夢は見なかった。ほんの一瞬のような感じだった。キールは、瞳を開いて2、3度瞬きをした。起きあがって前髪を掌でこすり上げながら、小さく欠伸をする。彼は、一瞬目を閉じて、自分の内側に耳を澄ませた。
(…まあ、気休め程度か)
回復したというほどのことはないが、少なくともさっきの疲労感は少し軽くなっていた。
窓の外を見やると、もうだいぶ夕闇が下りてきている。初めは、五刻には出かけようと約束していたのだ。けれど、もうその時刻は過ぎてしまっているのは間違いなかった。
(…ちょっと、ケチがついちまったかな)
苦笑を零しながら、眼鏡をかけて立ち上がる。横になったせいで少し乱れた着衣を整えながら、彼は今頃部屋で待ちわびているだろうメイのことを考えた。
さっきは、口に出そうとして結局──例によって──言えなかった言葉を、胸の中で繰り返してみる。
(――それに、俺も、楽しみにしてるから)
約束をしたときの、メイの笑顔。あれから、今日のことを口にするたびに、嬉しそうに輝く彼女の笑顔に、キールはどれだけ幸せな気分になっただろう。
(あいつの、あんな笑顔を見ていられるのは、悪くない)
内心で呟く時でさえ、そんなふうに照れた言い回ししかできない彼だったけれど。
降誕祭──恋人たちが、思いを交わしあう日。まさか、自分が恋人と約束をして、しかもそれを心底楽しみにする日が来るなんて、思ってもみなかった。
もちろん──というか何というか、その約束を口にするまでには、色々葛藤があったわけだが。メイの親友である薄紅色の姫君や、心配性の兄に、さんざん説教やお節介をされたりもした。
「キールは、メイのお誕生日に何もなさいませんでしたでしょ?あんまりですわ!いいえ、おつきあいする前だったからなんて言い訳、聞きませんわ」
「あの頃は、もうあなたは研究以外のことは何もしていませんでしたからね〜、いえ、それは仕方ないことでしたし、今はもうそれがどうこうなんて言うつもりはないんですけど〜」
「仕方ありません、過ぎたことは許して差し上げてもいいですわ。でも、降誕祭には絶対にメイを誘うんですのよ!」
「世の中のしきたりが後押ししてくれているんだと思って、それに便乗するのもいいんじゃないですかね〜、何もない時より、約束がしやすいと、思いませんか〜?」
「女の子はね、特別な日にはお約束が欲しいものなんですの!好きな人と過ごしたいって、メイもきっと思っていますわ」
言い負かされたわけではない、そうではないけれど──そう、きっかけにはなったかもしれない。
キールは、ちらりと苦笑を浮かべると、椅子の背に掛けてあったマントを手に取った。さらりと肩掛けを流すと、窓の外を見やる。間もなく、淡く星が浮かび始めるだろう時刻。
顔を上げると、キールは扉のノブに手を掛けた。
ドアを引き開けて、部屋の外に出る。
その時、慌ただしい足音が廊下の向こうから近づいてきた。
「───キール!」
足音は、金色の姿になって、廊下の薄闇の中から駆け寄ってきた。
(シルフィス)
アンヘル族の騎士見習いの姿を認めて、彼は閉じかけたドアをそのままに動きを止める。
あまりよくない状況だった。騎士団から、誰かが駆け込んで来る時というのはどういう場合か、彼は──彼こそが、一番よく知っているのだ。
「キール、すみません──ケガ人なんです、騎士団までお願いします!」
彼の予感に違わず、シルフィスは必死の口調で叫ぶようにそう言った。
一瞬、キールは答えを返せずに黙る。
「──悪いが、誰かほかの」
気まずい思いで口にしかけた返事を、シルフィスは切羽詰まった声で遮った。
「大けがなんです、二人──ひどい血で──!きっと、キールでなければ無理です、…助かりません!」
キールは、唇を引き結んでシルフィスの顔を見た。焦りが色濃く滲む表情。金色の髪を肩に乱して、訴えるように彼を見上げている瞳。
呼びに来たのが、例えばガゼルとか、他の誰かなら、事態を大げさに言っている可能性もありうる。ちょっとしたことで動転して、大騒ぎしているのかもしれない。
けれど、この真面目な金髪の騎士見習いが言うのなら、それは恐らく本当に大変な状況なのだ。
