CHOCOLATE TRICK

御崎 濯     




その日は、様々な思惑の交差する日。
期待するもの、期待しなくても当然だと澄ましているもの、面倒だとため息をつくもの、関心のないのを装っているもの、まったく関心のないもの。

そして、女の子の方も。

「キールっ」
ノックの音と共に聞こえた元気のいい呼び声に、例によって魔導書に没頭していた緋色の魔導士は、我に返ったように顔を上げた。
「ああ、どうぞ」
そう返事をしてから今更のように辺りを見回す。金色の陽の光が射し込んで、空気に斜めの縞模様を浮かび上がらせている。まだ、なんとか午前中と呼べる時間帯だ。
彼の返事に応じて、扉が跳ねるように開く。
「やっほー、キール!」
軽い足取りで入ってきた被保護者の少女を、彼は一瞬目を細めて眺めた。陽の光の当たった栗色の後れ毛が、ふわりと金色に輝く。
「なんだ、メイ?課題か?」
今週中に出すようにと言われている課題のことを持ち出されて、メイは一瞬嫌そうな顔をした。が、すぐに表情を明るいものに戻して、自分の保護者で世話係である青年の方を見る。
「それは、また今度っ。…あのね、ちょっち重大な用事なの」
「重大?…課題が期限前に出来たって言うなら、そりゃ重大事件だろうけどな」
「なによ、もー」
メイは、ぷっと短く頬を膨らませると、とことこと机の前のキールの所へやってきた。
椅子にかけたままの彼の顔を見下ろして、えへん、と小さく咳払いをする。
訝しげに瞬きをするキールの目の前に、すいと小さな水色の箱が差し出された。
「はい、チョコレート。…バレントデー、だからさ」
ふわりと漂ってきた甘い香りに、一瞬身を引きかけていたキールは、メイの言葉に思わず視線を彼女の顔に向けた。
「えへへ、メイちゃんの手作りスペシャルだよ!ありがたく受け取ってっ」
淡く頬を染めた気配のメイの顔を見上げて、咄嗟に言葉に詰まる。
いくら彼でも、さすがにバレントデーの存在くらいは知っている。その日に贈られるチョコレートの意味もだ。今まで、渡されたことがないわけではないのだから。──もっとも、全部その場で断ってきたから、受け取ったことはないのだが。
「……俺は、甘いものは嫌いなんだけど」
内心の動揺を押さえつけながら、とりあえず今までこういう時に返してきた言葉を口にする。
しかし、クラインに召還されて以来、もう1年近く一緒にいて、彼の無愛想にもすっかり慣れっこのメイは、それでは引き下がらなかった。彼女はぷんと唇を尖らせる。
「それは知ってるけどさ、バレントデーのチョコは特別でしょ!?ほらほら、ありがとうって言って受け取るの!」
ずいと箱を目の前に突き出されて、キールは思わずそれを手に取った。手渡される時に傾いた箱の中身が、ことりと音を立てる。
「ん、おっけー!」
「…お、おい」
にっこり微笑んで頷いてみせるメイに、キールはどこか慌てながら立ち上がった。
メイは、ひらひらと手を振りながらひょいと一歩下がる。
「この際だから、ありがとうは勘弁したげるねっ…あの、後で、ちゃんと食べてよ?」
「…ってお前、あのな──」
「じゃ、じゃあ、あたし、これから忙しいから!」
メイは、上気した頬のままで、にこにこしながらまた一歩下がる。
「じゃあね、キール!」
くるりと向きを変えたかと思うと、メイはキールに背を向けて部屋から走り出た。
「……俺は、チョコレートなんか食わないからな!」
ドアが閉まり、ぱたぱたぱたと駆け去っていく足音に向かって、キールはやっとのことでそう叫んだ。
メイの答えは返ってこなかったが。



翌日も、ここ数日に引き続いて朝からよく晴れていた。
キールは、返却期限の来た本を抱えて、午後から王宮の書庫に出かけてきていた。
