、残念です。

 実は今クール、連続ものではないものの、一番面白いのは、土曜午後9時NHKの『流通戦争』です。いわゆる経済ドラマですが、東京郊外の大型スーパー出店をめぐる虚々実々の駆け引きを実に丁寧に描いています。ドラマ出演が久々の吉田栄作もなかな好演してますし、吉田日出子も桜井淳子も、いい味出してます。吉田栄作がスクラップの対象となっている駅前スーパーの一社員から本社開発部に異動になって、両者のはざまで非常に悩むわけです。それがまた、すばらしい。多少のお色気シーンもniceです。すでに2回終了していて、あと一回しかみれないのが残念です。

 日曜日はお約束の東芝日曜劇場、『まかせてダーリン』。専業主婦の内助の功、妻を思いやれる夫をテーマにするとは、いまどき珍しいドラマ。でもなぜか泣ける。

 というわけで、あと2カ月以上、まだまだ楽しめますね。

(98.1.19、15:12)




98年1-3月期テレビドラマ総括(涙腺ゆるゆる)


 三月中盤に博士論文提出を抱えていて、パイロット報告で挙げたドラマをすべて見続けることは不可能だと思っていたのですが、脱落したのは、『サービス』(水9、日テレ)、『愛しすぎなくてよかった』(木9、テレ朝)、『甘い結婚』(木10、CX)。しかし山田太一の『風になれ鳥になれ』(NHK、土曜9時三回分)なんかがはさまってきたから、いつになくたくさんドラマをみたクールでした。『ふぞろい』や『それ答』みたいな大傑作はなかったけれど、どのドラマもそれなりに偏差値65には達していたと思います。

 月曜8時の『おそるべしっ!!!音無可憐さん』(テレ朝)は、可憐とグンジィが結婚するという驚異的な終末。超・ブリっ子を演じ続ける可憐が、「恋愛一直線」という根性ドラマのすがすがしさを周囲に認めさせたといえましょう。ライバル久美子(小峯麗奈)の「いい人」ぶりにもかなり感動。こういう「自立した女性」には頑張ってもらいたかった、という気もするのですが。まあ気迫の絶対差があるから仕方なかったのかも。

 しかしコミック版と比べてみると、主人公が榎本可奈子なだけに、かなり設定に変更が生じていることがわかりました。まずコミック版では、グンジィも可憐も久美子も大学生。だから可憐&グンジィはラブホに入っちゃったりもするのです(1巻)。久美子もグンジィを付け狙う「普通の女子大生」といった風情で、「ライバルを認めつつも正々堂々」というテレビ版・久美子の良さが出ていない。それからグンジィの取り巻き友人たちもテレビ版で付加された設定です。男女二対二(うちカップル一組)の高校生グループ交際は、付属高校あがりの「いい部分」を描いていて好感がもてるのですが、この男女交際の枠組みを崩したくない思いが久美子をして消極的にさせてしまうというあたり、コミック版よりも練られた構成になっています。可憐が「音無可憐」であり続ける理由についても、テレビ版では「ひょっとして精神障害??」と示唆する描写があったりします。可憐のストーカー的行動は、ある種の霊魂の憑依の結果なのか、それとも母不在の家庭環境がもたらしたのか・・・。ってな感じになっても不思議ではない。

 「結局、こういう女を馬鹿な男たちは決して嫌いではないのだ」という、思いきりフェミ的(?)なマニフェストで始まったこのドラマも、「女の子はこういう女を心のどこかで羨ましく思っているのではないだろうか」という久美子の敗北宣言で終わるわけです。うーむ。複雑な思いだ。通常反フェミ的な立場に立つことが多い私ですが、今回ばかりはフェミ的というか潔い女・久美子を応援していたもんなあ・・・。

 予想以上に健闘したのが、『Days』(月9、CX)。
「目標はお手軽に手に入れるものよ」MIKI
「目標もあり、努力もしてるんだけど、こんなはずじゃなかった」中谷
「目標はあり、努力もしてるんだけど、才能がない」小橋(芸大浪人)
「目標すらない」長瀬
「目標ないなら、男を目標にしちゃうも〜ん」菅野
「目標もなく、努力もしてないんだけど、とりあえずのし上がりたい」金子