「…お願いします、キール、早く!…死んでしまいます!」
キールは、微かに瞳を細めた。開いた唇から声が漏れるまでに、僅かの間が空く。
(メイ)
「……分かった」
一瞬だけ、視線を宙に揺らせて、短く頷く。
「お前は、馬で来たのか」
頷いてからは、彼の口調はこういう事態の時の、きっぱりしたものに戻った。
「は、はい」
「研究院の厩か?」
「そうです」
「じゃあ、それを借りる──お前は、馬車で戻ってこい」
「はい、分かりました──ケガ人は、訓練場です」
「分かった」
キールは、シルフィスの来た方へ向かおうとしかけて、ふと何かに引っかかったかのように動きを止めた。
訝しむように見上げるシルフィスに、幾度かためらってから低い声で言う。
「…メイに」
「はい?」
いきなり出てきた親友の名に、シルフィスは2、3度瞬きをする。
「メイに、すまない、と伝言しておいてくれないか」
「は、はい――?」
「…悪い」
短くそう言うと、キールはシルフィスの横を足早にすり抜けて、廊下を歩み去っていった。
シルフィスは、いつもより厳しい印象のあるキールの背中を、少し首を傾げて見送った。
彼の姿が見えなくなると、短く息をつく。ひとまず、これでケガ人のためにしてやれる最善の手は打った訳だ。キールは、治癒魔法に関してはクラインでも有数の使い手だ。彼が来てくれて治せないものなら、他の誰を呼んでも無駄なのだから。
そうは言っても、同僚のひどいケガは気になる。早く戻らなくては、と思いつつ、シルフィスはキールの伝言を思い浮かべた。
(メイに、すまない、って――?)
首をひねりながらも、ひとまず言われたとおりに、彼女(彼?)はメイの部屋へ向かった。

軽くノックをすると、ひと呼吸も置かずに跳ね返るように扉が開いた。
あまりのタイミングに、シルフィスは驚いて立ち尽くし――扉を引きあけた親友に、重ねて目を見張った。
薄闇の落ちているはずの時間帯なのに、まるで部屋の中から輝きがあふれ出たかのようだった。ライトの魔法の明かりでも、ランプの灯火でもない、メイが、彼女自身が内側から光をあふれさせるかのように微笑んでそこに立っている。
淡いピンク色のワンピースを身にまとったメイは、ノックしたのがシルフィスだと知ると、弾むような微笑を、少し照れたものに変えて首を傾げた。
「…あ、や、なんだ、シルフィス――」
メイは、栗色の髪をさらりと揺らせて親友を見上げる。
「め、珍しいじゃん、こんな時間に――あ、えと、ね、せっかく来てくれたんだけどさ、あたし、これから出かけるんだ――」
はにかむようにそういうと、メイはごめんね、と軽く両手を合わせて拝んでみせた。
シルフィスは、はっと息を飲み込んだ。
(メイに、すまないと)
キールの言葉が、不意に胸に落ちる。
メイが、こんな風にドレスアップして、輝くような微笑みで待ち受けているのが誰なのか――考えるまでもなく、答えはひとつしかない。
(――そうか、降誕祭、だもの――)
ばら色のメイの微笑に、シルフィスは胸がずきりと痛むのを感じた。
これから、自分が告げなくてはならない事実に。
一瞬、その役を自分に頼んでいったキールを恨みたくなる。
(…でも、キールを呼びに来てしまったのは私だし)
覚悟を決めて顔を上げると、シルフィスはこくりとひとつ唾を飲み込んだ。
「…あの、メイ…」
「ん?」
隠しようもなく微笑を口元に漂わせたまま見上げてくるメイに、また胸がきりりと痛む。
「その、…私は、キールを呼びに来たんです」
「ん?」
分かっていないかのように――それとも、理解することをとっさに拒否しているかのように、メイは同じ相づちを繰り返した。
「騎士団に、ひどいケガ人が出て、――キールでなくては助けられなくて――それで、お願いに」
メイの、大きな瞳から、すとんと微笑が消えた。シルフィスは、いたたまれなくなって、その場から逃げ出したくなる。それでも、伝えないわけにはいかなかった。
「…無理を言って、キールに、騎士団に行ってもらいました――あの、メイ…」
