| 御崎 濯 |
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穏やかな陽の光が降り注ぐ午後のこと、ここクライン王国の王宮の中庭では、二人の少女がおしゃべり に熱中していた。 薄紅の髪とスミレ色の瞳をした少女は、この国の第2王女、ディアーナ。そして濃い栗色の髪と、 茶色の瞳を持つのは、異世界から召還された少女、メイ。 生まれも育ちも違う彼女たちだったけれど、出会ってすぐに意気投合し、今ではごく親しい友人とし て、暇さえあれば遊びにお茶会にと行動をともにしていた。 今日も、メイが王宮にやってきたのを目ざとくディアーナが見つけ、日当たりのいい中庭でおしゃ べりにいそしんでいるのである。 メイは、キールが王宮の書庫に行くというのに例によってくっついて来ていたのだが、なかなか彼の 用事が済まないのに退屈して、いつものように王宮の中にうろつき出ていた。そこへ授業の合間を縫 って抜け出してきたディアーナが、姫君曰く「運命に導かれるように」やってきてメイと出会った。 「お部屋に戻ったら、次の家庭教師にまたすぐ捕まってしまいますわ」 というディアーナの台詞ももっともなので、二人して中庭のベンチに腰を下ろしたというわけだ。 恋する少女が二人寄れば、話題はどうしてもそちらに偏る。 今日は、主にディアーナが彼女の恋する人の話を熱心に口にした。彼女は、長い間思い続けた初恋の 王子さまと、先日めでたく再会を果たしたのだ。 「アルムは、新しい指輪をくださるっておっしゃったんですの」 幸せそうにディアーナは微笑む。 「でも、わたくしはこの指輪が何より大切ですのよって申し上げましたら、とっても優しい目でわた くしを見つめてくださいましたんですわ」 そう言ってディアーナは、子供の頃アルムレディンにもらった指輪に、大切そうにそっと触れた。 「初恋は実らないなんて言うけど、ディアーナの場合はあてはまんなかったねー」 メイは、にっこり笑って相づちを打つ。 「あら、そんなことわざがあるんですの?」 「や、ことわざってほど大げさなもんじゃないけどさ、そー言うのよ、あたしの世界では」 「まあ…」 ディアーナは、スミレ色の瞳を大きく見開いた。 「メイの世界では、それが普通なんですの?」 「どうかなぁ、誰も統計取ってみたわけじゃないからね。でも、初恋でゴールインってのは、確かに 少ないんじゃない?」 気楽に笑うメイに、ディアーナは力を込めて言う。 「でも、それは違いますわ。思い続けることが大切なんですのよ、そうすればきっと思いは叶うんで すわ!」 「はいはい、ディアーナが言うと説得力ありありよね」 握り拳を固めて力説する王女の肩を、メイはぽんぽんとたたいてみせる。 親友の手を肩に載せたまま、ディアーナはくるりとメイの方を振り向いた。 「…ねえ、メイはキールが初恋ですの?」 「へ?」 いきなり矛先を向けられて、メイは目を丸くする。 「ね、キールが初恋なんですの?」 ディアーナは瞳をきらきらさせてメイの顔をのぞき込んだ。 「えー、いやぁ、違うかなー」 メイは、ちょっと上目遣いに空を見上げながら答える。 「まあ──」 ディアーナは、どういう答えを期待していたのか、メイの返事を聞くと細い指を唇に当てた。 「…キールがかわいそうですわ!」 「はえ?」 思いがけないリアクションに、メイは目をぱちくりさせる。が、ディアーナはひとまずキールに同情 を示して見せた後、さっき以上に瞳を輝かせて、ずいとメイに近づいた。 「で、どなたなんですの、メイの初恋って?わたくしの存じてる方?」 「あ、ちがうよー、ディアーナったら」 メイはディアーナの早とちりに気づいて、笑いながら手を振ってみせる。 