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マテリアは、ぼんやりと目を覚ました。頭が、鉛が詰まっているかのように重い。彼女ははっきりしない瞳で天井を見上げた。―――いつもの、自分の部屋、のようだ。けれどなにか妙にしっくりこない感じがする。彼女が、枕の上でぐるりと頭を巡らせた時、部屋の扉が滑るように開いた。
「あら、やっと目が覚めたのね」
そう声をかけて、軽い足取りでベッドに近づいてくるひとの顔を、マテリアは信じられない思いで見つめた。
「二日も眠ったきりだなんて心配させるんだから、この子は」
ふわりとベッドの端に腰を下ろし、マテリアの額に掌をあてがう。
「――まだ、ちょっと熱があるかしらね」
安心半分、心配半分といった表情を美しい顔に浮かべるそのひとを見上げて、マテリアの唇から途切れ途切れの言葉が漏れる。
「……お……かあ…さん……?」
「なに?」
微笑んでこちらを覗き込むファミルザは、マテリアの記憶――マハルの呪文で時を遡った時の――の中の母そのものだ。
「具合はどう?だるくない?食欲は?」
ファミルザはマテリアの髪をなでつけながら、気づかわしげな声でそう聞いた。
(そんなわけない)
マテリアは、混乱しきって凍りついたようにファミルザの顔を見つめ続ける。
(夢よ―――夢に決まってるじゃない)
けれど、髪をかき上げてくれる優しい手の感触も、さらさらいう衣ずれの音も、ほのかに甘い香りも、どうしても幻とは思えない。マテリアは、思わず固く目を閉じた。
(こんなこと、ある訳ないじゃない――第一、私は今まで――)
彼女は、ぎくりと瞳を開く。――今まで、何をしていたのだろう――?
ついさっき、目を覚ますまで。
眠っていた…のだろうか?そうらしいけれど、でも、それじゃその前は――
(…普通の、毎日よ。そうに決まってる。ごくふつうの――)
懸命に眠りにつくまでのことを思い出そうとする彼女の耳に、不意にもう一つの懐かしい声が飛び込んできた。
「ああ、マテリア。目が覚めたのか!」
ほっとした様子でそう言いながら、そのひとは部屋に歩み入ってくる。
「…うん、大分顔色もいいな。これなら安心だ。心配で出発を延ばそうかと思ってたんだが」
「病気の娘を放っておいてモンスター退治だなんて、呑気な父親ね、ほんとに」
悪戯っぽい調子で言うファミルザに、リパートンは朗らかな笑顔を向ける。
「そう言うな、王妃様。これで国王も大変なんだからな」
そう言ってファミルザと笑顔を交わすと、リパートンはもう一度マテリアの顔を覗き込んだ。
「行ってくるよ、マテリア。お前が行けないのは残念だが、なあに、あの程度のモンスターどもならうちの近衛兵たちで十分だ。フロイドもいることだしな」
明るい調子で言って小さくウインクをする父を、マテリアは声もなく見つめていた。
(――だって――パパは―――パパは――)
何をどう言葉にすればいいのか分からないまま、ただ大きく目を見開いて両親を見つめつづけるマテリアの額に、リパートンは無造作に軽く唇を触れた。
「ちゃんと寝てて、早く治すんだぞ、このおてんば娘。起き出して追っかけてきたりするんじゃないぞ」
そう言うと、軽い笑い声を立てて身体を起こす。
「それじゃ、ファミルザ、後は頼む。フロイドが待ってるんでな」
「ええ」
父の――もうとうにいない筈の父の言葉に出てきた名前に、マテリアはようやく気づいてのろのろと瞳を上げた。
「……フロイド……?」
「じいやが心配か、マテリア?大丈夫、あの歳でもまだまだ若い者には負けんとさ。元気一杯だよ」
リパートンは妻と娘に軽く頷きかけると、軽い足取りで出ていった。それを見送って、ファミルザはマテリアにもう一度視線を戻す。
「食欲はあるの、マテリア?エミーが心配して、消化のよさそうなものをいろいろ作ってるわよ」