更に、実を言うと予算のことで、一番会いたくない人物にも会わなければならないのである。
もう何度目のことか数えるのも嫌になるくらいだが、とにかく先日、魔法実験の暴走で(暴走させたのが誰かは言わずもがなだ)研究院のホールの燭台がまとめて壊滅した。
1本2本ならともかく、数10本がすべてダメになったとなると、これはちょっと簡単にまかなえる額ではない。申請書はひとまず上に通したが、直接説明と請願に行くようにと長老たちに釘をさされているのだった。
ひとまず簡単な方の用事を片づけて、キールは王宮の書庫を出た。
中庭の回廊にさしかかり、明るい陽の光を見上げて少し息をつく。
結局、メイとはあれからゆっくり顔を合わせていない。あの後彼女はすぐ出かけていたようで、帰ってきたのは夕食の前だった。食堂で会った時は、いつもと変わらない様子だったが──…いや、少し、はしゃいでいたようだったろうか。
今朝も食堂で会っただけなので、昨日のことで、と話を切り出せるような状況ではなかったのだ。
(…いや…話をしたところで、なんて言っていいのか、困るが…)
キールは前髪をかきあげて短く息を零した。
水色のラッピングペーパーに白いリボンのかかった、小さな箱。中には、彼女の言ったとおり手作りらしく、ややいびつなハート型をした板チョコが入っていた。
「甘くないブラックチョコだから、食べてみてね」
と書かれた小さなカードが添えられて。
が、それだけ。
チョコレート自体が意味を持つと言えば言えるのだが、それにしても。
(…どういう意味だと思えばいいんだ?)
いつもの、日常の会話と同じ調子でにぎやかにやってきて、チョコレートを押しつけて走り去ってしまったメイ。礼の言葉を言わせようともせずに。
明るい笑顔が、さらさらの栗色の髪の揺れる軌跡が、ふと胸の中に残像を描く。
瞳の奥に閃くその姿に、一、二度瞬きをして軽く首を振ってから、キールは歩きだそうとした。
「よう、めずらしいな」
踏み出した足が地に着くか着かないかのタイミングでかけられた声に、キールは一瞬動きを止めそうになった。体温が一気に2、3度下がったような気がする。
一呼吸置いてから振り返る。この間が、相手にこちらの逡巡を知らせてしまうことになるのは分かっているのだが。
「…どうも」
どうしてこう、この人はこちらが不意をつかれるタイミングで声をかけて来るんだろう。
キールの内心の呟きも知らぬげに、宵闇色の髪の筆頭宮廷魔導士は悠然と後輩に微笑みかけた。
「この間王宮で見てから、ずいぶん経つじゃねーか。いかんな、そういう不義理な事じゃ」
「用がないのに王宮をうろつくほど、身分をわきまえてない訳じゃありませんから」
「相変わらず愛想のない奴だな。ご無沙汰して申し訳ありません位のことは、笑顔で言ってみな?」
「…相手によります」
殊更に無愛想なキールの返事に、シオンは軽く口の端で笑った。
「ところで、その主義主張からするに、今日は用があって俺の部屋に来ようとしてたんだろうな?」
書庫を出て、王宮の奥の方に足を向けかけていたことを言っているのだろう。シオンは、すたすたとキールの方に近づいてきた。思わず無意識のうちに防御を固めるキールを見透かすように笑うと、少し頭を傾けて斜めに彼を見る。
「…嬢ちゃんのことだろ?」
いきなりずばりと切り出されて、キールは一瞬返す言葉を忘れる。
「…よくお分かりで」
「ま、昨日の今日だからなー。お前さんがそんなに急いですっ飛んでくるとは思わなかったが」
シオンの、意味ありげに何かを仄めかすような口調に、キールは僅かに眉を寄せた。
「…申請は、4日前に出してあるはずですが」
メイが燭台を壊したのは先週のことで、被害額を計算して申請書を出したのは4日前だ。その日のうちには、シオンの元に届いているはずである。もっとも、彼が当日中にその書類に目を通しているかどうかは分からないが。
