Merry Light Christmas

御崎 濯     


「キール!」
ぱたぱたと軽い足音が背後から聞こえたかと思うと、左腕に勢いよく暖かな感触が飛びついてきた。
キール=セリアンは、少し眉を寄せて自分の左腕を抱えこんでいる少女を見下ろす。
茶色の大きな瞳が、彼を見上げて嬉しそうに微笑んだ。
少女の名はメイ=フジワラ。他でもない彼の手で召還された、異世界人である。
なんだかんだあって、とにかくケンカばかりだった彼らが両想いの恋人同士へと昇格したのがほんのふた月たらず前のこと。最初は何となくぎこちなかった二人だが、そろそろその位置づけにも慣れてきて、甘さ全開の頃合い──のはずである。普通なら。
「…離せよ、メイ」
不機嫌そうな表情のまま、キールはぶっきらぼうに言ってメイの手から自分の腕を抜き取る。
「ん、も」
そっけなく引き離されて、メイはぷぅっと頬を膨らませる。
「いいじゃん、ちょっとくらいー。誰も見てないのにっ」
「恥ずかしいまねするなよ」
「何が恥ずかしいのよっ、腕くらいで」
魔法研究院の研究棟、キールの研究室へ向かう廊下の途中である。
不満げに唇をとがらせるメイを置き去りに、キールはすたすたと自室の方へ足を運ぶ。慌ててメイはその後を追う。
研究室に入って扉を閉めると、キールは顔をしかめてメイの方を振り向いた。
「…お前、廊下でああいうこと言うな。他の部屋に聞こえる」
「別に変なこと言ってるわけじゃないもん!」
「恥ずかしいと言ってるんだ」
「…もー、キール、そればっかり!」
ぷんすかと唇を尖らせる恋人の不満顔にもお構いなしで、キールは端然と続ける。
「それより、メイ、今日までの課題は出来たのか」
「…う」
「まだか?」
「うー」
「いい加減、遅らせるのはやめろと言ってるだろ。大体、魔導士試験を目指すから今まで以上にがんばると言ったのは、お前自身だろうが」
「ううう、分かってるわよぅ」
一事が万事、こんな感じだ。ただの保護者と被保護者だった頃と、やりとりの調子も話の内容もあまり変わらない。
「分からないところはそのままにしておくな。…見てやるから、課題持ってこいよ」
「…うん」
この辺は、まあ多少は柔らかくなっているだろうか。

とにかく、そんなこんなで、恋人らしい甘い雰囲気にはあまり縁のない二人ではある。
というか、キールの方が、そういうのが苦手なのだと言った方が正しいのだろう。それは、メイも彼と付き合う前から分かっていることだった。大体、キールが女の子にたやすく優しく出来るような奴なら、二人の気持ちだってもっと早く通じ合っていたはずなのだし。それは分かっている。分かってはいるが、やはり物足りない気持ちがどこかにあるのは否めない。

