花の咲く家

御崎 濯     


 通りをひとつ入ると、表通りのざわめきは不意に遠ざかる。
貴族の邸宅ほど大きくはないが、商店街ほど小さくはないといった規模の住宅の連なる街角の一角に、その家は建っていた。
やや古びてはいるがきちんと磨き込まれたノッカーが、久しぶりの来客の手で鳴らされたのは、 穏やかな休日の午後のことである。
「は〜い〜」
のんびりした声が、ノッカーの音に答えた。
ぱたぱたと走り出てくる音がしたかと思うと、不意にごつんという衝突音が混じる。
「いたたた〜」
また妙に緊迫感のない呻き声があがり、数秒の後ようやく扉が開かれた。
「は、はい、お待たせしました〜。ええと、どなたですか〜?」
扉を開けた、分厚い眼鏡の青年は至極のんびりとした口調で客を迎える。
亜麻色の猫っ毛を、緑色の布で無造作に後ろに束ねている。前髪がやはり無造作に眼鏡の上にかぶさってしまっているので、のどかな口調やにこやかな表情とあいまって、ずいぶんおっとりした印象を受ける。
これが、宮廷付き文官の歴史の中でも最年少で任官された天才だとは、一目では誰も信じられないだろう。
アイシュ・セリアンは、休日だというのに普段の仕事着とあまり印象の変わらない、膝丈より長い薄黄色の上着を着込んでいた。裾からは、これもいつもと変わりばえのしない生成のズボンが覗いている。
仕事の時との違いといえば、その上着の上から白いエプロンを掛けていることだろうか。
尋ねてきた客とアイシュが、二言三言言葉を交わしたとき、奥の部屋からにぎやかな声がした。
「アイシュ、アイシュー!ねえ、ケーキまだー!?」
裏庭から入るドアをばたばたと盛大に開けたてする音がしたかと思うと、 玄関に通じる廊下のドアがひょいと開いて少女が顔を出した。
「あれ〜、お客さまなんだ?珍しい!」
肩まである栗色の髪をさらりと揺らせて、彼女は屈託ない笑顔を浮かべる。
「メイ〜、失礼ですよ〜。こちらは、昨日お隣に越して見えられた方だそうです〜」
「へへ、ごめんごめん。…こんにちは」
たしなめるアイシュにちいさく舌を出して見せてから、メイは客にぺこりと頭を下げた。 ぴょんぴょんと飛ぶような足取りでアイシュの傍らにやってくると、ひょいと彼の背中に手をかけて客の顔を見上げる。
「お隣って、ずっと空き家だった家でしょ。やっとお隣さんができたんだね」
自己紹介をして、どうぞよろしく、と頭を下げた隣人は、アイシュと並んで立ち、瞳を輝かせてこちらを見上げている少女に微笑みかけた。
「…可愛らしい奥さまですね」
「いえいえ〜、とんでもない!」
何気ない世間話のような調子で口に出された言葉に、アイシュは、彼にしては即座に、ともいえるタイミングで大きくかぶりを振った。
「あ、その速攻カンペキ否定って、なーんかひっかかるなぁ」
メイが、半分ふくれっ面、半分からかうような微笑できゅっとアイシュを見上げる。
「あたしなんかを奥さまにされるなんてとんでもない!なんてニュアンスが入ってない?」
「な、何言ってるんですか〜、メイ。あなたはね〜」
アイシュがおろおろと言い訳をしかけたとき、階段のすぐ上の部屋の扉が開いて、別の声が降ってきた。
「…おい、メイ。いい加減にさっきの本、返せよ」
「あ、キール」
メイが振り向いて嬉しそうに笑う。呼びかけられた方は、階下でメイがアイシュと並んで客に対しているのを見て取って、口を少しへの字に引き結んだ。
キール・セリアンは、双児の兄のアイシュと色は同じだが、ややさらさらした前髪を斜めにかきあげると、その手を軽く腰に取った。
研究院ではいつも重いローブとマントを着込み、魔導士の階級中最上位を示す緋色の肩掛けをしている彼だが、今日は淡い青色のチュニックに濃灰色のズボン姿だった。兄には必須、弟は伊達の違いはあるが、こればかりは兄弟そろってけして手放さない眼鏡を透かして、黙って眼下の3人を眺める。