「何をとぼけてる、昨日の事だよ」
シオンは、余裕ありげな微笑みを浮かべると、肩に掛かる長い髪を、首を振って払いのけてみせた。
「嬢ちゃんのチョコレート、ありがたく頂戴したぜ」
「…は?」
間の抜けた返事だと、思う間もなく声が唇から漏れ出ていた。
何かを考える前に言葉が滑り出る。
「…シオン様も、ですか?」
「あ?」
今度は、シオンが意表をつかれたようにキールの瞳を見返した。
シオンの意表をつくなど、これでどうしてなかなか出来ることではない。キールは、頭の隅でそんな感慨をちらりと覚えながら、シオンの顔を見る。
「も、ってことは…お前もか?」
「…はあ」
やはり、間が抜けた答えを返してしまって、キールは内心舌打ちをした。が、シオンはそれにつっこむ気は、今はないようだった。
「おいおい、二股か?こりゃ、俺も──」
「あああ、シオン様、こんなところにいらしたんですか〜」
軽く肩をすくめて口を切ったシオンの言葉を、耳慣れた声が遮った。
お?と言う形に唇をすぼめて、シオンが肩越しに振り返る。回廊の奥から、ぱたぱたとどこか頼りなげな足取りで、ぐるぐる眼鏡の文官が駆け寄ってきていた。
「あの書類の決裁、午前中にお願いしますって重々念を押しておいたじゃないですか〜、お部屋にいらっしゃらないなんてあんまりです〜」
彼にしては珍しく一息にそうまくし立てると、アイシュはおや、と首を伸ばして弟の方を見た。
「キールじゃないですか、久しぶりですね〜」
一応同居している家族にしては奇妙な挨拶を口にして、アイシュはほんわりと微笑んだ。
もっとも遡るとキールはここのところひと月は家に戻っていないのだから、この表現もあながち間違いではないのだが。
「…ああ」
むっすりと、いつもにも増して不機嫌そうな答えを返す弟を見て瞳を一度瞬かせると、アイシュはシオンとキールを交互に見やった。
「…あの、どうか、したんですか?」
「いやいや、ちょいと愛情のもつれでな」
「……シオン様」
冗談めかした口調で、どう聞いても誤解を招かずにはおかないような表現を口にするシオンを、キールは地の底から響くような声で遮る。
「…は、あの…?」
いつもの軽い態度のシオンと、今にも雷雲を背負いそうな弟の二人を見やって、アイシュはどう対していいか決めかねるように胸に抱えた書類をひとつ揺すった。
「嬢ちゃんのチョコの件に関して、意見交換をしてたのさ」
シオンの、説明になっているのかいないのか分からないような言葉に、アイシュはああ、と頷いて微笑み、そして爆弾を投下した。
「メイのチョコですか〜。はい、僕も昨日もらいました〜」
「なに?」
「兄貴もか!?」
二人の反応がきれいにハモる。これもまた滅多にないことではあろう。
「はい、こういうハート型の──上手に出来てましたね〜」
(ということは、兄貴にも手作りか)
混乱するキールの頭の中を、ちらりとそんな分析がよぎる。
「おいおいおい、二股どころか三股か?…いや、こりゃあことによると…」
シオンははしばみ色の瞳をふいと見開くと、楽しげな微笑を頬にのぼらせた。
「おい、キール、ちょっと付き合え」
「な、なんです?」
「いーから。これははっきりさせとかんとなぁ」
キールの反応には構わず、シオンはすたすたと王宮の奥に向かって歩き出す。
「御免こうむります、なんで俺が───シオン様!マント、放してくださいっ」
「ぐだぐだ言わねーの」
「ああああ、シオン様〜!?書類の決裁はどうなるんです!?」
「後でやっとくよ」
「後じゃ困るんです〜!…キール、どこへ行くんですか〜?」
「シオン様に言ってくれっ」