マテリアは目を閉じると、ぎこちなく首を振った。
(――こんなことって――こんなことって―――)
何が何だか分からない。本当の訳がないのに、全てがまるで現実そのものだ。シーツの手触り、やや散らかった自分の部屋の様子、暖炉に燃えている火の暖かさ。
ファミルザは、目を閉じてしまった娘の様子を心配気に見つめると、ふと思い出したかのように微笑んで軽くマテリアの腕を叩いた。
「…そうそう、ドールにあなたが目を覚ましたこと、教えなくちゃね。随分心配してたから」
マテリアは、弾かれるように瞳を開けた。
(ドール)
「……ドール、は…?」
僅かに息を途切らせて咳き込むように尋ねるマテリアに、ファミルザは落ちつかせようとするかのように笑顔を向ける。
「今朝までずっとあなたについてたんだけど、無理しちゃだめってエミーが部屋に追い返したのよ。ほっとくとあなたが気がつくまで3日でも4日でも徹夜しそうだったから」
ファミルザは手を伸ばしてマテリアの毛布を直すと立ち上がった。
「おとなしく寝てるのよ」
そう言い残すと、軽い足音を残して部屋を出てゆく母の姿を、マテリアは泣き出しそうな瞳で見送った。
どうしても、眠る前のことが思い出せない。熱を出して寝込んでいたと、母も父もそう言う。けれど――
(だって、パパもママも、もう―――)
自分の記憶を言葉にして確かめてしまったら、何もかもが消え失せてしまうのだろうか。
夢、かもしれない。とても夢とは思えないほど全てがはっきりしているけれど、やはり夢でしかありえないではないか。夢でなければ、幻覚―――
(でも―――)
混乱しきった彼女が毛布を顔まで引き上げた時、扉の外に小走りの足音が近づいてきた。
急いでいるらしく、軽く短いノックの音がして、彼女が返事をする前に扉ががちゃりと開く。
「……マテリア!」
駆け込んできたドールの姿を見た時、マテリアは思わずベッドの上に起き上がっていた。
「―――ドール……!」
懐かしい姿―――これだけは、確かに本当だと信じられる存在。
「ばか、起きちゃ駄目だよ。寝てろよ、ほら!」
ドールは大急ぎでマテリアの側へやってくると、彼女を横にならせようとする。しかし彼女は駄々をこねるかのように首を振ると、固く毛布を握りしめてベッドの上に座り込んでしまった。ドールは困ったようにそんな彼女を見つめると、仕方ない、とでも言いたげなため息をついて、彼女の背中に枕をあてがってやった。
「…大丈夫かよ。ほら、こっちにもたれて。…無理すんなよ」
ひとしきり彼女の世話を焼くと、ドールはベッドの端にそっと腰を下ろした。マテリアが瞳を上げてドールを見る。
「…熱、大丈夫なのか?ファミルザは、まだ少しあるみたいだって言ってたけど」
夢だとしか思えないさっきからの出来事を訴えようとしていたマテリアの唇が、ドールの言葉に凍りつく。
今、確かにドールはファミルザの名を口にしなかったか。まるで、そのひとが存在しているのが当然のように。
切り出すべき言葉を失って、微かに唇をわななかせながらドールを見つめるマテリアを、彼は心配気に見やった。その、彼の腕がすいと伸びて、マテリアの額に軽く触れる。マテリアはびくりと身体を震わせて、とっさにあらぬ方角へ視線を逸らせた。
「…やっぱ、少し…あるのかな」
彼女の額から手を下ろしながら、ドールがどこか困ったように呟く。
「僕の魔法じゃ、病気は治せないから…ごめんな」
済まなそうな、優しい――と言ってもいいような口調で言うドールに、マテリアは少し驚いたように振り向いた。普段の彼なら、もっとずけずけと遠慮のない事を言う筈なのに。
(マテリアが寝込むなんて嵐でも来るんじゃないかとか、君に取りつくなんてよっぽど物好きな病気だなとか―――)
