そしていつかの街角へ

御崎 濯     


 最初のきっかけは、ドールが自作のシチューを口に運びながらうなり声を上げたことだったかもしれない。マテリアは目をぱちくりして、視線を皿から彼の顔に移した。
「どーしたのよ、急に」
「…いやー、なんか物足りないなと思ってさ」
「…そう?」
彼女は、スプーンにすくったシチューをひと匙ぱくりとほおばってから首を傾げた。
「おいしいわよ、いつもどおり。よくできてるじゃない」
「うーん、いつもどおりってのが不満なんだよな」
ドールはスプーンをおくと、腕組みをして皿の中身をにらみつける。
「香辛料も味付けもバランスいいと思うんだけど…なんかこう、変化が欲しいというかさ」
「欲張りねー」
マテリアは、もうひと匙シチューを口に入れながらあきれたように言う。
「これだけうまくできてるのに、何が不満なのよ」
「探求心をなくしたら進歩はないだろ」
「シチューの?」
「料理も魔法も同じだぜ。理論と基礎と応用が大事なんだって。本能だけで剣を振り回してる誰かさんには縁のない話だろうけどな」
「…誰のこと言ってるの?」
半眼になってにらみつけるマテリアの台詞をあさっての方を向いて聞き流すと、ドールはもう一度スプーンを手に取った。
「スランプかなー、インスピレーションがわかないんだよなぁ、このごろ」
「スランプなんて、もっと繊細なひとがなるもんよ」
敵討ちとばかり言い返しながら、マテリアは残りのシチューをかき込む。
「伝説の料理書でも探したら?」
「ふん」
ドールは鼻を鳴らしながら、スプーンを口に運ぶのだった。

 次のきっかけは、雑談の中でジェマが教えてくれた話だっただろう。町中で出会った時、いつもの立ち話の中で、マテリアが何の気なしに先日の話を口にしたのだった。
今夜の夕食を何にしようかと思っている、という話題から、料理のレパートリーの話になり、マテリアがドールのシチュースランプ発言をからかい半分にジェマに話して聞かせた。ジェマは面白がりながらも、ドールに相づちを打ったのだった。
「そうよね、いつもと同じに作ってるはずなのに、なんだか物足りない気がするってこと、あるわよね」
「そうだろ?うんうん、そうだよな、あるよな。作らない奴にはそれが分かんないんだよ」
賛同者を得て、ドールは得意げに胸を張ってマテリアを見上げる。マテリアは、ドールに小さく舌を出してみせた。
「シチューって言えばね、リパートンの町にとてもおいしいお店があるんですって」
「へえ?」
ドールは興味を持った目つきでジェマを見る。
「シェフがとても研究熱心で、よくメニューが変わったり、新しいのが増えたりするんですって。ちょっとお値段は張るらしいけど、それだけのことはあるお店だって噂よ。私も一度行ってみたいんだけど、ティナビーはお料理には全然無頓着だから、誘ってもその気にならないみたいなの」
ジェマはそこでため息をついて見せた。
「もう、口に入れば何でもかまわないって感じ。楽だからありがたいといえばありがたいけど、作る張り合いがないわね」
「そこ、なんて店?」
尋ねるドールに、ジェマは店の名と場所を教えてくれた。
「ドールだったら、きっととっても勉強になるわよ。ぜひ一度行ってらっしゃいよ」
「うん、興味あるな」
「あ、じゃあ私も行くわ」
マテリアがドールの顔をのぞき込んで宣言した。
「ひとりでおいしいもの食べに行くなんて許さないんだから。行く時は絶対連れてってよね、いい?」
「わーったわーった」
ドールはあきらめたように片手を振りながら答える。
「置いてって後で半殺しの目に遭うのはごめんだからな。…ただし、その時は、アーマー着て行くなんて言うなよ?」
「…あ、あたりまえじゃない」
外出する時はたいがいアーマー姿のマテリアは、内心ちょっとぎくりとしながら答えた。