じたばた抵抗するセリアン兄弟を引き連れてシオンがやってきたのは、王宮の司政関係では最奥にある皇太子の執務室だった。
「よう、セイル」
例によって取り次ぎの侍従を踏み倒してずかずかと入ってきた友人に、セイリオスは笑顔で顔を上げかけて──一瞬目を見開いた。
「やあ、シオン。…珍しいメンバーだね」
それでも、次の瞬間には微笑んで客人たちを迎えるために立ち上がったのは、さすがと言うべきだろう。
「まーな」
にやりとして、シオンは後ろに続く二人を見やる。キールは、さすがにここまで来てしまっては騒ぐのはあきらめるしかなく、仏頂面で黙り込んだ。せめてもの意趣返しのつもりで、シオンの手の中から、力を込めて自分のマントの端を引き抜く。アイシュは、抱え込んだ書類がずり落ちそうになるのを必死で持ち直そうとしている。
シオンはセイリオスの執務机の方にすたすたと歩み寄ると、ひょいとその片端に手をついて身を乗り出した。
「ちょっと聞くがな、昨日嬢ちゃんがここに来なかったか?」
「メイかい?ああ、来たよ」
いきなりのシオンの問いに、セイリオスは意外そうに淡い紫色の瞳を見開く。
「チョコを持って、な?」
続くシオンの言葉に、セイリオスは1、2度瞬きをした。
「…よく知っているね」
「…殿下にまでですか!?」
皇太子の答えに、思わずキールは小さく声を漏らす。
セイリオスは、キールの方を見て僅かに首を傾けた。問いかけの視線に答えるより先に、キールは謝罪の言葉を口にした。
「…申し訳ありません、皇太子殿下に対してそんな失礼な真似を──何を考えているんだ、あいつは…よく言い聞かせておきますから」
短く頭を下げる彼に、セイリオスは苦笑を漏らした。
「いや、私は嬉しかったから構わないんだけれど──みんなで私をつるし上げに来たわけではないのだろうね?…私に『まで』、ということは──」
「ああ、ここにいるのは、みんな嬢ちゃんにもらったご同輩だ」
さすがに、ほう、とセイリオスも目を見開く。ようやく書類を落ち着かせたアイシュが、顔を上げて少し苦笑混じりに口を開いた。
「…僕が会った時、メイはこれから騎士団に行くって言ってました〜。袋の中にまだ一杯抱えてたみたいですから、クレベール大尉やガゼルや、騎士団のみなさんに差し上げたんじゃないでしょうか〜」
一瞬、男たちの間に沈黙が落ちた。
何とも奇妙な間を破ったのは、シオンだった。
「やれやれ、やられたな、嬢ちゃんには。俺だけかとちっと期待しちまったのにな〜」
呑気な声で愚痴っぽく言う彼に、つられて全員がそこはかとなく苦笑を零す。
「まあ、何もここで立ち話をすることもないだろう。隣へ通ってくれたまえ──ワインでも運ばせよう」
セイリオスが、奥に続くプライベートの居間の方へ全員を誘った。
「お、いいねぇ」
「殿下〜、昼間からそれは〜」
「申し訳ありませんが、遠慮させていただきます」
アイシュとキールの言葉に、セイリオスは淡いスミレ色の瞳を細めて苦笑する。
「セリアン兄弟はなかなか堅いね。…分かった、茶にしよう。それならいいだろう?」
「お前ら、セイルの秘蔵ワインを飲む機会をパァにする気か?もったいないことするぜ」
「昼間から酒を飲む習慣は持ち合わせてませんので」
「ワインなんざ酒のうちに入るか」
なし崩しに雰囲気に流されて皇太子の居室に通されながら、キールはほっとしたような、どこか気落ちしたような、複雑な感覚をかみしめていた。
(俺だけじゃ、なかったのか──)
さっきシオンが冗談めかせて言った台詞を、胸の中で繰り返す。
どんな顔で返事をすればいいのかと、さんざん迷ったというのに。
(ここにいるだけでも…4分の1、ってわけだな)
騎士団にも持っていったとなると、一体何分の1になるのだろう。
(大勢の中の一人、か)
