巷に雨の降る如く――Kiel――

御崎 濯     





 キール=セリアンは、いらいらした表情で立ち尽くしていた。
彼の険しい視線の先では、青い服の少女が空を見上げて、ゆらゆらと踊るような足取りで細い樹の周りを巡っている。
空からは、細い雨が銀色の糸のように、彼女の髪に肩に降り注いでいる。
その姿を、建物の軒下に雨を避けて、彼は眺めているのだった。

久しぶりに街中に用があって出かけた帰り、キールは広場を少し過ぎたあたりでメイと出会った。やはり街に出てきていたらしいメイを、もう門限が近いからと呼び止めて連れ帰ろうとしたのだが、彼女は曖昧に頷くばかりで彼についてこようとはしなかった。
メイの保護者としては、放り出して一人で帰ることもできない。そのうち降り始めた雨に、とりあえず軒下に避難して、彼女が帰る気になるのを待っているというわけだ。
「おい、メイ、濡れるぞ」
というか、もう濡れているんだが、と思いながら、キールは何度目かの声をかける。
さっきから、いくら言ってもメイは雨宿りをしようとしない。
「ねえ、こっちには梅雨ってないのかなぁ、キール」
どこか何もかもが上の空な口調でメイが呟く。
「ツユ?」
「雨が降るの。毎日毎日、嫌になるくらい降るの。6月頃にね。それが明けると夏なんだ」
「雨期ならある。そういう名では呼ばないがな」
メイは、また空を見上げてくるりと一回りしてみせる。雨を吸った制服のスカートが、重たげに翻る。
「そうかぁ…名前が違うんだ。やっぱり、雨は降るんだよね」
「当たり前だろう」
意味のない会話に苛立ちを募らせながら、キールは答える。
「どうしてかな、呼び方が違うの。…どこにでも、雨、降るのに」
メイの視線が、キールを撫でてふいと通り過ぎる。彼の上にも、何の上にもとどまらずに。
「…おい、メイ」
「だけど、冷たいのは…おんなじだよね」
灰色の空を見上げて、また顔に雨を受けるメイを、キールは目を細めて睨んだ。
意を決したように、雨の中にずかずかと歩み出る。
「冷たいなら、軒下に入れ。濡れると言ってるだろう」
妙にゆっくりとした動作で振り返るメイには構わず、彼女の腕をぐいとつかむ。
彼女にしては驚くほどあっさりと、メイはバランスを崩してよろめいた。
掌に捕らえた少女の腕は、華奢で柔らかく──そして、ひどく熱かった。
「──おい、メイ──お前、熱いぞ!」
「うん?」
ぼんやりとした瞳でメイがキールを振り仰ぐ。
「…うん、暑い」
「馬鹿、お前──熱があるんじゃないか!」
キールは慌ててマントを脱ぐと、メイの頭からばさりとかぶせる。
「やぁ、重いぃ」
泳ぐような仕草でマントの下から抜け出そうとするメイを押さえると、キールはとりあえず彼女を軒下へ引っ張っていった。
「いつからだ、この馬鹿──調子悪いのに雨の中なんかでふらふらする奴があるか」
「気持ちいいもん」
どこか頼りなげな口調で答えるメイを、眉を寄せて見下ろしながら、彼は一瞬考え込んだ。
熱を出しているメイを、研究院まで歩かせるわけにはいかない。かと言って、この街中からでは、馬車の停車場まで行くのはかえって遠回りになってしまう。
少しためらってから、心を決める。
「…帰るぞ、メイ。──研究院まで、おぶってやる」
メイにマントをかぶせなおしてやりながら、キールはぶっきらぼうに囁いた。
「う?」
メイが、訝しげに瞬きをする。
「もう、おとなしく帰るんだ。──ほら」
