二人は、森の中を歩いていた。町を出てしばらく行った所で、街道をそれて森へ入ったのである。
町の中は、いつも通りだった。居並ぶ店々も、道行く人々も、何一つとして変わった所はなかった。明るく声を掛けてくれる果物屋のおばさんも、また二人で冒険かいとからかうように言うおじいさんも、彼女が見慣れた人達ばかりだ。マテリアは、また心が揺らぐのを感じながら、黙って町の門を抜けて街道へ出たのだった。幾度かドールが話しかけてきたが、マテリアはさっきからまともに返事ができないでいた。
(やだ、もうっ―――顔、見られないじゃないのっ…)
いつもと変わらずに――もしくは努めてそう見えるように振る舞っているらしい彼を半ば無視するように、マテリアはどんどん先へと足を急がせた。
森の中の、道とも言えないような道を辿りながら、しばらく口をつぐんでいたドールが彼女に話しかけてきた。
「――で、どこへ行くんだよ」
「……どこでもいいわよ。モンスターの出そうなとこっ!」
やはり彼の顔を見ないままで、ぶっきらぼうに返事をする。ドールが、困ったように微かに息をつく気配がする。
「…手っ取り早く行くなら、テレポートで誰かの砦まで飛ぶけど?――それなら、大抵深い森の中とかだしさ」
マテリアは足を緩めて、ちょっと彼の方を振り向いた。ドールが、どこかためらいがちに右手を差し出す。――いつも、していることだ。目的地の近くまでテレポートで飛んで、そこから歩く。頷いて彼の手につかまり、それじゃお願い、と言えばいいのだ。
――けれど、彼女は、とっさにくるりと彼に背を向けていた。
「……い、いいわよ。……歩いてればそのうち会うから。―――この辺にだっていくらでもいるでしょ、モンスターぐらい」
取り繕うようにそう言うと、一層足を早めて歩き出す。ドールが、一瞬彼女の背中を見送ってから、黙ってその後に続いた。
どれほど歩いたのか、胸の中にぐるぐると渦巻く思いを抱えながら黙りこくって下草を踏み分け続けていたマテリアに、ドールが呼びかけた。
「…マテリア」
「……なによ」
どきりと跳ね上がる鼓動を押さえつけて、突き返すように返事をする。彼の言葉の一つ一つに、何故こんなにそわそわしてしまうのだろう。まるで、今までの自分とは別人のようだ。いくら―――いくら、あんなことがあったと言っても―――
また、頬に血が上りそうになるのを必死で押さえつけようとする彼女の耳に、ドールの思いがけない言葉が飛び込んできた。
「………僕といるのがイヤになったんだったらさ―――そう言っていいぜ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
2、3歩先へ進んでしまってから、ようやく立ち止まる。
「……え……?」
まだ、彼の言葉が飲み込めないまま、ゆっくりと振り返る。
ドールは少し後ろで立ち止まって、彼女を見上げていた。その視線が、僅かに揺れて、彼女からそれる。
「……別に……仕方ないじゃん」
小さく、区切るように彼は呟いた。
「……君は…人間なんだし。気持ちが変わるのだって……よくある話だろ――…悪いことでも何でもないよ、別に」
無限の痛みをこらえているかのように、いつもより少し低い声で淡々と続ける彼の言葉を、マテリアは凍りついたように立ち尽くしたまま聞いていた。
「………はじめから―――不釣り合いだって……わかってたし。……いつかは―――」
そこで、初めて彼の声が微かに途切れる。
「……だけど、……こんなふうに――遠回しなんて、…らしくないぜ。――はっきり言えよ」
審判が下されるのを待つ罪人のように、ドールは瞳を上げてマテリアを見た。
マテリアの胸の中で、大きな固まりがどくん、と脈打った。喉が張りついたかのように声が出ない。
(―― 一体―――
一体何を言ってるの――私が、……私がドールを…?)
そうじゃない。そんなこと、思ってみたこともない。だって、いつも一緒だったのに。ずっとずっと、一番近くにいて、誰よりも側にいて―――
「―――ち―――」
かすれそうな声で、マテリアは言葉を絞り出そうとする。
「……違うわ…そうじゃ……!――私だって――私だって、ドールのことずっと―――」
声がつかえて、その先を続けられない。もどかしさに、唇が震えた。言えない――どうしても言葉にできない――彼女は、自分の意地っ張りを心底恨めしく思った。
彼の瞳を見ていられず、視線を地面に向けて足元をにらみつける。
重く沈んだ沈黙が、二人の間に張りつめた。
(―――言えばいいのに――このまま、側にいてって――ずっと一緒に、って――)
マテリアが唇をかみしめて、僅かに顔を上げようとした時、黙って彼女から視線を背けていたドールが、はっと顔を上げた。
「―――マテリアっ…、後ろ――――!」
(…!?)
