ありふれた特別

御崎 濯     



 物語は、様々に始まる。
いきなり本人に降りかかることもあれば、まったく縁のない遠くで起こった事件が、巡り巡って大きく事態を動かしたりもする。
 今回は、さほど遠くもない場所で起こった、ささやかな出来事が発端だった。

魔法研究院の書庫の中、一人の魔導士が、奥まった棚の前で首を傾げた。
この魔導士が誰であるかは、この際あまり問題ではない。
とにかく、彼は探しに来た目当ての本を見つけられずに、しばらくうろうろと探し回った。
そして結局あきらめて、書庫の管理を担当する同僚に心当たりを尋ねにいったのだった。

それから数日後。
魔法研究院在籍の緋色の魔導士、キール・セリアンは、内々でと念を押されて上の魔導士の所に呼び出された。長老のすぐ下で雑事を取り仕切っている、まあ秘書のような役どころの魔導士だ。
研究がせっかく興に乗ってきて、どんどん捗っていたところだった。それを中断させられて、彼の機嫌は最悪だった。
「お呼びですか」
ドアをノックして入っていった彼の声には、愛想の欠片もなかった。もともと乏しいところへ持ってきて、義理にでもそれを付け加える要素が見当たらないときては、無理もないところだろう。
「ああ、入りたまえ。悪かったな、呼び立てて」
無言のままで投げ返された視線は、悪いと思うなら呼ぶな、と雄弁に語っていた。
口に出して言わなかったのは、彼なりにせめてもの一般常識があるという証だろう。
「ご用は何ですか」
必要最小限の言葉しか口にしないと決心してでもいるかのようなキールの切り口上に、魔導士は困ったように椅子を勧めた。
「まあ、かけてくれ。…ええと、飲み物は──」
「結構です。茶飲み話に来た訳じゃありませんから」
「…ああ、まあ」
向かい合って腰を下ろすと、相手は短く咳をしてから口を切った。
「その、君の研究にはいつも一目置いて」
「俺の研究の話でしたら、レポートを読んでいただければ事は足りると思いますがね」
「……いや、まあ…その話じゃないんだが」
「でしたら本題へどうぞ」
困り果てたようにため息をつくと、魔導士は少し言葉を探すように視線を彷徨わせてから口を開いた。
「…君は、よく研究院の書庫に出入りしているかね」
「研究院に在籍している魔導士が書庫を使うのに、なにか不都合でも?」
「……いやそれは構わないんだが。その、最近、妙な報告が上がってきていてね」
「妙な?」
やっと、まともな応答が返ってきたことに安堵したように、相手は頷いた。
「ああ。先日、探している本が見当たらないという者がいてね。そんなはずはないだろうと言うので、担当の者もずいぶん探したんだが、やはり見当たらなかった」
「どこかのバカが無断で持ち出しでもしてるんでしょう。取り立てて言うほどのことじゃない」
「その時はそう思ったんだが」
相手は、膝に手を置いて言葉を続ける。
「担当が気にして、調べてみたところが、それだけではなかったんだ」
「何がですか」
「なくなっている本が、だよ」
キールは眉を寄せて相手を見た。
「…お話は分かりましたがね、それが俺と何の関係があるんです」
「…いや、まだ続きがあるんだよ」
ますます素っ気なくなるキールの口調に、魔導士は慌てて言葉を継ぐ。
「3日前のことだ、下町に出かけていた者が、とあるよろず屋に入って、本を見つけた」
キールは不機嫌そうに眉を寄せたが、どっちにしろ最後まで聞かされるのなら、と相手の話をひとまず聞くことにしたようだ。
「表紙が剥がされて、装丁はひどいものだったのだが、中を見て驚いた──研究院の蔵書印が押してあったんだよ」
そう言って、彼は傍らの脇机の下から一冊の本を取りだした。今、話に出てきた本らしい。
表紙はごっそり切り取られて、その下の台紙がむき出しになっている。それを机の上に置くと、魔導士は話を続けた。