「あ、キール、こちらは昨日お隣に越して見えた方だそうです〜。ご挨拶に見えたんですよ〜」
アイシュの声に、彼はちょっと兄の方へ視線を移すと、客に向き直って軽く会釈をした。
「…よろしく」
頭を上げると、軽く眼鏡の位置を直しながら淡々とした調子で付け加える。
「すみませんが、俺は手を放せない用がありますので、失礼します。…メイ、本を返せよ」
「分かってるわよ!」
キールの最後の台詞に、メイが言い返す。その言葉が届くか届かないかのうちに、階上のドアはまた閉じられていた。
「…も〜、キールったら!」
メイは、また飛び立つような動きで、ぱっとアイシュの側を離れて階段の方へ駆けだした。 そうしながら首だけを後ろにひねって、
「じゃ、また遊びに来てね!」
と客人に叫ぶ。彼女は階段を一段飛ばしに駆け上がると、キール!と呼びながら最前の扉の中にあっと言う間に消えていった。
 ドアがばたん、と閉まるのを見送ってから、アイシュは入り口にぽかんと立ちつくしている隣人に向き直ってにっこり笑った。
「…ああ、ええと、すみません〜、弟は愛想が悪くて。…あ、自己紹介がまだでしたね〜、申し訳ありません〜。僕はアイシュ、弟はキール・セリアンと申します〜。…ええと、あの女性は、メイ・フジワラと言いまして〜」
そこで言葉を切って、彼は一瞬どう言おうかと思案しているかのような間を取った。
「…弟の、婚約者さん、みたいなものです〜」

 部屋に引っ込んだキールを追いかけるようにして入ってきたメイは、ドアのところで両手を腰に当てて頬を膨らませた。
「キール、ダメじゃん。せっかくお隣さんが挨拶に来たっていうのに、あんな顔して睨んじゃ」
「…別に、睨んでない。客なんて珍しいからちょっと驚いただけだ」
「どこが珍しいのよ、あたしなんかしょっちゅう来てるじゃない」
「おまえは、客じゃないだろ。ノッカーも鳴らさずにどんどん入ってくるくせに」
「だあって」
メイは、くるりと瞳を輝かせると、ひょいと頭の後ろで高く腕を組んだ。
「キールの家だもん、いいじゃない」
「俺だけの家じゃない、兄貴と俺の家だ」
「同じじゃないの」
「違うさ」
机の上にうずたかく積み上げられた書物をばさばさとより分けていたキールは、自分の方に歩み寄ってくるメイをちらりと見た。
「掃除するのも兄貴だし、料理するのも兄貴だし、ついでに家賃を多く払ってるのも兄貴の方だからな。兄貴の持ち分の方が多いってことだ」
「何言ってんだか」
メイは軽く首を傾げて、キールの理屈をあっさり聞き流す。
「あ、ねえねえ、それより聞いて?あたしさっきさ、『可愛い奥さんですね』なんて言われちゃったー」
メイはぴょこんと肩をすくめて、嬉しそうにくすくす笑った。キールがむっと唇を引き結んで彼女を見るのを、上目遣いに笑みを含んで見上げる。
わかって言っているのである。
もちろん、彼女は「可愛い」奥さんなどといわれたことが嬉しくないわけではないけれど、それが「キールの」奥さんでないことを、彼は嬉しく思わないだろうと言うことを。
「…誰の奥さんだよ」
「さあ、ね?アイシュかな?」
メイはそう言ってまたくすくすと笑う。
キールはくるりと窓に向き直った。
「じゃあ、ほんとうにそうしてもらえよ」
メイは、ちょこちょこっとキールの正面に回り込んで、彼の顔を見上げる。
「あ、妬いてる」
「そんなわけあるか」
瞳をきらきらさせながら言うメイを、キールは仏頂面のまま視線だけで見下ろす。
「ふっふっふ、たまにはいーわね、やきもち妬いてもらうってのも!」
たまには、じゃないぞ、と思いながらキールはメイの栗色の髪を見下ろした。
明るくて、ストレートすぎるほどあけっぴろげで、この国では型破りな伸びやかさを持つ彼女を愛しく思う男は、何もキール一人ではない。