殊更につっけんどんな口調で言いながら、彼はくるりとメイに背を向けてかがんで見せる。
「……やだ、かっこ悪い」
すねたような口振りで首を振るメイを振り仰ぐと、キールはいらだたしげに彼女の手首をつかんで引き寄せた。
「あ」
「病人が何を言ってる」
簡単によろめいて倒れかかってくる彼女の身体を、背中にすくい上げて立ち上がる。
「うー」
「こら、暴れるな、馬鹿」
微かに唸りながら身体をもぎ離そうとするメイを背負い直すと、彼は雨の中へ歩き出した。
「ちゃんとマントかぶってろよ」
「……」
メイはいったん身体を預けてしまうと、いきなりぐったりしたらしく、黙ってキールの背中にもたれかかっている。
(…帰ったら、冷やしてやらなくちゃな。そう言えば、2、3日前に妙に咳をしてたっけか──あれから、忙しくてちゃんと見てやってなかったから)
熱で火照ったメイの身体を背中に感じながら、キールはわざと意識を別の方に向けながら足を急がせるのだった。

雨のおかげで、研究院の周囲に人影がなかったのは、キールにとって幸いだった。
とりあえずメイを彼女の部屋へ連れていく。背中でぐったりしている彼女に、部屋の前で、入るぞ、と声をかけてから中に踏み込んだ。
メイをベッドに下ろそうとしてから、ベッドまで濡らしてしまうかもしれないということに気づいて、ひとまず椅子に腰掛けさせる。うつむいたままのメイを見下ろして、彼は困ったように目を瞬かせた。
このまま放ってはおけないが、いくら何でも自分が彼女を着替えさせてやるわけにはいかない。自分が保護者で世話係だとはいえ、メイは女の子なのだ。
「…メイ、タオルはどこだ?」
「…引き出し…一番上」
「開けるからな」
こっくりするメイを見やって、チェストの引き出しからタオルを取り出す。
まだしっとり濡れているメイの髪にタオルをかぶせてやりながら、彼女の前に跪いてキールはかんで含めるように言い聞かせた。
「いいか、メイ、身体を拭いて、服を着替えるんだ。このままじゃ、ますます熱が上がるぞ」
メイは、タオルを口元に押し当てながらキールの顔を見る。
「いいな?できるな?俺は、外に出てるから」
「……うん」
頷くメイを一瞬見下ろしてから立ち上がる。
「じゃあ」
「戻って、来る?」
不意にまっすぐ視線を上げてメイが聞いた。
「……ああ、水を汲んでくるから。それと、薬とな」
「うん」
キールはメイに頷きかけると、彼女の方を一度振り返ってから部屋を出た。

キールが手桶に水を汲んで戻ってくると、メイはなんとかパジャマに着替えてベッドの上にちょこんと座り込んでいた。
ノックをして部屋に入ってきたキールを見ると、メイの表情がほっとしたようにゆるむ。
「どうした、寝てろよ」
「うん」
メイは素直に頷くと、ごそごそとベッドにもぐりこんだ。
(…こいつ、俺が戻るのを待ってたのか)
頭を枕の上に落ち着かせて、視線をこちらに向けているメイをちらりと見て、キールはふとそんなことに思い当たる。
タオルを絞って額にのせてやると、メイは瞳を閉じて小さく息をこぼした。
「…気持ちいい」
熱に浮かされて、淡く紅色に染まった頬がどこかあどけない子供のようで、キールは思わず手を伸ばしてその前髪をかき上げる。
ふわりと瞼が開いて、メイの茶色の瞳がキールを見上げた。
「…ありがと」
ぼんやりとした笑顔で、メイはキールに微笑みかける。彼は、ぎこちなく頷くと、毛布をメイの胸元にかき寄せてやった。メイが、その毛布に顎を埋めてまた目を閉じる。