彼女にとって、アーマーはほとんど外出着のようなもので、外に出る時はなにも考えずにこれを着込んでしまうことが多いのだ。ドールはそれを知っているせいか、ちろりと疑わしそうな視線を投げたが、とりあえずそれ以上は言わずにジェマに向き直ると、店の定休日などを聞き出していた。
 ジェマと別れて家に戻る道の途中で、ドールがその店にあさってあたりに行こうか、と言い出した。
「明日は休みらしいからな。それから、どうせ行くなら、ランチじゃなくてディナーのコースを食べたいよな」
「じゃあ、夕食ね」
「そう。それでいいか?」
「うん、もちろん」
マテリアは何気なく頷き、どんなメニューがあるのかな、と二人でたわいない会話を交わしながら帰ってきたのだった。

 その夜、自分の部屋に戻ってひと息ついたマテリアは、ふと衣装ダンスに目を止めた。昼間ドールに言われたことを思い出して、改めて中を覗き込んでみる。
(服、かぁ…)
あんな風に言われたからには、やはりアーマーとか、家にいる時の普段着で行くわけには行かないのだろう。
(やっぱり、ちょっとはおしゃれして──)
何気なくワンピースを取って胸に当ててみながらそんなふうに思いかけた時、ふいに思いがけない言葉が胸に浮かんできた。
(…これって、もしかして──デート……?)
その単語が浮かんだ途端、胸がどきんと大きく弾んだ。
「…や…やだっ、もう…」
あわてて首を振ってみるが、胸の動悸は収まらない。マテリアは、ワンピースを抱きしめたまま壁の姿見をそっと横目で眺めた。薔薇色に頬を染めた自分の姿が映っている。彼女は、ちいさく唇をとがらせて、くるりと鏡に背を向けた。
 二人で出かけること自体が珍しいわけではない。けれど、それはいつも冒険だったり、その準備のための買い出しだったり、そうでなければせいぜい武器を買ったり修理に出したりといった用事ばかりだ。二人で、ただ楽しむためだけに出かける──というのは、考えてみれば初めてかも知れなかった。
(……初めての──デート…?)
マテリアは、我知らずワンピースに頬を埋めながら、口の中で小さく呟いてみた。とくん、と鼓動がまた早くなる。
(ドールは…そういうつもりで、アーマーはよせなんて言ったのかしら…?…まさかね…あいつが、そんな気の利いたこと考えるはず…)
そう打ち消しながらも、唇がほころんでくるのを止めようがない。マテリアは、戸棚の扉を大きく開くと、中をのぞき込んだ。浮き浮きしながら中の服を見回して、ちいさく首を傾げる。
(なに、着ていこう?)
普段からもっぱらアーマーを外出着代わりにしていることからも分かるとおり、彼女はあまり自分を飾ることに興味がなかった。自分の容貌も、十人並みよりは上だろうとは思うのだが、それが他の人からどう見えているかとか、よりよく見せることとかに関心を向けたことがほとんどなかったと言ってもいい。
だから、いざおしゃれを、と思っても、どうすればいいのか今ひとつよくわからないのだ。自分にどんな色が似合うのか、どんな髪型が似合うのか、真剣に考えてみたことさえないのだから。
普段赤いアーマーを愛用してはいるが、それは最初にフロイドがあつらえてくれたアーマーが赤だったので、なんとなく同じ色を選んでいるだけのことだし、髪にしても自分の金髪が気に入っているのは確かだが、同年代の女の子たちがするようにしょっちゅう髪型を変えてみたりするわけでもない。
普段でさえそうなのだから、デートなどということを意識した時、困ってしまうのは当たり前だったろう。マテリアは、並んだ服を見回して考え込んでしまった。
数がそんなに少ないわけではないのだが、彼女の服選びの基準が、まず動きやすく、武器を持ち運べることにあったりするので、あまり華やかなものがないのだ。