だから、12月も半ばを過ぎたとある日、キールが口にした台詞は、メイを心底びっくりさせた。
いつものように課題を添削してもらって、いつもより少し出来がましだと誉めてもらって、彼の入れてくれたお茶を一緒に飲んでいた時だった。
キールの様子がどうもさっきから変なのに、メイは内心首を傾げていた。なんだか妙に上の空だったり、変なところで相づちを打ったり、かと思ったら返事をしなかったり。
そんな調子の会話がしばらく続いた後で、やがてキールは、何か迷うように視線を逸らせながら小さく咳払いをして、口を開いた。
「メイ」
「ん?」
「お前──来週の火曜は、空いてるか」
「え?」
メイはカップを両手で抱えこんだままで、ぱちくりと瞳を瞬かせた。
「来週の、火曜──?」
頭の中で、日程をさらりと流してみる。
「…え、降誕祭…?」
メイの世界ではクリスマスイヴと呼んで祝っていたその日は、こちらでは女神の生まれた日、降誕祭の祝日だ。
クリスマスが、恋人たちには重要なイベントだったのと同じように、降誕祭もやはりそんな意味合いを持つらしい──とは、この間ディアーナとのおしゃべりで聞いた話である。
メイは、不意に胸が大きく打つのを感じてキールの顔を見た。
「う、うん──空いてるけど」
「そうか」
キールは短く頷くと、怒ったようにも見える表情で、前髪をかきあげた。
ほのかに、耳が赤い。
「その──メシでも、食いに行くか?…一緒に」
「…え」
メイは、今度こそ絶句してキールを見つめた。メイの視線に、キールは慌てたようにまた視線を逸らせてしまう。
「…あ、いや、嫌ならいいけど──」
「…行くっっ!」
メイは、ぶんぶんと大きくかぶりを振りながら叫ぶと、次は頬を染めて何度も頷いた。
(うそ!?…キールが?あのキールが!?)
さっきのどきどきが、苦しいくらいに膨れ上がってくる。
「行くよ、絶対行く!…ホント?ホントに、連れてってくれる?」
「ああ」
「二人で、だよね?」
「そうだ」
「絶対に?…やっぱり、恥ずかしいからやめるとか、言わない?」
「…言わないって」
繰り返し念を押すメイの言葉に、キールは僅かに苦笑を浮かべた。
大きな茶色の瞳を、更に大きく見開いて、メイは頬を薔薇色に染めて嬉しそうに笑っている。まるで、全身から輝きがあふれ出ているようだ。
なんだか彼女が眩しくなって、キールは少し瞳を細める。口にするのに、それはもう大変な勇気を必要とした言葉だったが──こんな風に輝くようなメイの笑顔を見られるのなら、悪くない。
「…店、決めとくから」
「うん!美味しいお店、選んでね」
メイらしい注文に、キールは少し頬を緩める。
「あまり高い店は、無理だからな」
「分かってる分かってる!えへへ、キールと、行けるだけでいいよ」
メイの素直な愛情表現に彼は、ああ、とか、まあ、とか、曖昧な音を出して視線を逸らせた。
「…その、じゃあ──今日は、もう寝ろ」
「え、もう?」
ちょっと不満げに頬を膨らませるメイを見やって、キールは何とかいつもの表情を取り戻す。
「明日も早いだろ」
「…はぁい」
不服げに、けれどどこかまだ嬉しそうに表情を輝かせたままメイが立ち上がる。
「また明日ねっ、キール!」
「ああ、おやすみ」
立ち上がってメイを送りだしながら、キールは彼女の栗色の頭をぽんぽんと軽く撫でる。メイが、彼を振り仰いで嬉しそうに微笑んだ。


