| 御崎 濯 |
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午後も半ばを過ぎ、太陽はゆっくりと中天を巡りながら地平線へ向かってゆく。 陽の光は昼過ぎから雲に遮られはじめていた。鈍い光に満ちる晩春の午後のこと。 人々の行き交う王都の街中、大通りの道の端に跪いていたシルフィスは、名を呼ばれて振 り返った。 花曇りの光の下で幾分か沈んで見える黒いマントが、まず目に映る。そして、その上に 緋色の肩掛けが色鮮やかに流れる。眼鏡越しの緑色の瞳が、シルフィスを見下ろして一度瞬いた。 「キール…」 シルフィスは知人の名を呟くと、ゆっくり立ち上がった。 何度も頭を下げながら立ち去ってゆく老女を、シルフィスは笑顔を浮かべて見送った。 彼女の姿が人混みに消えてしまうと、自分に並んでやはりそれを見送っていたキールの方 へ、少し頭を下げる。 「ありがとうございました、キール。本当に助かりました。研究院に連れていって治療し てもらおうかって思っていたところだったんです」 「まったく、物好きだな。見ず知らずの人間の面倒を見てたのか」 皮肉っぽい言い方だったが、その口調には以前ほどの棘はない。 シルフィスは、わずかに微笑むともう一度老女の消えた方向を眺めた。 「足をくじいては、困るでしょうから」 「ま、民を守る騎士としては当然のこと、ってところか?」 「…騎士でなくても、当然のことですよ」 少しためらってから、付け足す。 「たとえばメイでも、やっぱりそうしたと思います」 口に出してしまってから、余計な一言だったかと一瞬後悔する。 が、キールは、ちらりとシルフィスを見て、ふっと短く息をもらした。吐息のような微笑。 「そうかもな」 キールの唇をかすめた表情に、シルフィスは胸のどこかがちりりと焼け付くのを感じる。 彼が次の言葉を口にする前に、キールが口を開いた。 「そういえば、このあいだはメイが世話になったらしいな」 一瞬首を傾げかけてすぐに、先日メイと街中で出会って、荷物持ちをした時のことを言っ ているのだと気づく。 「いいえ、別にたいしたことじゃありません」 「まあ、礼を言っておくよ」 いえ、と曖昧に視線をはずしながら、シルフィスは微かに息をついた。 彼が男性に分化して、正式に騎士の叙勲を受けてからは、以前ほどメイとしょっちゅうは 会えなくなった。覚悟はしていたものの、見習いの頃と違って、正騎士としての仕事はか なり忙しいのだ。 だから、このあいだ久しぶりにメイと偶然街中で会ったときは本当に嬉しかった。 門限が近かったから、いつものように喫茶店でおしゃべりという訳にいかなかったのは残念だった。けれど、買い出し当番だという彼女の荷物を引き受けて、研究院まで一緒に 歩きなが ら話せただけでも、まるで太陽に暖められて、すっかり心の中が晴れてゆくような気がし た。 「シルフィスが女になっても男になっても、ずっと友達だよ!」 メイは、はじめにあっけらかんと宣言していたとおり、シルフィスが男になっても今まで と変わらず接してくれる。どこか、今までのままではいられないのは── (──むしろ、私のほうなんだ…) シルフィスは胸の中で小さく呟いた。 視線を上げて、キールに別れを告げようとした彼の顔に、ぽつり、と一つぶの滴が当たった。 降り始めた雨は、あっという間にどしゃぶりになった。人々は大慌てで建物の中や軒下 に避難してゆき、通りは見る間に無人になってしまう。 シルフィスとキールも、やむを得ず手近の店の軒下に逃げ込んでいた。 「こんなに急に降り出すとはな」 顔をしかめてマントに付いた水滴を払い落としながら、キールが呟く。そうですね、と相 づちを打ちながら、シルフィスは空を見上げた。 出かけたときはまだ雲が薄かったので、雨に出会うとは思っていなかった。 けれど今は、黒い雲が空一面を覆って、空の青はかけらも覗いていない。二人はしばらく、 黙ったまま雨の降りしきる通りを眺めていた。 シルフィスは、会話がないことにどこか落ち着かなくなって、少し身じろぎした。 雨が石畳をたたく音がひっきりなしに続いているから、静寂がつらいわけではない。 