いくつかの服を、取り出しては戻してみた後で、彼女は一番奥にかかっていたドレスを取りだした。柔らかなピンク色のワンピースで、ふわりとしたジョーゼットの生地でできている。これは、エミーが結婚する前、一緒に暮らしていた短い間に、彼女にせがまれてお揃いで作ったものだった。エミーが淡いラヴェンダー色、マテリアがピンク色。この服を着たエミーは、姉のマテリアが見てもうっとりするくらい気品にあふれて、優美に見えたものだ。その、あまりに似合うエミーを見てしまったものだから、かえってマテリア自身は「これは私向きじゃないわね」と箪笥の奥にしまい込んだまま、結局一度も人前に着て出たことがないのだった。
(これ…ドールも、見てないわよね…)
マテリアは、その服を胸に当てると、そっと鏡の方を振り返った。作ったのは16の時だが、ゆったりしたプリーツをとり、ひだをたたんだデザインのおかげで、作った時より更に女性らしいラインになっている今の彼女にも合わなくはないようだ。
(ひらひら…しすぎかな…でも、新調してる暇ないし…)
胸に当てたまま、くるりとその場で回ってみる。ふわりとスカートが広がって、優雅に揺れた。
(…デート…なんだったら、いいわよね、これくらい女の子っぽい服でも…)
言い訳するように呟いてみてから、自分の言葉に自分で照れてしまう。
(べ、べつにデートって決まった訳じゃないけど…)
彼女は、今着ている普段着を脱ぎ捨てると、そのワンピースに袖を通してみた。鏡の前に立ってみる。作った時に着てみた記憶の中の姿より、今の方が似合って見える…ような気がする。
(そうだ、あのイヤリング)
マテリアは、思いついて鏡台の前に飛んでいった。一番上の引き出しから、大事そうに赤いビロードのケースを取り出す。ぱちんと蓋を開けると、中には淡い銀色に輝くイヤリングが収まっている。これは、ドールが彼女の誕生日にと初めて贈ってくれたプレゼントなのだ。もらってすぐに片方をなくしかけたりして大騒ぎしたもので、それに懲りて普段はつけていない。それをつけて、もう一度鏡の前に立ってみる。
(…うん、悪くない…かな…?)
首を傾げると、イヤリングが光を反射してきらりと輝く。
(あ、それと…あさってはあのトワレ、つけようかな)
以前に思いついて買ったはいいが、ドールとケンカした時に放り投げて割ってしまったのを、彼が弁償すると言って代わりに買ってきてくれたものだ。ほんのり甘い花の香りがして、彼女はとても気に入っていたのだったが、なにせ冒険に出る時にはつけるわけには行かないので(モンスターに気配を知らせることになりかねないからだ)結局しまいこんだままになっている。
 着ていく服が決まると、彼女はうきうきしながらワンピースを脱いで、また元の位置に丁寧に戻した。
(これ着て出ていったら、ドール、どんな顔するかな)
どうせ素直には誉めてくれたりしないだろうけど…でも、少しくらいは何か言ってくれるかも。マテリアは胸をときめかせながら星空を見上げるのだった。

 翌日は、なんということなく日常が過ぎていった。マテリアの方は、次の日の約束のことが気になってちらちらドールを意識したりしていたのだが、彼の方はいっこうになにを気にする風でもなかった。先日手に入れたらしい古ぼけた本を熱心にひっくり返していたり、薬草の調合リストに手を入れたり、フロイドとチェスをしたりと、ごくいつもどおりの様子である。
(のんきねー…なんか、気にしてくれてもいいのに…)
マテリアは、出かけることをいつフロイドたちに言おうかと色々迷っていたのに、ドールは約束の当日、朝食の時にやっと、おばさんに今日の夕食はいらないからと伝えたくらいだった。
「なんか、うまい店があるって聞いたから、研究に行こうかと思ってさ」
「あらま、それじゃまたドールの腕が上がるのねぇ」
おばさんはにこにこと応じている。
「まあ、期待しててよ。ばっちり参考にして、また家でもおいしいの作るから」
「楽しみにしてるわよ。…マテリアも、一緒に行くんでしょ?」
いきなり話を振られて、マテリアは一瞬口にしていたパンを喉に引っかけそうになった。