胸の奥に、じわりとほろ苦いものが染み出す感覚を、彼は首を振って払いのけた。

茶が運ばれ、他愛ない雑談がしばらく続いた。
最初から、こんなところに来るのは場違いなのにと内心眉をひそめていたキールが、なんとかこの場を辞しようとタイミングを計り始めた頃、一枚造りの豪奢な扉が軽やかにノックされた。
「お兄様、わたくしですわ」
外から響いた愛らしい声に、セイリオスは顔を上げて、お入り、と返事をする。
扉が開いて、薄紅色の髪の王女がふわりと戸口に現れた。中をぐるりと見渡すと、濃いスミレ色の瞳を見開いて零れるように微笑む。
「こちらの方に、お茶を運ばせたってお聞きしたので伺ったのですけれど──まあ、珍しい顔ぶれですのね?」
ディアーナは、しとやかに扉を閉めると、軽い足取りでティーテーブルの方に歩み寄ってきた。セイリオスの身振りに従って、兄とシオンの間に席を占めると、にっこり微笑んで周囲の顔を見渡す。
「ごきげんよう、シオン、アイシュ、キール」
口々に挨拶を返す男性陣に会釈してから、ディアーナはセイリオスを見上げた。
「何か、難しいお話をしておいででしたの?」
「いや、そうではないよ──まあ、ちょっと親交を深めていたという所かな」
ふうん?と瞳を瞬かせるディアーナに、シオンが軽口を叩く。
「つまりな、我々がみんな揃って嬢ちゃんに振り回された哀れな恋敵だっていう認識を深めてたのさ」
「メイに?」
ディアーナは、膝の上に重ねていた手を、ぽん、と胸の前で打ち合わせた。
「ああ、分かりましたわ!メイのチョコレートのお話でしょう!」
「おや、知っていたのかい」
「ええ、わたくしも頂きましたもの」
キールは、平然としたディアーナの言葉に、思わず含んでいた紅茶を吹き出しかけた。
カップを口にしていれば、他の面々も同じような反応を示したに違いない。生憎、その時ちょうど口を付けていたのは彼だけだったのだが。
「…ひ、姫もですか」
「ええ、可愛いハートの形のチョコレートですわ」
ディアーナはにっこり微笑むと、指を組み合わせて続ける。
「で、わたくしは、メイにとびっきりのトリュフを差し上げましたの」
「…おいおい、嬢ちゃんと姫さんはそーいう関係かい?いかんなー、世の男性を絶望させちゃ」
あきれ半分といった調子でからかうように言うシオンに、ディアーナはつんと顎をそびやかしてみせる。
「違いますわっ。でも、メイが言ってたんですもの、メイの世界では、男女関係なく、好きな人に上げるのもありなんだよって。ですから、わたくしはメイと交換したんですのよ」
「…ディアーナ…昨日は、チョコレートをあげたのは私だけだと、言っていなかったかい?」
にっこりと微笑みながらも、どこか緊張したものを漂わせる声でセイリオスが問いかける。
「ええ、男の方には、お兄様だけですわ」
「そうか、それならいいんだ」
妹の無邪気な答えに、今度は心底にこやかに微笑み返すセイリオスを見て、大小の違いはあるにせよ、期せずして同じ調子のため息が一同の口から漏れる。
「にしても、女まで範囲に入っちまうのか?こりゃあ、一体いくつばらまかれたうちのひとつなんだか、見当もつかなくなってきたなー」
シオンが嘆息しながら伸びをした。
「レシピを教えた時は、ひとまず10人分の分量をって聞かれましたけどね〜」
のどかなアイシュの言葉に、一同がまた苦笑を零す。
「アイシュが教えたんだったのかい」
「はい、先週に」
「ひとまず10人ねぇ。なんか凝った飾りがついてたから、こりゃてっきり俺だけのために心を込めて作ってくれたんだと思ったんだがな」
「ああ、あの装飾だね?確かに変わった模様だったな」
シオンの言葉に相づちを打つセイリオスとアイシュに、キールはふと顔を上げて彼らを見回した。
(…飾り?)