振り向いた彼女が、鍛え抜かれた戦士の勘でとっさに後ろへ飛んだ次の瞬間、今まで彼女のいた空間をモンスターの爪が横ざまに薙いだ。マテリアが背に負ったジャスミンソードを抜き放つのと同時に、ドールの呪文が炸裂して敵を打ち砕く。彼女は、青眼に剣を構えながら、周囲へ目を走らせた。あたりに、無数のモンスターの気配が湧き出ていた。
奇妙な違和感が、彼女を捕らえていた。
身体は、いつものように自分の思い通りに動いている。
突進してくる敵をかわして滑るように重心を移し、踏み出すと同時に相手の胴を薙ぐ。モンスターを斬り倒すときの手応えも、確かにいつもと同じだ。背後で、ドールが唱えたファイアボールを食らったモンスターが、水晶となって崩れ落ちる。その、彼の低い詠唱の声も、炎に灼かれたモンスターの独特の匂いも、いつもの戦闘とどこも変わったところはない。
けれどマテリアは、どうしても何かが違っている、という感覚を拭い去ることができなかった。
―――さっきは確かに、何の気配も感じなかったのだ。ドールが、後ろ、と叫び、自分がとっさに振り向いて飛びすさるまで。それは、あの時の会話につい気を取られていて、周囲への注意が一瞬途切れたかもしれないが―――
(それでも、こんなにたくさんのモンスターに気づかないなんて)
二人の連携に、モンスターどもはみるみる数を減らしてゆく。マテリアは、最後の一匹を全身の力をこめて斬り倒すと、右手に剣を下げたまま荒い息をついて立ち尽した。
(たいしたレベルの敵じゃないのに―――なぜ)
あたりに転がるモンスターどもを見渡してみても、彼女から気配を隠せるほどレベルの高い奴は見当たらない。
(やっぱり、さっきから何かおかしな―――)
先刻からのぼんやりとした違和感を、彼女がはっきり意識しようとした時、ドールの切羽詰まった叫び声が彼女の耳に響いた。
「―――マテリアっ!まだ―――!!」
(え)
無防備に振り向いた彼女の前に、黒い悪夢からいきなり湧き出たかのように巨大なモンスターが立ちはだかっていた。彼女より頭一つ高いところにある、悪意に満ちた赤い目が突き刺すようにマテリアを見下ろして光る。その無骨な手に生えた長い4本の爪が、黒く閃いて彼女の頭上に落ちかかろうとしていた。
マテリアがそれを見て取るのと、ドールが彼女とモンスターの間に滑りこむのと、どちらが早かったか。
振り下ろされた爪を、ドールはフルフォースで受け止める。鈍い音がして、一瞬モンスターの動きが止まる。けれど、なぜか振り向いた姿勢のまま動けずにいたマテリアは、次の瞬間あり得ない光景を見た。
モンスターの爪を受け止めたフルフォースの柄が、信じられないほどたやすくへし折られ砕けとぶのを。そして、食い止めるもののなくなったモンスターの長い爪が、ドールの胸板をあっさりと貫きとおすのを。
叫んだ、と思った。喉が裂けるほどの絶叫を上げたと思った。
けれど、実際には彼女の唇はかすかに震えただけで、悲鳴ひとつ、あげてはいなかった。
まるで不気味なオブジェのように彼のマントから生えた黒い爪の周囲が、一瞬で真紅に染まる。いつもの彼とはまるで別人のようにかすれた声が呪文を紡ぎだし、かざした掌に光が集まり―――火の玉となってモンスターの身体を打ち砕くのを、マテリアはまるでスローモーションの映像を見ているかのように見つめていた。指先ひとつ、動かなかった。
モンスターが、それまでの醜悪な姿からは想像できないほど美しい水晶のかけらとなって砕け散る。彼の身体を貫いていた爪も、それと同時に透明な音を立てて砕け、彼の赤く染まったマントの上を転がり落ちてゆく。