「そりゃ、うまいもん一人で食いに行ったりしたら半殺しだって脅されたから」
「…そっ…そんなこと言ってないじゃない!」
ドールは、マテリアの抗議にへへっ、と笑って舌を出して見せる。
「ちょっとはマテリアもお料理を覚えればいいのにねぇ、この子ったら食べる一方で」
「全然できないってわけじゃないわよ、ドールが上手すぎるからつい任せちゃうだけよ」
ため息混じりのおばさんの言葉に抗議になっていない抗議をしながら、彼女はドールを横目でにらんだ。彼はにやにやしながら二人のやりとりを聞いている。
「そんなの理由になりますか、ほんとに…オルジェが見てたらがっかりするわよ、いくら剣士だからってご飯は食べなきゃいけないんだから、自分の面倒くらいは自分で見られなくちゃ…」
「無駄だって、おばさん。クローブとタイムの区別も付かないような奴だもん、マテリアは」
いつものお説教に、いつもの茶々が入る。
「なによ!ちょっと料理ができると思って、言い方が意地悪よ、あんた!」
いつもの言い合い、いつもの追いかけっこ。ドールをとっちめながら、マテリアは胸の中でちいさくため息をついた。
(…やっぱり、デート、なんて雰囲気じゃないわよね…)

 午後遅くに、ドールは屋根裏の自分の部屋から降りてきた。夕食には早い時間だが、リパートンの町も久しぶりだから、早めに行ってぶらつこうか、ということになったのだ。2階のマテリアの部屋の前に立つと、軽くドアをノックする。
「行くぜ、マテリア」
「はあい」
返事があって、すいとドアが引きあけられる。その瞬間、薔薇色の光が中からあふれ出たようで、ドールは一瞬その場に立ち尽くした。瞬きもできないまま、柔らかなジョーゼットのドレスに身を包んだマテリアを見上げる。金色の髪が午後の光を浴びて、ピンク色のドレスと溶け合うように輝いていた。心なしか、淡く頬を染めたマテリアが唇をとがらせる。
「……なによ」
「………い──いや…」
慌てて幾度か目をしばたたかせると、ドールはようやくのことで声を絞り出した。
「……その…ああ──お、女の子みたいなかっこ、してるんだな」
次の瞬間、マテリアの拳骨が彼の頭の上に降ってくる。
「なによ!女の子みたいとはなんて言いぐさよ、失礼ねっ!」
ぷいと天井に向かって顎を突き出すと、マテリアはどんどん階段を下り始めた。一瞬それを見送ってから、ドールも後に続く。
「あんたが、アーマーじゃだめだって言うから無理して着たんじゃない、なのにほんとにデリカシーないんだから!」
怒ったように言いながら前を行くマテリアを眺めて、ドールはふと彼女の耳元の輝きに気づいた。
(──あ…あれ…)
前に、自分が贈ったイヤリングだ──と知って、ふと頬が熱くなるのを感じる。彼は、前髪をぐいとこすり上げて、唇がほころびそうになるのをなんとかやり過ごした。プレゼントした時に色々騒動があったりしたせいか、結局その後つけているのは見たことがなかったのだが──
(…そっか──ちゃんと、持っててくれたのか)
彼は、くすぐったいような思いで、居間のフロイドたちの方に、行ってきます、と声をかけているマテリアの後ろ姿を見つめた。

 リパートンの町は、前国王である、マテリアとエミーの父と同じ名を持つ町である。というより、何代か前の国王の名が、街につけられたのだと言った方がいいだろう。
彼女たちの父も、その由緒ある名を受け継いだうちの一人だったというわけだ。
「ここもずいぶん店が増えたわね」
マテリアは、賑わう通りを見渡しながらそう言った。
「前に来た時はそうでもなかったのに…。そういえば、ドールと会ってから最初に来た町もここだったわよね」
「そうだったな」
先に立って歩いていたマテリアが、くるりと振り向いた。スカートの裾がふわりと広がって揺れる。
「あの時はドール、なんだかきょろきょろしてたわよね」