しばらく、キールはベッドの端に腰掛けたまま、幾分か浅い呼吸を繰り返すメイの寝顔を眺めていた。やがて、ゆっくりと腰を浮かせると、さっき椅子の背に引っかけたままだったマントを取り上げる。
ちらりとメイの方を振り返って、彼女が眠っているのを見て取ると、キールはそっと立ち去ろうとした。
数歩、ベッドから遠ざかったとき、細い声が彼を呼んだ。
「…キール…どこ、行くの」
振り返った彼は、1、2度瞬きをした。
眠っていると思ったメイが、瞳を開いてこちらを見ている。
「どこって──」
(部屋に帰ろうと)
そう続けようとして、キールはメイの瞳が心細そうな光を浮かべているのに気づいた。
熱で潤んだ大きな茶色の水晶が、不安げに揺れて彼をじっと見つめている。
いつもは元気いっぱいで、彼の皮肉にも怒鳴り声にもいっこうにめげない彼女の、初めて見せる表情に、キールはふと胸が詰まるのを感じた。
「……ちょっと、部屋に帰ってくるだけだ。──すぐに戻ってくるから」
それで安心するかと思ったが、メイは瞳を瞬かせてキールを見上げた。
「…ほんと、に?」
頼りなげな、細い声で聞き返す。
キールは、一瞬ためらってから、そっとベッドの側に戻った。身体をかがめて、メイの頭をいつものようにぽんぽんと軽く撫でる。
「ああ、ほんとだ」
「…うん」
キールを見上げて、メイはこくりと頷いた。彼女の、あまりにも無防備で素直な信頼の表情に、キールは戸惑ったように頷き返した。

(仕方ないな、病人だし。夜中になったら、また熱が上がるかも知れないしな)
今夜はメイについていてやることに決めて、キールは自分の部屋から読みかけの本を取って戻ってきた。
 ノックをして部屋に入ると、メイが頭を起こしてこちらを見る。
「キール」
「寝てろよ、いいから」
無造作に、けれどいつもよりは幾分か優しく言い捨てて、キールはメイの机に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。膝の上に魔導書を抱えて、メイの方を見る。
「苦しくなったら、言えよ。一応熱冷ましはそこにあるから、飲ませてやる」
「うん」
メイは、横向きになって身体を丸めた姿勢で、キールの方に顔を向けている。
彼女が瞳を閉じるのを見やって、キールは手にした魔導書に視線を落とした。
しばらくは本の方に意識を向けていた彼だったが、ふと視線を感じて顔を上げた。
メイが、いつの間にか目を開けてこちらを見ている。
「…ん?」
問いかけの意味を含ませて首を傾げてみせると、メイが毛布の下から手を伸ばしてシーツをつかみながら、細い声で囁いた。
「…きーる」
どこか幼い抑揚に、彼は声を和らげるよう心がけながら問い返す。
「…どうした?」
もどかしげな色が、メイの茶色の瞳に浮かぶ。メイは、手のひらで力なくぱたりとシーツを叩いた。
「……きーるぅ…」
彼は、もう一度少し首を傾げてから、腰を上げた。部屋を横切ってベッドの側に立つと、メイの顔を覗きこむ。
「どうした、メイ?」
「…暑い、のに、寒い」
「熱があるからな」
瞬きをして見上げるメイの瞳を見下ろして、キールはふと思いついたことを口にした。
「…何か、食べたいもの、あるか?」
「…ううん、いらない…」
そうか、と頷くと、彼は身体を起こしてまた椅子に戻ろうとした。
「キール」
その彼を、またメイの細い声が呼び止める。
「なんだ?」
呼ぶくせに何を頼むわけでもないメイに、キールは困惑して振り向く。