ドールが、身体を乗り出して彼女の隣に膝をつくと、ふわりとその肩を抱き寄せる。照れるでも、気負うでもなく、ごく当たり前のようなさりげなさで。
「…熱―――早く、下がるように……」
囁くような言葉とともに、彼の唇がマテリアの額に軽く触れる。
マテリアは、身体をすくませて息を止めた。全身の血が一斉に昇ったかのようにかっと頬が燃え上がり、思考が止まる。
そっと、ドールの顔が彼女の額から離れる。
「……な……」
からからになった喉から、マテリアはようやく言葉を絞り出した。
「……な…に……?」
「…え…」
ドールは、僅かに顔を赤くして、困ったようにマテリアの瞳を見下ろした。
「…だから、その……熱が、下がるようにさ―――ええと…」
小さく言葉を途切らせてから、思い切ったように続ける。
「これじゃ――――足りない……?」
「――そ…そうじゃなく…って――あの……」
しどろもどろに言葉をつなごうとするマテリアの頬に、ドールの指が触れた。
(―――え―――)
軽く、顎が引き寄せられ―――唇にドールの吐息が触れる。
マテリアの頭の中が真っ白になった。
(――――!)
―――気がつくと、ドールが少し離れたベッドの端に座り込んで、驚いたような瞳で彼女を見上げていた。
自分が、彼の腕をとっさに振り払ったのだ、ということを飲み込むのに、しばらく時間がかかる。彼女は、震える両手で口を覆った。胸が張り裂けそうに激しく波打っている。
「…マテリア……?」
ドールが、何が何だか分からない、といった表情でマテリアを見上げて、問いかけるように呟く。彼女は、金縛りにあったように彼を見つめたまま、微かに震えていた。
(―――ドールが―――)
(どうして――私に)
(どうして)
ばらばらの言葉が頭の中を飛び回る。どこかぎこちない、ちぐはぐな空気が二人の間に流れた。
不意に軽いノックの音がして、扉が開いた。
「お姉さん」
「…あ、エミー」
ドールが、救われたように入ってきたエミリータの方を振り向く。マテリアは、ようやく呪縛が解けたかのように彼から視線を逸らせた。エミリータは、銀色の盆を捧げ持って部屋のなかに入ると、ゆっくりと後ろ手に扉を閉める。
「目が覚めてよかったわ。食事を持ってきたけど、食べられそう?」
「…あ、おいしそうだなあ」
ドールがベッドを滑り下りて、歩み寄るエミーの持った盆の上を覗き込む。
「ドールの分もあるわよ、お台所に。どうぞ召し上がれ」
「…うん、じゃ、食べてくる」
ドールは扉を開けると、肩ごしにちらりと振り返って微笑った。
「あとでな、マテリア」
扉が閉まり、足音が遠ざかってゆく。マテリアは小さく震える吐息をついた。こわばっていた肩の力が一気に抜ける。サイドボードに料理の載った盆を下ろしていたエミーがそれに気づいて、マテリアの顔を覗き込む。
「…どうかしたの、お姉さん。ドールと何か…?」
「…え…―――ううん…」
双子の妹の勘のよさにぎくりとさせられながら、マテリアはエミーの視線を避けるように髪をかきあげた。
「…ただ、…ちょっと――ドールが…ヘン、だったから」
言いながら、頬に血が上るのを感じる。こんな言い方で、エミーをごまかせるだろうか。
どんな風に、って聞かれたら―――
しかしエミリータはマテリアの言葉を聞くと、ああ、と頷いて、心得ていると言いたげな微笑を浮かべた。
「きっとお姉さんのこと、とっても心配してたせいね。いきなり恋人が寝込んじゃったら誰だって動転するわ」
「…こっ――恋人って誰のことよっ!冗談じゃないわ!!」
妹の言葉に、不意にいつもの調子を取り戻して叫んだマテリアの剣幕を見て、エミリータは驚いたように一瞬目を丸くした。が、すぐにいつものおっとりした調子を取り戻して、くすりと笑う。
「いやね、お姉さんったら。半年も経つっていうのに、まだそんな意地張ってるの?それじゃドールがかわいそうじゃない」