からかうように言う彼女に、ドールは顔をしかめて見せた。
「仕方ないだろ、町ってもんが初めてだったんだから。昔のことだよ、昔の」
「ほんの4年前よ」
「ちぇっ」
渋い顔をするドールに、マテリアは軽い笑い声をたててまた先を歩き始める。
ドールは、少し目を細めて、前を行く彼女の姿を見つめた。午後の陽の光が惜しげもなく彼女に降り注いで、金色の髪や柔らかな光沢のあるドレスの生地をいっそう輝かせている。アーマー姿でさえ、人目を引かずにはいない彼女だ。こんなよく似合うドレス姿だと、さらに至るところで人々が振り返る。風がふわりと通りすぎて彼女の髪をなびかせるたびに、スカートの裾をさらりと揺らせるたびに、周囲の人々からほうというため息が漏れるのが聞こえるようでさえあった。
彼は、光を集めたかのような彼女の姿を見つめながら、しんと胸の奥が痛むのを感じていた。
 冒険の時なら──戦いの時なら、彼女の隣にいることに何の気後れも感じない。剣を振るって戦う彼女を一番よく守り、助けることができるのは自分だという自信もあるし、誰よりも彼女と息が合うのは自分だという自負もあった。
けれど──こうして平和な町の中、一人の──美しい女性としての彼女の隣には……
「ドール!」
いつの間にか、少し先に行ってしまっていたマテリアが、振り向いて彼を呼んだ。知らないうちに歩調をゆるめていたのに気づいて、彼は顔を上げて足を早める。
「なにぼーっとしてるのよ」
「別に?」
笑顔を返しながら、彼はけして消えることのない痛みを胸の奥に押し込めようとするのだった。 
 
 夕食にはまだ早い時間でもあるし、新しくできたという公園に行ってみることにして、二人はぶらぶらとその緑の濃い一角へやってきた。まだできてから間がないせいか、さほど背の高い木は見あたらないが、気持ちよく整備された公園の中には、きれいに刈り込まれた植え込みが茂り、人工的に引き込んだ川が流れている。その川伝いに歩きながら、二人は何と言うこともない会話を交わしていた。
「ちょっとこない間に、なかなかいいところができたじゃない」
「シビルが計画したのかな…気が利いてるよな」
芝生には、親子連れやカップルがのどかな時間を楽しんでいる姿が見える。マテリアは、腕を組んだカップルが通り過ぎるのをちらりと横目で見ながら、
「ま、あいつにしては、というか、あいつらしいというか、ね」
と答えた。川の向こう岸を眺めているドールの横顔を見やって、微かに唇をとがらせる。
(…なによ、もう…)
木々が緑の影を落とし、小川のせせらぎが耳に心地よい。寄り添いあう恋人たちの姿も、ちらほら見える。
(…けっこう…いい雰囲気の場所なのに…)
せっかくおめかししてきて、華やいで浮き立つ気分だったのに――ドールときたら、いっこうにそんな彼女の気持ちに気づいてくれていないらしい。それどころか、何だかいつもより素っ気ないような気さえする。マテリアは、そっと銀色のイヤリングに手をやった。
(…これ…気がついてくれてないのかしら…?…それに、トワレも…)
彼女がイヤリングを微かに鳴らしてちいさく息をついた時、ドールがひょいと振り向いた。マテリアは慌てて手を下ろすと、空をふり仰ぐ。
「…な、なんか、喉乾いてきたわね」
取り繕うように口にした言葉だったが、それを聞いたドールはぐるりと辺りを見回した。
「そうだな、結構日差し強いし。…向こうの方に飲み物売ってるスタンドがあったから、買ってきてやるよ」
「…あら、親切じゃない」
「喉乾いたからってレストランでワインがぶ飲みされたらかなわないからな」
「…なによ、もうっ、人のこと呑んべみたいに…」
頬を膨らませるマテリアに、ドールはちらりと笑いかけた。
「そこのベンチで待っててくれよ、すぐ戻るから」