 とまあ、六者六様の青春群像が描かれるわけですが、低視聴率の悲しさか、芸大浪人が無理矢理死を迎えるという「破」的展開のあとは、残った五人は判で押したように、目標に向かって歩き出して終末を迎えます。私はねぇ、『白線流し』みたいなエリート予備軍的な説教くささや、山田太一のドラマのような完成された展開を求めていたわけではなく、もっと荒々しくてよいから、なんか後味を残してくれるような作品になってほしかったんですが。奥田民生の歌が異常によかっただけに、残念でした。続編はないであろう。アディオス。きちんとみてませんでしたが、『冷たい月』(月10、日テレ)はけっこう面白かった模様。中森明菜が「研ナオコ顔」になっているのが悲しいものがあったが、私たちの世代にとっては、明菜は「ムーンライトシャドウ」がまったく売れなくても、やはり「スターの明菜」なんでげす。

 『きらきらひかる』(火9、CX)は今クールの中でも評価の高い方らしいのですが、やっぱり「はぐれ刑事純情派」を越えていないというか。「あたしを誰だと思ってんの。月山紀子よ」というタカビー路線を邁進した松雪泰子は得をしたかもしれませんが、その他の面々は、「まーもともと上手い人たちが、自分の上手さに甘えて、こじんまりとまとまっちゃったなあ」という感じですね。「死体に現れている事実しか信じない」という杉(鈴木京香)イズムと、「死者の思いを忖度しないと気が済まない」天野イズムが至るところでぶつかりあうわけですが、なんと最後には天野(深津絵里)イズムに軍配が上がるという・・・・。そりゃあ、ないよなあ(爆)。死んだ人の「主観的意図」に言及しようとする天野の理解社会学的方法論は、やっぱり物理的・化学的な事実の範疇で語るしかない法医学の領分を越えちゃってますからね。いわば業務外の仕事ばかりやっている連中を二人も抱えて部局は組織として大丈夫なんでしょうかと、いらぬ心配をしてしまうです。『太陽がいっぱい』(火10、CX)はいまどき珍しい「家族の団結」をテーマにしていて、中村雅俊が体育会系のノリで家族に降り懸かる災難をクリアしていくのですが、う〜〜む。牧瀬理穂しかみてなかった(爆)。よって批評はできませぬ。

 『ニュースの女』(水9、CX)は、予想通り、チャンネル2の性格破綻者ニュースキャスターが更正していく様を描いておりました。『きらひか』の松雪泰子が「二代目白鳥麗子の大人バージョン」をやったのに対して、鈴木保奈美が「初代白鳥麗子」の貫禄をみせてくれることを期待したのですが・・・。死んだ夫の忘れ形見北原龍(滝沢某)との共同生活の中でチームプレイや正義に目覚めて、視聴者5000万の地上波「チャンネル2」から、視聴世帯600の「にこにこケーブルテレビジョン」に都落ち(?)して終わりという。最後の辺りは『コーチ』や『それが答えだ』にも共通するテーマですが、どうやら共同テレビの場合、女性性格破綻者は都落ちし、男性性格破綻者は元の世界に復帰する、という傾向がみられるような気がします。次に男性性格破綻者が登場したとき、どういう結末になるかに注目してみましょう。しかしそれにしても、かつて地域情報化政策の柱だった「地域密着ケーブルテレビ」の描かれようの悲惨さは、あんまりだと思うと同時に、人々がケーブルテレビに対して抱く一般的なイメージをよく映しているといえます。

 『スゥイート・シーズン』(木10、TBS)は、TBSが久々に「不倫」に正面から取り組んだ作品、のはずなのですが、松嶋菜々子と椎名キッペイの美男美女が、キャロル・キングとサザンの曲に合わせて横浜を闊歩する、という「オシャレ」な側面ばかりが強調されていたような気がします。夫に浮気され、夫を追いだした祖母・野際陽子。そんな母に育てられたおかげで家庭護持の観念にしがみつき、夫の不倫後は冷めた夫婦関係を続ける母・市毛良枝。父の不倫を「家庭を壊した」として嫌悪し、事あるごとに不満をぶつけつつも、自分も不倫をして相手の家庭を壊すことになってしまった娘・松嶋奈々子。「親子三代不倫日記」の様相を呈していましたが、要は、不倫した過去をもつ父を攻め続ける娘が、自分も不倫することによって親に対する感情がどう変化するか、という点がポイントなわけです。しかし、ドラマの中では、自分も不倫をすることによって親の気持ちを理解できるようになったわけでも、親の不倫を許せないがゆえに不倫してしまった自分も許せないわけでもなく、親に対してはつねに反抗的、そして自分の行動はなし崩し的に正当化していきます。この「ダブルスタンダード」がなかなか解消されず、観ていても娘(松嶋)の節操のなさにずっーと怒ってました。まあ、たしかに日常生活はダブルスタンダードだらけなんだけど、ね。さらには、この娘の無神経さもずっーと解消されなかったようです。最後のほうで、父の不倫の結果生まれた子供が、松嶋家族を訪れて、松嶋に「家庭でぬくぬくと育ったお前らに、俺の気持ちがわかってたまるか」というシーンがありました。これは結局、「壊れ書けた家庭で寒い思いをするよりも、家庭が存在しないことの方がもっと辛いんだ」という、外部からの相当強烈な批判であるわけですが、娘は「あなたの気持ち、わかるよ」と、なんのてらいもなく言ってしまう。まー、実際のところは家庭が存在しないことと、壊れた家庭が存在することの辛さは、どっちがどうとはいえない。そもそも比較不能な「辛さ」であろうと思われる。そういう「他者性」にまともに向き合うことなく、自分の状況だけで安易に他人の気持ちを推し量ろうとする、こんな悪徳キャラクターに魅力を感じられるわけがないのでありました。