メイは心許なげにキールの顔を見上げながら呟いた。
「…そっち、遠い…」
短く揺れる単語に、キールは一瞬首を傾げかけた。が、すぐに、彼が腰掛けていたメイの椅子が、ベッドから遠いと言っているのだということに思い当たる。
「遠いのは、嫌か?」
「…うん」
「…こっちにいた方が、いいのか?」
「うん」
キールはため息をつくと、メイの椅子をベッドの近くへ運び寄せた。壁に背を寄せて置くと、腰を下ろす。
「これでいいか?」
「うん…ありがと」
思いがけず礼を言われて、彼は、いや、と口ごもった。どうも、メイがあまりに大人しくて素直すぎて──調子が狂う。
魔導書を開いて視線を落とすふりをしながら、彼はそっとメイの栗色の髪に目をやった。
キールが近くにいることに安心したのか、メイはことんと寝入ってしまったようだ。
(………)
いつもは元気いっぱいで好奇心旺盛で、キールが何を言っても聞かないときは聞かないメイ。まるで台風のように、行く先々で騒ぎを起こすメイ。
その彼女が、今は熱にうなされて、苦しげな息をつきながら眠っている。
(…心細い、んだろうな)
浅い呼吸をするたびに微かに揺れる細い肩を見下ろしながら、キールは少し瞳を細めた。
(…昔は、熱出して寝込んだりすると、俺だってなにか不安だったものな)
ふと、キールはずいぶん長い間思い出しもしなかった子供の頃のことに思いを馳せた。
世界中で、自分だけが不運なような、置き去りにされてしまいそうな不安感。
(…もっとも、すぐに兄貴や母さんが世話を焼きに来たから、そんな気分も長続きはしなかったが)
キールは、手を伸ばしてメイの毛布をなおしてやった。短く吐息をこぼして、メイが身じろぎをする。
(…こいつには、そういうのも──ないんだな、今は)
そのことに思いを巡らせて、キールは少し唇を引き結んだ。
こうして熱を出して寝込んでいるのは、さぞ心細いだろう。
元の世界なら――彼女のいるべき場所なら、きっと母親や家族が心配して世話を焼いてくれていたに違いない。
けれど――ここには、メイの母親はいない。家族も、友人も、誰も。
強いて言えば、今の彼女の一番身近にいるのは、キールだろう。
全くの他人の──しかも、望みもしないのに一方的に自分をこの世界に召還した、その本人である彼。
──けれど、キールが側にいることに縋るように、今のメイは目を閉じている。
まるで、彼だけが安心の拠り所であるかのように。
(…………)
キールは、メイの髪から瞳を逸らせて、膝の上の魔導書に視線を戻した。
あまり、読書に身が入りそうにはなかったが。

夕方に降り始めた雨は、夜半過ぎにはずいぶん強くなっていた。初めのうちは音もなく降っていた雨が、今は木々の枝や、建物の屋根に音を立てて降りしきっている。
キールは、その音を聞くともなく聞きながら魔導書を広げていて、ついうたた寝をしてしまっていたようだった。
ふと、なにかせっぱ詰まった気配を感じたような気がして、瞳が開いた。
ぼんやりとしたランプの明かりに、自分の部屋ではない光景が照らし出される。
(──ああ、そうだ、メイ)
キールは視線を傍らのベッドで眠るメイに向けた。
寝入った頃は、それでもまだ穏やかだった呼吸が、ずいぶん荒くなっている。載せてあったタオルはとうの昔にずり落ちて、栗色の前髪が張り付いた額には、細かな汗が浮かんでいた。
(…熱が上がってるのか)