そんなものがついていただろうか。ただの、なめらかな板チョコだったはずなのだが。
キールを除く男性陣のやりとりを聞いていたディアーナが、ふふふ、と可愛らしい笑い声を漏らした。
「わたくし、それの意味、メイに聞きましたわ」
「意味?」
ディアーナは、妹を見下ろして首を傾げるセイリオスに、悪戯っぽく微笑む。
「あれはね、メイの世界の文字なのですって」
「ああ、そういえば」
「前に、嬢ちゃんの名前をどう書くかっていうのを見せてもらったっけな…そうか、あれに雰囲気が似てたのか」
頷くセイリオスの言葉を受けて、シオンがそう続ける。
「なるほど〜、文字でしたか。でも、何と書いてあったんでしょうね〜?」
全員を代表したアイシュの問いに、ディアーナはちょっと背を伸ばしてお澄ましをしてみせた。
「『義理』ですわ」
「……あ?」
すっぱり言い切ったディアーナの答えに、呆気にとられたようにシオンが問い返す。
「ですから、義理、ですの」
「おいおい姫さん」
「どういう意味だい?ディアーナ」
集中する視線に、ディアーナはこほんと咳払いをすると口を開いた。
「メイの世界にはね、『義理チョコ』っていう風習があるのですって。恋愛とは、全然関係なくって」
『全然』の部分に、思いっきり力を込めながら、ディアーナはぐるりと周りの顔を見回す。
「普段お世話になっている方にお礼の意味で差し上げたり、お仕事をしている人だと上司の方に仕方なく差し上げたりするのですって。そういうチョコレートを、『義理チョコ』と言うのだそうですわ」
今度は、『仕方なく』の部分に力を込めながら、薄紅色の姫君はそう説明してにっこり微笑んだ。
「そういう意味の、義理なのかい?」
「そうですわ。でも、わたくしが頂いたのには、書いてありませんでしたの。ですから、あれはちゃんとしたチョコレートなんですわ」
得意げに胸を張るディアーナに、シオンがまたからかうような声をかける。
「おや、やっぱり姫さんと嬢ちゃんはアヤシい関係か?」
「違いますわっ」
すっかり力が抜けてしまってリラックスした場の雰囲気の中で、キールは一人混乱する思いを抱え込んで、棒を飲んだような姿勢でその場に固まっていた。
(確かに、何も書いてなかったはずだけど───)
もしかしたら、見えないような素材で書いてあったのだろうか。しかし、他のみんながああも容易く見分けているのに、自分だけが気づかないなどと言うことがあるだろうか。
時化の海さながらに、胸の中はさんざん波立っている。普段から人付き合いの悪い仏頂面であるせいで、外から見る限りでは、さほどいつもと変わらない様子に見えたのは、彼にとってまあ幸運ではあったかもしれない。


皇太子の居室を辞した後、たまには家に帰ってきてください、という兄の懇願を適当にやり過ごし、お茶の席で話題に出たおかげで、請願の件もひとまず片づけたキールは、まだ何かと構おうとする先輩魔導士を何とか振り切って帰途についた。
 研究院の門をくぐり、自室に戻ると、彼は机の引き出しを開けて例の小箱を取り出した。
一般的には甘いものであるチョコレートへの抵抗と、それから、ハートの形を壊すのが何となくためらわれたこともあって、まだ中身に口を付けてはいない。
昨日から幾度か開いてみた蓋を、また開けてみる。中には、艶やかな褐色の、香り高い固まりがやはりこぢんまりとおさまっていた。
表面は、小さなでこぼこはあったがほぼ滑らかで、ビターチョコレートそのものの濃い茶色ひと色だ。
(──裏に書いてあるとか?)
ふと思いついて、手にとって裏返してみる。けれど、やはりそちら側も同じ、一面艶やかな褐色だ。
やはり、どこにも、なにも、文字らしきものは書かれていない。
(───俺だけ、か?)