「その報告を受けたので、他のよろず屋や道具屋を回らせてみたんだが、案の定、見あたらなくなっていた本が3冊とも、同じような状態で見つかった」
それは今、修理させているが、と、魔導士は肩をすくめる。
「幸い、中身には損傷がないんでね。表紙を直せば問題なく読める。…ただ、やはり、もうこういうことは起こって貰っちゃ困るのでね」
「おっしゃることはごもっともですね。で、俺に犯人探しをしろとでもおっしゃる気ですか?」
「いやいや、そうじゃなく――いやまぁ、その…」
相手は、また歯切れ悪く言葉を濁して、ごほん、と咳払いをした。
「…卑しくも、自ら望んで学ぶためにここへ来た魔導士が、貴重な書物にそんな振る舞いをするとは思えんじゃないか?だが、だな…」
キールは、瞳を細めて机の向こうの魔導士を見た。なんとなく、話の向かう方向が見えたような気がする。
「…その、君の預かりになっている、あの異世界の娘は、最近、様子はどうかね?」
「つまり、あいつがやったんじゃないかと疑ってるわけですか」
自分の声がまるで氷の刃のように尖るのを、キールは自覚した。
「いや、そうとはっきりとは」
「馬鹿馬鹿しい。あり得ません。くだらん憶測はやめてください――メイがそんなことするわけがない」
キールは、話は終わりだとばかりに、ばさりとマントをさばいて立ち上がった。
相手が、慌てて中腰になる。
「セリアン、何も君の監督が不行き届きだとか責めているわけじゃない、気を悪くしないでくれ――だが、あの娘がよく、小遣いが足りないと愚痴ってたり、この頃は、何か金を稼ぐ方法はないかと聞き回ってるのを耳にした者がいるんだよ」
「金がないと愚痴る者は、本を持ち出して叩き売ったと思われても仕方ないわけですね」
思い切り冷たい視線と口調で言い捨てると、キールはきびすを返した。
「これからは、あらぬ疑いを掛けられたくなければ、愚痴るのはやめろと言っておきます。…失礼」
慌てたように引き留めようとする魔導士を振り返りもせずに部屋から出ると、キールは後ろ手に扉を閉めた。そのまま大股に歩き出す。
(くだらん)
誰が、監督責任を問われて気分を害したりするか。的はずれなことを心配しやがって。
(メイがそんな馬鹿なことをするわけがない)
確かに失敗や暴走は山ほどするし、ちゃっかりしたところや、要領のいいところもありはするが、本質的にはまっすぐな少女だ。
(大体、本の表紙を剥がして道具屋に売るなんて、そんな小知恵のきいた細工のできるヤツか、あいつが)
かばうにしてはちょっとあんまりな評価を一人ごちながら、キールは自分の研究室に戻ってきた。
机に戻ると、さっきまで進めていた研究を再開する。
しかし、いったん中断してしまった流れは、元には戻らない。呼ばれて部屋を出るまで、あんなに順調に進んでいた仕事は、ぷつんと線が途切れたようにつっかえて、どうにも先へ進まなくなってしまっていた。どうあがいても、集中力が戻ってこない。
(くそっ…)
キールは口の中で短く罵ると、椅子の背にもたれかかった。右手で顔をこすって、いらだたしげに前髪をかき上げる。
頭が重い。実のところ、昨夜は徹夜だったし、その前もろくに眠っていない。あまり順調に仕事が捗るので、つい眠るのが惜しくて机にかじりついていたのだ。
流れがうまくいっているときは気にもならなかった身体の不調が、研究が引っかかったとたんにどっとのしかかってきた。
キールは、ふらりと椅子から立ち上がった。なんだか、頭だけでなく、身体の方もだるいような気がする。まあ、これくらいはよくあることなのだが。
彼は、不本意ながら仕事の続きをあきらめて、少し休むことにした。
部屋の片隅に立ててある衝立の向こうに回り込む。そこに置かれたソファベッドに、彼は腰を下ろした。
(…少し、眠るか)
眼鏡を外して、ローブ姿のまま毛布をひっかぶる。自覚はなかったが、かなり疲れていたらしい。彼は間もなく、うとうとと眠りに落ちていった。

