蒼に染まる夜

御崎 濯      



 メイは、魔法研究院の廊下をてくてく歩いていた。キールの部屋へ、昨日が締め切りだった課題を出しに行くところである。
彼女は、はあ、とため息をついて足を緩めながら、高い天井を見上げた。
「…ふけちゃおっかなー」
手にした課題のレポートは、実は三分の一くらい白紙のままだ。これを見た時のキールの顔が目に浮かぶ。
「絶対、また怒るわよねー、いつも遊び歩いてばかりだから終わらないんだとか怒鳴るんだよね」
とほほ、と肩を落としながら、仕方なくまた歩き出す。

この異世界、ワーランドの小国、クラインに彼女を召還した魔導士たちの、研究グループの中心人物が彼、キール=セリアンだった。30代でとれれば早いほうだといわれる、最上級魔導士の証、緋色の肩掛けを弱冠十代で拝領した秀才魔導士。
けれどこの秀才は、人付き合いの悪さでもまた群を抜いていた。なかなか人と馴染もうとしないし、口を開くと辛辣な皮肉や不機嫌な台詞ばかり。いきおい友人と呼べるような相手はいないに等しかったし、彼は一人で研究に打ち込ませておくに限る、というふうな暗黙の了解が研究院にはできあがっていた。
 そこへ、実験の失敗で召還されてきたのが彼女、藤原芽衣──ここでは、クライン風にメイ=フジワラと呼ばれているが──だった。
メイは、その時はもう何がなんだか状態だったし、まだキールが研究院の中でどういう存在かを知らなかったから、キールが自分の面倒を見るということを──彼の偉そうな態度と棘のある言葉にむかつきはしたが──変だとは思わなかった。
けれど、後でつくづく考えると、よくキールが自分の世話係になることを承知したなと首を傾げたものだ。確かに、彼があの実験の責任者ではあったけれど。

 それがどうしてなのか、なんとなく分かってきたような気がしたのは、そろそろ季節が変わろうかという頃になってからだった。
そして、キールが自分の世話係になったことを、出会った初めの頃のように不運だとは思わなくなってきたのは、夏も盛りを過ぎようかという、最近のこと。

 キールの部屋のある廊下まで来て、メイはもう一度ため息をついた。足がますます重くなる。
「…仕方ないよね、すぱーんと怒られて、済ませちゃうか」
覚悟を決めて顔を上げたその時、キールの部屋のドアががちゃりと開いた。
(うひゃ、キール!?)
怒鳴り声を想像していた当の彼の姿を予想して、一瞬首をすくめる。
が、そこから現れたのは、想像したのとは全然違う人物だった。
「…あれ、ガゼル?」
思わず目をぱちくりさせて、名前を呼ぶ。
騎士見習いの彼が、魔法研究院にいるのが不思議な訳ではない。騎士団というのは、仕事柄ケガの絶えないところだし、そういう場合には治癒魔法が必要になるからだ。
けれど、銀髪の騎士見習いの少年がここに現れるのは、そういう緊急の時に助けを呼びに駆け込んでくる時か、でなければ治療室の方に訪ねてくるのが普通だ。
キールの研究室から出て来るというのは、かなり珍しい。以前に入り込んだガゼルに本を台無しにされたことがあるとかで、キールは絶対彼を部屋に近づけようとしないのをメイは知っていたから、余計驚いたのだった。
しかも、ガゼルはなんだか悄然としていて、まるで飼い主にさんざん叱られた子犬のような雰囲気である。
思わず呼びかけたメイの声に、ガゼルははっと顔を上げた。金色の瞳が、メイの顔を見て瞬く。
「どしたのよ、ガゼル。こっちの方に入って来るなんて、珍しーじゃん」
気楽に声をかけてぱたぱたと歩み寄ってくるメイの顔を一瞬見つめたかと思うと、ガゼルはがばっと頭を下げた。
「……ごめんっっ!」
一言叫ぶように言うと、くるりと向きを変えてだっと走り出す。
「え!?…って、なによ!?」
虚をつかれたメイは、一瞬立ち尽くす。が、次の瞬間、彼を追って走り出していた。
「待ちなさいよっ、ガゼル!」
ばたばたと遠慮のない足音をたてながら、二人は研究院の中を駆け抜ける。
魔導士たちの中には、その音に眉をひそめる者もいたが、それはまるでこの季節の夕立のようにあっという間に通り過ぎていったから、その怒りも長続きはしなかっただろう。