 『略奪愛・アブない女』(金9、TBS)は、やってくれました。ただひたすら、面白かった。それだけ(笑)。

 『聖者の行進』(金10、TBS)は、その暴力・レイプシーンなどでいろいろ物議を醸したようですが、野島ドラマとしては、期待以上の出来上がりでした(最近それぐらいに期待水準が下がっているのですよ)。野島ドラマお約束の単純な善悪二元論をちょっとだけ崩し、篤志家然としていて、工場の知的障害者を虐待しまくる工場の社長(段田安則)が、なぜそのような行為を行うに至ったのか、その動機解明を行おうとした点は評価します。もっとも動機解明が行われることが、最初の方で示唆されておきながら、結局、最終回の死直前のシーンで、段田自身に長々と語らせるだけに終わってしまいました。この動機解明は、ドラマ全体の謎解き部分にあたるわけだから、段田のモノローグだけでその謎解きを終わらせようとしたのは、作劇の手法としていただけなかった。誰かの大演説で終わることなく、動機解明をドラマ上の展開として織り込むという努力、つまりドラマをより練られた構成にしていく姿勢が、もう少し欲しかったような気がしました。野島ドラマに出てくる人物のステレオタイプ性については、もうとっくにあきらめているのですから。

 三月になって三回連続で放映された、山田太一脚本の『風になれ鳥になれ』(土9、NHK)には期待しまくってしまったのですが、こちらは面白いテーマが満載ながら、じゃっかん未消化気味。部下の妻と不倫しかけたという過去をもつヘリコプターのパイロット・渡哲也が、いろんな人物と出会ってお説教を垂れる(^ ^;;)、というドラマで、かつての『男たちの旅路』を思わせるものがありました。総じて、渡の説教だけに頼る展開になったときには、少ししらけてしまうのです(特に最終回)。

 第一回は、ある日、立山に老人を運びますが、老人は自分を取り残して先に帰ってくれと懇願します。老いて妻も友人もなくした男の自殺志願だったわけですが、部下の妻と不倫しかかった挙げ句、その部下が事故で死んでしまったという過去をもつ渡は、なんとかその老人の気持ちに応えたいと思う。初老の迎えた三人の男が、冬山という隔絶された環境下で、自らの悩みを語り合うというのが趣向でしょうか。

 第二回目は、いじめた同級生に自殺された中学生。冷たい親を恨んでナイフで刺した訓練生・由紀(小林恵)、家庭内暴力で親を殴り飛ばした整備士の三人の「加害者たち」が、どう自分の過去と向き合うかというテーマ。さてこのような悩み、そして「謝れば、許して、忘れてもらえる」という常識に対し、渡は、「したことは嫌なことでも、大切にしたほうがいい。自分のしたことは自分の一部だ。なかったことにはできない。背負っていくしかない。」といいセリフを吐きます。ただこういう言葉を述べさせるだけならば、野島ドラマとさして変わらぬ大説教なのですが、渡自身が、部下の妻と不倫しそうになった「加害者」であること(しかし、ほおっておけばすぐそのことも忘れてしまいそうになってしまうこと)、このセリフのすぐあとで「ピントのずれたこといったな」と自分の言葉に対して謙遜することなど、ドラマの構成上の問題としてよく練られているために、とても感動して聞けてしまうのです。「被害者」ではなく、「加害者」をテーマとするところなど、山田太一イズムが爆発しています。そしてこれは、社会学者にとってもとても必要な視点と思われます。なお、ドラマの終わらせ方(安易に親との和解を選択しなかった訓練生を、遠くから見つめる親)も、じわりと涙をさそう、実にいい終わり方でした。