たとえ、今はキールが彼女とステディな関係であるにしても、それで彼らが彼女をすんなりあきらめてしまえる訳はないことを、キールはよく知っていた。たとえば、自分がその男たちと同じ立場だったら、そうであるように。
メイは、キールから思った通りの反応を引き出して満足したらしく、栗色の髪を揺らせて嬉しそうにキールを見上げた。
「でもね、アイシュの奥さんに見えるんだったら、キールの奥さんにも見えるよね。同い年なんだもん」
「……」
キールは思わず仏頂面を解いて目を丸くする。返事に困っているうちに、メイはひょいっと窓に取りついて大きく開け放った。
「ん、見える見える。…ほら、キール」
下を覗いたまま手招きするメイの方へ、キールはゆっくり歩み寄る。彼女の視線の方へ目をやると、裏庭にある花壇の一角の土が、黒く湿っているのが見えた。
「あそこ、さっきあたしが花の種まいたの。4、5日で芽が出るって」
「何の花だ?」
「色々。夏に咲くようなの、混ぜてもらって買ってきたんだー」
「…どうせなら、薬草を植えればよかったんだ。その方が役に立つ」
「もう、キールはムードないんだからー」
そう言いながら、メイはおかしそうにけらけら笑う。
「でも、そーいうと思った。今度、森で根っこから取ってきて植えてみようか」
「森のは無理だろうな。日陰に生えるものが多いから、日当たりのいい花壇なんかに植えても育たないだろう」
「あ、そっか」
真顔で頷くと、メイはひょいとキールの顔を見上げて嬉しそうに微笑む。
「…なんだ?」
「ううん」
さらさらと肩までのまっすぐな髪を揺すって、メイは首を振る。
「なんかさ、こうして花壇の話なんかしてると、ああ、ここって普通の家だなーって、ちょっちしみじみしちゃってさ」
「花壇がどうしてしみじみなんだよ」
キールは、メイの髪にそっと触れた。ゆっくり指で梳きながら、柔らかな感触を慈しむ。
「んー、ほら、研究院って、こう…住むとこじゃないじゃん」
「住んでるだろ、お前は。お前だけじゃなくって、他にも大勢」
「そうなんだけど、そうじゃなくて…寮だもんね、あそこ。家じゃないでしょ」
「…ああ」
そういう意味か、とキールは頷いてみせる。
「よくつるむ友達もさ、シルフィスはあたしとおんなじで寮だし、ディアーナなんて王宮だし。普通の家ってものに、こっち来てから縁がなかったのよねー」
実をいうと、王都に家のあるガゼルの実家に遊びに行ったことは何度かあるのだが、さすがにそれをキールの前で口にしないくらいの分別はメイにもある。
「リュクセルんちなんかも、まあ、家っていってもお屋敷だし。あたしみたいな庶民には、住んでる人間が直でお掃除して、ご飯作って、裏庭で花壇作ってるくらいのが、家って感じするのよね」
キールは、花壇を眺めるメイの楽しげな横顔を見つめた。この少女の前でしか見せない、優しい光を浮かべた瞳に、少し複雑な色が混じる。

彼女を、当たり前の日常から引き剥がし、この異世界へ招いたのは彼自身だった。
彼女が今懐かしんでいる、家族の住む家というものから、そして彼女が慣れ親しみ、築き上げてきたすべてのものから、前触れも了解もなく。

結局、彼女はこの世界を──いや、キールを選び、彼の側にいることを望んだ。それでも、メイは元の世界に、どれほどたくさんのものを置いてきてしまったことだろう。
それを思うとき、キールは自分が彼女にとって、それに釣り合うほどの存在なのだろうか、と胸が痛むことがある。
どんなに彼女を愛していても、それだけでは贖えないものが、確かにある──それは、彼の心の深いところに刻まれて、けして消えない痛みだった。