すばしこいガゼルにメイがやっと追いつけたのは、研究院を走り出て少し行った、並木道の入り口だった。
「だぁっ、待ちなさいってば!」
やっとのことでガゼルの腕をとっつかまえると、メイは全身でブレーキをかける。
ガゼルも、そろそろおっかけっこにくたびれてきていたのか、ようやくスピードを落とした。ぜえはあと荒い息をつきながら、無言のままで二人は街路樹の根元にへたりこむ。
全身で酸素を求めてしばらく喘いだ後、メイは何とか呼吸をしずめながら、ガゼルの方を見た。
「……で?」
「……」
やはりまだ荒い息をつきながら、ガゼルはしょげた顔のままで視線を道の方に向けたままだ。
「もお、何がごめんなのよ?いきなし人の顔見て、ごめんの言い逃げされても、訳わかんないじゃん」
せっつくようなメイの言葉に、ガゼルはようやく彼女の顔を見た。胸を反らせて彼の顔を見返すメイの視線に、困ったような表情で目を瞬かせる。
「んん?言いなさいよ」
「…頼みに、行ったんだよ」
んー?と声に出さずに聞き返しながら、メイは少し顔をしかめる。
この少年が、何か真面目なことや込み入ったことを話そうとすると、どうもこんな風に言葉があちこちに転がるのには、メイもそろそろ慣れてきている。
ガゼルは、どう話すかと困ったように空を仰ぐと、改めて口を開いた。
「…こないだは、うちに来てくれて、ありがとな」
「そっから始まんの?」
「うん」
先日、メイはお使いの帰りにガゼルと町で会った。ガゼルの方は実家に顔を出している途中らしく、妹たちを引き連れていた。ちびさんたちに気に入られた──というか、意気投合したメイは、誘われるまま彼の家へ遊びに出かけたのだ。思ったより大きな家ではあったが、それにも勝る大家族ぶりにメイは驚くやら面白がるやらで、なかなか楽しいひとときを過ごしたのだった。──もっとも、おかげで例によって門限に遅れ、キールに大目玉を食ったのではあるが。
「…ちびどもも、お前のことすっげぇ気にいっちまってさ。また連れて来いってうるさいくらいなんだ」
「へー、そりゃ光栄。あたしも下がいるからね、ま、他人とは思えないっつーか」
気楽に相づちを打つメイに、ガゼルはちょっともじもじした。
「…それでさ、あいつらがあんまりお前のこと聞きたがるもんだから、お前が異世界から来たんだってこと、しゃべっちまったんだ」
「ふうん?」
メイは話がどこへ行くんだろうと思いながら頷く。
自分が異世界人だということは、キールやアイシュは秘密にしろとうるさい。が、どうもメイ自身はそんなに重大な秘密かね、と思ってたりするもので、誰に知れてもそんなに困ったとは思わなかったりする。
「…そいで、うっかり、お前はいつか自分の世界に帰るんだって言ったもんだからさ、ちびどもが騒いじまって」
ガゼルは、短くため息をつくと、地面に落ちていた小石を拾ってぽんと放った。
「帰らせちゃだめだって、もうぎゃあぎゃあ喚くんだよ。お前のこと、すっかり好きになっちまってんだよな」
メイは黙ってガゼルの横顔を見た。
「…そいでさ。…そいで、俺も──お前がずっといたら、楽しいだろうなって、ふと思っちまってさ。それで、考えてさ」
ガゼルは膝を立てて抱え込むと、瞳を地面に向ける。ぴんぴん突っ立った銀色の前髪が、膝小僧に触れそうだ。
「…あの人が、お前を帰す魔法の研究、してるんだろ」
「…キールのこと?」
「うん。…だから、キールに、その魔法作るの、やめてもらえばいいじゃんって思ったんだ。…そしたら、お前、ずっとこっちにいるだろ」
「…あんたねぇ」
「うん、わかってる、ごめん──俺、勝手だった」
ガゼルは、メイの方を見て座ったまま不器用にぺこんと頭を下げた。
「その時は、いい考えだって思っちまったんだよ。だから、速攻で頼みに行こうって思って、きちまった」
彼がキールの部屋から出てきたのは、そう言うわけだったのだ。
メイは胸の中で頷きながら、それとは別の方に思いが向くのを押さえきれなかった。