タオルを拾い上げて額の汗を押さえると、手桶の水で絞りなおしてまた額に載せてやる。ううん、と苦しげに息をついて、メイが身をよじった。
起こして薬を飲ませた方がいいだろうか、と迷いながら、キールは乱れた毛布をなおしてやった。投げ出された腕を毛布の下に入れ、頬にかかった髪を払う。
メイが、大きく息を吐き出した。茶色の瞳が、うっすらと開く。
「…メイ?」
ぼんやりとした光を浮かべて、メイはキールを見上げた。
「…きーる」
抑揚のない声でメイが呟く。キールは、身をかがめて彼女の顔を覗き込んだ。
「メイ、苦しいか?…薬、飲むか?」
「…苦いの?」
メイの妙にあどけない問いに、キールは一瞬言葉を失った。
「…苦いな」
「じゃあ、いや」
「わがまま言うな」
かえってそれで心が決まって、キールは傍らに置いてあった薬を取り上げた。
水差しからコップに水を汲んで、メイに向き直る。
「ほら、ちょっとだけ起きろ」
けれどメイはかぶりを振ると、毛布を口元まで引き上げてしまった。
「苦いの、や」
「いいから起きて飲むんだ」
背中の下に腕を差し入れて抱き起こす。パジャマが寝汗ですっかり湿ってしまっているのに気づいて、キールは眉を寄せた。
(着替えさせないとだめか)
とりあえず、メイの目の前に丸薬を差し出す。メイが、嫌そうに顔をしかめてキールを上目遣いに見上げる。
「飲まないと、ダメ?」
「ああ、だめだ」
普段の彼女には似ず、それ以上言い返さないで、メイは大人しく薬を手に取った。
のろのろとそれを口に入れると、キールからコップを受け取って水で流し込む。小さく咳こむ彼女を見下ろして、キールはそっと背中を撫でてやった。
メイがキールを見上げて、熱で潤んだ瞳で笑い返す。どこか泣き出しそうなその微笑に、キールは彼女の頭をぎこちなく撫でる。
「…メイ、パジャマの替えはあるか?」
「…うん」
「どこだ?」
「えとね…引き出しの、3番目」
またメイに、開けていいか、と確かめてから、キールはそれを取り出した。

さっきと同じように、メイが着替える間外に出ていた彼は、廊下の窓から外を見た。
もうかなり遅い時間だろう。真っ暗な空から、雨は降り続けている。
頃合いを見計らって部屋に戻ろうとノックしかけたとき、不意に目の前でドアが開いた。
驚くキールの目の前に、メイが立っていた。
「どうした」
「…いた、んだ」
ほっとしたように笑うメイの肩を、キールは顔をしかめて押し返した。
「馬鹿、ついていてやると言ったろう…こら、裸足で起きてくる奴があるか」
スリッパも履かずにキールを呼びに来ていたらしいメイをベッドに戻して、彼はまた椅子に腰を下ろす。顔を仰向けるようにしてこちらを見上げてくるメイに、彼は少しかがみ込んで低い声で言った。
「……大丈夫だから、ちゃんと寝てろ。…ここに、いてやるから」
「…うん」
頼りなげな瞳でキールを見上げて、メイはこくりと頷いた。

起きあがって動いたせいで、またメイの熱は上がりだしたらしい。
苦しげな息をつきながら、うとうととまどろんではまたふっと目を開く、といったことを繰り返す。キールは幾度かタオルを絞ってやったが、あまり役に立ってはいないようだった。
何度目かの苦しい眠りの中で、メイはかなりうなされているらしかった。何度も何度も寝返りを打ち、ちいさく呻いては息をつく。
気遣わしげに見守るキールの視線の先で、不意にメイの瞳がぽかりと開いた。
そのまま、凍りついたようにじっと宙を見上げる。けれど、その瞳には何も映ってはいない。さっきまでのように、視線で自分を捜そうとしないメイを訝しく思って、キールは低い声で呼びかけた。