 第三回。バブル時に銀行にそそのかされて工場をビルにして、バブル崩壊とともに借金苦に陥り自殺した男の妻(倍賞美津子)とその息子が、銀行強盗を思いつきます。あまりに非情な銀行のやり口に怒り、強盗したお金を空からばらまこうとしますが、息子は実際には強盗できず、あえなく失敗。しかし本当の動機は、銀行の非情さに怒りをぶつけるわけでもなく、「そんなもんだ。しかたない」とあきらめてばかりいる息子に、母が怒るとはどういうことか教えてやりたい、というものでした。息子は息子で、母の期待に応えられない自分が情けない。渡はそこで「できるなんてことは平凡なことだ。できないことは個性だよ。できないことを誇りにすればいい」と説教します。この説教と、渡の人生経験がどうリンクしているかみえてこないため、ここはたんに山田太一のメッセージなんだな、と想定せざるをえません」。その主張はまったく否定しませんが、これは作劇的には少々、お粗末でした。

 結局、三回ではとても展開しきれないようなテーマが満載だったために、全体としては少々、消化不良でした。自殺志願の老人がその後でてくることもなかったし、いじめ相手に自殺された中学生もでてこなくなったし・・・。ただ訓練生・由紀、女優としてもぽっと出に近い小林恵(可愛い)が最後に、「その場で恨みをはらすようなやり方では何も変わらない。ほかに、出来ることがあるはずだ」と説教を述べそうになる(^ ^;;)渡に対して、(社会矛盾を体現する銀行という存在に対して)「さあーて、なにができるかな?」と切り返して物語自体が終了する、という展開はなかなかおつなものでした。こういうところ、やはり山田太一脚本は「うまいっ」といわざるをえません。











親指シフターの悲哀(涙なしには読めません。一部の人向け)。


 私は現在、職場ではMacintoshを使っています。それは講座の情報処理実習がMacintoshで行われるからですが、ここにくる以前は、NECのPC98(ノート型のNS/T)を使っておりました。それ以前は富士通のオアシス、さらにそれ以前の最初のワープロ専用機はパナソニックかなんかので(もう機種すら覚えていない)、液晶画面のライトも暗く、視力を悪くしながら卒論まではそれを使っていました。

 大学院に入ると研究室で仕事をする機会もふえてきます。当時、東大の社会学研究室では、OASYSユーザーが圧倒的に多く、OASYSワープロもいっぱい置いてありました。大澤真幸さん、宮台真司さん、立岩真也さん、佐藤俊樹さん、市野川容孝さんなど、皆さん親指シフトの魔力にとりつかれた方々で、大澤さんなどは「親指シフトは思考の回転の速さで打てる!」と力説されていました。こうした声に惑わされて、デスクトップのOASYSワープロを買ったのが運の尽き・・・。最初こそ、一つのキーに二つのカナが存在する異様さに戸惑ったものですが、慣れてくると、たしかに早い。しかもローマ字入力で一かな入力するのに基本的には二つキーを押さねばならないのにくらべると、楽なんです。当然、入力ミスしても修正するのにストレスがかからない。頭の中で考えたことをじっくり整理してローマ字入力する、というより、考えていることを考えたままに入力できるという感じではあるのです。修士論文は私の場合、全部で原稿用紙560枚くらいになったのですが、これはOASYSなしには不可能だったなあ、と思います。

 こうなってくると、日常的にOASYSを使いたくなる。当時発売されたばかりのOASYS POCKETなんかを買って、塾のバイト帰りに論文を入力したり、と用途も拡がってきました。しかしこの頃(92-3年頃か)、時代は明らかに専用ワープロからパソコンのほうへと推移していたのでした。ワープロを新規に購入する人など周囲には存在しなくなり、皆MS-DOSユーザーへと変わっていきます。「一太郎」がずいぶん騒がれたのもこの頃でした。そんなある日、私はふとした不注意から、OASYS POCKETを踏みつぶす、という愚行を犯してしまいます。これが私にパソコン転向を決意させた最大の原因になりました。そして親指ユーザーの悲哀は、ここから始まるわけです。