「こっちじゃないの、あたしの、元の世界での話。それにね──」 「おや、キールじゃないですか〜」 メイは、聞き慣れた声が聞き慣れた名を呼ぶのに気づいて、言葉を切って振り向いた。 回廊の奥から、アイシュがぱたぱたとやってきている。その視線の先に、キールが突っ立っていた。 書庫から出てきたのだろう、片手にまた本を数冊抱えている。 (…あちゃ、聞かれたかな) メイは内心ちょっとあせりながら立ち上がる。 「珍しいですね〜、キールがこっちまで入ってくるなんて」 にこにこと近寄ってくる兄に、キールは中庭の方を視線でさしてみせた。 「あいつを探してただけだ」 おや、とアイシュは、ようやくメイたちに気づいたらしく、彼女たちの方を見てにっこり笑う。 「これは姫さま、メイ。こんにちは」 「こんにちは、ですわ」 「こんちは、アイシュ」 アイシュに挨拶を返しながら、メイはキールのところに駆け寄った。 「仕事、終わったの?」 「ああ」 いつものように無愛想に答える彼の顔をそっと伺い見るが、眼鏡越しの緑色の瞳からは何の感情も読みとれない。 (聞かれてないのかな) メイは胸の中で首を傾げる。 「俺はもう研究院に戻るけど」 「あ、あたしも帰る」 言外にお前はどうする、という問いかけを感じて、メイは急いで答えた。 「ええっ、メイ、もう帰っちゃうんですの?」 唇をとがらせるディアーナを振り返って、メイは笑いながらあやまる。 「うん、ごめんねディアーナ。今度はもっとゆっくり遊びに来るからさ」 「つまらないですわ、お話の続きはどうなりますの」 「また今度ねっ」 「きっとですわよ!」 少女たちのやりとりを聞いていたアイシュが、のんびりとした調子で口を挟む。 「姫さま、そう言えば今は、歴史学の家庭教師の方が見えてる時間のはずじゃなかったんですか〜?」 「…う、ですわ」 ディアーナが、自分の教育係である、ぐるぐる眼鏡の文官の方を見て固まる。 「…ア、アイシュの記憶違いですわ」 「姫さまのスケジュールを覚え間違ったりしませんよ〜」 厳密に言うと、アイシュはどんなことでも覚え間違ったりはしないのだが。 「ささ、お部屋に戻ってください、でないとまた僕が殿下に叱られます〜」 ディアーナは恨めしげにアイシュの顔を見たが、あきらめたように頷く。 「…はーい、ですわ」 「がんばってね、ディアーナ」 親友に励ましのウインクを贈るメイの頭を、キールが一つこづいた。 「お前もだ、メイ。帰ったら、今日の課題を出せよ」 「…うう、嫌なこと思い出させないでよっ」 「帰るぞ。…それでは、姫」 くるりときびすを返して中庭を後にするキールを、メイは慌てて追いかけるのだった。 その夜、メイはキールの部屋で課題を前に唸っていた。 今日が期日の課題は、結局最後の数ページが白紙のままだったのだ。 「まだできてないなら、どうして昼間王宮の書庫でやらなかったんだ」 「…だって、後ここだけだから、帰ってから聞けばいいやと思ってたんだもん」 「後に延ばすなと、俺が今までに何回言ったか覚えてるか。覚えてられないなら、ノートにでも付け とけ」 「……うううう」 恋人の毒舌に呻きながら、メイは課題のノートに目を落とす。 「だって、だってさ、ひっかかってるこれが解ければ、あとは同じやり方でできそうだから、すぐ終 わると思ったのよぅ」 問題の箇所をぐりぐりとペンでつつくメイの手元を見て、キールはふんと短く頷いた。 「…ま、お前にしてはいいところついてるな。その魔法陣があとの問題の基礎だってことが分かった だけでも、よくできた」 「…誉めてるのかけなしてるのかどっちよ」 「誉めてるさ。どこが分からない?」 