メイは、じっとシルフィスの顔を見上げている。何かを言いかけたかのように開いた唇が、凍り付いたように動かない。
「…キールが、メイに…すまない、と言っておいてくれと」
一呼吸の間をおいて、ふっとメイの睫毛が伏せられる。
二人の間に、痛いような沈黙が落ちた。
「あの、メイ…ごめんなさい――」
メイの肩が、微かに震えているのを見て、シルフィスはどうしようもなく胸が痛むのを感じた。他に、何を言っていいのか分からなくて、ただ謝罪の言葉を口にする。
キールが、朴念仁で気の利いたことはひとつもしてくれない、とメイがノロケ混じりに愚痴るのを、シルフィスもいつも聞かされている。それが、降誕祭に一緒に出かける予定だったらしい――それだけで、メイがどれだけそのことを楽しみにしていたか、痛いほど分かるのだ。
「ごめんなさい、メイ――」
「……やだ、な――シルフィスが謝ること、ないよ」
繰り返すシルフィスに、メイはようやく絞り出すような声で応えた。けれど、その先が続けられなくて、くるりと向きを変える。
幾度か息を飲み込んで、メイはやっと顔を上げた。
「……ほんと、やになっちゃうよね、…なんか、呪われてんのかな」
わざと声を励まして、元気よく聞こえるように言う。
「…んでも、…仕方ないよね、ちょーっち、がっくりきちゃったけど」
かろうじて笑顔と呼べるものを浮かべると、メイは親友の方を振り向いた。
まだ話していなかったから、シルフィスは、今日の約束のことを知らなかったのだ。ここに来て、初めて知ったに違いない。
自責の念と気遣いで、しょげ返っているシルフィスに、メイはさらさらと髪を揺すってみせた。
「もー、シルフィス、大丈夫、大丈夫だって、あたしは!ね、そんな顔しない!」
「ごめんなさい」
かえってメイにそんな風に励まされて、シルフィスはもう一度頭を下げる。
「…でも、キールを指名なんて、ずいぶんひどいケガなんだ?」
とりあえず会話で雰囲気を紛らせようとするかのように、メイはそんな風に尋ねた。
彼女の言葉に応じて、シルフィスも気を取り直したように顔を上げる。
「ええ、祝日に居残りだった見習いが、人のいない隙にこっそり真剣を持ち出してしまって――ふたりとも、大ケガなんです」
ふうん、と相づちを打ちかけて、メイはふとシルフィスの言葉を聞きとがめた。
「…ふたり?ケガ人って、二人なの?」
「ええ」
ふと真剣な表情になって眉を寄せるメイを、シルフィスは一、二度瞬きをして覗き込んだ。
「…メイ?」
「シルフィス、あたしも行く」
顔を上げたかと思うときっぱりと言い切ったメイの言葉に、シルフィスは戸惑って思わず聞き返した。
「ええ?行くって――メイ」
「あたしも、騎士団に行く」
そう繰り返すと、メイはすたすたとクローゼットの方に歩き出した。そうしながら、彼女の意図をはかりかねて立ち尽くすシルフィスに、口早に説明する。
「今日ね、キール、人の実験の後始末でかなり魔力使ってるの。きっと、そんな大ケガしたのを二人も治すなんて、きついと思う」
「…そうだったんですか」
さっきの、キールの逡巡の表情を思い出してシルフィスは短く頷く。もちろん、メイとの約束のことが大きかったのには違いないが、そういった事情も少しはあったのかもしれない。
「あたしも、少しくらいなら、手伝えると思うから」
「はい、…じゃ、お願いします」
うん、と頷いて、メイは少し笑った。
「…これ、着替えるから、ちょっとだけ待っててね」
淡い、ピンクのワンピース。柔らかなラインの、初めて見るドレス。今日のために用意したのだろうということは、シルフィスにも分かる。
また申し訳なさそうな表情になるシルフィスに、メイはふるふると栗色の髪を揺らせて笑った。
「これでケガ人の治療なんて、ちょっとまずいもんねー」
「…じゃあ、先に門のところで、待っていますね」
「うん」
ばたん、とクローゼットを開ける音を背に、シルフィスはそっとメイの部屋を出た。

 窓の外の景色が、後ろへ流れてゆく。
暮れるのが早い冬の日はとうに落ちて、あたりには濃紺の夕闇が下りていた。