ゆらり、とドールの身体が揺れる。振り向いて―――微笑みかけてくれる―――いつもなら―――大丈夫だよって―――
マテリアの停止した思考の中をそんな言葉が一瞬かすめ去る。
が、彼はそのまま、力なくその場に崩れ落ちていった。引き裂かれ、紅に染まったマントがゆるやかに翻ってその後を追う。
「……………ドール……………!」
呪縛が解けたかのように、マテリアは絶叫を上げた。剣を投げ捨てて彼の元へ走る。まるで水中を走っているかのように、自分の動きがとてつもなくのろく感じられた。
「ドールっ……ドール!しっかりしてっ……ドール!」
灼けた鉄を押しつけられているかのような焦りに追い立てられながら、彼女はドールの身体を抱き起こした。彼女の腕が、そしてアーマーの胸元が彼の血でみるみる赤く染まる。
「早くっ…早くヒーリングを唱えて!ドールっ…」
その声に応じたのか―――投げ出された彼の腕が、わずかに持ち上がった。
指先にかすかな輝きが灯り―――そしてすぐに消える。ドールは微かに息を吐きだすと弱々しく瞳を閉ざした。
「…ダメっ!ドール!しっかりしてっ……しっかり!」
血を吐くような彼女の言葉に、ドールの瞼がすこし、持ち上がる。けれど、その緑色の瞳には、いつもの輝きはもう宿ってはいなかった。見えては、いないのだろう。かすかに、首を傾けてマテリアの方へ顔を向ける。その唇がほんの僅かに―――けれど確かに微笑を浮かべた。小さく、彼女の名前を形作ろうとする。しかし、最初のひとつの音を紡ぎ出しただけで、ふい、と息が途切れた。胸の上に置かれていた腕がすべりおちて、ことり、と小さな音を立てる。
世界が、止まっていた。
時も風も陽の光さえも、彼女の回りで凍りついていた。
うすく、鋭く、脆く、すこしでも触れたら粉々に砕けて触れたものをずたずたに切り裂いてしまいそうなほどに危うく。
「………う……そ……」
まるで、老婆のようにしわがれた自分の声がそう言うのを、マテリアはまるで他人の言葉のように聞いた。
(こんなことあるわけない)
かたちにならない思いがぐるぐると渦巻く。
(ずっといっしょのはずよずっと)
(今日も明日もその先もずっとよ―――こんなことあるわけない)
マテリアの腕が、胸に抱いたドールの身体をかすかに揺する。彼の頭が、力なくがくりと後ろへ折れた。
「…………いや…………」
のどもとに、大きな固まりがせりあがってきていた。ぐんぐんとふくれあがり、それは彼女の喉を―――唇を引き裂く。
「……イヤよっ……イヤよ!ドールっ目をあけてっ!起きて―――ドール!…だめ―――――っ!」
彼女の瞳から透明な滴があふれ、こぼれ落ちて彼の顔の上をいく筋もいく筋も伝い落ちてゆく。
「いかないでっ…ダメよ―――ドールっ…死なないで!おいていかないでっ…ドール!」
マテリアは、腕の中のドールの身体を全身で抱きしめた。まるで自分の生命を彼に吹き込もうとするかのように。抱きしめることで、彼の生命を呼び戻そうとするかのように。
「ドール――――ドール――――ドール――――!」
うわごとのように繰り返しながら、彼女は動かなくなった彼を抱きしめつづける。
その彼女の耳に、ふいに聞き慣れない音が響いてきた。
耳元で、水晶と金でできたベルを鳴らされているかのような―――かすかな、ほんのかすかな、けれどとても澄んだ美しい音。とても人間の手では作りだせないような、不思議な音色。
その音に僅かに顔を上げたマテリアが、その出所が自分の腕の中にある、何よりも大切な存在だ、と気づいたとき。
透きとおった音をたてて、彼は崩れおちた。無数の、水晶のかけらになって。
