翌日の講義は、基礎魔法の実習が組まれていた。
ホールに散らばった魔導士や、その見習いたちは、魔法陣や呪文をそれぞれに試す。
メイも、それに混じって呪文を練習していた。水を生み出す呪文──アクアクリエイトが、今日のメイの課題だった。水系の魔法の中では、一番の基本に位置する呪文で、武術魔法にしろ治癒魔法にしろ、これが思いどおりに扱えないと先へは進めない。
が、炎系の魔法は(制御は別にして)得意なメイだったが、この水系には手を焼かされていた。おまけに、今日はどうも集中力が続かなくて、それでなくても不得意な呪文は、さっきから失敗ばかりだった。
仕方がないので、魔力の集約にオーブを使うことにする。
目の前にオーブを置き、魔力の流れを整え、呪文を綴る。
集中して、理論どおり、整然と───
が、今日のメイには、それを操りきるだけの集中力が欠けていた。ふ、と流れが乱れ、バランスが狂い──ばらけた魔力が、オーブを叩く。
「うきゃ!?」
ぱしん、と鋭い音がして、淡い黄色のオーブに亀裂が入る。メイは慌てて手を出して、はっしとそれを押さえようとした。と、その手が滑って、オーブはついと台の上から転げ落ちた。
がしゃん、と派手な音が響く。粉々になったオーブの方を、周りの魔導士たちが一斉に振り向いた。
「…え、えへへ…ごめんなさーい…」
またか、と言った表情を浮かべている周囲の目に、メイはたらりと冷や汗を流しながら謝った。
「メイ=フジワラ──またかね」
他の魔導士たちの無言の感想を、こちらはきっちりと言葉にして、講師役の魔導士が歩み寄ってきた。思いっきり苦々しい表情を浮かべている年かさの魔導士を、メイは上目づかいに見上げる。
「ごめんなさぁい」
彼女を見下ろして、魔導士は唇を歪めてため息をついてみせた。
「いい加減にしてくれんかね。まったく、いくつ壊せば気が済むんだ」
唇をとがらせながらも、メイはしょんぼりとうなだれてみせる。
「確か、セリアンは今いないそうだな。君が自分で棄損届を書いておけよ」
「きそん…?」
魔導士の言葉を、メイはぱちくりと瞳を瞬かせながら繰り返す。
「なに、それ?」
「…壊しました、という届けだ。当日中には出す規則だからな」
「え、ど、どこに?」
「事務の方に聞けば分かる」
短く言い捨てると、彼はまたくるりときびすを返した。
さあ、続きだ、と他の生徒たちに声を掛ける講師をちらりと見送ると、メイはかがみ込んで壊れたオーブを片づけ始めた。

講義が終わると、メイは事務室に顔を出した。中に入って見回すと、声を上げる。
「すみませーん、オーブ壊しちゃったんで、届け、出しに来たんですけどっ」
机に向かっていた事務係の一人が、顔を上げた。声の主が異世界から来た魔導士見習いだと見て取ると、彼は少し物珍しそうな表情でくすりと笑った。
「…ああ、あんた。はいはい、オーブね」
どこかバカにしたような笑い顔に、メイは内心むっとしながらも、ひとまずにっこり笑顔を浮かべる。
「どんな届け、出せばいいの?」
事務係の男は、壁際の棚の方へ顎をしゃくって見せた。
「そこの書類綴りに、今までの届けが入ってるから。それ見て書いて」
「うん、分かった」
メイは、とことこと言われた棚に歩み寄る。棄損届、と書かれた綴りはすぐに見つかった。
やたらと分厚い冊子だ。どうも、背表紙が継ぎ足されているらしい。それを引っぱり出そうとして、メイは隣にある綴りに目を留めた。やはり棄損届と書かれているが、どうもそれは去年のものらしかった。
(……薄いじゃん)
今年の綴りの、3分の1もない。しかも、今年のはまだ年度の途中のはずなのに。
その事実が意味することを考えるのはきっぱりとやめにすると、メイは今年の綴りを取り出して手近の席に腰を下ろした。
表紙を開いて、綴られている書類の1枚目に目を落とす。
(…あ、これ)
細くてかっちりとした、見慣れた文字。彼女の保護者である、緋色の魔導士の筆跡だった。
次の頁を繰ってみる。やはり、キールが書いた書類だ。次の頁も、その次の頁も。
メイは、次々と書類をめくっていった。ほんのたまに、他の人の筆跡が混じるが、ほとんどがメイの壊したものについて、キールが書いた届けだった。
(…なんか、なぁ…)
目の前の書類の山に、メイは思わず膝の上に手を置いて少し息をつく。
それから気を取り直したように傍らにあった紙を取り上げると、ペン先をインクに浸し、綴りの書類を見本にして届けを書き始めた。
もちろん、この世界には、メイの世界にあったコピーなどない。印刷機も、ない。
空欄を埋めていけば書類ができあがるような、様式があるわけもない。
全て、いちいち手で書いていかなくてはならなかった。届出の題名に始まって、届け出るものの名、壊したもの、その時の状況、代替品の購入の要否、必要な場合の予算措置の要否……。
半分ほど書いたところでうんざりしてきて、メイはため息をついて今までの書類をぱらぱらとめくってみた。
(これ、全部キールが書いてくれてたんだ)
簡単なものではオーブや椅子から、大きなものは部屋のドアや、ホールの床とか壁まで。
1枚だけの書類や、何枚にもわたって続くもの。生真面目な彼らしい、乱れのない筆跡で、それらはきちんと書き綴られていた。
(…知らなかったな、こんな面倒なこと、やってくれてたんだ)
ものを壊したことで小言を言われることはしょっちゅうだが、キールは、こんな風に事務で手間を取られていたことで、メイに直接文句を言ったことはなかった。
さすがに少し――いや、かなり申し訳ない気分になって、メイはため息をつくと、もう一度ペンを動かし始めた。