メイはキールの顔を見上げて、教えてくれるつもりがありそうだと見て取ると、ペンを持ち直した。 「ここがね、順番が謎なの。ふつーこういう感じの動詞って、後に対象格おくよね?でも、それだと 呪文が発動しないんだもん」 キールは右手に持ったペンをひょいとひっくり返すと、ペンの柄の先でメイの書いた魔法陣をさして 見せた。 「お前、動詞の解釈を適当にやるなと教えただろ。これは、古語変格活用の格外特例だ」 「…そんなの習ってない」 「先月教えた。ちゃんと頭に入れとけ」 容赦のないキールのつっこみに、メイはうーと唸る。 「この種類の動詞は、後に対象を置かない。倒置して前に置く」 「…こう?」 キールの言葉に従って魔法陣を書き直してみせるメイに、キールはまた首を振る。 「違う、最後まで聞け。あいだに、倒置指示詞をはさんで、動詞の最後に指示受託語尾をつける」 「倒置語尾…え、ええと、どれ?」 「倒置指示詞だ。ほら、こっちでも使ってるだろ」 キールのペンの先がすいとノートを滑って、メイの書いた魔法陣の一部を指す。 「あ、これか」 「こら、丸写ししてどうする」 指し示された単語を書き写そうとしたメイの手を、キールの言葉がまた止める。 「そっちとこっちでは格が違うんだ、活用は教えただろう」 「えーと、えー…こう?」 「綴りが違う」 メイはがっくりとうなだれてため息をつく。 「こら、寝るな」 ノートに突っ伏すメイに、キールは愛想のない声でつっこんだ。 「寝てないいいぃ」 メイは不承不承に身を起こすと、また活用にとっくみはじめる。 キールに課題を教えてもらうと、いつもこんな調子だ。確かに、聞けば教えてくれる。教えてはくれ るが、それは「懇切丁寧」とか「わかりやすく手取り足取り」とかいう単語とは全く正反対の教え方 なのだ。ひとつ教わるたびに、自分の無知さを心の底から思い知らされるような教え方といったらい いだろうか。 もっとも、彼がわかりやすく人にものを教えられるような性格なら、もっと研究院の中で人望が高か っただろうが。 「…正しい綴り、どうだった?」 「自分で調べろ。でないと身につかない」 「……けち」 ぶーぶー言いながらも、メイは傍らにあった分厚い魔法書をひっくり返して、やっとのことで目的の 単語を引っぱり出す。 何度もやり直して、やっと魔法陣を書き上げ、次に取りかかろうとしたメイに、またキールが目を上 げて言った。 「おい、最後にきちんと魔法陣を閉じないか」 「えー?これでいいんでしょ?」 「意味が閉じてない。魔力の流れをたどってみろ、循環を起こしてるだろ。そのまま発動させると中 で暴発するぞ」 「え…と、えー…あ、ここか」 かりかりと最後の仕上げをすると、次の問題に取りかかる。今仕上げた奴の応用だという読みは当た っていたが、応用ということは前のよりも難しくなっているということだ。 メイはますますうーうー唸りながら、試行錯誤して魔法陣を書き上げていった。 その合間にも、容赦ないキールのチェックが入りまくる。メイの課題をそうやって見ていながら、彼 は、自分の仕事もさくさく進めていく。 (こんな課題なんか、キールにはちらっと見りゃ分かっちゃうレベルだってことなのよねー) 頭ごなしに叱られまくりなのはちょっと――いや、かなり悔しいけど、やっぱりキールはすごい。 メイは巻物に向かってペンを走らせているキールの横顔をちらりと見ると、また手元の魔法陣に立ち 向かう。 「そこ、書き間違いが4つもある」 「え、どこどこ?」 「自分でチェックしろ。見りゃわかる簡単な間違いだ」 「…くうぅぅぅっ」 「書きっぱなしでそのまま進まないで、ちゃんと見直しをしろ。