「…メイ?」
その声にも、メイは反応を示さなかった。そのかわり、空を見つめたままの瞳に、不意に涙が盛り上がる。
「…メイ…?」
キールは瞳を瞬かせて彼女の顔を覗きこんだ。
視線を動かさないままのメイの唇が薄く開く。細く震える声がそこから漏れた。
「……あたし、帰れないんだ」
「メイ?」
「もう、帰れないんだ」
「どうした、メイ」
「ひとり、だよぉ」
キールは腰を浮かせてメイの瞳を覗きこんだ。
「そんなことはない、必ず帰れる──」
「だっ…て」
ひっく、としゃくり上げるような音を立てて、メイはやっとキールの瞳にのろのろと視線を向けた。
「あれは、事故だった、って」
彼女の頬を、涙が白く伝い落ちていく。
「同じ事故なんか、偶然なんか、二度と起きるわけがないって」
「メイ」
キールは椅子を降りると、ベッドの側に膝をついた。
「キールがいくら偉くたって、そんなの起こせる訳ないって」
メイは、また視線を宙に向けた。
「帰れないって、帰るのなんか無理だって」
「違う、そんなことはない、メイ──」
「言ったもん、言ってたもん、だからあたしもう──」
譫言のように繰り返すメイの肩を、キールは捕らえて揺すぶった。
「言ったって、誰がだ──誰がそんなこと言った」
「みんな、言った」
メイはたどたどしく首を振ってぎゅっと目をつぶる。
「周りで、みんなそう言ったよっ」
メイが、夢でうなされていたらしい、ということに、キールも気がついた。高熱で朦朧としている今のメイには、それが現実かどうかの区別もついていないのだろう。
「嘘だ、メイ、それは夢だ」
「だって」
「大丈夫だ、必ず帰れる──帰してやるから」
「だって、誰もいないよぅ」
メイは目をつぶったままちいさくしゃくりあげた。
「誰もいないのっ、あたしの知ってること、誰も知らないのっ」
「──メイ」
「誰も、いない、の──あたしだけ、あたしっ、ひとり──」
「…メイっ…」
うっすらと開いた瞳から、透明な滴がこぼれ落ちる。
キールは、メイの肩をつかんだ手に力を込めた。
「あたし──」
「メイ──俺が」
(側にいる)
不意に浮かび上がった言葉に、キールは思わず立ちすくんだ。
(俺が、お前の側にいる)
思ってもみなかった言葉。
どこから、そんな想いが立ち現れたというのだろう。
混乱しながら、彼はそれを噛み砕いて喉の奥に押しこんだ。
代わりに、今までも口にしてきた言葉を繰り返す。
「…俺が、帰してやるから」
メイの肩を、軽く揺すぶる。彼女の茶色の水晶が、宙を彷徨ってからキールの緑色の瞳に向けられた。
「俺が、必ず帰してやるから」
「きーる、が」
「そうだ、俺が、必ず、お前を元の世界に帰してやる」
「…キールが」
「信じろよ」
メイの瞳がいっぱいに見開かれ──そしてぎゅうっと細められる。
「…信じ、てる」
「ああ、メイ──」
「信じてる、信じてるよ──でも、何を、信じたらいいの!?」
短く叫ぶように言うと、メイはキールのローブの袖を堅く掴んだ。
「何、信じたらいいの?」
細く震える声は、半ば泣いているようで、最後はほとんど聞き取れなかった。
「わかんない」
苦しげに瞳を閉じて、メイは枕に顔を埋める。キールのローブを握りしめたまま。
キールは、メイの問いに返す答えが見つからないまま、震える彼女の肩を見つめた。
(何を?)
幾度か口にした約束を?
その言葉だけを?