2回ほど書き損ねて紙を駄目にしてから、メイはようやく3枚目でそれなりの書類を仕上げて提出し、事務所を後にした。
いったん部屋に戻りはしたが、何となく所在がない。
キールの監視がないのだから、どこへ遊びに出かけようと自由のはずなのに、何故かそういう気になれなかった。かといって、勉強をしようかというほどの気力も湧いてこない。
いつもは、何かというと説教されて、いらついたりむかついたりしているのに。
嫌みを言われたり怒鳴られたりで、ケンカばかりしているのに。
けれど、キールがいないと───
(物足りないっていうか、張りがないっていうか…なんとなーく、落ち着かないんだなぁ)
それに、研究院の中にいても、どことなく薄い膜で隔離されているような気がする。
(…なんか、こう、誰にも相手にされてないみたいな気になっちゃうわよね)
キールといて、ケンカしたり、魔法を教わったりしていると、何となく忘れているけれど、自分は魔法研究院にとって、あまり歓迎されていない存在なのだ。
表立って冷たい扱いをされるというわけではないけれど、やはりそれとなく敬遠されている感じがする。もちろん、そうではない人もいるのだが。
メイは、何度めかのため息をついて立ち上がった。
(しゃーない、とりあえず講義に出るか)
ノートを適当に抱え込んで、彼女は部屋を出るのだった。

たまたま知り合いが見あたらなかったので、夕食は一人で食べた。
皿の上に目を落として、メイは何となく呟く。
(あー、これ、キールの奴が好きなメニューじゃん)
彼はあまり食べることに興味がないらしくて、甘いものと牛乳が駄目だということ以外は、あまり好きとか嫌いとかを言わない。が、今日のメインであるポトフのことは、ここの料理の中では悪くない、と言うのを聞いたことがあった。
確かに、メイもこれはおいしいと思うのだが、今日は何となく食が進まなかった。
盆の上に中途半端に料理を残して、席を立つ。
いつもなら、夕食の後は、せっぱ詰まった課題ととっくんだり、それをキールの所に出しに行って、採点してもらったり(半分くらいは嫌みを言われたり叱られたりだが)、他愛もない話をしたりする。
けれど、それがないと、なんだか夜は手持ち無沙汰で、ぽかんと虚ろに長かった。
メイは、時間をつぶすのをあきらめて、早々にベッドにもぐりこんだのだった。

 キールの姿が見えなくなって、5日目だった。
昼過ぎになっても、やはり彼は現れず、メイは、上の方の魔導士をつかまえて、彼を探すように頼んでみた。
「だって、おかしいじゃん!もう5日目だよ?何かあったのかもしれないじゃない!」
だが、そう言われた魔導士は、どこか迷惑そうに眉を寄せるばかりだった。
「そうは言ってもな。…セリアンのことだから、魔導書か魔導具でも探しに出かけたのかもしれないし──故郷に用でもあって帰郷してるのかもしれないし」
「あたしにもアイシュにも断りなしなんてヘンだってば!」
「…とにかく、あと2、3日様子を見てから、考えるから」
魔法研究院は、基本的に個人が単位で、互いの研究や生活にあまり干渉しないのが不文律になっている。それが、今回はあまりいい方に働かなかったらしい。メイはしばらく食い下がったが、結局適当に追い払われてしまった。
(もお、あたしの言うことなんか、初めからまともに聞く気ないんだからっ!)
ぷりぷり怒りながら、メイは自室のドアを思い切り閉めた。
しばらく部屋の中をうろうろしてから(こういうときは、だだっ広い部屋がありがたい)、ため息をついてベッドの上に座り込む。
メイは、何となく膝を抱え込んだ。
(…やっぱり、アイシュに相談した方がいいかな)
けれど、一晩姿が見えないと言っただけであれだけうろたえてしまう彼に、落ち着いて話を聞いてもらえるだろうか。
(…何でもないかも知れないんだし──)
自分に言い聞かせるように、そう呟いてみる。
けれど、そう思おうとするすぐそばから、不安がじわりと滲みだしてくるのだった。
…もし、このまま、キールが戻らなかったら?