マテリアの腕を、指を通りすぎて、あるものは砂のようにあるものは宝珠のようにこぼれおち、砕け散ってゆく。彼女の腕を、アーマーを染めていた赤い血も、まるで光の粒のように細かい水晶のかけらになってさらさらとすべりおちていった。
最後の一粒が、さらり、と地上に落ちる。
「……い……やあああぁぁぁ……――――――っ!」
彼女は、全身で――――存在の全てで絶叫を上げていた。あたり一面に散った水晶のかけらに宿る光のひとつひとつが、鋭いナイフとなって彼女の心を、精神を、魂を切り裂いてゆく。
「いやああああっ!いや!あああああぁぁっ」
彼女は絶叫を上げつづける。
(うそよ)
(うそようそようそよ――――こんな)
言葉は、既になんの意味もない、ただの音の固まりだった。頭を、きつくきつく両手で押さえて、水晶の砕片の海の上へ身体を投げ出す。
初めて出会った時、差し出した右手。
ハワードに操られて彼女の前に立った時の不思議に透きとおった瞳の色。
最初のハワードとの戦いの時、一度だけ振り向いて見せた微笑。
笑いながら叩く軽口。
高く掲げた杖に灯る炎の輝き。
いくどもいくども繰り返した、たわいのない口ゲンカ。
照れながら渡してくれたプレゼント。
冒険が終わったとき、いつも笑顔とともに差し出された掌。
――――震えながら受けた、初めてのくちづけ。
突き飛ばした時の―――胸の奥の鈍い痛み―――
もう彼女には、ついさっき今の全てが夢ではないかと疑った記憶など何の意味も持たなかった。彼と出会ってからの全てが細かい細かいかけらとなり、薄れかけてゆく意識の中を脈絡なくぐるぐると渦巻いて流れてゆくのを見つめていることしかできなかった。
そう、この時、たしかに彼女は半ば狂いかけていたのだろう。地に伏せたまま、大きく見開かれた瞳には、何ひとつ映ってはいなかった。
(こんなのはうそよなにもかも)
(もういや――――いやよ―――いや―――)
何が嘘だったのか、何が嫌なのか、彼女の精神はそれを思い出すことすら拒もうとしていた。
(なにも考えない)
(なにも見たくない)
このまま、目を閉じて耳をふさいで、すべてを閉ざして闇の中に果てしなく沈んでいってしまうことだけが、今の彼女の唯一の望みだった。生まれる前の胎児のように小さく身体を折り曲げ、自らの身体を封じ込めてしまうかのようにきつく両腕を回し――――固く固く瞳を閉じて――――
闇が、甘やかに彼女の心を絡め取ろうとしていた。よどんだ虚無の底に彼女の存在をまるごと沈めてしまおうとするかのように。優しい安らぎを装って彼女を呼び寄せ、抱き取ろうと腕を伸ばす。成す術もなく、ゆるゆると彼女がその懐に引き寄せられてゆこうとしたとき。
(――――――ア―――)
かすかな響きが、闇の中に流れてきた。
(いやよ)
マテリアは、身体をすくませてそれを拒む。
(――マ―――――ア―――)
(いやよ―――いや)
呼び起こされ、苦痛と哀しみと絶望しか残っていない世界へ引き戻されることを、彼女は全身で拒否する。
(もう――――いやなの――――このまま――――)
「マテリア!」
響きは、はっきりとした“声”となった。まるで形あるもののように、彼女の全身をつかんで揺さぶる。
(―――――――――!)
光がさしこみ、広がり――――爆発する。
いちばん愛しい、いちばん懐かしい、いちばん大切な――――――声。
弾かれるように瞳が開く。
古い石作りの、灰色の天井がぼんやりと視界に広がる。輪郭がゆらりとにじんでいるのは、瞳にたまった涙のせいだろう。
――――涙……?