そう言い置くと、身を返して早足で歩き出す。マテリアは、あ、と1、2歩追いかけかけて、思い直して立ち止まった。ドールが指していったベンチの方へ、ぶらぶら近寄って腰を下ろす。ベンチはちょうど木陰になっていて、さらさらいう葉ずれの音が心地よかった。
(ドール……)
木々の梢を見上げながら、ぼんやり彼の名を呟く。
やっぱり、なんだかいつもと違う感じがする──軽口をたたいたり、意地悪を言ったりはするけれど、普段より何となく、こう──少し離れたところに立っているような…。うまく言葉にはできないし、理由も分かるわけではないのだけれど…。
(やっぱり…この服が、気に入らなかったのかしら…──似合わなかった、のかな…だから、あきれてるのかも…)
なんとなくしょんぼりした気分になって、彼女はため息をついた。

 しばらくそうして5分ばかりも座っていただろうか。彼女は、ふと足下に影が落ちたのに気づいて顔を上げた。
「──ここ、座ってもいいですか?」
栗色の髪の青年が、控えめな笑顔を向けて立っている。どうぞ、と答えて、彼女は少し端っこに身を寄せた。青年は軽く会釈して腰を下ろす。誰かと待ち合わせかしら、とマテリアがちらりと思った時、青年はどこかまぶしいものを見るような笑顔を彼女の方に向けた。
「…ここは、気持ちのいい場所ですね」
「ええ、そうね」
何気なく相づちを打つ。
「僕は、たまに散歩にくるんですよ…天気のいい日は、ここに来るとほんとうにのびのびします」
「…私は、ここは初めて来たけど、悪くないわね」
「ああ──それじゃ、この町の方じゃないんですね」
青年は、人なつこそうな笑顔を見せた。
「あら、どうして?」
「だって、この公園ができた時は、大きな祭りがあって、それこそ町中の人間がやってきたんですよ。国王陛下も見えたくらいですから」
「あら」
マテリアは、さっきここはシビルの計画かな、とドールと話したことを思い出して、くすりと笑った。青年は、彼女の笑顔に励まされたかのように、少し身体を彼女の方に向けた。
「あの、──失礼ですけど、初めてなんだったら、この中、ご案内しましょうか?…その、もし、時間あれば、ですけど…」
はにかんだような笑顔で懸命に話しかける青年の顔を眺めて、マテリアは2、3度瞬きした。
「せっかくだけど──連れがいるから」
「…ああ──」
がっかりしたような表情が青年の顔をちらりとよぎる。が、すぐに気を取り直したように笑顔を浮かべると、川の下流の方を指さした。
「…あの流れを曲がった向こうの方に、ちょっと穴場みたいなカフェテラスがありますよ。噴水がちょうどよく見えて、一休みするのにいい場所です」
「ふうん…」
マテリアが、じゃあそこまで歩けばよかったかな、と思った時、さっきの道から、ドールが戻ってくるのが目に入った。
「あ」
彼女は、思わず立ち上がって手を振る。
「ドール!」
青年は、つられるように立ち上がると、彼女と同じ方を振り向いた。やってくるドールの姿を認めると、どこか安心したような──微かに希望を取り戻したかと見えるような表情をちらりと浮かべて、マテリアの方を振り向く。
「お連れって──弟さんですか?」
「違うわよっ!」
いきなり怒鳴りつけられて、目を丸くして立ち尽くす青年に、マテリアはつんと顎をそびやかした。
「それじゃ、連れが来たから」
短く言い捨てると、さっさとその場を離れてドールの方へ歩き出す。
「…あの──」
困ったような青年の声がしたが、振り向きもせずに足を進める。両手にコップを持ったドールが、きょとんとした表情で足を止めるのが目に映った。大股にドールの元へ歩み寄ると、いぶかしげな顔で彼が声をかけてくる。
「…どうしたんだ?」
「さ、いこ!」
「え?」
いきなり腕をつかんで引っ張られて、ドールは目を白黒させた。
「わ、わ、マテリア!ジュースジュース!ジュースがこぼれるってば、おい!」
大慌てで、コップの平衡を保とうと騒ぐ彼の手から、マテリアは片方のコップをもぎとった。足を止めないまま、中身を一息に飲み干してしまう。