降誕祭の前日、メイは例によって課題を抱えてキールの部屋を訪れた。
この1週間のメイのがんばりは、それは目覚ましかった。なにせキールのことだ、ああいって約束はしていても、メイが課題を遅らせたりすっぽかしたりしたら、これが出来るまで出かけるのは延期だとか言い出しかねない。
期限の日に(一度などはその前日に)きちんきちんと課題を出しに来る彼女に、キールはあきれたように息をついて、
「お前、出来るんならもっと普段からちゃんとやれ」
と言ったくらいである。
ノックをすると、いつもの声がどうぞ、と答える。
「キール、課題持ってきたよっ」
朗らかな声で告げて、メイは軽やかな足取りで中に入った。部屋の中を一瞥して、あれ、と瞳を瞬かせる。キールは、いつもの机の前ではなく、予備のスツールに座り込んで巻物を広げていた。
「どしたの、なんで机じゃなくてこっちにいるのよ」
「場所がない」
短く顎を机の方にしゃくって、キールはそう言った。確かに、彼の机の上には、例によって書物だの巻物だのが山積みになってはいるのだが。
「そんなの、いつものことじゃん」
キールが、いつも自分の座るスツールを占拠してしまっているので、メイはキールの椅子に腰を下ろした。
キールは、ちらりとそんなメイを見やってから、また巻物に目を落とす。
「…飛び込みなんだよ、これは。明日の召還実験の、立ち会いの準備だ」
「…召還実験?」
メイは、足をぶらぶらさせながら聞き返した。
「ディフォードの申請が長老に通ってな。明日の午後、実験することになった。それに、立ち会うんだ」
同じ、召還魔法の研究グループにいる紫の肩掛けの魔導士の名をあげて、キールは面倒くさそうにそう言った。ふうん、と頷きかけて、メイはがばと身体を起こした。
「…明日?明日って!?…あたしとの、約束は!?」
せっぱ詰まったメイの声に、キールはふと顔を上げる。怒ったようにきゅっと眉を上げて、けれどどこか泣き出しそうに不安げなメイの表情を見ると、彼は短く苦笑した。
「…実験は、午後の三刻からだぜ。いくら何でも、夕方までには終わる。…店は、七刻に予約してあるから」
「…あ、…うん」
メイは、ほっとしたように息をつくと、ムキになった自分に照れるようにてへへ、と笑ってみせた。それを見て、キールの方も少し照れたように前髪をかき上げると、小さく咳払いをする。
「…それにしても、大体、こんな理論がうまくいくはずはないんだ。長老たちの目も、とんだ節穴だな」
話を逸らせようとするかのように、キールは軽く巻物の表面を人差し指の背で弾きながら、そう言った。
「まーた、そういう言い方する」
メイは、キールの口調に苦笑を漏らす。彼は、こと魔法理論については、研究院の同僚や長老に対して全く遠慮というものがない。まあ、それ以外のことでも、あまり遠慮しているとは言えないが。
メイには、礼儀とか常識とかでうるさく言うくせに、なんだかこの辺矛盾してるんじゃないのかなと、彼女としてはいつも思っていたりする。
「見れば分かる。異界との接点を開く呪文の構成が杜撰すぎるんだよ。魔力の誘導が偏りすぎてる上に、その補助に当たる魔法陣の構成が緩すぎる。これじゃ偏向した魔力の余波を吸収しきれない」
巻物に並んでいる呪文を検分しながら、キールはつけつけとそう評した。メイの書いた魔法陣を講評するときも、先輩の魔法陣を批評するときも、その口調は同じだ。そういうところは、まあ公平と言えば言えるのかもしれない。
「まるで、もう失敗するって決めつけてるみたいな言い方だね」
「失敗するだろうな」
素っ気なくそう言って、彼はばさりと巻物をさばく。
「わかってんだったら、そう言ってあげればいいのに」
少しあきれたようにそう言うメイをちらりと見て、キールはふんと鼻を鳴らした。
「言ったさ。長老たちは『とにかく機会は与えてみよう』だそうだ。理論が全然なってないのに実験するなんて、ただの無謀だと思うけどな」
そう言うと、彼は手にした巻物をくるくると巻き取りながらメイに瞳を向けた。
「で、課題か?」
「あ、うん」
メイは、膝の上に抱えていたノートを取り上げてキールに差し出す。
頷いて受け取り、ページを開く彼を見て、メイはくすりと笑った。
「なんだ?」
目を上げてキールが尋ねる。
「ん、場所が逆だと、何か変な感じ。キールの方が生徒みたい」
「何言ってる、ばか」
キールの椅子にえへん、とふんぞり返ってみせるメイに、キールはあきれたように短く苦笑した。

あけて翌日、降誕祭。その日は、朝からいい天気だった。
雪の降るホワイトクリスマス、なんていうのも、メイはちょっと期待していたりしたのだが、女神はそこまでサービスしてくれる気はないようだった。
「んー、初めて恋人と過ごす聖夜がホワイトクリスマス、なんて、出来過ぎてるかぁ」
窓から青空を見上げつつそう呟いてみてから、恋人、という言葉の響きがくすぐったくて、メイはくすりと笑った。
祝日なので、研究院の講義も今日は休みだ。その休日に、敢えてその実験が行われるのは、降誕祭である今日は、女神の守り、ひいては魔力の安定が大きくなる日だからだということらしかった。
キールとは、朝、昼と食事の時に食堂で会った。メイは、せっかくの降誕祭なんだから、夕方から後だけじゃなくて一日一緒にいられるといいな、と思ったりもしたのだが、午前中キールの部屋を覗くと、彼は相変わらず書物や巻物に埋もれていた。
いつものことだが、キールにとっては、研究に休日も祝日も関係ないのだった。この辺は、デートの約束のある降誕祭の日も、同じらしい。
メイは、せっかくの休みなんだから、たまには研究も休みにしてのんびり過ごせばいいのに、といつも言うのだが、キールは「やりたいことをしてるだけだ」ととりつく島もない。
「まったく、研究マニアの学者バカなんだから」
時にはため息混じりに、時には怒鳴り声を張り上げて、何度メイはそう言ったことだろう。

まあそんなわけで、昼間も彼を独占するのは、仕方なくあきらめることにした。
いつもなら不満たらたらの所だが、今日は夕方からのデートのことを思うと自然と頬が緩んできて、不機嫌は長続きしなかった。
(考えてみたら、ちゃんとした『デート』なんて、初めてだよねー)
一緒に出かけることがなかったわけではないけれど、買い出しを手伝ってもらうのだったり、逆に街に用事があって出かけるキールにメイがくっついていくのだったりすることばかりで、二人で約束して出かけるなんていうのは、実は本当に初めてかもしれなかった。
(あきれるわよねー、これでほんとに付き合ってんのかしらね、あたしたちってば)
そんないつもの愚痴にも、今日はなんとなく弾んだものが混じる。
キールが誘ってくれた。
しかも、降誕祭に。
そんなことだけで、心の底から浮き浮きしている自分が、メイはなんだかおかしかった。