緑色の鍔広の帽子をかぶった影が、彼女の顔を覗き込んだ。
「……よ、目が覚めたかい?」
やれやれ、といった調子の声だ。マテリアは、まだ夢の中に漂っているかのようなおぼつかない身のこなしで、上半身を起こした。掌に、ひやりと冷たい石の床が触れる。彼女の傍らに立っていたドールは、顔をしかめると手にしたフルフォースをひょいと肩にかついだ。
「…ったく、少しは気を配って歩けよな。やっかいな罠にひっかかってくれてさ」
マテリアは、瞬きもできないまま彼の顔をひたと見上げた。いつもの、暗緑色のショルダーガード。ハードレザーのブレストアーマー。ややくたびれてきた、帽子と揃いの緑のマントを軽く肩にはね上げ、腰に手を当てて部屋の中をぐるりと見回している。
「………ド……ール…――――」
声にならない声が、彼女の唇からこぼれ落ちた。
「解呪すんの、大変だったんだぜっ。だからあれだけ―――」
「……生き…てるの―――」
かすれがちな、切れぎれの彼女の言葉に、ドールは訝しげに眉を上げて振り向いた。
「あ?当たり前だろ。何を―――」
見れば判るだろうと言わんばかりの彼の返事は、不意に途中で途切れた。
マテリアの腕がドールの身体にしがみつく。金色の髪が、まっすぐに彼の胸に流れ込んだ。
「…なっ…な、なん――何だよっ!……マ、マテリアっ……」
突然の彼女の行動に慌てふためくドールの狼狽をよそに、マテリアは彼の身体に回した腕に一層力を込める。石の床に座り込んだまま、ドールの胸に顔を埋めたマテリアの身体は微かに震え続けていた。小さくしゃくりあげるすすり泣きの声が、途切れ途切れにドールの耳に届く。ドールは真っ赤になりながら、うろたえて彼女の金色の髪を見下ろした。
「…マ、マテリアってば……おい――な、泣くなよ…」
小さな声で呼びかけてみるが、一向に彼女には聞こえないようだ。
「……なあ……」
ドールは、何をどう言ったものか困り果てていったん口を閉ざす。しばらく、抱き締められた姿勢のまま突っ立っていた彼は、彼女の腕に捕まえられていない方の手をそっと持ち上げると、まだ震えている彼女のアーマーの肩におずおずと載せてみた。
「…だ、大丈夫だよ、もう魔法陣は解いたから。…夢、見たんだろ。もう、大丈夫だったら」
しどろもどろになりながら、彼はそう説明しようとした。
マテリアは聞こえているのかいないのか、微かにしゃくりあげ続けている。
「…夢だったんだよ、なあ…―――なんだよ、もうっ……しっかりしろよ…」
ドールは途方にくれながら、マテリアの髪が、暖かな体温が間近にあるのを感じてますます赤くなる。
どれくらいそうして泣き続けていたのだろう。マテリアは、ふと僅かに瞳を開けた。
いきなり、自分がドールをしっかり抱きしめていることに気づく。
彼女の全身の血が、一瞬でかっと沸騰した。次の瞬間、彼女は自分の腕を振りほどくと座り込んだままの姿勢で後ろへ飛びすさっていた。ドールが、一瞬あっけに取られた顔で彼女を見つめる。が、視線が合った瞬間、二人は弾かれるように目をそらせていた。
マテリアは、怒ったような表情で頬に残る幾筋もの涙の後を拭う。
―――ようやく、先刻からの記憶がつながり合って形を成してきた。
(―――そう――よ、ここに…この遺跡に探検に来て…)
昔栄えたという魔法文明の遺跡を、二人は探検に来たのだった。中に入ってみて、その余りの部屋数の多さにうんざりした彼女が(大体、この冒険に乗り気だったのはドールの方で、マテリアはモンスターのあまり出ないこの遺跡に飽き始めていたのである)二手に別れて片っ端から部屋を覗いていこうと提案した。いくつかの何もない部屋を通り過ぎた後踏み込んだこの部屋で―――彼女はいきなり意識を失ったという訳だ。
記憶の内容とドールの言葉からして、自分は何かのトラップにかかっていたらしい。さっきの、魂が砕けるかと思えるほどの絶望が蘇りかけて、彼女は思わず身を震わせた。とっさに夢の記憶を意識の下に無理やり押し込んで顔を上げる。
「……罠、…って――?」
まだ、自分の声が微かに震えてしゃくりあげているのに気づく。抱きつかれた時に思わず取り落としたフルフォースを拾い上げて、あらぬ方角へ視線を彷徨わせていたドールが、彼女の問いに振り向いた。
「…え、…ああ…。―――魔法の罠だよ。部屋全体が魔法陣になっててさ。入り込んだ者を眠りで捕らえる」
彼は、フルフォースの柄の先でこつんと石の床をこづいて見せた。
「それで、そいつが望んでる世界を“夢”に見せる。眠りから覚めようとしないようにね。―――それでも捕まらない意志の強い者は、“悪夢”に取り込んで精神を壊す…」
フルフォースの先端が、彼女には見えない魔法陣の線をなぞる。
マテリアは、視線を床の上に落としてしばらく黙ったが、やがて呟くように口を開いた。