不意に胸の奥で何かが騒ぎ出す。
(…いや、まだあの3人の話を聞いただけだし。騎士団にも持っていったというなら、そちらの方にもこういうのがあったのかも───)
どこか甘い方向へ思考が雪崩れていこうとするのを、とっさにそう戒める。
小さく息をついて、キールは、手にした愛らしい形の物体をじっと見つめた。
(…甘くないから、か)
香りは、やはり菓子そのものの甘ったるさなのだが───
恐る恐る口を付けると、そっと一口かじり取ってみる。
(………なるほど、苦いな)
砂糖は入っていないらしかった。ほろ苦い味が、舌の上に溶けて流れ出す。
彼は、自分が口にした分だけ欠けてしまったハートの形を、じっと見下ろした。

軽い足音がドアの外で止まったかと思うと、とんとん、と扉が鳴った。
「キールっ、いる?」
澄んだ声で名前を呼ばれて、キールははっと顔を上げた。慌てて箱に蓋をしながら、ああ、と返事をする。
箱をしまうまで返事を待てばよかった、と思いついた時にはもう、元気よくドアは押し開かれていた。
「帰ってたんだ!あのね、課題の───」
いつもの、跳ねるような足取りで部屋に入ってきた褐色の瞳の少女は、そう切り出しかけてはたと、保護者の青年の手にある箱に目を落とした。
「あ」
一瞬瞳を瞬かせて、メイは次の瞬間、照れたような笑いを零した。
「……それ、食べてくれた?」
いや、と咄嗟に否定しかけて、思い直して短く頷く。
「…一口だけ、な」
「えへへ、甘くなかったでしょ?」
「まあな」
殊更に無愛想な返事をする青年の顔を、少女はまた一、二度瞬きをして少し伺うように見上げた。
一瞬沈黙が落ちる。
もの問いたげなメイの眼差しを感じて、キールは少し視線を逸らせて前髪をかきあげる。
何か、言わなければとせき立てられているような気がする。
「……王宮で、シオン様や殿下と会った」
視線だけで見上げていたメイが、ふと顔をこちらに向けた。
「兄貴にも姫にも会った。…お前、みんなにこれを配って歩いてたそうだな」
手にした小さな箱を、軽く持ち上げてみせる。
メイの瞳を、はっと何か驚きのようなものが横切った。
驚き───それとも、他の何かだろうか?
「……他の人間はともかく、皇太子殿下にまでそういう馴れ馴れしい真似はよすんだ。お前は大体身分をわきまえるということが分かってないのか」
「…あたし」
メイが口を開こうとするのを遮るように次の言葉を口にする。
言いたいのも聞きたいのもそんなことではないのに。
「普段親しくお言葉を頂いているからといって、友達だとか──そんな感覚で接するんじゃない。研究院預かりの間は、仮の身分として下級貴族扱いにはなってるが、お前は元々は───」
「殿下はありがとうって喜んでくれたもん!」
跳ね返るように言い返すメイの言葉に、続けて言い募ろうと彼女の瞳を見下ろして、キールはふと言葉を引っ込めた。
濃い茶色の瞳が、じっとこちらを見上げている──怒ったように──いや──それとも、どこか泣き出しそうに……?