キールの残した言葉通りに、二人は乗り合い馬車で町中へ向かっていた。うまい具合にちょうどやってきた便に乗ることが出来たので、思ったより早く騎士団に戻れそうだった。
いつもの、黒いローブ風のワンピースと白いケープに着替えたメイと向かい合わせに座って、シルフィスは、いつになく無口なメイを見つめていた。
メイは、馬車の窓に肘をついて、窓の外をぼんやりと眺めている。やがて、その唇から、はあ、と短い吐息が漏れた。
「…学者バカと付き合ってる、って言う自覚はあったけどさ、実は救急病院のお医者さんと付き合ってるって覚悟も必要だったんだよねー」
メイの言葉に混じる単語の意味が分からなくて、シルフィスは少し首を傾げた。
「きゅうきゅう…?」
「あ、いーのいーの、独り言」
メイは、シルフィスの方を振り向いて、ぱたぱたと手を振ってみせた。
全部は分からないが、とにかく、キールがいきなり呼び出されてしまったことへの愚痴だっただろうということは見当がつく。シルフィスは、少し視線を床に落とした。
「…すみません」
「もぉ、さっきから何回言ってんの」
メイは、きゅっとシルフィスを睨むマネをしてみせた。
「シルフィスのせいじゃないでしょ。しゃーないよね。…そりゃ…残念だけど」
そう言うと、メイは少し芝居がかった仕草で、かくん、と首を傾げてみせる。
「ん、でも、キールが誘って、約束してくれたってだけで、あたしすっごく嬉しかったし」
「……」
「それだけでも、まず大収穫よね、うん。キールも、そういうこと言ってくれる可能性があるんだって分かったし…ほんとにデートするのは、次のお楽しみってことにしとくわよ」
どこかおどけるように言うメイに、シルフィスはやっと微笑を浮かべるのだった。

 馬車を降りると、二人は小走りに騎士団へ向かった。高い門をくぐり、広い玄関を抜けて訓練場の方へ急ぐ。けれど、急いで駆け込んだ訓練場には、二、三人の見習いがいるだけだった。
「ケガ人は、どうしたんだ?」
シルフィスが、同僚達に問いかける。
「治療が一段落したんで、さっき静養室の方へ運んでいったぜ」
というのが答えだった。礼を言うと、急いでそちらへ向かう。
「…もう、治ったんでしょうか」
「分かんない、でも、キールだから」
彼の、鮮やかな治癒魔法の手際は何度も見ている。けれど、魔力をかなり消耗した今の状態で、どれくらいの治療が可能なのだろうか。その辺の加減は、まだメイには分からない。
武術魔法なら、後何発くらいファイアーボールがぶちかませるか、くらいのことは分かるようになってきたのだが。
静養室に辿り着くと、メイはためらいなくドアをノックした。
「…治療中だ」
ぶっきらぼうな答えが中から返る。キールの声だった。
「キール、あたし」
メイの返事に、ドアの向こうには一瞬沈黙が落ちる。けれど、間もなく少し低い声が言った。
「…入れよ」
答えを聞くや否や、メイはドアを押し開ける。シルフィスがそれに続いた。
魔法の灯りが浮かぶ、薄暗い部屋の中には、二人の騎士見習いが二つのベッドに並んで横たわっていた。青ざめてぴくりとも動かないその顔は、眠っているようにも死んでしまったようにも見える。
「助かったんですか?」
せき込むように尋ねるシルフィスに、キールは前髪をかき上げかけて思い直したようにやめた。手袋を外したその手が、所々血に汚れているのをメイは見て取った。
「なんとかな。出血は止めたし、深いところの傷は塞いだ。…ぎりぎりのタイミングだったぜ」
ほっと安堵のため息をつくシルフィスを後ろに、メイはキールに歩み寄って行った。
「キール」
キールの瞳が、困ったように少し細められる。
「…来たのか」
「うん」
こっくり頷くメイに、キールは何をどう言おうかと迷うように口を開きかけた。が、彼が言葉を口にする前に、メイはきっぱりした口調で言う。
「あたしも、何か手伝うよ」
一瞬動きを止めて見下ろしてくるキールの瞳を見上げながら、メイはきゅっと唇を引き結ぶ。
「キール、昼間魔力使っちゃってて大変でしょ。あたしに、出来ることあったら、言って」
一息にそう言ってから、短く舌を出す。