午後も半ばを過ぎた頃、メイは部屋で落ち着かなげにうろうろしていた。
ベッドの上には、一枚のワンピースが広げられている。今夜のデートのためにと、思い切って新調した服だった。白と、淡いピンクのグラデーションが裾から広がっていて、襟刳りが少し広めにあいている。
これを買いに出かけた時、制服で着慣れたブルーがいいか、それとも親友たちが髪の色に映えると誉めてくれた黄色もいいかなと、メイはずいぶん迷ったのだった。けれど、やはり初デートとあっては、女の子っぽいところを強調して見せたいような気もして、一番フェミニンな印象だった、このワンピースにした。生地に、ぼんやりと小花模様が織り込まれているのも、可愛らしくて気に入っている。裾は緩やかなフレアになっていて、メイがいつも着ているローブ風のワンピースより、少し長めだった。
(キール、いつもあたしの服、スカートが短いってうるさいし)
「オトコの趣味に合わせてやるなんて、あたしってけなげじゃん?」
というか、クラインでの常識に、と言うべきだろうか。メイはもう一度ワンピースを眺めて、くすりと微笑んだ。
(何か、言ってくれるかなぁ…)
思う端から、無理無理、とツッコむもう一人の自分を、いいじゃん、期待くらいしてみたって、と追い払いながら、メイはそっとワンピースの柔らかな生地の袖をすくい上げる。

と、その時。
不意に、何かが揺れた。
空気だったのか、地面だったのか、それとも、溢れ走った魔力だったのか。
どれでもなく、どれでもあるような、低い震動。
メイは、はっと息を飲んで顔を上げた。胸の奥から、どっと嫌な感じが吹き上げる。
(───ホール?)
そう、確かに、そちらの方が源だったような気がする。
彼女は、身を翻すと部屋から全速力で走り出た。