どこか遠くで、扉を叩く音を聞いたような気がして、キールは重たい眠りから渋々と浮かび上がっていった。まだ頭の奥がぼんやりとしていて、まわりの状況が飲み込めない。
ようやく肘を立てて上半身を少し起こすと、彼はうざったげに前髪を払いのけた。
(…ノックの音が、しなかったか…?)
気のせいだったのか、それともノックの主があきらめて立ち去ったのだろうか。ずいぶん控えめな音だったような気がするのだが。
キールは、身体を起こすと、衝立の隙間から部屋の中を見渡した。
見慣れた姿が、目に映る。
(…メイ)
彼の被保護者である、異世界人の少女が、部屋に入ってきていた。
(ノックは、あいつか)
いつもはもっと元気に扉を叩く少女なのだが──眠っていたせいで、それと気づかなかったのかもしれない。毛布を払いのけて立ち上がり、声を掛けようとして、キールはふと手を止めた。
(……?)
メイの様子が、いつもと違う。ノックに返事をしなかったので、不在だと思っているのだろう。キールがここにいるのに気づいていないらしいのだが──
どこか、こそこそした様子で辺りを伺いながら彼の机に近寄ってゆく。
足音さえ、忍ばせているような雰囲気だ。
メイは、キールの机の前に立つと、積み上げられている本の山を覗き込んだ。机のまわりをうろうろしながら、背表紙を読んだり、時にはちょっと持ち上げて表紙を確認したりしているらしい。
(なんだ…?)
課題の参考になる本を借りに来たという風ではない。第一、キールが普段使っている本は、メイが参考にするにはまだ難しすぎる。
そのうち、メイは山の中から一冊の本を抜き出した。ずいぶん慎重な手つきで引っぱり出した後、積み上がった他の本の位置を丁寧に直している。動かす前の状態を再現しているらしい。こちらに背中を向けているので、表情までは分からない。
抜き出した本を胸に抱えると、メイはまた抜き足差し足、というのが似合うような動作で扉の方へ向かった。ゆっくりドアを開け、頭だけ出して外を伺うと、するりと隙間から抜け出す。
ぱたん、と扉が閉まる。
彼女の姿が消えてから、キールはやっと、部屋の中にいる間、メイが一言も声を立てなかったことに気づいたのだった。

(なんだったんだ…?)
キールは、眼鏡をかけ直しながら立ち上がった。メイがキールに本を借りに来ることはたまにあるが、いつもは彼がいるときに来てどれがいいか相談し、にぎやかに注文を並べ立てて借りてゆくのだ。
あんなふうにこそこそと──そう、そんな形容が似合うようなやり方で持ち出してゆくことなどなかったのに。
(…………)
ふと、嫌な感じがした。
思い出すまいとしても、さっき聞かされた話が意識に浮かび上がってくる。
(馬鹿馬鹿しい)
持ち出されたのは、書庫の本だ。
大体、彼の本など持ち出したら、すぐにばれるのは目に見えている。そんなことも分からないメイではないだろう。
(…いや、違う──それじゃ、メイがやったみたいじゃないか)
キールは慌てて首を振ると、前髪をかき上げた。
メイが、そんなことをしたりするはずはない。けれど、さっきの行動はどう取ればいいのだろう。
キールは、額に手を当てて、衝立の前でぼんやり立ち尽くした。

 夜になっても、メイは課題を出しに来なかった。
(…まあ、それはよくあることだけどな)
食堂で夕食に会った時には、いつもと何の変わりもなかった。それで少しはほっとしたのだが、普段なら食事がすんだ後でも何かとおしゃべりをしたがる彼女が、今日はそそくさと部屋に戻っていった。
(だからどうだという訳じゃないだろう──たまにはそんな日もあるさ)
課題をやっているんだろうと思おうとしたのだが、その日はとうとうメイは姿を見せなかった。
翌日、課題を催促しようと──更に言えば、それを口実に彼女の様子を見ようと、メイの部屋へ出向いたキールは、「女の子の部屋に無断で入ってこよーとするなんてサイテー!」という、なんだか理不尽な台詞をふっかけられて、かなりの勢いで部屋から追い出されてしまった。
「なにがサイテー、だ!お前、分かってるのか?課題の締め切りは昨日だったんだぞ」
「分かってるってば!出来たら持っていくからっ」
まだできてないんだからしょーがない、の一点張りで、メイは結局そのままキールを追い返してしまった。
彼は、部屋に戻ると、椅子に腰を下ろして息を吐き出した。
机の上の本の山を見やる。メイが持ち出した本は、まだ返ってきていなかった。
あのあと確かめてみたら、なくなっていたのは彼が普段よく使う魔法陣や魔法図形の索引だった。彼にとっては貴重な本だが、売りに出して高価なものかどうかは分からない。
(……)
キールは短く首を振ると、その件を頭から追い出した。そして机に向き直ると、自分の研究に戻るのだった。