それをやらないから、お前のはザル みたいにあちこち穴だらけになるんだ」 辛辣そのもののキールの批評に、メイはまたノートにべたりと倒れ伏す。 「寝てないでさっさとやれ。期日の『今日』はあと3刻しかないんだぞ。出来なかったら、明日の課 題は倍だ」 「……うううう」 我ながら、よくこれにめげないでつきあってるわよね、と思いながらメイはよろよろと身体を起こす。 (それにしても、なんか今日は一段と厳しいわよね) メイは、ちらりとキールの顔を見る。眼鏡越しに、宝石のような緑色の瞳が書物の上に注がれている。 こんな風に、ぴんと何かに集中しているときのキールの瞳もすごくきれいだけれど、もうちょっとし ょっちゅう、あの優しい色を見せてくれるといいのに── メイがちらとため息をついたとき、キールがふいと顔を上げた。 「よそ見してないで続けないか」 「…キールの顔を見てるの」 「俺の顔には答えは書いてない」 だあ、とメイはまたまたノートに突っ伏す。 (ムードってものを知らんのかー、こいつはぁぁぁっ!) 胸の中で思いっきりツッこんでから、メイは起きあがって再び課題に立ち向かった。 「…で、できました〜、せんせえ…」 メイがようやくよろよろとノートを差し出したのは、それからゆうに1時間半は経ってからだった。 キールは無造作にそれを受け取ると、じろりとメイを見る。 「これに懲りたら、いい加減に課題を後に延ばすのはやめるんだな」 「…分かったわよぅ…」 はあ、とメイは大きくため息をつく。 キールは受け取ったノートをぽんと自分の机の上に投げ出した。 「…だいたい、魔法を勉強してるのはお前自身のためなんだぞ。真剣にやらないでどうする」 何度も言われた台詞に、もう、分かってるってば、とメイが言い返そうとしたとき、キールは向こう を向いたままでぷいと次の言葉を口にした。 「ちゃんとやっとかないと、帰りたいと思ったときに後悔するぞ」 メイは、いきなりなキールの言葉に、一瞬眼をしばたたく。 「…何よ、それ」 「向こうに、会いたい奴がいるんじゃないのか」 キールはまた机に向き直ると、ペンを手にとって巻物を広げた。 メイの方には視線を向けようとしない。 何言ってんの、と怒鳴るために口を開いてから、メイはふとその言葉を途中で止めた。 (…もしかして) 昼間、ディアーナと中庭でおしゃべりをしていた時のことを思い出して、彼女は2、3度瞬きをす る。横目でキールの顔をちらと盗み見ると、メイは小さく息を整えた。 「…もしかして、昼間の、ディアーナとの話…聞いてた?あんた」 キールは、一瞬だけメイの顔に視線を向けて、またすぐにむっつりと巻物に目を落とした。 (あちゃ、やっぱり) メイは胸の中で額を押さえる。急いで言い訳をしようと口を開きかけて――ふと、彼女の頭の端っこ を、悪戯心が走り抜けた。 そおっと身体を起こすと、わざとゆっくりとした口調で呟く。 「…そっか…聞いてたんだ…初恋の話…」 キールは表情を変えない。じっと巻物の方をにらみつけたまま黙っている。 しばらく、沈黙が続く。 メイが、しまった、やっぱりまずかったかな――と、ちらりと後悔したとき、キールが口を開いた。 「…どんなヤツだ」 いつもよりすこし低い声の、メイに聞いているというより、まるで独り言のような口調。 メイは、どきどきしながらも思わず胸の中でガッツポーズを取る。 彼女は、わざと視線を空中に遊ばせながらゆっくり話し出した。 「…家が近所でね、ちっちゃいときから知ってたんだ。…そのうち、クラスが同じになったの」 短く間をおいてから続ける。 「頭のいい子でさ、成績よかったよ。…キールに似てるね」 メイはそんな言葉を付け足しながらそおっと視線だけでキールの方を見た。