通いあう心がないなら、約束なんてただの単語の羅列だ。
いくら彼が緋色の肩掛けを持っていようと、異世界から招かれた少女には、それが何を約束してくれただろう。
信じたくて、よるべなくて、それでも頼るしかなくて。

普段の、あの輝くような笑顔が偽りだとは思わない。好奇心にあふれて、何でも知りたがり覗き込みたがる、そのにぎやかな活力は、彼女の本質だろう。
けれど、こうして闇夜に伸ばした手の行き先を見失って、心細さに立ち尽くす姿も、またメイなのだ。

キールは、自分のローブの袖を掴んで顔を枕に伏せているメイの肩に、ぎこちなく手をやった。
「…メイ」
彼女の肩は、まだひどく熱く、微かに震えていた。
「メイ」
なるべく優しい声をと心がけながら、なだめるように彼女の背を軽く撫でる。
メイが、まだ半ば枕に顔を埋めたまま、僅かに顔を上げて、キールを見た。
「…何を、とは言ってやれないが」
キールは、ためらいながら言葉を紡ぐ。
「…お前が、ここにいる間は、俺は──必ず、お前の面倒をみてやるから」
(側に)
さっき浮かび上がった言葉を、無理矢理意識の下に押し込めながら、キールはメイに語りかける。
「俺が、今まで学んできたこと、身につけてきたことの全てにかけて、必ず、お前を帰してやるから」
こんなことが、彼女の心に届くのだろうか。
「…何を、信じられるのかと言われたら、俺にも──形にしたものは見せられないが」
メイの瞳が、微かに瞬く。
「…帰して、やりたいと思ってる──それは、分かってくれ」
キールは、何とかそこまで言葉を綴った。何か続けようとしてまた唇を開く──が、それ以上の言葉は、彼の頭に浮かんできてはくれない。
呪文でもなく、理論でもなく、ただ想いを伝えるための言葉など、もうどれくらい使ったことがなかったのだろう。
自分のせいでこんな状況に置かれて、不安がっている少女をなだめてやることさえできない──キールは、内心で自嘲の笑みを浮かべながら、視線をシーツの上に落とした。
ふと、ローブの袖が軽く引かれるのを感じて、顔を上げる。
メイが、キールの瞳を見上げていた。熱で潤んだ瞳が、泣きそうに、微かに、けれど確かに微笑んでいる。
「きーる」
掴んだローブの袖をぎゅっと引き寄せて、メイはたどたどしく呟いた。
「ありがと」
思いがけない言葉に、答えることも忘れて見下ろす彼に、メイは目を閉じながら僅かに頷いた。
「…うん、だいじょ、ぶ──キールが、いるもんね」
ふと、キールの息が止まる。
「…うん」
メイは瞳を閉じて、もう一度頷くと、小さな子供のようにキールのローブを握りしめて、寝息を立て始めた。まるで、そうすれば何も心配はないのだと思いこんでいるかのように。
(………──)
キールは、止めていた呼吸を微かに飲み下して、メイの肩を見下ろした。ゆっくり、ゆっくりと身体を起こし、椅子に戻ろうとして──メイがローブの袖をしっかり抱え込んでいることに、今更のように気づく。袖を掴まえられた方の腕を彼女に預けて、キールは椅子をベッドの側に引き寄せた。
(……馬鹿か、俺は)
胸の中がごちゃごちゃになって、整理できない。自分の感情がどこにあるのか、何を感じているのか、何を考えているのか──
今まで、出会ったことのなかった状況だ、と、いつもの彼の皮肉な思考が囁く。
(…そうだな)
メイは、さっきまでよりは少し穏やかになった呼吸で、眠りに落ちている。
薬が効いてきたからだ、と理性の部分はそう判断する。
けれど、心のどこかに、彼女がさっきの彼の言葉に安心したからだ、と思う自分がいる。
(安心?)
何を言ってやれたわけでもない。面倒を見てやる、きっと帰してやる、と、今までも言ってきたことをただ繰り返しただけだ。
なのに、メイはそれで安心したように眠り込んでいる。
仕方のないやつ、といつものように苦笑してしまえばいい。こんなことで安心するなんて、単純だな、とあきれてやればいい。
けれど、今の彼にはそれができなかった。
(………)
小さく息をついて、混乱する想いをとりあえず胸の奥に押し込める。
(今は、こいつの病気のことだけ考えてればいい)
意識を向けたら胸の奥から浮かび上がってきそうな感情から、無理矢理、目をそらす。