キールは、彼女の横顔を見つめ、その華奢な肩に腕を回そうとして、はたとそこが全開の窓の前であることに今更ながら思い当たった。あたり中、どこの家からでも、それどころか裏の通りからも丸見えだ。それに気づいて、どうにも動きかねてしばし固まる。
「メイ〜、キール〜。ケーキが焼けましたよ〜〜。お茶にしませんか〜?」
アイシュののどかな呼び声が、階下から聞こえてきた。
「わ、やった!」
メイが、瞳を輝かせて振り返る。彼女は、くるりと身を翻すとキールの腕をつかまえて引っ張った。
「いこ、キール!今日はチェリータルトなんだ!」
「…俺には、食えっていうなよ」
彼女に手を引かれて歩き出しながら、キールはうんざりした声を出した。

 食堂では、アイシュがお茶の準備をして待っていた。ぴかぴかのポットやカップ、フレッシュクリームにきらきら輝く砂糖壺。そして、真ん中に焼き上がったばかりの色鮮やかなチェリータルト。
「うわぁ!おっいしそー!」
はしゃぐメイに最初の一切れを切り分けると、アイシュは弟の方を見て残念そうに言う。
「キールも、一口くらい食べてくれればいいですのにね〜」
「誰が食うか、そんな甘いもん。見てるだけで胸焼けがする」
「いーじゃんいーじゃん、あたしがキールの分も食べ尽くしたげるから」
メイはタルトをひとくちぱくりと口に入れると、至福そのものと言った表情を浮かべた。
「…うううう、おいっしー…あああ、しあわせだわ〜」
「喜んでもらえて嬉しいです〜」
アイシュはにこにこと自分の分のタルトを皿に取り、キールはブラックコーヒーを口にしながら、タルトの甘い匂いがなるべく流れてこない方向に位置を取る。アイシュのケーキでお茶会をするたびに、こんな光景が繰り返されているのだった。
「この、カスタードの部分と、チェリーの甘みと酸味が絶妙よねー…はー、こんなおいしいもん独り占めなんて、あたし、いつかばちあたりそ」
「コンポートもいいですけど、やはりこの季節は生のを使いたいですからねー」
楽しそうにお菓子談義をするメイとアイシュを見ながら、キールはやれやれと言った表情を浮かべる。
彼としてはもちろん、メイが兄とやたら意気投合しているのはあまり嬉しくなかったりはするのだが、なにせ彼女を最初に家に招いたときの口実がアイシュのケーキだったりするもので、あまり強いことが言えないのである。
「ほんと、アイシュは文官なんかにしとくのはもったいないよねー。ケーキ屋さん開いた方が世の中のためになるよ」
「いやいや〜、そんなに言っていただくと照れちゃいますね〜。でも、僕は今のお仕事も大好きですから〜、ケーキ屋さんに転職するのはちょっと」
「真面目に返事するなよ、お前は」
あはは、と頭をかくアイシュにつっこむキール。ふた切れ目のタルトを取りながら、メイはにっこり笑う。
「ま、その方があたしやディアーナは嬉しいかな、アイシュのケーキ独占できて」
そう言いながらまたぱくりとタルトをほおばるメイを、キールは苦笑して見やりながら、ふと思い出して尋ねる。
「そう言えば、メイ、お前、さっきの本はどうした」
「へ?ああ、あれ?そこ」
タルトを口に入れたまま、メイはフォークで傍らのキャビネットの上を指した。
「フォークで指すな。…読んだのか?中身」
「ん、いるところだけはね」
「いるところ?」
キールは身体をねじってキャビネットの上の本を手に取りながら聞き返す。
「ほら、治癒魔法で病気の治りを早くするのがあるでしょ?あれの応用がきかないかなーと思って」
「何に応用するんだ」
「種」
メイは、そう言ってまたタルトをほおばる。
「さっきまいた花の種、芽を早く出させるのに効かないかなーと思ってさ。ほんとにまく時期より、ちょっち遅くなってたらしいから」
「…妙なことを考えつくやつだな」
キールは、ぱらぱらと本を開き、メイが使ったらしい魔法の頁を眺めながら言った。
「へへ、まあ、うまくいったららっきー、って感じかな」