元々キールが、あまり会話を好む性格ではないことは知っていた。けれど、無口というこ となら、彼の上司であるレオニス・クレベールはもっと徹底している。それだけで居心地 が悪くなったりはしない程度には、慣れているつもりだ。 シルフィスはそっと視界の端にキールを入れて様子をうかがった。彼は、緑色の瞳を降り しきる雨に向けて、黙然と突っ立っている。会話のないことを気にしている様子もない。 他人といても一人でいることに慣れているのだろう。シルフィスは、ふとそんな彼が、黙 り込んでいることに耐えられない自分より強いような気がして、瞳を石畳に向けた。 「…なかなか、やみませんね」 「そうだな。通り雨だと思ったんだが」 短いやりとりがあって、またそこで会話はとぎれた。 魔法研究院の緋色の魔導士と、騎士団の新人正騎士。普通ならあまり接点のない二人では あったが、話題にするなら共通の知人のことがあるだろう。たとえばキールの双児の兄の アイシュ、この国の第二王女のディアーナ、筆頭宮廷魔導士のシオン──そして、メイ。 会話の糸口を胸の中で探しながら、シルフィスは隣に立つ人に意識を向ける。 去年の春に出会った頃は、キールの方がやや背が高かったのだが、男性に分化してからシ ルフィスの背が少し伸びたせいで、今はそんなに違わない。 自分より少しだけ高い位置にある肩や、自分より少し色の濃い緑色の瞳。 メイの想い人。 そして、メイを想う人。 シルフィスは、また胸のどこかが微かに痛むのを感じながら、短く息をついた。 今、口を開いたら、いらないことまで言ってしまいそうだ。彼は、そっと瞳を伏せると、 雨を吸って重くなったマントの縁を軽くつかんだ。 ふと、キールが顔を上げる気配に気づいて、シルフィスは彼の方を見た。キールはシル フィスに横顔を見せて、通りの、さっき彼が向かおうとしていた方向を見ている。 その彼の視線をたどってシルフィスが同じ方向に瞳を向けかけた時、キールがひょいと雨 の中に踏み出した。やや小降りになってきているとはいえ、まだ降り続いている雨が、見 る見るうちに彼のマントを濡らしてゆく。 シルフィスが驚いてキールに視線を戻したとき、彼が雨の向こうに向かって呼びかけた。 「メイ」 シルフィスは、はっと通りの向こうに目を向ける。 見慣れた、青い服の少女が、緑色の傘をさしてこちらへやってくるところだった。 キールの声が届いたのか、それとも彼の姿に気づいたのか、メイはぱっと駆け出した。 小柄な身体が飛ぶように彼らまでの距離を駆け抜ける。二人の前にやってきたメイは、い きなりキールの身体をぐいぐいと軒下に押し戻した。 「もー、なにやってんのよ、せっかく傘持ってきたのにわざわざ濡れてどーすんのっ」 「どうしたんだ、お前」 「どうしたって、迎えに来たんじゃない」 唇をとがらせてそういうと、メイはシルフィスに笑顔を向けた。 「やっほ、シルフィス。めずらしーじゃん、キールと一緒なんて」 「偶然、会ったんですよ」 笑顔で応じるシルフィスに、へえ、と頷くと、メイはいったん傘を畳んで二人の間にひょ いと入り込んだ。 「いやま、すっごい雨だわ。さっきまで傘折れそうだったもんね」 そう言いながらメイは、道に向かってぶんぶんと傘の水気を振りとばす。 「わ、メイ」 「こら、やめろ、こっちにも飛ぶだろ」 「あ、ごめん」 メイは慌てて舌を出すと傘を手元に納める。その彼女を見下ろしてキールがまた聞く。 「どうしたんだよ、お前」 「だから、迎えに来たって言ってるじゃん。あんた、傘持って出なかったでしょ」 メイはそう言って、片手に持ったもう一本の青い傘を持ち上げてみせる。 「ここがどうして分かった」 「だって道具屋でしょ?じゃあ帰りはこの道だと思ってさ」 「…会えなかったらどうする気だったんだ、無駄に濡れるだけだろうが。第一、通り雨な んだから、すぐに上がる」 「なによ、素直にありがとうって言えないのかしらね、こいつはぁ」 メイはシルフィスを振り向いて、ねー、と同意を求めるように唇をとがらせてみせる。 シルフィスは、困ったように微かに笑って、首を傾げて見せることしかできなかった。 