ホールの前にたどり着くと、そこには既に数人の魔導士たちが集まってきていた。
やはり魔法の研究に携わる者たちのことで、メイと同じようにさっきの異様な震動を感じ取ったらしい。
「どうしたの!?」
走り寄りながら叫ぶメイに、振り返った魔導士たちの一人が口を開いた。
「…中で、何かあったようなんだが」
「だーっ!そんなこと、言われなくても分かってるわよっ!なんで開けないの!?」
扉に取りつくと、メイは取っ手を握って引き開けようとした。が、重い扉はぴくりとも動こうとしない。
「ダメだ、中から閉められてるから」
横から、うろたえたようにさっきとは別の魔導士が口を挟む。
「もーっ!重たい扉ねっ!──ぶちあけるわよっ!」
大きく息を吸ってファイアーボールの呪文を唱えようとした彼女に、周りのみんなはわっとばかりに後ずさる。中には、きびすを返して逃げ出す者までいる始末だ。
が、その呪文は、中から聞こえた声に中断させられた。
「やめろ、開けるな!結界が破れる」
メイは、瞳を見開いて扉に張り付くと、中に向かって怒鳴った。
「───キールっ!」
ぴんと張りつめて、いつもよりせわしい口調だが、それは確かにキールの声だった。
その声が、口早に続ける。
「いいか、絶対に開けるな、──中で何とかする」
「キールっ!?どうしたの、何が起こってるのよ!?」
けれど、その問いへの答えは返ってこなかった。
ただ、音とも低い震動ともつかない唸りが、途切れ途切れに続いているばかりだ。
メイは、扉に張り付いて、全身で中の気配を探ろうとした。
キールが、開けるなと言ったのは所以のないことではない。以前にここで起きた事件の後、このホールは扉を閉め切ることで、魔法的な結界が張られるように魔法陣と呪文が組み込まれたのだ。これで、中で何か大きな事故があっても、扉を閉め切っている限りは外への被害が最小限に食い止められることになる。発案したのは、もちろんキールだった。
けれど、メイは、今はその結界を恨めしく思いながらホールの中に耳を澄ませ続ける。
(──実験、失敗したんだ)
キールの昨日の言葉が耳に蘇る。彼が、あれだけ自信を持って言い切ったのだ。やはり、実験は失敗したのだろう。──けれど、どんなふうに?
以前に、キールが召還実験をした時は、同僚に呪文を書き換えられてドラゴンが呼び出されてしまった。けれど、中から聞こえてくる低い唸りは、その時のドラゴンの声とはまったく違った音だ。
(ああああっ、もう、だからあたしも見せてって言ったのに!)
メイは、自分も召還実験を見せてくれとキールに頼んだのだが、
「お前がいちゃ、うまくいくかもしれない部分まで失敗する」
と言われて追い払われてしまったのだった。
(あたしも、中にいられたら──)
何ができたか──…いや、何もできない、かもしれないけれど。
(…でも、せめてこんなとこではらはらしてるだけじゃなくてすんだのにっ!)
あのドラゴンが現れた時は、メイは直接には何もできなかった。けれど、書き換えられた場所を破り取り、ケガをしたキールをかろうじて治療することができたのだ。
(──ケガ)
一瞬、フラッシュバックのように、ドラゴンと対峙して大ケガをした、あの時の彼の姿が目の奥に蘇る。
また、キールがあんなケガをしたら。
メイは、全身の血がざあっと引いていくのを感じた。
「───キールっっっ…」
メイが、大声を上げて扉を叩こうと拳を振り上げた時。
不意に、中から響いていた震動が消え失せた。
まるで、いきなり目の前で本をばたんと閉じたかのように。
メイは、拳を握りしめたまま、瞬きもせずに扉を睨みつけた。
永遠とも思える一瞬の後──ごとごと、という鈍い音がしたかと思うと、ゆっくりと扉が押し開けられる。
メイは、慌てていったん後ろに下がると、せわしく首を伸ばして中を覗き込んだ。
扉を開けたのは、緑の肩掛けをした魔導士だった。召還魔法の研究をしている一人で、メイも顔見知りだ。けれど、そんなことは今の彼女にはどうでもよかった。疲れと、安堵が入り交じった表情を浮かべるその魔導士の横をすり抜けると、中へ飛び込む。
ホールの中には、何か異様な匂いが漂っていた。沼から発する臭気のような、澱んだ匂い。
しかし、メイはそれを気にする余裕もないまま、ホールの中を慌ただしく見渡した。
ホールの中程に、探す相手の姿を見つける。
「───キールっ!」
短く叫ぶと、メイは彼に向かって駆け出した。キールは、側にいる魔導士に、跪いて治癒魔法を施していたようだった。メイの声に振り向くと、ゆっくり立ち上がる。
メイは、キールの所へまっすぐ駆け寄ると、彼の両腕を掴んで顔を見上げた。
「キール!…大丈夫?ケガ、してない!?」
「してない──大丈夫だ」
メイの必死の瞳を見下ろして、キールはそっと彼女の手を解くと、なだめるように軽くメイの肩を叩いた。
彼の手の重みに、やっとほっとして、メイは息をつくと辺りをくるりと見回した。
「…何があったの?」
「だから、失敗したんだよ」
ホールの、荒削りの石の床の上には、複雑な魔法陣の紋様が書き込まれているが、その所々に妙な色の染みができている。
「また、ドラゴンが出たとか?」
「ドラゴンじゃない」
キールが短く答えた時、横から長老の一人が近づいてきた。
「キール=セリアン」