ムキになって否定の言葉を続けようとしたマテリアは、エミーの言葉にふと息を呑んだ。
「…半…年…?」
「そうよ」
エミリータは、ナプキンをマテリアの膝の上に拡げながらさらりと頷く。
「大臣たちに、王族の立場なんかよりドールの方が大事だってタンカ切ったじゃないの。あそこまで女の子の方に言わせなきゃハッキリしないドールもドールだったけど」
そう言って、エミーは姉の膝に料理の盆を置いた。暖かな湯気が、皿から立ちのぼる。
「でも、私もシビルも一生懸命けしかけてたのに全然ダメで、むしろ反対されてやっと素直になるなんてお姉さんたちらしかったわね」
エミーの悪戯っぽい言葉は、もう半ばマテリアの耳に入ってはいなかった。
(私と――ドールが……?)
呆然と胸の中で切れぎれの言葉を繰り返す。エミーがスプーンを渡して食事を勧めてくれる。マテリアは機械的に料理を口に運んだが、味はひとつも分からなかった。ぼんやりしている彼女を見てエミーは、まだ熱があるのかしら、としきりに気づかう。けれど、マテリアはろくに返事もできなかった。
食事が終わる頃、再びファミルザが顔を覗かせてマテリアの食の進み具合を尋ね、ベッドを整え直す。心配気にエミーと言葉を交わし、ちゃんと寝ていなさい、と言い置くと、二人は一緒に出て行った。
一人になると、マテリアは額を押さえて目を閉じた。
(―――どういうことなの…)
もう幾度目になるか判らない言葉を繰り返す。
(…ママがいてパパがいて…おじいがいて…エミーとシビルがいて―――私とドールが…?)
判らない。夢の筈だと思うのに、何もかもがあまりにも現実的すぎるのだ。両親も妹も、ドールでさえ、当たり前のようにこの“現実”の中で暮らしているように見える。疑っているのは彼女一人なのだ。
(…それに―――)
これが夢なら、夢を見るまえの自分は一体どうしていたのだろう。どうしても思い出せない。――さっきまでは、確かに夢だと思う気持ちが強かったのに、なんだかどんどん現実を――今まで過ごしてきた筈の、本当の“現実”を思い出すことが難しくなってゆくような気がする。
(…それとも、覚えてる全ての方が――夢……?)
――それじゃ、いけないのか――?
微かに、頭の奥でそう呼びかけるものがある。
彼女は、激しく頭をふった。
扉に軽いノックの音がして、ドールが顔を覗かせた。
「…あ、また起きてるな」
彼は小さく眉を寄せると、すいと部屋に入って来た。手には小さな盆を持っている。
「…ドール…」
彼に気づいて顔を上げたマテリアに、ドールは笑って盆の上を指してみせた。
「食後の薬だぜ」
彼女に歩み寄ると、湯気の立っているコップを差し出す。マテリアはそれを受け取って中を覗き込んだ。濃い緑色をした半透明の液体が半分ほど入っている。つんと、薬草の匂いがした。ドールは自分でも薬草だの魔法薬だのをいじくり回すのが好きだから、これも恐らく彼の調合だろう。マテリアは、しかめ面でコップの中をにらみつけたまま唇を尖らせた。
「…やだ、苦そう」
「良薬口に苦し。――ちゃんと飲めよ」
きっぱりと言うドールに、マテリアは抗議するように顔を上げる。
「…私、どこも悪くなんかないわよ」
「何言ってんだよ、丸二日もうなされてたくせに。ほれ、ぐっと飲む!」
有無を言わせぬ口調でそう言うと、彼はベッドの端に腰を下ろした。飲むまで、てこでも動かないであろう彼の視線に、マテリアはしぶしぶコップに口をつける。思い切ってぐいと飲み干すと、思った通り――というより、思った以上の苦みが口中に広がった。思わず情けない唸り声をあげて舌を出す。
「ほい、口開けて」
すかさずドールが言葉を掛ける。え、と顔を上げたマテリアの口に、ぽんとピンク色の小さな固まりが放り込まれた。それは、口の中ですうっと溶けて広がる。
「…わ、甘い…」
(…ボンボン?)