「…それで、キールに頼んだの」
「…うん」
その時のことを思い出したのか、ガゼルはまた悄然とした表情になる。
「なんて?」
「魔法作るの、やめてくれって。メイを帰さないでくれって」
「…キール、なんて言ってた?」
メイは、そう尋ねて、不意に胸がどくんと大きく脈打つのを感じた。
彼は、何と答えたのだろう。
「…すっげぇ、怖い目で睨まれた。しばらく口きいてくれなくてさ。俺、どうしようかと思ったよ。怒鳴りつけられるかと思ったし」
「……」
「でも、しゃべったら、普通の声だった。…それは、メイが決めることだろって」
メイは、ふと息を飲み込む。
「メイは帰りたがってるんだから、他の人間が口出しすることじゃないって。帰りたいのが当たり前なんだから、勝手にそれを無視することはできないって言われた」
「…それだけ──?」
ガゼルは目をぱちぱちさせると、膝の上に顎を載せた。一番言いにくいことを話してしまって、少し気が楽になったらしい。
「俺は──あ、キールのことな、俺はあいつを呼んでしまった責任があるから、必ず帰してやるつもりだって。その研究をするのは義務だし、俺は魔導士だから趣味でもあるんだって──そんなこと、言ってた」
メイは、胸の中でその単語を繰り返した。
(責任で、義務で、趣味──)
なぜか、ちりちりと喉が灼けつくような気がする。今までも、言われてきた言葉なのに。
メイは、ようやくのことで声を出した。
「…当たり前よ、ちゃんと、帰してもらわなくっちゃ。キールたちの、実験のせいなんだから」
メイはいきなりすっくと立ち上がってガゼルを見下ろした。
「…あたしのこと、勝手に呼んだのはキールたちなんだから…っ、帰してもらわなきゃ!」
喉の奥で押さえつけたような声でそう叫ぶと、メイはくるりと身を翻して駆け出した。
「お、おい、メイ!」
驚いたようなガゼルの叫び声がしたが、メイは振り返らなかった。足を速めて走り続けながら唇をかみしめる。
(…八つ当たりじゃん、これって──サイテー!)
自分でも分かっている。こんなに腹が立っているのは、ガゼルが魔法陣を作るなと言ったからではない。そうではなくて──キールが、自分を帰すのが責任で義務で趣味だと言ったからだ。視界がじわりと歪んだが、メイはかまわずに走り続ける。
(なんでよ、なんでそれであたしがこんな気分にならなきゃいけないの──)
キールが、彼女を帰すために無理をしすぎるほど無理をして研究を重ねているのは知っている。こちらへ来て間もなくの頃は、それも分かっていなかった。出会いの印象が最悪だったこともあって、彼が辛辣な言葉を吐くたび、いちいちメイも突っかかっていた。表に現れているそれが、彼の性格そのものなのだと思って。
それが、そうではないのだと気づいてきたのはいつ頃だったのだろう。口のきき方はあいかわらず皮肉だし嫌みだし、少しも優しくなんかないけれど──
彼女のことを、いつも気にかけて見守ってくれているのは彼だった。異世界から召還された人間と言うことで、好奇心を持って彼女を見る者は多かったが、本当の意味で心配したり、かばってくれたりする人はほとんどいない。
キールは、メイが課題を遅らせたり門限に遅れたり、何か大きな失敗をするたびに、嫌みたっぷりに叱ったり、額に青筋を立てて怒鳴りつけたりする。
「お前は学習能力がないのか!何度言ったら分かる、適当に解釈して適当に魔法を使うなっっ!」
「課題の締め切りっていうのは、確か渡す時にいちいち言ってやってたよな?それが頭に残らないんだったら、表紙に赤で大書きしとくか?」
「いいか、メイ、お前はどう思ってるのか知らんが、規則ってのは基本的に守るためにあるんだぞ。門限を守るというのはその中でもごくごく単純な規則だと思うんだが、それをここまでたびたび守れないってのは、規則が悪いのかお前がバカなのかどっちだ」
キールの皮肉や怒鳴り声に、メイもいちいち反発したり怒鳴り返したり、時にはおとなしく謝ったり、そんなことを繰り返し続けて──―
少しずつ、分かってきたのだ。