次の日は、王宮の書庫から借り出した本の返却期日だった。キールは3冊の書物を抱え込んで部屋を出た。
講義棟にさしかかったところで、見慣れた青い制服を認めて、声をかける。
「メイ」
「あ、キール!」
いつもと同じ明るい笑顔で、メイはぱたぱたと駆け寄ってきた。
「どっか、行くの?」
「ああ、王宮だ」
「ふうん…」
普段なら、ここでメイは間髪入れず「あ、あたしも行く!」と宣言してくるところだ。
が、今日は、彼女はにっこり笑ってぴらぴらと手を振って見せた。
「いってらっしゃーい」
「…お前は、いいのか。珍しいな」
「ん、えと、ほら、課題まだだし」
「…ああ、そうだな」
感心な返答ではある。が、いつもの彼女なら、そんなことは斟酌しないのだが。
首を傾げながらも研究院を出たキールは、少し行ったところで忘れ物に気づいた。
アイシュに頼まれていた、研究院書庫の書物の購入要求リストだ。価格の予備調査をするからと言われて作ったのだが、例によってこのところ家に帰っていないので、ずっと渡しそびれている。ついでだから、今日渡してしまおうと思っていたのだった。
仕方なく研究院にとって返す。急ぎ足で自分の研究室に戻り、無造作にドアを開けたキールは、
「うひゃあっ!?」
という叫び声を正面から食らって、一瞬立ち尽くした。
「……メイ?」
部屋の中、机の前に立っているのは、彼の被保護者で生徒である、メイだった。
「あ、や、キール、…えと、王宮は?」
照れ笑いを浮かべながら、メイが尋ねる。たらたらと冷や汗を流しているようでもある。
忘れ物だ、と答えようとして――キールは、メイが背後に回した手に何か持っているのに気づいた。
「…後ろに何、隠してる?」
「え、え、えーと」
メイはうろうろと視線を彷徨わせたが、観念したように手に持ったものを前に出して見せた。
果たして、それはメイが持ちだしていた本だった。
「…やっぱり、お前が持って行ってたのか」
「…え、ないのに、気づいてた?」
「当たり前だ」
メイから本を受け取りながら、キールはじろりと彼女を睨む。
「よく使う本だからな」
「ごめーん…ちょっち、見せてもらっちゃおかな、なんて思って」
「………」
あの時のメイは、そんな感じではなかったが。
(…まあ、返しに来たんだし…いいか)
キールはとりあえずそう思うことにすると、メイに向かって口を開いた。
「貸してやらなくはないから。俺がいる時に、断ってから持って行けよ」
「う、うん。ごめんね」
もう一度謝って、メイはてへへ、と笑ってみせる。その笑顔に、なんだか妙なものを感じて、キールは少し目を細めた。もう、この少女のことはずいぶんよく分かるようになってきた。こういう笑い方をする時は――何か、隠したいことがある時だ。
けれど、分かったからと言って、それからどうできるというものでもない。
キールは、しばらく迷ったが、結局どう言えばいいのか分からないまま、それ以上本のことを口にするのはやめた。
かわりに、ふと思いついて、別の話を取り上げてみる。
「…お前、小遣いが足りてないのか?」
「…へ?」
いきなりの話題転換に、メイは目を丸くした。
「金を稼ぐ方法がどうとかって、尋ねて回ってたって聞いたぞ」
「え、あ、ああ、うーんと」
メイは、困ったように瞳をくるくると動かす。
「足りないのは、無駄遣いばかりしてるからだろ。…だけど、どうしてもって言うなら、今日は兄貴に会うから、何か」
「う、ううん!いいよ」
メイは、慌てたようにふるふると首を振った。それだけでは足りないようで、両手まで一緒に振り回す。
「いいの、それは!あの、とりあえずは解決したし。うん、おっけーおっけー」
こくこくと頷いてみせるメイに、キールはまた瞳を細める。
やはり、何か隠しているらしい、とは思う。
(解決した?)
眉を寄せて自分を見る保護者の青年を見上げて、メイはじりじりと後ずさった。
「あ、じゃ、じゃあ、本、返したから、あたし、行くね」
「おい、メイ――」
「ばいばい、いってらっしゃあいっ」
ぱたぱたと大急ぎで駆け出していくメイを見送って、キールはまた短く息を吐き出した。