思わずドールを見やったマテリアは、微笑んでいる彼の瞳に出会ってあわてて目を逸らした。少し、胸の鼓動が早くなっている気がする。ドールは彼女の手からコップを受け取って傍らのテーブルの上に置くと、また元の位置に腰を下ろした。
しばらく、穏やかな沈黙が流れる。ドールがどこか心配そうなまなざしで自分を見つめているのを感じて、マテリアは落ち着かない気分でかすかに身じろぎをした。幾度か口を開きかけてためらい――ようやく、彼の名を呼ぶ。
「…ドール…」
「ん?」
マテリアは彼の顔を見ないまま、ためらいがちに次の言葉を口に出した。
「…あの…ね、……半年前…のこと…って――…覚えてる………?」
「……な、なんだよ、急に」
ドールは不意をつかれて驚いたらしく、たじろいだように身体を起こした。頬に、かすかに赤味がさしている。
「それがどうしたのさ。聞いてどーすんだよ、そんなことっ…」
「…聞きたいのっ。―――覚えてるの……?」
マテリアは自分を励ますように、強い口調で重ねて尋ねた。
ドールは、困ったように視線をさまよわせると、小さく咳払いをする。
「………そりゃ……忘れるわけ……」
ないだろ、と言ったらしい語尾が、口の中にくぐもって消える。マテリアは、軽く唇をかみしめると、彼から視線を外した。彼女の様子に気づいたドールが、いぶかしむような―――そしてどこか不安げな表情でマテリアを見つめる。
「……どうしたんだよ、マテリア……」
マテリアは、真っ白なシーツを見つめてしばらく黙っていた。
エミーは、半年前からマテリアとドールは一緒に住んでいるのだと言った。正確には、フロイドも一緒に、だが。王女としての立場と義務を説いて大臣たちが勧めた他国の王族との縁談を、彼女は自分にはドールがいるから嫌だと蹴飛ばした。そして、慌てふためく大臣たちを尻目に王宮を飛び出して、生まれた時から守役だったフロイドの家に転がり込んだのだと。
「あの時の大臣たちの顔ったらなかったわね」
エミーは、今思い出しても笑えてくる、といった調子でそう言ったものだ。
けれど、マテリアは笑えなかった。
(知らない)
(そんなこと―――覚えてない)
彼と出会ってからのことは全て覚えている。忘れてしまいたいような哀しい出来事まで、一つ残らず。もし、本当に彼と思いが通じ合ったのなら、それを忘れてしまうわけがないではないか。
何度も、言ってしまおうとしてはどうしても口にできなかった思い、本当のことを聞きたいと幾度も切ないほどに願ったあの思い。
マテリアは、まるで一人言のように途切れがちに呟いた。
「……そのとき……私のこと…――好きって――言ったの……?」
ドールは彼女の呟きを、自分の気持ちを確かめようとしたのだという風に取ったのか、先刻以上に顔を赤くしてちょっとつっかえながら言った。
「い――今だって…そうだぜ」
どきん、とマテリアの心臓が鳴る。思わず彼の方に向けたマテリアの瞳が、真剣に彼女を見つめているドールの瞳とぶつかった。
―――そのまま、目が離せなくなってしまう。
ドールが、そっと身体を起こすとゆっくりと彼女の隣へやって来た。ベッドの上に片膝をついて身を乗り出すと、彼の動きを目で追う彼女の肩に手を回す。軽く引き寄せられて、マテリアの身体がドールの胸にぶつかった。
自分の鼓動の音が、部屋中に響いているのではないかと思える。マテリアは、ちいさく息を飲み込むと、震える指で膝の上の毛布を握りしめた。