「…あたしの治癒魔法じゃ、あんまり当てになんないかも知れないけどさ」
メイの笑顔を少しの間見つめてから、キールは短く苦笑した。
「そうだな、全くだ」
「もう、なによ、人が謙遜してるのに。そーゆー時は、そんなことないって言うもんでしょ」
「事実だからな、否定することもないだろ」
「あのねー」
唇を尖らせるメイに、キールは身振りで片方のベッドを指した。
「こいつに、治癒魔法を頼む。…ひとまず表面と、内臓の傷は塞げたけど、それ以上は手が回らなかった」
キールの視線をたどってその騎士見習いを見下ろすと、メイは頷く。
「やってみる」
「ああ」
真剣な表情で呪文を唱え始めるメイをしばらく見守ってから、キールはもう一人の見習いの方に向き直る。
互いの背を守り合うかのように、並んで魔法の技を使い始める二人を、シルフィスは少し離れたところでじっと見守る。やがて、その頬に、柔らかな微笑がのぼってきた。


昼間の青空がそのまま暮れて、見上げる天は降るような星空だった。
キールとメイは、街の端で止まった乗合馬車を降りて、魔法研究院への道を歩いていた。
あの後間もなく、二人の治癒魔法のおかげで、騎士見習いたちは意識を取り戻した。完全にとはいかないが、ほぼ傷の癒えた見習いたちに、キールは剣の技量と取り扱う武器の種類について、二、三辛辣な台詞を吐いて、彼らを心底恐縮させたのだった。
何度も礼を言うシルフィスに別れを告げて、キールとメイは騎士団を後にした。街の方へ向かう乗合馬車の、最後の便をつかまえて、ようやく帰途についたというわけだ。
やや郊外にある魔法研究院へ向かう道には、二人以外の人影は見えなかった。
降誕祭の夜。心ある人々は、家族で、あるいは大事な人と、暖かな灯火を囲んでいるだろう時刻だった。
メイは、キールと並んで歩きながら、夜空を見上げた。
「…門限、過ぎちゃったねぇ…」
「仕方ないさ、仕事だし」
うん、と頷いて、メイはちいさくため息をついた。
もう、店に予約を入れた時刻はとっくに過ぎてしまっていた。これから戻って、着替えて(ケガ人の治療をしたままのなりで食事に行くわけにはいかない)、それからまた出かけるというのは、どう考えても無理な話だった。
(仕方ない、よねぇ)
キールの台詞を胸の中で繰り返して、メイはもう一度吐息を漏らす。
「…すまない」
キールがぼそりと言った。
見上げるメイに、少し首を傾けてみせる。
「結局、約束――守れなくて」
「…ううん、キールのせいじゃないもん」
メイは、ふるふると首を振った。それは、やっぱりまだ、残念じゃないと言えば嘘だけれど――
「それにさ、出かけちゃってて、帰ってきてから、あの時キールがいなかったから、騎士団に死人が出ました、って言われる方が、ヤじゃない?」
悪戯っぽく首を傾げて言うメイに、キールはふんと笑ってみせた
「まあ、そうかもな」
それきり、また少し黙って歩く。メイは、キールの横顔を見上げた。
何となく、何か考えているかのような表情。
少し迷ってから、思い切ってメイはキールの左腕に自分の右腕をくぐらせた。
ちらりと、キールの視線が動く。
「――こら」
「寒いんだもん」
メイは、はぁっと息を吐き出してみせる。ふわりと白い固まりが広がってほどけ、魔法の明かりに照らされて一瞬輝いて消えた。
「ね?」
キールは、怒ったような表情で視線を逸らせる。が、いつものようにメイの手をふりほどこうとはしなかった。かえって、メイに合わせるように、少し歩調を緩める。
(えへへ)
メイは頬を緩めて、キールの腕につかまる手に力を込めた。
しばらく、互いの温もりを近くに感じながら黙って歩く。何も話さなくても、暖かな何かが通い合うのを感じて、メイは胸の中がふわりと弾んだ。
「…あのな」
沈黙を破ったのは、キールだった。破ると言うほど、大きい声ではなかったが。
見上げてくるメイの方は見ないまま、いつもより幾分か低い声で言う。
「…プレゼント…ダメになっちまった。…悪い」
「え?」
メイは、瞳を瞬かせてキールの顔を見る。今、彼はなんと言っただろうか?――プレゼント?