すぐ怒るし、嫌みは言うし、時にはお前なんかもう知らん、ということもあるけれど、彼がメイをいつも見ていてくれるのだということが。そして、けして彼女を放り出すつもりがないのだということも。
ほんとうに嫌なのなら、手を放せばいい。召還魔法の研究をするということと、彼女の世話をするということは別に一体ではない。緋色の魔導士である、そしてあれほど実力と功績の認められている彼なら、研究に専念したいからと言って、メイの世話など下級魔導士に押しつけることだってできるはずなのだ。
けれど、彼はそれをしなかった。メイに課題を出し、辛辣な台詞のおまけ付きにだが教えてもくれたり、身の回りのことで彼女が不満を述べるたびに、皮肉たらたらながら解決してくれたりもする。
彼女に何かあると、一番に気づいてくれるのも、いつも彼だった。
「お前、顔色悪いんじゃないのか。お前程度が無理したってどうせたいした結果は出ないんだから、適当に切り上げて休め」
「魔力ってのは、身体と精神のコンディションに大きく左右されるんだ。精神状態が悪い時に無理してもろくでもない結果にしかならん。今すぐ気分が切り替えられないなら、いくらやっても無駄だ、もうやめろ」
言い方は、少しも優しくないし、気遣っていると思わせないためにか、一層皮肉っぽかったりさえするけれど。それに気づいてからは、メイも彼の言葉の表面にだけ、いちいち突っかかることが──少なくとも、前よりは──少なくなった。

そうして、少しずつ、近づいていると思っていた。
ケンカばかりしているけれど、意地ばかり張り合っているけれど、何かが通じ合ってきていると、そんな風に思えてきていた。
なのに───
(キールは、あたしのこと、帰したいんだ)
理不尽な反発だということは分かっている。
(あたしのこと、早く帰したいんだ──追っ払っちゃいたいんだ)
メイは、わざとそんな言葉をひねり出して自分に突きつける。
召還された最初から、帰りたいと言っていたのは自分だ。人前では決して見せないけれど、自分の世界を、両親を思って、泣いたことだって何度もある。
キールはそれをかなえようとしてくれているのだ。それだけなのだ。なのに───
(……やだ、こんな気分やだ、あたし───)
視界を歪ませていた滴が、頬を伝ってぽたりと胸元に落ちた。
メイは、やっとのことで足を止めた。限界まで酷使された肺が、酸素を求めて悲鳴を上げている。
メイは、頭を空っぽにして、ひたすら身体に空気を取り込むことに専念した。身体を二つに折り、両手を膝に置いて、喉いっぱいで荒い息をつく。
ようやく、少し呼吸が落ち着いてきて、彼女は僅かに顔を上げた。
ゆっくり身体を起こして周囲を見回す。方向も考えずに滅茶苦茶に突っ走ったから、どこにいるのか見当がつかなかった。
研究院の方へは走らなかったのだが、分かっているのはそれだけだ。
まばらな並木と、道から少し離れたところを流れている小川。ぐるりと見渡すと、左手の方に王都の町並みが見えていた。
街から離れる方向へ走っていたらしい。けれど、門はくぐってはいなさそうだから、思ったほど長い距離を走ったわけではないようだった。
あたりには、見渡す限り誰の姿も見えなかった。さらさらと風が吹きすぎ、並木の葉を揺らせている。
なんとなく、さっきまで昂ぶっていた気持ちがいきなりぱたんとはたき落とされるような気がして、メイは深く息をついて周囲をもう一度見回した。
しばらく立ち尽くした後、のろのろと道を離れて、彼女は小川の方へ下りていった。
川縁のなだらかな土手に腰を下ろして、膝を抱え込む。
さっきまでのめちゃくちゃな気分は収まってきたとはいえ、まだ研究院の方に引き返す気分には、なれなかった。
涼やかな音を立てて流れてゆく川の水面を、メイは膝を抱え込んだまま、見るともなくぼんやりと見つめ続けるのだった。

メイに置き去りにされたガゼルは、数歩彼女を追いかけかけて、困ったように足を止めていた。走り去る彼女の背中が、追われることを全身で拒んでいるかのように思えて、それ以上追えなくなってしまったのだった。