「──でも──だけど──あれは、あのチョコはさっ…」
息が引っかかるように、メイは言葉を切った。
微かに俯いて、続きを呟く。
さらりと、まっすぐな髪が頬に流れ、瞳を隠す。
「……キールのとは、違うんだから」
「…文字のことか」
ついぽろりと滑り出た言葉に、メイがぱっと顔を上げた。
「え」
「…あ、その」
メイの瞳の色にどこかたじろいで、キールは慌てて視線を逸らせた。
「姫が、みんなに説明してたんだ、お前のチョコレートに、お前の世界の字が書いてあったって」
「…や、やだな、ディアーナったら、もうネタばらししちゃったんだー?」
「意味も、聞いた」
続けられたキールの言葉に、メイはちょっと頬をかいて、えへへ、と笑ってみせた。
困ったような、安心したような、照れたような、どこかふわりと柔らかな雰囲気をまとった微笑に、キールはふと目を奪われかけて慌てて立ち直る。
「…騎士団の方に配ったのとかにも、書いたのか」
「うん」
彼は、小さく咳払いをひとつした。
「……俺のには、書いてなかったな、なにも」
メイは、ちらりとキールの瞳を見上げた。
「…うん」
「書き忘れたのか?」
少しの間をおいてキールが口にしたその言葉に、メイは弾かれたように顔を上げた。
瞳に宿った強い色が、まっすぐ彼を見上げる。
キールは、慌てて瞳を瞬いた。自分でも滑稽なくらい、動揺していた。
「…あ、いや、…そうじゃないなら、いいんだが」
メイは今度は、はたりと視線を落とす。さらさらの髪の合間から覗く頬が、どこか淡く染まっている気配がする。
「…うん、違うよ」
「……そうか」
「うん」
お互い、あまり意味のない相づちを打ち合う。
キールは、ふいに右手の中の箱のささやかな重みを痛いほど意識しながら、目の前に立つ少女の華奢な姿を見つめた。
(どんな風に言えばいいんだ?こういう時は)
この箱を最初に渡された時の自問に、また巡り巡って戻ってきたわけだ───
キールは、ふとそんなことに思い当たって苦笑しそうになる。
「……その、メイ───」
まだ何をどう言えばいいか決められないまま、ためらいがちに彼は口を切った。
けれど───そう。
まず最初に伝えなくてはいけなかったこと。
不意打ちに狼狽えてしまって、言えずにいたけれど。
「……ありがとう、な」
メイが、視線を少し上げてキールの顔を見る。
「…その…甘いのは苦手だし、いや、今だって食いたい訳じゃないが、これは、その――嬉しかったから」
その最後の単語ひとつを口に出すのに、なんだかしどろもどろになりかけた彼に、メイは勢いよく顔を上げた。
「あ、あのさ、キール」
「…なんだ」
「来月、ホワイトデーだからねっ」
「……あ?」
桜色に頬を染めた少女の唇から零れた単語に、青年は眉を寄せる。
聞いたことのない単語だ。
バレントデーは押し掛けられて聞き知ってはいたが、やってくるチョコレートを全部突き返していた彼には、今まで縁のない行事だったのだから、無理はないといえなくもない。
「…お返し、期待してるからっ」
「お返し…?」
「何をくれるんでも、あたし覚悟してるし」
「覚悟って──」
いきなり出てきた勇ましい響きの単語に、キールは咄嗟に反応を返せずに目を瞬く。
「…あの、そういうことだから、じゃあね」
何がそういうことなのだか、少女はこくんと身体ごと首を傾げると、大慌て、という形容が似合うようなあたふたした様子で身を翻してぱたぱたぱたと部屋を駆け出て行ってしまった。
後に残された青年は、ひたすら困惑して立ち尽くす。
少女が尋ねてきた本来の用件は、結局果たされないままになってしまったのだったが、そのことには両方ともまったく思い及ばなかった。



 メイが残した単語だけを手がかりに、その後数日間に渡ってキールは暗中模索することになった。書物で調べるのはあきらめて、なんとか周囲の人間から聞き出し、どうもそれがバレントデーと関連する日らしいとあたりをつけた彼だったが、そこから先がまだまだ苦難の道だったりするのだった。
恋愛イベント関係だと分かったところで、その先の教えを乞える相手───と考えて、一瞬頭の中をよぎった青い長髪の影を、彼は速攻で力強く却下した。兄のことも思い浮かぶと同時に脳裏から消し去る。こういうことは、やはり女の方が詳しいのだろうか、と考えかけて、浮かびそうになった薄紅色の髪の姿も、眉根を押さえて却下する。
結局、メイの指定したX-デイ直前まで、彼の呻吟は果てしなく続いたのだった。