ドールの掌が、マテリアの頬を包みこむ。マテリアは、思わずびくりと目を閉じた。
唇が、ふれあう。
思いを込めた、優しいくちづけ。
マテリアは、瞳を閉じてただ微かに震えていた。
ドールは静かに顔を上げると、どこか困ったような微笑を浮かべてちいさく囁いた。
「……今度は――怒らない…?」
そう言いながら、まだ閉ざされたまま震えている彼女の瞼にやわらかくくちづける。
彼は、そっと彼女の身体を抱き寄せると、その背中に腕を回した。流れ落ちる金色の髪をゆっくりと指で梳く。マテリアは、ようやく僅かに瞳を開けた。ためらいながら、彼の肩に頬を寄せる。ドールの腕が、優しく彼女の頭を抱き締めた。マテリアは再び瞳を閉ざすと、おずおずと彼の背中に手を触れる。
(…暖かい…)
ドールの身体の温もりが、直に伝わってくる。触れ合っているだけで、暖かく満たされるような心地よさ。髪に触れてくれる指の優しさ。マテリアは、固く固く目を閉じた。
―――今を、受け入れてしまえば。
自分の中にある記憶に目をつぶって、このままここにいれば、この“現実”が自分のものになるのだと、何かが囁きかけていた。
彼女が、一度は望んだ世界。失くしたものも、得られないであろうものも、全てが存在する世界。彼女の本当の世界ではけしてけして手に入らない、優しい、幸せな世界―――
――――それでも――――
マテリアは、血がにじむほどに強く唇を噛みしめた。ドールの背に回していた腕を、ゆっくりと離す。鉛で出来ているかのように重い自分の腕を、彼女は全ての意志をかき集めてようやくひき剥がした。
マテリアの動きに気づいて、彼女の顔を覗き込もうとしたドールの胸を、力を込めて突き放す。
―――胸の奥で、何かが悲鳴を上げた。
驚いたように一瞬凍りつくドールの顔を見ないまま、彼女はやっとのことで唇の間から言葉を押し出した。
「……あっちへ行ってて……!」
「…マテリア―――」
ぎこちなく彼女の肩に触れようとしたドールの手を振り払うと、彼女は一層顔を背けて叩きつけるように叫んだ。
「…行ってよっ、お願いだから…!」
ドールの動きが止まる。凍てついたような沈黙が、部屋を満たした。
やがて、ドールがのろのろと身体を起こした。自分を拒絶するかのようにこちらに背を向け、両腕を抱いてうずくまるようにしているマテリアを見つめると、ゆっくりと視線をそらし―――身体をひきずるようにしてベッドから下りる。
微かな足音が入口へと向かい、重い音で扉が引き開けられ、そして閉まるのをマテリアは背中を向けたまま全身で聞いていた。
―――足音が遠ざかり、そして聞こえなくなる。
マテリアは、そのままの姿勢でベッドにゆっくりと倒れ伏した。身体の震えが止まらない。
(こんなの―――ひどすぎる)
(あんまりよ)
閉じたままの瞼の裏側に、熱いものが溢れだす。
彼女は、幻覚をはらうためにわが身に短剣をつき立てる戦士のように、自らの心に言葉をつき立てた。
(パパは死んだわ。ママだって――こんな風に近くにはいてくれやしない)
(おじいは病気がちでとても冒険になんか―――)
マテリアの指が、シーツを固く握りしめる。
(…ドールは―――)
(ドールだって)
彼の身体を突き飛ばしたときの胸の痛みが蘇って、一瞬彼女の呼吸を止める。
(あんなふうに優しくしてくれたことなんかないわよ―――きっと――これからだって―――)
彼女の閉じた瞳から、透明な滴がこぼれ落ちてシーツにしみこんでゆく。
