| 御崎 濯 |
メイは、ゆっくりと歩いていた。 ほんのひと月ほど前まではうだるような暑さを籠もらせていた空気も、秋も半ばといえるこの頃は、涼やかな風を彼女の髪に運んでくる。 足元に散り敷いた枯れ葉を踏むと、かさりと微かな音がした。周囲にてんでばらばらに立ち、けれど互いを呼びあうように枝を伸ばす木々は、冬へ向けてその葉を脱ぎ捨てつつある。彼女の肩先にその一枚がくるくると舞い落ちて、まるで控え目なコサージュのように淡い色彩で、黒いシンプルなワンピースを彩った。 すこし足を緩めて、森の奥に湧き出る清水のような、澄んでひややかな空気を胸に吸いこむ。 秋の午後の空に瞳を上げると、かたちのはっきりしない淡い雲が風に吹き流されてゆくのが見えた。 と、背後から呼びかける声に、メイはゆっくり振り向いた。 枯れ葉を踏む音がしていたから、彼が近づいて来ているのは分かっていた。立ち止まった彼女に、声をかけた青年は少し眉を寄せながら歩み寄ってくる。 「こんなとこにいたのか」 口調はぶっきらぼうだったが、その瞳にはどこか気遣うような色が見え隠れしている。 メイは、少し微笑み返して間近にやってきた青年を見上げた。 「…なに、してるんだよ」 落ち着かなげに緋色の肩掛けを直した彼は、少し間をおいてから、そう口を開いた。何を言おうかと困っているような響きが声に籠もっている。 「散歩よ」 「散歩?…こんな時に?」 思わず眉を寄せる彼に、メイはすましてくるりと向きを変える。 「いいでしょ、別に。…あんたも付き合いなさい」 「なんで、俺がそんなこと」 「いいから」 言うなり、彼を待ちもせずにまた彼女はさっさと足を運び始める。 青年は、一瞬彼女を見送ってから、短く息をついてその後に従った。 しばらく、なにも言葉を交わさないまま、2人はときおり落ち葉の舞い落ちる森の中をゆっくりと歩いていった。 やがて、青年が溜息混じりに口を開く。 「…みんな、探してたんだぜ?」 けれど、メイはそれには応えなかった。足元の枯れ葉を小さく踏みしだきながら、一、二度瞬きをする。微かに微笑んだ彼女の唇から零れたのは、彼の言葉とは全然関係のない話題だった。 「今日は、何の日か知ってる?」 「…いいや」 一瞬考えて、けれどやはり何も思い当たらなかった青年はぼそりとそう答える。 メイの微笑みが、すこし、深くなった。 「結婚記念日」 「…………」 もう一度眉を寄せて、けれど、その言葉に応える術を知らない青年は足元を睨んで黙り込んだ。 「あたしの誕生日に近ければ、覚えやすいかなって思ってたんだけど。…でも、キール、全然覚えててくれなかったのよね」 かさり、とまた足元で枯れ葉が鳴る。 いくらか歩いたところで、メイは瞳を上げた。少し後ろをついてきていた青年を振り返って、小さく微笑む。 「…やっぱり、あんた、緋色の肩掛けが似合うわよ」 いきなりの誉め言葉に、青年はむっと唇を引き結んだ。 「20才でとれたんなら上出来ね」 「……じいさんと比べるなよ」 「比べてなんかないわよ」 「だって、そりゃ、あのひとは18で取ったかも知れないけどさ」 いくつになっても、少女のような茶目っ気と愛らしさをなくさないこの祖母が大好きな青年は、少しムキになって、未だ彼女の心を独占している祖父に張り合おうとする。 「比べてないってば」 メイは、短く苦笑すると、不機嫌そうな青年の横を通り過ぎて、来た方へとゆっくり足を運び始めた。 「誰とも、比べようなんかないんだから、キールは」 その声に籠もった気配に、青年は唇をつぐむと、彼女についてきびすを返す。 しばらく、黙ったまま来た道を戻ってゆく。 やがて、メイが短く呟きを零した。 「…金婚式には、足りなかったなぁ…」 「…なに?それ」 祖母が、異世界から来た人間だという話は聞かされている。そこでの風習や、珍しい品物の話を聞くのが、子供の頃の彼は好きだったものだ。 「結婚して、50年目のお祝いをあっちでそういうのよ。…まあ、どうせ覚えててくれやしなかっただろうけどね」 不意に、強い風がどうと木立のあいだを駆け抜けた。 ぱらぱらと、枝から引きはがされた枯れ葉が2人の上に降りかかる。 メイは、足を止めて梢を見上げた。 (…やっぱり、また、あたしだけが今日のこと、覚えてる羽目になるんじゃない) 声に出さずに唇の中で呟く。 「…なあ」 立ち止まった彼女に追いついてきた青年が、どこか不安げに口を開いた。 「帰っちまうとか、しないよね?」 メイは驚いたように振り向く。眼鏡こそかけていないが、若い頃の夫にどこか似た面差しの青年は、不機嫌にも見える表情できゅっと眉を寄せていた。 (…キールが、照れたり不安だったりするときの顔に似てるんだ) ふとそんなことに思い当たって、メイは瞳を緩める。 「じいさんが、帰りたかったらそうすればいいって言ってたって、大叔父さんが言ってたから――年取ってからは、慣れたところに住む方がいいかもしれないって」 異世界とこの世界を繋ぐ門を開く呪文は、いくつも制約があって使い放題ではないとはいえ、現に実用に耐えるものであることは公然の秘密だ。その数少ない使い手のうちのふたりが、他ならぬ彼の祖父母であることも。 「帰らないわよ」 メイは、けれど、あっさりとそう言った。 「あんたたちも、子供たちもここにいるし、もう、こっちで暮らした時間の方がうんと長いんだから。…あたしたちの家も、想い出も、大事なものはみんなここだもの――― …キールが、いなくなっても」 微かに彼女の声が震えたことに、青年は気づいたが、何も言わなかった。 「…帰らないよ」 遥か昔、銀色の月の光の降り注ぐ王宮の庭で彼に告げた言葉を、彼女は小さくもう一度呟く。目には見えない何者かに、囁きかけるように。 彼と生きた世界、 彼と過ごした日々、 彼と歩いた道 永遠に続きはしなかったけれど、きっと永遠に残るもの。 黒一色の服装に、唯一色を見せる緋色の肩掛けを纏った青年は、黙って彼女に寄り添った。 しばらく彼の腕に手を置いて立ち尽くしたメイは、やがてその手を青年に預けて、ゆっくりと歩き出した。 冷たく澄んだ秋の空気を震わせて、遠く、微かに鐘の音が響きはじめていた。 |