王宮から戻ったキールは、先日書庫のことで話をしてきた、あの魔導士に呼び止められた。
「なんです?」
思えば、あれがケチのつき始めだったのだ。順調だった研究は滞るし、メイの様子は変だし、ろくな事がない。ついつい口調が必要以上に尖る彼に、魔導士は申し訳なさそうに切り出した。
「先日は、すまなかったな――あの件だが、解決したよ」
「……は?」
思わず、眉を寄せて聞き返す。目つきも、彼が自分で思うよりも遥かに厳しかったのだろう。相手は、自分の半分も年のいかない彼に対して、妙に低姿勢で説明してくれた。
研究院に下働きに来ている者が、ここには貴重な書物があるという話を、自慢半分に知り合いにした。そう聞かされた男は金に困っていて、何かの足しになるかと研究院に入り込んで、持ち出したらしい。男には本の中身の価値は分からず、ただ装丁に金箔や錦糸が使ってある本を選んで、その部分だけを切り取って売りに出そうとした。が、何せ古い本だったし、装丁に使われている分量など知れたもので、大した実入りにならなかったので、1回でやめてしまったのだそうだ。本の本体の方は、やはり始末に困って道具屋へ持ち込んだものらしかった。
「警備団の方には連絡しておいたよ――いや、妙な疑いをかけたりして、済まなかった。彼女にも、謝っておいてくれたまえ」
謝罪の言葉を述べ立てると、彼はそそくさと立ち去っていった。
それを見送って、キールは、眉を寄せた表情のままで立ち尽くしていた。
事情は分かった。疑いは晴れたわけだ――…いや、自分は疑っていたわけではないが。
が、やはり、メイの行動の謎は残ったままだ。
彼の本を持ち出したり、妙にこそこそしていたり、どう見ても何か隠し事をしていたり。
(…まあ、そりゃ…俺に隠し事をしちゃいけないって訳じゃ、ないからな)
どこか複雑な思いを抱えながらも、彼はそんな風な言葉で無理矢理自分を納得させることにしたのだった。感情的には、とうてい納得した、とはいえない心境だったりはしたが。