 塾の夏期講習のバイト代を投資して購入したのは、NECのPC9801のNS/T。メモリ4MB、ハードディスク80MBと、いまから思うとなんともちゃっちい規格ですが、当時のノートパソコンとしてはまあまあの性能だったはずです。一太郎やDEPTHのゲームを使いながら、NIFTYにも入会しました。ようやく普通のパソコンライフが成立しかけたわけです。しかし親指シフトが使えないのは、最大の難関です。パソコン雑誌などを買いあさって、リュウドというところから親指シフト対応キーボードの存在を知ったのは、福音のはずでした。キーボードのくせに3-4万円もするとんでもない高価なものですが、背に腹は代えられないわけです。ノートパソコンにパソコン本体よりも大きいキーボードを接続して、うんしょこらしょ、と論文作成に励んでおりました。  信大に赴任したのは95年の4月。突然の転勤・引っ越しでばたばたしましたが、講座で使われているパソコンはMacintoshです。それに合わせて最初のボーナスでPerforma588という入門機を買ったのですが、ここでまた親指シフトの不在が響いてくる。もう論文執筆に不都合を来す状態になりかけたくらいです。そこにまたしてもMacintosh用親指シフトRboardの発売が!! 一も二もなく、購入せざるをえないのです。ドライバが必要だったり、起動時にスクリプトの書き換えが必要だったり、PC98時代と比べると面倒くさい作業も増えましたが、Macintoshの素敵なデスクトップに親指キーボード。これはたまらない。まずは自宅デスクトップをRboardに変更し、さらに大学で専用機をあてがわれてからは、そちらもRboardに。この時点で、キーボードへの投資額だけで楽に10万円を越えてしまいました。  昨年6月のボーナスでは、2度目のノートパソコンThinkPad560を購入。いちおう妻へのプレゼントとして、です。













私がセクシュアリティの社会学をやっている理由(2)


 突出した才能をもつ芸術家が一人、芸大や美術の専門学校のサークルやクラスにいたとします。その学年の前後では、結果的に大成する人間の確率は低くなる、といわれています(本当かどうかは知らない)。その突出した才能をもつ一人さえいなければ、一流とはいわなくてもそれなりの地位には上り詰められたかもしれない二流の才能人たちが、一人の突出した才能のゆえに絶望の淵に追いつめられ、その道で生きることをギブアップせざるをえなくなるからです。結果的に残るのは、突出した才能と、自らの無能に気付くことすらできない幸なくらい鈍感な人々だけ、というわけです。

 私が社会学科に進学したときに抱いた感想は、この「二流の才能人」のものに近いものでした。「この人には絶対に勝てないなあ」と思わされた人たちが、一学年上に三人いました。浅野智彦さん(東京学芸大学)、中筋直哉さん(山梨大学)、そして現在、先輩でもあり同僚でもある数土直紀さん(信州大学)です。

 社会学科のゼミは三年生の時点からすでに、自分で興味の持てるテーマで自由発表する形式をとることが多いのですが、当時、所属していた吉田民人さん(中央大学)のゼミでは、自主ゼミないし班形式に別れてゼミ発表の事前準備や読書会を行っていました。浅野さんや数土さんとはそこで出会ったのですが、浅野さんは当時からすでに「自己現象」に深い拘りをもっておられ、さまざまな理論的な文献を自己現象との関わりで理解する力に突出したものがあったように思います。数土さんは構造機能主義から(ポスト)構造主義、エスノメソドロジーに至るまで理論社会学の分野に、とても学部生とは思えない深い造詣をもっていて、とにかくゼミ発表での引用文献の多さに仰天させられた覚えがあります。自主ゼミや読書会の場でも、浅野さんや数土さんの発言には、他を寄せつけないキレ味があり、二人がしゃっべり続けて発表者はそっちのけ、といった風景をよく目にしました。

 当時は、構造機能主義批判が盛んで、代替的なパラダイムとして構造主義、ポスト構造主義、意味学派的なアプローチが積極的に模索されていた時期でした。とにかくいろんな文献を読まされた(^ ^;;)気がします。パーソンズやマルクス、ウェーバーにはじまり、ゴフマン、エスノメソドロジー、シュッツ、レヴィ=ストロース、フーコー、ブルデュー・・・乱読の極みといってよい時期でした。しかも半年後には自分のテーマで専門的な発表をしなければならない。本を読むのはいつでも楽しいものですが、かなりプレッシャーの強い時期でもありました。  私の場合、ドゥルーズ=ガタリの「n個の性」的な発想にかなり興味を惹かれていたのですが、その関係で吉本隆明の『共同幻想論』や「対幻想」論などを読んだことが、その後の道筋をかなり決定することになってしまいました(当時、吉本は日本が誇る現代思想家とされていた)。特に「対幻想」論については、上野千鶴子さんが吉本隆明にかみついた時期でもあり(あれが上野さんの異種格闘技路線の実質的起源のような気がします)、フェミニズムも射程に収めなければならないことになっていました。これらの文献を読み進めていくうち、頭がごちゃごちゃになり、いったい「人間の性」とは何なんだ〜という深い懐疑に襲われたのでした。それは個人の問題であると同時に、対(家族)の問題でもあり、国家・社会・共同体の問題でもある。


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