「まあ、自分の頭で魔法を使いこなそうとする程度には、成長してるってことだな。で、どこか変えたのか」
「うん、ここと…」
キールの方に身を寄せて、一緒に本をのぞき込むメイを、アイシュはにこにこと眺めるのだった。


タルトが大方なくなる頃には、もう午後の鐘が鳴ってからずいぶん経っていた。
「あー、もうこんな時間ですね〜」
アイシュが、空のポットを持ち上げながら窓の外を見上げる。
「そっかー、もう帰らなくちゃ、かな」
メイも同じ方を見ながら相づちを打つ。
「泊まって帰れたらいいですのにね〜。晩ご飯、ごちそうを作りますよ」
「え、ほんと!?」
アイシュの言葉に瞳を輝かせるメイに、キールが短く言う。
「ダメだ。外泊届け出して来てないだろ」
「えー、じゃ晩ご飯だけ食べて帰るのは?」
「門限に間に合わないだろうが。門限破ったりしたら、お前だけじゃなく保護者の俺が恥ずかしい」
「ちぇ、けち」
「けちじゃないだろ。…研究院まで、送ってやるから」
キールの言葉に、メイは彼の顔を見て嬉しそうに笑う。
「うん、なら、しゃーないか。…帰るね、アイシュ」
「はい〜」
メイはぴょんと椅子から立ち上がる。
「上着、上に置いてるの、取ってくるね。待ってて、キール」
そう言うが早いかぱたぱたと駆けだしていく彼女を見送って、アイシュはほっとため息をついた。ほのぼのとした表情で階段を駆け上がっていく足音に耳を傾ける。その表情のままでキールの方を振り向くと、アイシュは口を開いた。
「…メイは、いい子ですね〜、キール」
「…なんだよ、いきなり」
無愛想に答える弟に、アイシュはにっこり笑って言った。
「早く、プロポーズしちゃってくださいよ〜、キール」
いきなりぶちかまされて、キールは椅子ごとつんのめりそうになる。
「っ、な、な――」
「何言ってるんだ、とか〜」
「そ、そん――」
「そんなことは僕には関係ないだろうとか〜、言うでしょうけど〜」
アイシュは、相変わらずほのぼのとした笑顔のままで2階の方向を見上げる。
「キールのお嫁さんになったら、僕の義妹、になるんですからね〜…」
はあ、とアイシュは心底嬉しそうなため息をついた。
「いもうと…ああ、いい響きですよね〜…僕は、妹もずっと欲しかったんですよ〜」
椅子から半ばずり落ちた姿勢のままキールは、うっとりと手を組んで宙を見上げる兄を半眼で見やる。
「…あのな…」
「あ、もちろん、ここで一緒に住めなんて、言うつもりはありませんから」
「…だから」
「キールは、一人立ちしたがってましたけど、そうしたらどんなムチャするかって、ずっと心配だったんです〜」
「……」
「…ほら、いくら双子でも、いつまでも僕が一緒にいるわけにはいかないじゃないですか〜。でも、メイが一緒なら、大丈夫ですよね〜」
キールは、その言葉にふと兄の顔を見る。
「メイが、ここにいてくれて、ほんとによかったです…だから」
アイシュは、くるりと向き直ってキールの顔を見た。
「早く、プロポーズしちゃってくださいね〜」
「うっ……」
キールが返事に詰まって絶句したところへ、ぱたぱたという軽い足音が駆け下りてきた。
「お待たせ〜、さ、いこ?」
「…あ、ああ」
食堂をのぞき込んだメイは、きょとんとしてキールを見る。
「…なにずり落ちてんのよ、キール」

 にこやかに手を振るアイシュに見送られて、メイとキールは家を出た。西の空が、うっすらと紅を帯び始めている。
「もう夕焼けだね」
「そうだな」
「明日もいいお天気、と」
隣家の前まで来ると、さっきの隣人が門の横の草花を手入れしているのに出会った。
「こんにちはー」
メイが気楽に声をかけるのへ、隣人は立ち上がりながらこんにちは、と挨拶を返す。
「先ほどは、失礼しました」
隣人は、にこにこと微笑みながらそう謝った。メイは、笑顔で首を傾げる。