「……それじゃ、あの夢から覚めようとしなけりゃ、…あんな……思い、しなくて済んだ…ってこと……?」
ドールは顔をしかめてフルフォースを肩に担いだ。
「よせよ、おい。人間はいつまでも飲まず食わずで眠ってられやしないだろ。眠ったままじわじわ弱ってって死んじまうんだぜ―――陰険な罠だよ」
マテリアはドールの顔を見やりながら立ち上がった。心なしか、足元がふらつくような気がする。
「だって、誰かが来て魔法陣を壊してくれれば助かるんでしょ」
「バカ言うなって」
ドールは彼女の無知を咎めるような目つきでそう言った。マテリアが魔法のことで見当違いな事を言うと、彼は時々こんな目をするのだ。彼女はちょっとむっとしたが、とりあえず黙って彼の言葉の続きを聞くことにした。
「中に捕まってる時に不用意にそんなことしたら、それこそヘタすっとそのままあの世行きだぜ。助かっても廃人だ。手順踏んで解呪しなきゃダメなんだよ、それも早いとこ。時間経てばそれだけ深く捕まっちまうからな」
マテリアは背中にぞっとするものが這い上るのを感じながら、ドールの顔を見た。
「…私、どれ位眠ってたの?」
「離れてから僕が見つけるまで30分位だろ。その後解呪に1時間近くかかったからな」
何でもないことのようにさらりと言う彼の言葉に、マテリアは大きく眼を見開いた。
「…そんなに…!?」
「だから言ってるだろ、やっかいな罠だって」
ドールは、値打ちの判らない相手に言っても無駄だというような調子でそう言ってから、彼女の方を見上げてにやりと笑った。
「よかったな、優秀な魔法使いが一緒でさ」
「……まあね…」
マテリアは、何か言い返したい気持ちをおさえて不承不承にひとつ頷く。それでもやはり一言付け加えなくては気が済まなくて、こわばった身体をうんと伸ばしながら不満げに続けた。
「…でも、どうせなら夢の前半で起こしてくれればよかったのにっ」
「前半?」
そうよ、と彼を軽く睨みつけようとして、マテリアははっと息を飲み込んだ。
いきなり夢の中でのファーストキスがくっきりと目の前に浮かび上がり、彼女の頬は音でも立てそうな勢いで真っ赤に染まる。
「…なっ、何でもないわよっっ」
マテリアは邪険に言い捨てるとくるりと彼に背を向けた。
「何だよ、一体」
怪訝そうに言うドールの言葉を背中で聞きながら、マテリアは躍り上がる鼓動を懸命に鎮めようとする。
(…あ、あれが、私の望んでる世界――なのかしら…ま、まさかっ…)
両親が生きていて、フロイドが冒険に出られるほど元気で――それは確かに、叶うならどんなに幸せか知れない夢だが―――
(でも――でも、ドールの…あれは何よっ…あ、あんな―――)
けれど、あの部分がドールの説明で言う“悪夢”の部分でないことは確かである。彼女は大きく一つ首を振ると、必死で頭からその件を追い払おうとした。
「…やっぱ、この魔法陣、始末しといた方がいいよなぁ。入口の封印解いちまったんだから、この先誰が入り込んでひっかかるか知れたもんじゃないし」
一人でうろたえているマテリアには一向に気づかない様子で、ドールは部屋の中を見回しながらそんなことを言っている。その顔を横目でにらむマテリアの胸の中に、ふとある疑問が湧き上がって、ことり、と彼女の胸を揺らした。
ドールはゆっくりと床の上の魔法陣を眼でたどりながら、時折口の中で何か呟いている。魔法陣そのものを消去するための解呪法を組み立てているのだろう。マテリアには、何をどうすればそんな事ができるのか未だにさっぱり判らないのだが。
「……えーと、ね……ドール…」
「ん?」
さりげなく切りだそうとしたのだが、さりげなさとは全く程遠いマテリアの声に、ドールは床の上をにらみながら生返事をした。
「……たとえば、たとえばよ――ドールだったら、どんな世界…夢に見ると思う?」
「えー?」
ドールが、きょとんとした顔で彼女を見る。しかし、彼女に無理難題を吹っ掛けられるのには慣れているせいか、彼はちょっと眉を寄せると視線を宙に泳がせて答を探し始めた。
「…そーだなぁ…やっぱ、まず平和な世界――あ、でもモンスターが全然いないってのは退屈だよな、きっと。だから、モンスターも少しはいて――うんと魔法が盛んで、それで僕が人―――」
ふと、言葉が一瞬途切れる。が、彼女がそれに気づくより早く、彼はくるりと踵を返して魔法陣の方へ向き直っていた。
「…ま、あとは、マテリアがもーちょっとおしとやかで、思いやり深けりゃ言うことないね」
「…な、なによっ、それ…!」
マテリアが喉をつかえさせながら抗議しようとする。
「ちょっとっ、ドールっ…」
「さ、こいつ消すから、下がってて」
ドールは、マテリアの言葉をさえぎるように腕を上げると、魔法陣に正対して立った。
ゆっくりとフルフォースを床と水平にして両手で捧げるように持つと、低い声で呪文を紡ぎ始める。彼の詠唱が進むにつれて、床の魔法陣が淡く輝いて浮かび上がり出した。