メイは、膝小僧に額をくっつけた。
ふと、浮かび上がった考えに、彼女の胸がどくんと脈打つ。
自分は、いきなりここに召還された身だ。
あの時、キールは、メイがここに呼ばれたのには、メイ自身の魔力のせいもあるだろうと言った。

…それじゃ。
このクラインで有数の魔力を持つ彼が、もし、──もしも、メイがクラインに呼ばれたように、他のどこかに呼ばれたのだとしたら?
(まさかね、いっくら何でも、そんな偶然──)
そう、まさか、とは思う。
そんな馬鹿なこと、とも思う。
でも。
でも、万が一───

自分が、家族や、友達と離れてしまったように、
…キールとも、会えなくなるとしたら?────

(やだ)
ずきん、と心臓が――それとも、もっと奥深いどこかが痛んだ。
(いやだ、そんなの───)
口うるさくて、皮肉ばかり言って、…でも、いつも近くにいて見ていてくれて──
(だって──)
(だって、…保護者じゃない、キール)
(あんた、あたしの保護者じゃない──面倒見るって言ったじゃない)
(それに)
(…それに―――)

…………そうじゃ、なくて──、
それだけじゃ…なくて?



不意に、扉が鳴った。
メイははっと顔を上げる。
あまり間をおかずに、続けて三つ叩く、ノックの仕方。
それは、メイが一番聞き慣れたノックだった。
こくんと唾を飲み込んで、抱え込んでいた膝を下ろす。
「…どっ、どーぞ──」
答えるのとほとんど同時に、無造作にドアが開く。
メイは、ドアの方を向いた姿勢のままで一瞬固まった。
「…今、帰ったからな──遅れて、悪かった」
何気ない、本当にいつもどおりの声で、扉の前に立った保護者の青年がそう言った。
眼鏡越しの緑色の瞳も、肩から流れる緋色の肩掛けも、数日前に見たときと同じだ。
メイは、キールを穴があくほど見つめながら立ち上がった。
そろそろと、戸口に立つ彼に近寄る。キールが、言葉を返さない彼女を訝しむように、ちょっと眉を上げた。
「…メイ?どうした?」
真ん前に立つと、キールの顔を見上げる。
「…キール?」
「ああ?」
不審気に、キールがメイの瞳を見下ろす。
メイは、ためらいながら彼の胸元に手を伸ばした。
指先が、緋色の肩掛けに、そっと触れる。
そして、それを掴むと──メイは思いっきり下に引っ張った。
「うわ!?」
たまらずにたたらを踏んでよろけるキールに、メイの怒鳴り声が爆発する。
「…っ、なによっ!何してたの、今まで!?」
彼女は、肩掛けを握りしめたまま、きっと彼の顔を睨みつけた。
「ばか、なによ、5日間もっ───心配、したじゃないっ!」
ほっとして、気が緩んで、でも腹が立って、だけどとてもとても嬉しくて──
メイは、それらがみんなぐるぐる胸の中で渦巻くのを感じながら、怒鳴る。
そうしないと、なんだか泣き出しそうだった。
「悪かったって言ったろ、それに、遅れたって言っても1日だけだろうが」
身体を立て直して、ずれた眼鏡を戻しながら、キールが不本意そうに答える。
「なによ、何が1日よ!?5日間も行方くらましといてっっ」
「4日間だと言っといただろ。…帰りの馬車が出るのが、事故で1日延びたんだよ」
「聞いてないわよ、4日間とか馬車とかなんのことっ!?」
噛みつきそうな勢いで怒鳴るメイを見下ろして、キールはようやくなんだか行き違いがあったことに気づいたらしい。
彼は、少し瞳を細めて、まだ自分の肩掛けをしっかり握りしめている少女の顔を見た。
「…手紙に、書いておいただろう?」
「見てないわよ、そんなもの!」
キールは、いったん口を閉ざしてから、ゆっくりと次の言葉を口にした。
「……課題の本の、最初のページに、挟んでおいたんだがな」
「……………え」
メイは、キールに食ってかかる姿勢のままで、一瞬固まった。