その謎が解けたのは、翌日のことだった。
午前がそろそろ終わろうかという頃、キールの部屋の扉がノックされた。
元気いっぱいのそのノックは、もうすっかりお馴染みの少女のもの。
キールは顔を上げて、入れ、と返事をした。
「キールっ!お誕生日、おっめでとー!」
ばたん、と盛大にドアを開けて(どうも、足で蹴り開けたようだ)入ってきたメイが、開口一番、満開の笑顔で叫んだ。
キールは、呆気にとられて、しばし固まる。メイは、両手に捧げ持った大きな盆を(だから、扉は足で開けるしかなかったろうと思われるのだが)しずしずと彼の机の方に運んできた。
「ほら、空けて空けて」
場所を空けるように促されて、仕方なく机の上の書物を退避させる。
机の上を占拠した盆の上には、色とりどりのサンドイッチと、お茶のセットが載せられていた。
「……なんだ?」
「だから、お誕生日でしょ、あんたの。おめでと、20才だよね」
眉を上げて尋ねるキールに、メイはにこにこしながら答える。
「普通ならバースディケーキなんだけど、キール、甘いもの嫌いだからさ。ちょっと変だけど、バースディサンドイッチ。華やかにしようと思って、苦労したんだよー」
確かに、プチトマトが花の形に切られていたり、キュウリで葉っぱの形が添えられていたりする。オープンサンドイッチに載せられているミニオムレツに、ケチャップで「おめでとう」と書かれているのを見て、キールは額を押さえた。
「…誕生日か」
忘れていたわけではないけれど、あまり意識はしていなかった。
…家族以外に誕生日を祝われるなんて、何年ぶりだろうか。
それを、いきなりこんな風に祝われては、どんな顔をしていいのやら分からない。
そんな彼の戸惑いにはいっこうにかまわず、メイはにっこりと首を傾げる。
「結構力作なんだからさ、いきなり食べちゃわないで、じっくり鑑賞してよね」
(…そうは言われても)
ケチャップの「おめでとう」から極力目を逸らせながら、キールはメイの顔を見た。
「俺の誕生日、知ってたのか」
「キールのだもん、知ってるよ」
ふわりとどこか頬を染めて、メイがそう返す。
「…ふん」
きらきら輝く茶色の水晶から目を逸らせて、キールは短く咳払いをした。
「…あのね、それでね――」
メイが、ごそごそと何か取り出してくる。
「これ、プレゼント。…あんま、たいしたもんじゃなくて、悪いんだけどさ」
頬の桜色を少し濃くして、少女は青年に淡いブルーの包みを差し出した。
瞳を瞬かせて包みを見下ろすキールの顔を、メイは少し上目遣いに見た。
「…もらって、くれる?」
そんなふうに促されて、慌てて頷くと、彼はメイの手から包みを受け取った。
「…その、…ありがとう」
「気に入るかなぁ…開けてみて?」
紺色のリボンをほどくと、中から出てきたのは――
「これね、ブックカバーなの」
緑色の布製のものを手にして、少し首を傾げるキールに、メイが解説する。
「ブックカバー?」
「うん。…これこれ」
メイは、横にどけられた本の山の中から、先日の索引書を引っぱり出した。表紙を開くと、くるりと包み込んでカバーを掛けてみせる。
「こうして、本を保護するもんなの。この本、キール、よく使うから、表紙とか傷みかけてたでしょ。だから、こーいうのも、いいかなって」
そう言ってから、メイは照れたように頭をかいてみせた
「…こっちにはミシンってないし、あたし、あんまり裁縫得意じゃないからさ、ちょっち縫い目とかゆがんじゃってるとこあるけど、勘弁してよねー」
カバーの掛かった本を渡されて、キールはメイの顔を見た。
「…って事は、これ、お前が縫ったのか?」
「うん、布、買ってきて、寸法取って。…なんか、もっといいもん買えればよかったけど、ほら、あたしっていつも財政難だし」
てへへ、と舌を出すメイから、手の中の本に目をやる。
苦笑が、唇に上ってきた。
「……なるほど、縫い目が曲がってるな」
「うー、もー、だからぁ、そーいうとこは目をつぶってよ」
「だけど、大きさはちょうどいいじゃないか」
「そりゃ、実物で何回もやり直したもん。こっちの本って、サイズばらばらなんだよね」
それで、この本をこそこそ持ち出したのか。課題を延々遅らせていたのも、彼女の部屋に入ろうとして、追い返されたのも。
つい、くすりと微笑が零れる。
「……うわ、キール、あんた、今笑った?」
「ばーか」
キールは手にした本で、軽くメイの頭をはたいた。
「…ま、ありがたくもらってやるよ。無駄にするのも、布がもったいないし」
「何よ、可愛くない言い方!」
唇を尖らせるメイに、キールはいつものちょっと皮肉っぽい微笑を向ける。
「…じゃ、こっちも、昼飯代わりに食うか」
「あー、だから、ちゃんと鑑賞してからにしてってば!」
椅子に腰を下ろして、サンドイッチに手を伸ばそうとするキールに、メイが騒ぎ立てる。
「ケーキの代わりなんだからさ、ほんとはローソク立てたいとこだよね、ばーーっと20本」
「穴だらけになるし、ロウが落ちる」
「だってお約束じゃん。それで、キールに吹き消してもらうの」
「俺はごめんだ、そんなガキみたいなこと」


いつも通りのにぎやかなやりとり。
世界中のどこででも見られるような、ありふれた誕生パーティのうちのひとつ。


「あー!おめでとうの字、消したっ!せっかく書いたのにっ」
「……書かなくていい、そんなこと。恥ずかしい奴だな」


けれど、二人にとっては、確かにそれは特別な一日。