見る見る遠ざかってゆくメイの背中を見送って、彼はしばらくその場に立ち尽くす。
彼女の姿が街角を曲がって消えてしまうと、ガゼルは彼には珍しく重いため息をついて肩を落とした。
(…なんか、俺、怒らせちまったのかなー…)
自分の話の中のどれが、メイを怒らせたのか、彼には見当がつかない。
けれど、確かに彼女は、すごく腹を立てていたように、ガゼルには思えたのだった。
仕方なくきびすを返して、騎士団宿舎の方へ戻ろうとしかけて──彼は、さっきまで二人で座っていた樹の根元に、置き去りにされたものに気づいた。
(あ、あれ、メイのノートじゃねーか)
自分を追ってきた時、メイが持っていたのを覚えている。話をしている時に横に置いて、そのまま忘れて行ってしまったのだろう。
シンプルな装丁のそれを拾い上げて、ガゼルは困ったように辺りを見回した。
あの勢いでは、メイは当分こちらの方へ戻ってきそうにはない。かと言って、このまま彼が預かって持ち帰ってしまっては、メイが後で困るだろう。
(しゃーない、研究院に届けとくか)
今走り出てきたばかりのその建物の方へ、ガゼルはまた引き返して行った。

研究院に入ったところで、ガゼルははたと立ち止まった。
メイは、今、留守なのだ。
(女の部屋に、留守中に入るのって、いけないんだよなー)
この頃おしゃまになってきた妹たちに、そんなことでいつもさんざん文句を言われたりしているガゼルである。
(…どうしよう──)
しばらく迷ったが、メイの部屋に入れないとなると、思いつく選択肢は後一つしかない。
ガゼルは、渋々とキールの部屋に向かった。
恐る恐るノックをすると、入れ、と苛ついた声が返ってきた。
顔を覗かせたガゼルを見ると、キールは不機嫌そうに眉を寄せた。
「お前か。…まだいたのか、なんだ」
「あ、今度はすぐ帰るからさ」
ガゼルはひょいと中にはいると、慌ててキールの方にノートを差し出した。
「これ、預かってくれよ。メイが忘れていった」
「メイが?」
すぐにはそれを受け取らないまま、キールはガゼルをじろりと見た。
「どうしてお前がメイの課題を持ってる」
「だからさ、話してる時に忘れていったんだよ」
今度は言葉では聞き返さず、キールは視線をきつくしてガゼルの顔を見返した。
説明しないといけないらしい、と気づいて、ガゼルは口を開く。
「さっき、ここ出てすぐメイとぶつかってさ。逃げたんだけど捕まって、さっきの話、したんだよ──あ、ちゃんと謝ったぜ、俺」
キールの視線が、また不機嫌そうに強まるのを見て、ガゼルは慌ててそう付け足す。
「だけど、なんか、メイ、怒りだしちまってさ。これ置いて、走ってっちまった」
「走って?」
「うん、町外れの方に」
ガゼルは腕を上げて、研究院の外の道筋をずっと空中になぞって見せた。
「……何を言ったんだ、お前」
「何って、さっきの話さ」
なかなか受け取ってもらえないので、ノートを差し出した手をいったん下ろしながら、ガゼルは金色の瞳を瞬かせる。
「俺の話とか、あんたの言ったこととか。そしたら、メイの奴、勝手に呼ばれたんだから、ちゃんと帰してもらわなきゃ困るって怒鳴って、ばーーっと走っていっちまったんだよ」
キールは、ちらりとガゼルを一瞥すると、一息おいてから短く呟いた。
「…そうか」
そうしてから、ノートを渡すよう、身振りでガゼルに促す。慌てて差し出されたそれを無造作に受け取ると、彼はまた短くガゼルに頷きかけた。
「これは、俺が見て返しておく。……もう帰れ」
「分かってるさ」
つっけんどんな言い草に、少しむっとした様子で、ガゼルは唇をとがらせた。が、すぐにちょっと頭をかいてから言い添える。
「…なんか、俺、怒らせたみたいだから。謝っといてくれよな」
もうガゼルからは視線を逸らせたままで、キールは、ああ、とそっけなく頷いた。
ガゼルが立ち去ってしまうと、キールは窓の外へ目をやった。
夕映えが、西の空を染め始めている。間もなく、夕刻の鐘が鳴るだろう。
そうすれば、夜の帳が降りてくるのも、そう遠いことではない。
キールは、僅かに瞳を細めて、差し込んでくる茜色の光を見つめた。