「はい?」
「お兄さんの奥さまなんて、間違えてしまって。弟さんの方の、婚約者さんでらっしゃるんですって?」
「…は?」
思わず聞き返す二人の声がハモる。隣人は、気づかない様子でにこやかに言葉を継いだ。
「可愛らしくて、お似合いでらっしゃいますね。お式はいつ頃なんですか?」
「…や、やだな〜!あたしたち、まだそーいうんじゃないです!」
視線をメイからキールに移して問う隣人に、一瞬早く立ち直ったメイが大きく手を振りながら答える。
「…あら…でも、お兄さんが、そうおっしゃってたんで、てっきり…」
(…兄貴め〜)
隣人の戸惑ったような答えに、キールは、帰ったらとっちめてやる、とこっそり拳を握りしめる。
「もお、アイシュったら困っちゃうな〜…じゃ、じゃああの、あたし、急ぎますのでこれでー!…ほらいこ、キール!」
メイはにこにこと取り繕うように笑顔を浮かべて会話をうち切ると、キールの背中を押してずんずん歩き出した。
 角を曲がって隣家が見えなくなると、メイはやっと息をついて、ふう、と汗を拭う仕草をしてみせる。
「…やー、もう、困っちゃうね、アイシュったら」
あはは、と照れ笑いをして、メイはさっきと同じ台詞を繰り返す。
「…後で、ぶんなぐる」
「…やめてよ、暴力は」
宙を見つめて唸るように言うキールを、メイはあきれたように見上げる。
「…ったく、何考えてんだ…」
「きっと、深く考えてないんだよ、アイシュのことだし」
「どうだかな」
ぶすっとした表情で言うキールを、メイはちょっと不満げに見た。
「…そんなに、怒んなくてもいいじゃん」
メイの口調に、キールはふと彼女の瞳を見下ろした。
夕日が斜めに射し込んで、いつもは茶色の瞳が、金色に透き通って見える。
「そーんなに、不本意なワケ?…あたしは――」
不意に、彼女は身を返して走り出す。
「ちょっと嬉しかったけど?」
囁くような声を風に残して。
「…おい、メイ――」
キールは、一瞬虚をつかれてからあわてて彼女を追いかける。
すばしこい彼女といえども、コンパスの差からして追いつけないわけはない。彼女の肩をつかまえて引き留めたキールを、メイは振り仰いでえへへ、と笑った。キールも、照れたような微笑を返す。
二人は、一瞬瞳を見交わすと、また何となく並んで歩き出した。
「…明日も、いい天気だよね」
「そうだな」
「花壇、水やっといてね」
「ああ、そうか…分かった」
「魔法、効くといいなあ」
夕焼けを見上げながらそういうメイを、キールはそっと見下ろした。
(…いつかは)
そう、いつかは、彼女に告げるだろう。けれど、今はまだだ。
(兄貴にお膳立てしてもらって、その勢いでなんて言えるか)
胸の中で、アイシュに向かって毒づく。
「…効くさ、お前の魔法だから」
「あ、キールがほめるなんてなんか怪しい」
「たまには素直に聞けよ、お前は」
「だって日頃が日頃だもん」
まっすぐな髪を揺らせて、メイが笑う。キールは、その頭にぽんと手を置いた。
「…芽が出たら、また見に来いよ」
「うん」
(そして、花が咲いたら――)
キールは、不意に胸の中に浮かび上がってきたそんな言葉に、思わず咳払いをした。
「ん?」
「…なんでもない」
覗き込むメイに、何とかいつもの表情を保って返事をする。
メイは、夕暮れの空に向かってうーんとのびをして見せた。
「明日も、いい天気だよねー」
「同じこと、さっきから何回言ってるんだ」
「…明日の課題、なしにならない?」
「なるか」
たわいない、日常の会話。
(今はまだ、これでいい)
キールは、軽い足取りで隣を歩く少女をちらりと見下ろした。
「さあ、急ぐぞ。門限に遅れる」
「待ってよ、もー」
二人の影は、夕暮れの石畳に寄り添いながら長く伸びて、メイの今の住まいである魔法研究院に向かっていくのだった。