「…そっちが僕のなんだけどー」
情けない声で呟くのを無視したまま、ドールを引きずって道を2回ほど曲がると、ようやく彼女は足をゆるめた。視線をドールの方に向けて、彼のあきれたような表情に出会うと、慌てて彼の腕をつかんでいた手を離す。
「…なんだよ、一体?」
「…別にっ!」
彼女はいらだたしげに髪を後ろに払うと、空っぽのコップをぎゅっと握りつぶした。傍らにあったゴミ箱の中へぽんと放り込む。
「…だからさ、そっちが僕のグレープフルーツだったんだけど」
苦笑するような声でドールはそういうと、もう片方のコップを差し出した。
「これがマテリアのアップルジュース」
「…いいわよ」
「飲んでいいから。…あんな剣幕でひとを引きずって歩いたら喉乾いただろ」
マテリアは、ぷっと頬を膨らませながらコップを受け取った。
「…で?なんだよ、一体」
「…だから、別に!…ただ、さっきの人が…」
「さっきのって?」
「ベンチで、隣に座ってた人!…あの人が、ドールのこと、弟ですかなんて言うから頭に来ただけよ」
ドールは、ちらりとマテリアの顔を見上げると、両手をポケットに突っ込んだ。
「…そりゃ、しょうがないだろ?それ以外に見ろっていう方が無理なんだって」
「そんなことないわよ!…失礼じゃない!」
「なんで君が怒るんだよ」
「…そりゃ…、だって…ぜ、全然似てないじゃない、私とドールなんて!」
一瞬目を丸くすると、ドールは声を立てて笑い出した。
「なによっ、何がおかしいのよ!」
抗議しながらも、自分の言葉のちぐはぐさがだんだんおかしくなってきて、とうとうマテリアも笑い出してしまった。いったん笑ってしまうと、腹を立てていた気持ちもどこかへすいと流れ出てしまって、彼女は空を仰いで大きく息をついた。
手にした好物のアップルジュースを飲み干すと、今度はつぶさないでそのままくずかごに投げ入れる。空のコップは、きれいな放物線を描いてかごの中に落ちた。
コップの行方を見送ると、ドールは彼女の顔を見上げて言った。
「…じゃ、そろそろ行ってみようか?店の方」
マテリアは、彼に微笑み返しながら頷いた。

 目的の店は、こじんまりとした入り口に青い日除けのかかった、さほど大きくない店構えだった。中に入ると、外から見たよりは広い店内に、ゆったりした配置でテーブルが並べられている。満員というわけではないが、この時間にしては埋まっているテーブルが多いようだ。ぱりっとした制服に身を包んだウェイターが出迎えてくれる。
「…お二人様ですか?」
控えめな笑顔で、ウェイターがマテリアに問いかけた。いつものことでもう二人とも慣れっこだが、たいていどこの店でも、初めて行く時はまずウェイターはマテリアに話しかけてくる。一見すれば、大人と子供の組み合わせに見えるのだから、仕方ないと言えば仕方ないだろう。ちらりと背後を伺うような表情を見せていたウェイターの視線を遮るように、
「ええ、二人よ」
マテリアがきっぱりと言い切る。ウェイターはそれを聞くと、一瞬目を見開いたが、すぐに頷いて二人を席に案内した。普段でもそうなのだが、今日はマテリアがドレスアップしていたりするもので、よけいにエスコートする男性がいるものだと思われたのだろう。
席に着くとメニューが渡される。
「今日のお勧めは何?」
「キノコのサラダ、ゴルゴンゾーラソースと、イワオドシのポワレ香草風味です」
見上げて聞くドールに、ウェイターは丁寧に答えた。
「あ、おいしそう。私それにしようかな」
メニューを眺めていたマテリアが、それを聞いて嬉しそうに言った。
「僕はこっちのテイルシチューにしようかな、やっぱり。サラダはお勧めにするか」
「オードブルはどれがいいかしら?」
「そーだなー、メインが魚なら、このテリーヌなんかいいかもな」