(みんな、みんな―――幻だわ。……だけど―――)
これが、本当だったら。現実だったらどんなに―――
マテリアは歯を食いしばると、無理やり体を起こした。
(私の“現実”は、これじゃない)
気力を振り絞って、頭を上げる。
(戻らなきゃ―――元の世界に。あそこが、私のいる場所なんだもの)
たとえ、胸を掻きむしるほど切ない思いをしたとしても。どんなに願っても取り戻せないものが幾つもあるとしても。それでも、あの場所こそが、彼女が自分で選び、戦い取ってきた世界なのだから。そしてこれからも、挑み立ち向かい、慈しんで守ってゆくべき世界なのだから。
マテリアは、顔を上げて部屋の中を見回した。
(これは―――この世界は、ここだけなの…?それとも、外も、みんな―――?)
確かめなくてはならない。元の世界に戻る方法を、何とか見つけなくてはならない。
彼女の瞳に、部屋の片隅にいつものように置かれた愛用のアーマーが映った。
2階から下り、居間の横を通り抜けて外へ出ようとした彼女に気づいたのは、ドールだった。
「―――マテリア…!」
慌てた様子で居間から駆け出してくる彼を見ないまま、マテリアはその隣をすり抜けようとする。
「どこへ行くんだよ!」
「外よ。町の外っ!」
当惑したように尋ねる彼に、マテリアは短く答えた。
「…バカ言うなよっ、病み上がりのくせに!…無茶すんなよ!」
やはり彼から目をそらしたまま出てゆこうとする彼女を、ドールの怒ったような声が追いかける。
「―――おいっ…!マテリア!」
「…うるさいわね!行くったら行くのよっ!」
ようやく振り向いて叫んだ彼女を見上げて、ドールは口を開きかけた。
「―――だから……!」
説得の言葉を口にしようとして、彼女の瞳を一瞬見つめる。
「―――……わかったっ!わかったから5分待てよっ」
また身を翻そうとしていたマテリアは、ドールの言葉に、え、と動きを止めた。
「僕も行くよ、仕度してくるから!―――いいかっ、待ってろよ!」
そう言い置くや否や、彼は身を返して階段の方へ駆けだしていた。自分の部屋へ駆け上がってゆく彼の足音が聞こえる。マテリアは、その場に立ち尽くしながら、ふと新しい考えが頭の奥に灯るのを感じた。
(―――もしかしたら――ドールは、ドールなのかも―――)
彼は幻ではなくて、本当の彼なのかも知れない。自分と一緒にこの世界に入り込んでしまったのだとしたら。
(それで、私が混乱したみたいに――何か、変なことを信じ込まされて、ここが現実だって思わされて――それであんな風に振る舞ってるのかも…)
彼女は、そんなふうに思いたかったのかもしれない。何もかもが幻なのではなくて、せめてひとつ―――本当に大切なものだけは、現実だと。
マテリアはその考えに飛びつきかけて、はっと顔を上げた。
(―――そう、だとしたら―――……さっきのは――)
エミーに聞かされた話は、彼女には覚えのない話だった。けれど、さっき自分の部屋であったことは――
かっと頬に血が上る。
(…そうじゃないっ…そうじゃなくって、…これは――これは本当じゃないからっ……)
また混乱しはじめた彼女が、自分に向かって必死で言い訳を始めた時、ドールの足音が階段を下りてきた。マテリアは慌てて彼に背を向けると、玄関の方へ足早に歩きだした。
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