呼びかけられて、キールは黙ったまま少し身体をそちらに向ける。
「助かったよ、君のおかげだ」
キールは、宝石のような緑色の瞳を僅かに細めると、辛辣な口調で答えた。
「こうなる可能性については、事前に重々ご忠告申し上げたはずですがね」
「…うむ」
「いつも、俺がこうしてフォローできると思っていただいては困ります。実験を柔軟に認可してくださるのは結構ですが、理論の確認については慎重に願います」
「…心しよう」
キールは、それだけ言うと、ひとまずこの場は切り上げることにしたらしい。
「ここの後始末まで俺がかぶらなきゃならない理由はありませんね?──失礼します」
「あ、ああ」
事前に忠告されていたにもかかわらず進めた実験で事故が起きたもので、長老も強くは出られなかったと見えて、さっさときびすを返すキールを引き留めはしなかった。
メイも、急いで彼の後を追ってホールを出る。
ホールの外の魔導士たちは、さっきより人数が増えていた。中の一人が、出てきたキールに声を掛ける。
「おい、何があったんだ」
「俺はただの立ち会いだ。責任者に聞いてくれ」
キールは、とりつく島もない口調で言い捨てると、すたすたと人の群れを抜けて回廊へ出ていく。メイは、ホールの中を覗き込もうとする魔導士たちをかき分けて、急いで彼の後を追った。回廊の終わりでキールに並ぶと、彼の横顔を見上げる。
「ねえ、何があったの?」
「昨日言ったろ。魔法陣に無理があったから、うまく異界の門が開かなかったんだよ」
キールは、短く息をついて前髪をかきあげる。メイは、彼のその表情に、疲れが滲んでいるのに気づいた。
「そのままあきらめてれば、なんて事はなかったんだがな。ディフォードの奴、慌てて即興で呪文をいじったんだ──それで、妙な形に歪んだ門が開いちまったらしい」
「どこにつながったの?」
「分からん」
キールは、軽く眉を上げてみせた。
「この世界の辺境かもしれないし、異世界かもしれん。──とにかく、妙な奴が門を抜けて出てきちまった」
「妙なってどんな?」
「聞かない方がいいぞ、眠れなくなる」
「えー?気になる」
興味津々で見上げてくるメイに、キールは苦々しげな表情をする。
「…門が、歪んでたせいで──抜けてくる時に、多分姿も──精神も押しつぶされたんだろう。…ちょっと、思い出したくない姿だったぞ」
キールの声の調子に、メイも少し黙ってしまう。ホールの中に漂っていた異臭と、床に広がっていた染みが思い出された。元の世界で、ホラー映画は結構好きだったけれど、この前ドラゴンに出会ってしまってから、実際に異形のモンスターと対峙するのは、それとは全く違うことだと身にしみて分かっている。
「…元の呪文のままで失敗したなら、あれを打ち消す魔法は大体心づもりがあったんだがな。即席でいじられたんで、追いつくのにちょっと手間取った」
「…でも、じゃあ、キールが何とかしたんだ、やっぱりすごいね」
「こんな事で誉められても仕方ない」
キールは短く肩をすくめてぶっきらぼうに言い捨てた。メイは、ちょっと笑ってから、改めて彼の顔を見上げた。
「…でも、あの──大丈夫?」
「ケガはしてない、俺はな」
「ん、じゃなくて──疲れたでしょ?…今日…出かけられる…?」
間違って開かれてしまった門を閉じ、呼び出された異形のものを送り返し、多分、そのものが繰り出した攻撃からその場のみんなを守りもしたのだろう。ついでに、傷の治療もだ。かなりの魔力を使ったに違いなかった。
本当なら、もう今日はゆっくり休んでね、と言ってあげられればいいのだけれど──
降誕祭のデート──楽しみに、本当に楽しみにしていたそれを、メイはすんなりとあきらめてしまえなかった。彼の身体のことはほんとうに心配なのに──それでも。
自分がすごくわがままなような気がして、でも彼との約束が惜しくて──そんな自分が、ますます嫌になる。
キールは、メイの、そんな気持ちが分かったのかどうか、彼女の瞳をちらりと見て、微かに苦笑した。
「心配するなよ、大丈夫だから」
「……うん──ごめん、ね」
「お前が謝る事じゃないだろ──」
キールは、少し言葉を切って前髪をかき上げた。何か口の中で呟きかけてやめると、別の言葉を続ける。
「…だけど、少しだけ、部屋で休ませてくれ──出かけるのを、一刻遅らせていいか?──悪いけど」
「う、うん──」
また、心配そうに揺れるメイの瞳を見下ろして、少し首を傾けてみせる。
「本当に、大丈夫だって。気にするな。…夕方には、部屋に迎えに行くから」
「うん、用意して、待ってるよ──キールがいい時間に、来て」
「ああ」
研究棟と、寮棟の分かれ道に来て、二人は立ち止まった。
「じゃあ、後でな」
「うん、──無理、しないでね」
メイの気遣いの言葉に、キールはもう一度、大丈夫だと答えて部屋へ戻っていった。

キールは、自室の扉を閉めると、椅子に身体を投げ込んで大きく息をついた。
ずいぶんと予定外の魔力を使ってしまった。まあ、日常生活のことだけなら、まだ体力に響くほどのことはないのだが──
(…少しだけでも、ちゃんと休んで回復した方が良さそうだな)
面倒そうにマントを外すと、部屋の片隅の衝立の向こうに回って、ソファベッドに腰を下ろす。眼鏡を外し、毛布をひっかぶると、彼は瞳を閉じた。