その輝きの影になるドールの背中を見つめながら、マテリアは胸の中で声にならない言葉を呟いていた。
(…聞きたいのは――本当に聞きたいのは、もっと別のことなのに……)
彼の夢の中で、自分はどうしているのだろう。――今と同じ、パーティを組む冒険仲間?それとも魔法の研究に没頭する彼には縁のない、ただの戦士?それとも―――
ドールの詠唱の声が僅かに高まった。次の瞬間、魔法陣が炎のように波打つ、真っ白な光を吹き上げる。マテリアは、眩しさに思わず眼を細めた。その逆光の中に小さなシルエットになって立ち尽くす彼の姿を見つめる。
ゆっくりと、光が衰えてゆき、やがて元の薄闇が戻る。ドールが、彼女を振り返って笑った。
「…ほい、これでいいよ」
マテリアは曖昧に笑い返すと、ぐるりと部屋の中を見回した。
「何にも変わんないみたいね」
「元々目に見える罠じゃないからな」
ドールはそう言ってちらりと確認するかのような視線を部屋の中に投げかけると、フルフォースを肩に担ぐ。
「んじゃ、行こうぜ」
「…ちょっと、まだ続ける気?」
マテリアは、あからさまに嫌そうな表情で彼を見た。
「当たり前じゃん。せっかく来たのに、もっとよく調べてみなきゃ――」
「だけど、どうせまたこういう訳のわかんない罠があるんでしょ」
「ひっかからなけりゃいいんだよ」
「悪かったわねっ」
マテリアは、ドールを睨むと怒ったように腰に手を当てた。
「大体、眠らせるだの何だのってこんな辛気臭いトラップ、気に食わないわ!モンスターが出るとか落とし穴だとかって言うなら判るけどっ」
ドールが、また始まったと言いたげな顔でマテリアを見上げる。
「ろくに敵も出ない癖に、こんな鬱陶しい罠ばっかり仕掛けてあるようなダンジョン、面白くないわよ!」
「…ダンジョンってより、ここは古代魔法の遺跡だからな。第一、それだけ侵入者除けの罠が仕掛けてあるって事は、それなりの物が何か―――」
「何かって何よっ。どうせ、魔法のアイテムとかでしょ、あんたにしか訳が判んないような」
ドールはむっとしたように彼女を見上げた。
「そーいうけどな、君だってけっこうその魔法のアイテムのお世話になってるんじゃねーか。“羽”とかだってそうなんだぜ」
「…そうかもしれないけどっ!」
マテリアは唇をかみしめると、ドールから視線を逸らせる。
「でも…でも、あんな罠っ!もう―――ごめんよ!絶対イヤなんだからっ!」
彼女の胸の中に、あの悪夢の記憶が不意に湧き上がった。足元が崩れ、辺り中が闇に飲まれてゆくような感覚。自分も世界も、全てが砕けてしまえばいいと思えるほどの絶望。
―――腕の中で動かなくなった彼の身体の重み――それが、不意に軽くなって、何もかもが砕けて―――透明に―――
マテリアは、必死に首を振った。かけらでも思い出す度に、胸を切り裂かれるような気がする。自分が、あんなに深く何もかもに絶望できるとは思ってもみなかった。
「……だから、今度は二人で歩けば大丈夫だよ。僕が先に立って罠を確認するから、君は後から――」
「いやっ!」
有無を言わせぬ、短く厳しい声でマテリアが叩きつけるように言う。ドールは、説得の言葉を続けようとしたが、彼女の瞳に微かに涙がにじんでいるのを見て一瞬口をつぐんだ。
小さく息をついて、くるりとマテリアに背を向ける。
「…判ったよ。ったくガンコなんだからなっ。せっかく苦労してここまで来たってのに」
マテリアは、この遺跡の話をドールが古文書で見つけて来てから、ここにたどり着くまでのことを思い出してさすがにちょっとばつの悪そうな顔をした。
「……ま、また―――出直せばいい、じゃない。テレポートで飛んでくれば――」
「ばーか」
ドールは肩ごしにマテリアの顔を見上げて唇を突き出した。
「何度も言っただろっ、こーいう遺跡はそれ自体が一種の結界になってるって。中からも外からもテレポートは使えないんだよっ」
マテリアは一瞬返事に詰まったが、彼の怒ったような口調につい反発して言い返してしまう。
「…なによっ、そんなにそういうアイテムが欲しい訳!?それなら自分で研究して作ればいいじゃない、あんなに山程本を読んだりしてる癖に!」
「……アイテムが欲しい訳じゃねーよっ。自分で出来ることなら何とかしてるさっ!」
「じゃあ、何―――」
言い捨てるなりすたすたと入口の方へ戻り始める彼の背中に怒鳴りかけて、マテリアは、はっと言葉を飲み込んだ。
―――古代の魔法。今よりもずっと神々に近い、古の力。ドールは、確かそんな話をしていたのだ。マハルの国は、そういう古の力を受け継いだ国なのかも知れないと。その源をたどれば、もっと強力な、もっと偉大な魔法を持つ国があったのかも知れないと。
―――彼が探しているのがアイテムではないなら、それはもしかしたら―――
(………!)