「…だから、その」
キールは、空いた方の手で前髪をかき上げた。
「用意してたんだよ、お前に――見せようと思って。だけど、これじゃ、もう…無理だ」
「見せる…って?プレゼントを?」
メイは、首を傾げてキールの言葉を繰り返す。今ひとつ、意味が飲み込めない。
「ああ」
「あたしに?──クリスマ──えっと、降誕祭のプレゼント?」
繰り返し念を押されて照れくさくなったらしく、キールはまるで怒ったような表情で視線を逸らせる。
「そうだって言ってるだろ」
「──うわぁっ!」
メイは、頬を染めていきなりキールの腕に両手で抱きついた。まさか、キールがそんなことまで考えてくれているとは思いもしなかったのだ。仮にも自分の恋人に対する評価としてはあんまりかもしれないが──普段が普段だけに、仕方のないところだろう。
「ほんとに?嬉しいっっ!」
「こら、おい──」
しがみつかれてバランスを崩しかけて、キールは慌てて足を止める。
「…だから、ダメになったんだって」
困ったように念を押す彼に、メイは改めてキールの顔を見上げた。
「ダメに、って、なんで?」
少し迷っているような間の後、キールは短く息をついた。
「…魔法だったんだよ。魔法陣を置いて、準備してたんだが──肝心の俺の魔力が空っぽだからな、もう無理だ」
「置くって、どこに」
「研究院の裏の、林の奥だ」
メイは、瞳を瞬かせてその場所を思い浮かべた。研究院の裏手、街とは反対の方向には、森と言えるほどではないがそこそこに木々の茂った林が広がっている。メイも、たまに散歩に入り込んだりする、居心地のいい場所だ。
けれど、わざわざそこに仕掛けたというのは──一体、どんな魔法陣だろう?