(放っておけば、そのうちおさまるさ、こんな訳の分からない気分は)
自分にそう言い聞かせて、彼は目を閉じた。

その夜一晩、キールはメイの様子を見守っていた。
明け方近くなって、ようやく雨は上がりはじめた。白々と差し込んできた明け方の光を眺めながら、彼はついうとうとと僅かに微睡んだらしい。
「…キール?」
名を呼ばれて、ふと瞳を開く。メイが目を開けてこちらを見ていた。
「…起きたのか」
「なんでキールがいるの?」
キールは、額に落ちかかっていた前髪をかきあげる。
「お前が熱出して寝込んだんだろうが」
「え、ああ、うー」
「お前、雨の中をふらふらしてたんだぞ。覚えてないのか」
「うー、その辺はまあなんとか」
メイは、口元まで毛布を引き上げて、上目遣いに天井を見上げた。それから、困ったような表情でキールを見る。
「…キールが背負って帰ってくれたんだよね…ごめん」
まだ少し声に元気がないが、ほぼいつもの調子を取り戻した彼女の口調にほっとしながら、キールは少し顎を上げて答える。
「…まあ、俺はお前の保護者だからな。行き倒れさせとくわけにもいかないだろ」
「もー、なによぅ…」
「…で、具合はどうなんだ?」
ぷっと頬を膨らませるメイを見下ろして、キールは尋ねる。そっと彼女の手元からローブの袖を取り返しながら。
「んー、まだちょっと熱っぽいけど…でも、だいぶ、ましだよ」
「薬が効いたかな」
短く頷くキールを見上げて、メイは、はぁと息をついた。
「…あーでも、疲れた…なんか変な夢ばっかり見た感じ」
「…夢?」
キールは、ちょっと目をつぶるメイをちらりと見やる。
「んー…色々、ごちゃごちゃ…中身、覚えてないけど」
メイは、瞳を開くと軽く首を傾げた。
「…ねえ、あたし、夜中に、なんかキールに…駄々、こねなかった?」
申し訳なさそうな表情で見上げてくるメイの瞳を見下ろして、キールは何とかいつもの表情を保ったままで答える。
「…ま、病人の譫言だからな」
「えー、やだなー、何言ったー?あたし」
「たいしたことじゃない」
キールは、しきりに首をひねるメイから視線をそらせて立ち上がった。
「…何か、食いたいものはあるか?」
「え?うーんと」
メイは、キールの問いに、彼の顔を見上げると、急いでリクエストを探しているようだった。
「じゃあね、リンゴのすりおろしたの」
「…妙なものを食いたがるんだな」
「えー?病人食の定番じゃん、少なくともあたしの世界ではそうだもん」
「…そうか」
ふと、胸に何かちりりと差し込むものを感じながら、キールは頷く。
「そうでなきゃね、なんか飲むものがいい…喉、かわいた」
「わかった」
「コーヒーとかはやだよ、ジュースかなんかね、冷たいやつがいい」
ここぞとばかりに注文を並べるメイに、キールはちょっと苦笑を浮かべる。
「わかった。…元気だな、お前」
「え、まだ熱、あるもん」
そう言いながらメイはひょいと毛布をまた口元まで引き上げる。
「ま、今日は授業も課題も休みにしてやるから、大人しく寝てろ」
「うん」
メイはこっくり頷くと、らっきぃ、と小さく呟いて毛布の下からVサインを出してみせた。
普段通りの彼女の反応に、キールは少し瞳を細めてから、いつもの口調で続ける。
「安心しろ、治ったら、休みにした分も上乗せして出してやるからな」
「えー!?なによー、キールの鬼!」
「なんとでも言え」
ちらりと笑いながら、ベッドに背を向けてドアへ向かいかけた彼を、メイが呼びとめる。
「あ、キール」
「なんだ?」
キールはドアの取っ手に手をかけて振り返った。
「その、ありがとね、ついててくれて」
えへへ、と少し照れたように笑って、メイは小さく手を振ってみせる。
キールは、一瞬動きを止めて、彼女の笑顔を見つめた。
「…保護者だからな」
視線を引き戻しながら呟くと、ドアを押し開けて外に出る。
後ろ手に扉を閉める。
ふと、足を止めて振り返りそうになる自分を無視すると、彼はわざと立ち止まらずに、いつもより大股に歩き出した。

 窓の外には、昨夜の雨で洗われた世界が広がっている。
木々に宿った水滴が弾く朝の光を、すこし瞳を細めて見上げながら、キールはメイの望みを叶えるために、研究院の長い廊下を歩いてゆくのだった。