「どうせキールのことだから、止むまで待てなくって突っ切って帰ろうとしたに決まって んのよ。それで風邪引いて寝込んで、あたしに面倒かけるのっ」 「勝手に人の未来を決めるな。…今だってここで雨宿りしてただろうが」 「シルフィスがいてくれたからでしょ。一人だったら絶対突っ切ってた」 片手を伸ばして、ぽんと自分の肩をたたくメイに、シルフィスはふと息を飲んで彼女の顔 を見下ろす。 「ごめんねー、シルフィス。こいつ、迷惑かけなかった?」 わざとらしくにっこり笑って、半分はキールに聞かせるために謝るメイに、シルフィスは 苦笑を浮かべる。 「いいえ、私こそご迷惑かけました。怪我を治していただいて」 「え、シルフィスがケガ?」 驚いたように目を見開くメイに、シルフィスは急いで首を振る。 「いえ、通りがかりの方です。困っていたところに、キールが来合わせてくれて、助かり ました」 「へえ、キールが人助け?よしよし、人間ができてきたじゃん」 からかうように、メイは手を伸ばしてキールの頭を撫でるふりをする。うるさい、とキー ルは半眼になってメイを軽く睨む。シルフィスは、いつものようにそんな二人を微笑んで 見守りながら、胸の奥のどこか深いところがしんと痛むのを抑え込もうとしていた。 「じゃ、帰ろっか。…シルフィス、これ使って?」 メイが彼を振り向いて、ここまでさしてきた緑の傘を差し出す。 「濡れた方でごめん。こっちの方が、キール用だから大きいんだ」 軽く片手を顔の前に立てて謝りながら、メイはひょいと青い傘を持ち上げてみせる。 「いいんですか?」 「うん、いいに決まってるじゃん。あたしは、キールとこれに入ってくから」 さらりというメイの笑顔に頷き返しながら、シルフィスは彼女の手から傘を受け取った。 傘の柄には、まだほんのりと彼女の手の温もりが残っている。 「…じゃ、お借りします。今度、返しに行きますから」 「いいよ、いつでも」 メイはいつもの明るい笑顔を見せると、ぽんと青い傘を開いた。青い服に、青い影が重な って広がる。ちょっと腕を差し上げてキールの頭の上に傘を差し出そうとするメイの手か ら、キールがひょいと傘の柄を取り上げる。 「ほら、貸せ。俺が持つ。お前が持ってちゃ、頭をぶつけそうだ」 まるで喧嘩を売っているかのようなぶっきらぼうな彼の言葉に、けれどメイは嬉しそうに にっこり笑う。 「うん。…じゃね、シルフィス。またね」 「はい、また」 肩越しに手を振るメイに、頷いて手を振り返す。キールが、ちらりとこちらに視線を投げ て、じゃあ、と短く挨拶をよこした。 雨の中に踏み出して、歩き出す二人を、シルフィスは少しの間見送った。 「キール、もうちょっとゆっくり歩きなさいよ」 「お前が遅いんだ、もっと速く歩けよ」 「もー、遅いほうに合わせるのが思いやりってもんでしょ!…あ、傘、もーちょっとそっ ちにさしていいよ」 「俺はもう半分濡れてるから、この上ちょっとくらい濡れても同じだからな」 にぎやかに言い合いをしながら遠ざかってゆく二人。その声を、シルフィスはぼんやりと 聞くともなく聞きながら立ち尽くす。 メイの横顔が、キールを見上げて微笑んでいた。 意識の奥底に、いつからかたゆたっていたひとつの疑問が、ふわりと雨音に縁取られて浮 かび上がる。 ――もしも。 ――もしも、私が、もっと早く分化していたら。 …最初から男として、メイに出会っていたら。 そうしたら、何かが変わっただろうか――― あの、雲を吹き飛ばす太陽のような笑顔を向けられるのが、彼ではなく――― シルフィスは、短く息をつくと、軽く瞳を閉じた。 これは、疑問ではない。もしも、でもなくて――ただの、願望だ。 シルフィスは瞳を開いて、もうずいぶん遠くなってしまった二人を見やった。 ――もっと早く、人並みの時期に分化していたら、自分はアンヘルの村を出ることはなか ったかもしれない。 そうしたら、メイと出会うこともなかった。 友人として、出会うことさえ、できなかった。 ―――それなら、きっとこれでよかったのだ。 …今は、せめてそう思おう。 シルフィスは、緑色の傘をそっと開いた。ぱらり、と傘の上に雨音が踊る。 彼はその音を聞きながら、まだ降り続く雨の中へ歩き出すのだった。 |