メイは、つかまっているキールの腕をきゅっと引っ張った。
「ね、そこ、行きたい」
「行ったって、無駄だぞ」
「いいじゃん、行きたい。もうダメでもいいから、キールがせっかく用意してくれてたとこが見たいの」
キールはしばらく渋っていたが、さんざんねだるメイの熱意に負けて、最後には頷いたのだった。

奥というほどの奥ではなかった。研究院の横手を周り、林の中に入り込んで10分も歩いた頃、キールは足を止めて、ここだ、と言った。
そこは、丸く開けた小さな空き地の真ん中だった。周りを取り囲むように背の高い木々が伸び、柔らかな下生えが今は枯れ草となってあたりの地面を覆っている。メイは、そのちょうど中央に立って、ぐるりと周囲を見回した。
「ここ?」
「ああ」
メイは、キールの顔を見上げた。
「…どんな魔法だったの?」
キールは、きらきら輝いているメイの瞳をちらりと見下ろすと、周囲の梢に視線を向けた。
すこしためらってから、低い声で呪文を紡ぎ出す。メイは、その不思議な韻律に耳を傾けた。複雑にうねり、絡み合う言葉の流れ。メイは、一心にその中から、自分の知る部分を拾い上げようとする。
呪文が終わると、キールは一瞬顔を上げてあたりを見渡してから、短く苦笑した。
「…やっぱり、ダメだな」
周囲には、風がそよぐばかりで、何の変化も起きていない。キールには、精霊たちが幾分か戸惑ったようにざわめくのが感じ取れてはいたが、それ以上の変化は起こせていないらしかった。彼らに呼びかけるための魔力が、今のキールにはもう残っていないのだ。
熱心にキールの声に聞き入っていたメイが、顔を上げる。
「…光…?の呪文?」
「そうだ。分かったか?」
「…ん、少しだけ、だけど…ずいぶん、複雑になってるんだもん」
元が、メイも唱えたことのある光の呪文だということは分かった。けれど、ほとんど元の形を留めないほどにアレンジされ、活用された様々な呪文の中に埋め込まれているので、全体の形が読みとれない。
首を傾げるメイの頭を、キールはぽんぽん、と撫でた。
「…悪い、結局──何もしてやれなかったな」
約束して、期待だけさせて、結果的には全部反故にしたようなものだ。彼の意志ではないにしろ。
柄にもないこと、したからかもな、と口の中で呟くキールの顔を、メイはじっと見上げた。
朴念仁で、不器用で、気持ちを表すのがとことん下手な恋人。
でも、この人が大好きだ。胸が、痛くなるくらい。
メイの唇から、言葉が零れ出た。
「…ねえ、その呪文、あたしが唱えてみちゃだめ?」
驚いたように少し目を見張って、キールがメイを見る。
「…それじゃ、プレゼントにならないだろ」
「ううん」
メイは、ふるふると首を振った。柔らかな栗色の髪が揺れて頬を打つ。
「呪文、作って準備してくれたの、キールだもん。やっぱり、キールの贈り物だよ。それにね、見たいの、キールがあたしにくれようとしてたもの。あたしじゃ、無理かもしれないけど、でもやってみたい」
キールは、真剣なメイの表情を見つめて、微かに瞳を細めた。
いつも前向きで、あきらめることを知らない、破天荒な少女。
どんな時も光を放つことをやめない、太陽のような恋人。
彼は、もう一度、メイの髪をそっと撫でた。
「…じゃ、やってみるか」
「うん!」
メイの表情がぱっと輝く。
「俺の後について、なぞりながら唱えてみろ。棒読みにならないように、出来るだけ内容を追いながら魔力をコントロールするんだぞ」
「うん、やってみる」
メイはきゅっと唇をかみしめて頷く。キールは、さらりとマントを揺らせてメイの後ろに立った。首をひねって見上げてくる彼女の肩に手を置いて、視線で頷きかける。
少し身をかがめると、彼はメイの耳元に呪文を囁いた。
こくん、と一度息を飲み込んで、メイはそれをたどるように呪文を唱え始める。
キールの囁く低い声と、メイが唱える高い声が混じり合うように流れる。不思議な旋律のように、それは夜の静寂に波紋を描いて広がっていった。
さほど長い呪文ではないはずなのに、メイはずいぶん長い間唱え続けているような気がした。つっかえかけると、さりげなく力を込めて支えてくれる、キールの手が嬉しい。
唱えるうちに、ぼんやりと呪文の輪郭が浮かび上がる。さっきよりはずいぶんはっきりと。
色と、輝き、動き、そして強さ──一度に、色々なものを操り、混ぜ合わせる美しい流れ。その中にこめられたイメージ──