沈黙が落ちる。
針の落ちる音も聞こえるような。

メイは、ぱっと彼を離れると、机の方に駆け寄った。端っこに押しやられた本を引き寄せると、慌てて表紙を開く。
ひらり、と1枚の紙が滑り出た。見慣れた文字が、真っ直ぐ並んでいる。
急病になった長老の代理で、少し遠くの町まで出かけることになったこと。
仕事の内容は、先日亡くなったばかりの地方貴族の書庫で、研究院に寄贈される書物の鑑定と選別をすることであること。
遺産の継承者である親戚たちには内密のことなので、研究院の方でもごく秘密裏に対応するから、自分の不在について、あまり周囲に触れ回らないこと。
馬車の定期便が4日に1度しかないので、この後すぐに出かける。戻るのは4日後になるが、ちゃんと課題をこなしておくこと。
―――そんな内容が、きちんと順序立てて書き綴られていた。
最後に記された、キール、というサインを、メイは馬鹿のようにじっと見つめて立ち尽くす。頭の中が真っ白になっていた。
(………あたしの、心配って、一体………)
近寄ってくる足音がしたかと思うと、メイの背後でキールの声がした。
「……つまり、この5日間、お前は一度も、課題の本を、開かなかったわけだな?」
ゆっくりと区切りながら言うその声に、一気に背中を冷や汗が流れ落ちるのを感じながら、メイはばっと彼の方を振り向く。
「あ、え、ええと、その、えへへへへへー」
メイは、引きつった笑いを浮かべて、意味のない音をひたすら並べる。
キールは、半眼になってメイを眺めると、長々とわざとらしいため息をついた。
「…まったく、あきれて物も言えん。…ま、どうせ終わらせちゃいないだろうとは思ってたが、いくら何でも開いてさえいないとはな」
「ご、ごめん、でも、あのその、…えと…」
キールがいなくて、あちこち探しに行ってて。
不安で、…心細くて。
何を言おうかと困り果てながら、胸の中でひねり出してみた言葉に、メイはふっと息を飲んだ。
――そうか、あたし、心細かったんだ…
今更ながらに、そのことに気づく。
召還されて間もない頃でさえ、さほど長くは続かなかった、その感覚。
それが、ほんの数日間彼がいないだけで、こんなに自分を捕らえてしまっていたなんて。
「なにが、あのその、だ」
キールは、メイの一瞬の葛藤には気づかない様子で、不機嫌そうにそう言った。
「どうせ、監視がないのをいいことに、好き放題してたんだろう」
「え、そんなこと、ないもん――授業はちゃんと出てたし」
とりあえず午前中は、と胸の中で付け足すメイに、キールがじろりと視線を向ける。
「ま、せいぜい午前中くらいは、って所だろうがな」
(う、お見通し)
上目遣いにキールを見上げて肩をすくめながら、メイはなんだか頬が緩みそうになった。
いつもの自分、いつものキール。
なんてことない日常が、なぜだかどうしようもなく嬉しい。
そんなメイの顔を見て、キールは、いつもの少し皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「……仕方のないヤツ」
語尾に微かに苦笑が混じる。キールは、ひょいと手を伸ばすと、メイの頭を軽くぽんぽん、と撫でた。
「…んも、髪が乱れるぅ」
ぷっと小さく膨れるメイにはかまわず、キールはきびすを返してドアに向かう。
扉の前に立つと、キールはメイを振り向いて言った。
「夕食の後で、その本持って、俺の部屋に来い。びっしり教えてやる」
「え、あ、うん」
「本当は今日には出来てるはずの課題だからな。今日から3日で終わらせるぞ。覚悟しとけ」
「…えええ!?だ、だってこれ、元は4日間でやれって」
「やってなかったお前が悪い。この後の課題も詰まってるんだからな」
それだけ言い置くと、またさっさと出ていくキールを、メイの悲痛な叫びが追いかけた。
「なによ〜〜、キールのオニ〜!」
なんてことのない日常というやつも、これでなかなかスリリングではあるのだ。


 メイは、夕食の盆を受け取って、中を覗き込んだ。ポークソテーと、温野菜。スープはパンプキンポタージュらしい。いつものパンと、デザートはヨーグルトのオレンジソースかけ。
(あ、らっきー、ヨーグルト、キールの分ももらっちゃおっと)
顔を上げて、彼女は、ざわめく食堂の中を見回した。
青、緑、紫、橙、さまざまな彩りの肩掛けの中に、見慣れた緋色の肩掛けが、すぐに見つけられる。亜麻色の髪、眼鏡越しの緑色の瞳。いつもの光景、いつもの彼。
メイは、にっこり微笑むと、軽い足取りでキールの方へ歩み寄っていった。