にぎやかに会話しながら決まっていくメニューを、ウェイターが書き取る。一通りコースが決まると、ウェイターはいったん引っ込み、ソムリエがワインリストを持ってやってきた。例によってワインリストはまずマテリアに差し出される。
が、彼女はざっと目を通しただけですぐドールにそれを渡した。ソムリエが、おやという顔をするが、これにももう二人とも慣れっこである。
「どれがいいと思う?」
「魚だろ。ポワレなら…こっちの白かな。一昨年あたりにいいのができてたはずだから、それな。僕は…そーだな、シチューにどのワインが使ってあるかにもよるけど──この赤あたりかな…56年のやつ」
このあたりで、ソムリエの不審そうな表情が、きょとんとしたものに変わるのもいつものことだ。
「私の方がずいぶん高いんじゃない?」
「値段じゃねーの、料理との相性なの。…食前酒は、彼女にはシェリー、僕はドライヴェルモットを」
「かしこまりました」
言葉どおりにかしこまった様子で、ソムリエが下がっていく。その後ろ姿を見送って、マテリアがくすりと笑った。
「なんだよ?」
「ううん、前にサリダできどった店に入った時のこと、思い出して」
「ああ」
ドールも、テーブルに片ひじをついてちらと笑う。
「あの、マテリアが大騒ぎした時のことな」
「べーだ」
マテリアが舌を出してみせる。以前入ったレストランで、ワインを注文したドールに、ウェイターが慇懃無礼にお子さまにはお酒はお出ししかねますと言ったことがあったのだ。例によって、その言葉に怒って大騒ぎしたのはマテリアの方で、結局その夜は夕食抜きになってしまったのだった。
「ほんと、なんにも分かってないやつが多くてやになっちゃうわよ」
ふいと視線を宙に浮かせながら、マテリアが半ば独り言のように呟く。ドールは、彼女の顔をちらと見てから、黙って真っ白なテーブルクロスに視線を戻した。

 評判どおり、料理は抜群においしかった。マテリアは大喜びでひたすら詰め込むし、ドールはドールで、一皿ごとに材料や調味料をいちいち分析してみせてマテリアにうるさがられた。いつもどおりに、ドールが選んだ料理の取り合わせやワインと料理の相性は抜群で、それにはマテリアもご機嫌でいくども乾杯をして見せたのだったが。
 最後に香り高いコーヒーが出ると、二人はすっかり満足して、たっぷりチップをはずんで店を出た。満足げに、マテリアがうんと伸びをする。
「おいしかったわねー、もう大満足」
「そりゃあ、あれだけ景気よくワインを空けりゃあなー」
からかうように言うドールに、マテリアは悪戯っぽく舌を出してみせる。
「だーって、すっごくおいしかったんだもん。ほんと、お料理とワインと、一緒になるとますますおいしくなるのって不思議よねぇ」
彼女は、一度店の方を振り仰いでから、ドールに向き直った。
「また来ましょうね」
「そうだな。──じゃあ…」
ドールは軽く頷くと、もうすっかり暗くなってしまった空を見上げた。マテリアは、一瞬彼のその背中を見てから、慌てて彼の前に回り込む。
「──ね、ねえ、…もう一度、公園に寄っていかない?」
帰ろうか、と言いかけていたドールは、え?とマテリアの顔を見上げた。
「公園?…なんで?」
「あ…あのね」
酔いも手伝って思い切って言い出したものの、なぜかいつものようにいいから行くの、と押し切れなくて、マテリアは慌てて理由を探した。
「…あそこ、噴水ができてるんですって。さっきは見られなかったから…見に行きたいのよ、ね?」
マテリアのドレスの裾が、さらりと揺れた。ドールは、一瞬黙ってから、少し首を傾げて苦笑した。
「…まあ、いいけど。でも、噴水なんて、今度昼間に来た方がいいんじゃないのか?」
「いいじゃない、せっかくここまできてるんだもの」
マテリアは、ドールが頷いてくれたのにほっとして、飛び立つような笑顔を見せた。
ドールは、彼女の笑顔をちらと見上げてから、
「じゃ、行くか」
と歩き出す。横を通り過ぎるドールに、マテリアは慌てて身を返して追いついた。