(あ──星、だ)
ふとそう思いついた時、呪文は完成していた。
あたりに、輝きが満ちる。
木々の枝に、梢に、そして宙に。
青、赤、黄、緑、思いつく限りの色に煌めく光が、まるで宝石箱をぶちまけたかのようにあたりを彩っていた。大きく小さく、遠く近く、様々に瞬き、尾を引いて流れ、二人を取り囲んで一瞬も休むことなくさんざめき続ける───
「………わぁ…」
思わず両手を胸の前で握りしめて、メイは息を飲んだ。
肩に置かれたキールの手に、少し力がこもった。
「…まあ、上出来だな」
キールの、そんな声にも、メイはまだ振り返れなかった。瞳を逸らせるのが惜しいほどに、溢れるような煌めきは舞い上がり、舞い下り、まるで命あるもののように踊り続けている。
「…きれい…」
ありきたりの、そんな言葉しか出ないことも、今は気にならなかった。
「…気に入ったか?」
しばらく黙って見入った後、キールが短くそう聞いた。
メイは、やっと光の乱舞から目を離して、彼の顔を見上げた。
「…うん!もう、すっごい綺麗!ありがと、キール──ホントに、ホントに嬉しい」
紅潮した彼女の顔を見下ろして、キールは微かに唇を緩めた。前髪をかき上げながら、もう一度舞い踊る星々のような光の群れの方へ視線を向ける。
「……前に、話してたろ、お前──あっちでは、降誕祭が近づくと、街中にいっぱい光が灯るって」
メイは、ふっと瞳を瞬かせた。
「あたり中にいろんな色の光がついて、中でも、大きな木にたくさんの灯りがついてちかちかするのを見るのが好きだったって。…こんなふうかなと、想像して作ってみた」
「…キール」
「少しは、近いか?」
「…うん──ううん──」
メイは、胸の中にふくれあがるものを懸命に飲み込みながら、かぶりを振った。
「…今までに見た中で、今日のが一番きれいだよ」
クリスマスのイルミネーションの話――それは、いつか彼にしたかもしれない。けれど、最近ではないのは確かだし、もしかしたら付き合い始めるよりもっと前のことだったのかもしれない。
(それを、覚えててくれた?)
メイは、キールの瞳を見上げた。瞬き続ける光が、彼の緑色の瞳にちらちらと揺れている。
「…キールと、一緒だから――今日のが、一番」
キールが作ってくれて、キールと完成させて、キールと見る輝きだから。
そんな風に伝えたいのに、なんだかうまく言葉が繋がらなくて、メイは精一杯微笑んでキールを見つめた。キールが、メイの笑顔を見下ろして、微笑む。いつものちょっと斜に構えたような笑顔ではなくて、彼女にしか見せない、柔らかな表情で。
肩に腕を回されて、メイはキールの肩先に頭をこつんと寄り添わせた。そうしながら、もう一度瞬き続ける光たちを見つめる。
夢のように美しいその光景。
「…メリー・クリスマス…」
小さな声で呟いたメイの顔を、キールが覗き込んだ。
「…ん?」
「そう、いうの。あっちでの、今日をお祝いする挨拶の言葉」
「そうか」
キールの手のひらが、メイの髪を撫でる。
「…じゃあ――メリー・クリスマス」
唇に吐息が触れるのを感じて、メイは瞳を閉じる。
二人の影は、地上の星々のような輝きに囲まれて、寄り添ったまましばらく動かなかった。



メイが完成させたその光の魔法は、間もなく消えた。
が、翌日、魔法陣を片づけに行くと言ったキールにくっついてきたメイが、キールの完全版を見たいと言いだした。もう降誕祭は終わったからと渋るキールにメイは、
「あっちではね、今日がクリスマスって言って本番なの!だから今日でも遅くないから、見せてよ」
と言い張り、結局彼はその要求に屈したのだった。
ところが、その完全版を見たメイが、自分の時との出来映えの差に驚いたり悔しがったりで、いきなりその方面の魔法に熱中してしまった。
「だってー、もうぜんっぜん違うんだもん!駅前のネオンと、ディズニーランドのパレードくらい!」
誰にも分からないそんな比喩をぶち上げて、メイはせっせと魔導書をひっくり返し始めたのだった。
「まあ、何がきっかけでも、自分から勉強しようっていうのは感心だからな」
半ばあきれながらも、ひとまずそう言っていたキールだったが―――
一説によると、その年の暮れから新年にかけて、魔法研究院の上空に巨大な閃光があがって、しばらく消えなかったらしい。
関係者はみな口をつぐんでいるので、その件に関しては詳しいことは不明である。