とっさに駆け出して、彼に並ぶ。ごめんなさい、と切りだそうとして―――けれどどうしても唇はそう動いてくれなかった。
並んで歩きながら、彼女は幾度か、言葉を飲み込んだ。ようやくのことで、口を開く。
「………も、戻ったげても、いいけど?……」
黙ったまま大股で歩いていたドールは、ちらりと彼女を見上げた。
「…無理すんなって。よろよろしてんじゃん、君にしちゃ珍しく」
「…よろよろなんてしてないわよ、別に!」
「してるしてる。まあ、こういう魔法仕掛けの多い場所じゃ、誰かさんみたいな魔法音痴は足手まといだからな、仕方ないけど」
「失礼ねっ!誰が魔法音痴よっ!足手まといとは何よ!」
「君のことだとは言ってねーだろ、はっきりとは」
「なんですって!」
マテリアが振り下ろした拳骨を、彼は器用にかわすとからかうように笑いながら駆けだした。
「待ちなさいよっ、ドール!」
それを追ってマテリアも走り出す。身長に――ひいてはコンパスの長さに差のある二人のことで、10歩も行かない内に彼女はドールに追いついた。降ってきた拳骨を有り難く頂戴したドールは、コブを撫でながら彼女を見上げる。
「痛いなっ、もうそんな元気あんのかよっ。さすが、体力だけは大したもんだな」
「何よっ、人のこと、筋肉しかないみたいに!」
「なんだ、自覚ないのか?」
「…もーいっぺん言ってみなさいっ!!」
ひとしきりそんなやりとりが繰り返されたあげく余計に2つ3つ拳骨をもらって情けない声で呻くドールに、マテリアはちょっと胸をそらせて声をかけた。
「…さ、それじゃ先へ進みましょうよ」
「あー、もういいって。気が削がれちまった」
ドールは気がなさそうにちょいと片手を振ると、また入口のほうへ戻り始める。
「…ち、ちょっとっ、ドールっ…」
てっきりドールが喜んで冒険の続きを始めるだろうと思っていたマテリアは、意表をつかれて慌てて身を返してその後を追いかける。
「どうしてよ、もう大丈夫だってば!ほらっ…」
「もういいってのに。多分、ここにはそんな大したもんなさそーだし」
「さっきと言うこと違うじゃないっ!」
「見解が変わったんだよ」
ドールは足を緩めないまま、しれっと言った。マテリアは、苛立たしげに彼の横顔を睨みつける。
「…この、天の邪鬼っ!」
「どっちが!」
ドールも彼女を睨み返すと、入口へ向かって足を速める。一瞬、彼の背中を見送ってからマテリアは唇をへの字に曲げた。
(どうせ、また今度一人で来るつもりなんだわ)
こういう言い合いになったからには、彼は絶対に素直にそうとは認めないだろうが、彼女がさっきの罠でひどいショックを受けているのを見て、もう帰ろうと言っているのは確かだった。自分はきっと、たとえ一人でも先へ進みたいと思っているに違いないのに。けれど、ドールのことだ。もうやめたと言っておいて、彼女が忘れた頃にふらりと一人で出掛けてしまうに決まっている。
(そうはさせないんだからっ)
マテリアは、しばらく彼からけして目を離すまいと固く心を決めた。
――今は、とりあえず彼に譲って引き上げるとしても。
向こうに、入口の明かりが見え始める。マテリアは、ドールに並ぼうと足を速めるのだった。