彼は相変わらずペンを持 って巻物に向かった姿勢のままだ。が、さっきは、メイの課題を見ながらも休むことなく自分の仕事 を進めていたその手が、今は完全に止まっている。 「…その頃はいつも、一緒にいたのよね、その子と。明るい子でさ、一緒にいると楽しかったな。 向こうの方も、あたしのこと、気になってた、と思うんだけどさ――」 メイの視界の隅で、ペンを持つキールの右手にぎゅっと力が入る。 「クラスの子たちのウワサになって、さんざんからかわれちゃってさ。なんか気まずくなって、口き かなくなっちゃったの。…子供って、そーいうとこ、容赦ないよね」 最後の一言を聞いたキールの眉が、おや?という風にひそめられるのを見て、メイは胸の中で吹き出 した。 「次の年に別のクラスになっちゃって、その年のうちにどっか引っ越しちゃったんだ、その子。それ きりだから、今どこにいるのかも知らないわねー…実は、顔、もうよく覚えてないんだ」 顔を上げてメイの方を見るキールの瞳を捕らえて、彼女はにっこり微笑んだ。 「なんせ、8つの時の話だから、無理もないけどねー」 思わず呆気にとられて見開かれるキールの瞳を見返して、メイはたまらずにくすくす笑い出す。 無防備に驚きを浮かべていた彼の瞳が、見る見るうちに不機嫌そうに細められた。 「………くだらない」 吐き捨てるようにそう言うと、キールはまた巻物の方に視線を戻す。けれど、その頬にほんのり赤み が差しているのをメイが見逃すはずはなかった。 「ぷぷ、キールったら、可愛い〜。やだな、本気にした?今の告白」 「するか」 不機嫌そのものといった調子の声だが、メイにはその奥に潜んでいる彼の照れがしっかり聞き取れていたりする。 「ごめんごめん、ね、あやまるから。ほらほら、その代わり、キールの初恋の思い出も聞いたげるよ」 メイは、机に両手で頬杖をつくと、間近からキールの顔を覗き込んだ。 「そんなもの、ない」 「いいからいいから、言ってみて?幼なじみの女の子でも、幼稚園の先生でもいいからさ。ちゃんと 聞いて、そんでヤキモチ焼いてあげるから」 「ないって言ってるだろ」 「もお、機嫌なおしてよ、謝ってるじゃん」 巻物にまっすぐな髪がさらりと触れるほど、メイは首を傾げてキールの顔を覗き込む。 キールは、ちらりと彼女の瞳を見て、すぐにまた視線をぷいと逸らせた。 「…ほんとうに、ない。…お前が初めてだ」 「………」 キールの言葉に、メイは大きな瞳をますますまんまるに見開く。 頭の中が一瞬真っ白になって、その代わりぱあっと頬に血が上る。 「……うぁ……」 メイは、ばたりと机の上に顔を伏せた。ふわりと栗色の髪が、机の上に広がる。キールは顔を上げて、 制服の肩から巻物の上にさらりとこぼれ落ちているメイの髪を見やった。その緑の瞳が、ふっと柔 らかな光を灯す。彼は、ひょいとメイの頭に手を伸ばした。 ぽんぽん、といつものように柔らかく頭を撫でられて、メイは顔を上げた。キールの瞳が、メイの茶 色の水晶のような瞳を見下ろしている。彼は、軽くあごをしゃくって口を開いた。 「…書き物の邪魔だ」 べえ、と小さく舌を出して見せて、メイは身体を起こす。キールが微かに口元に笑みを浮かべる。 「…もう、遅いから寝ろ」 「キールは?」 「俺はもうちょっとな」 「…ごめん、あたしの課題見てて、研究、遅れた?」 「この程度の問題で手を取られたりしないさ」 キールは、メイの課題のノートをこつんと人差し指の背で叩いてみせる。 「いいから、もう寝ろ。明日もあるんだから」 「はぁい」 メイは椅子から立ち上がった。そのまま、また巻物に向かうキールを見下ろして、声をかける。 「おやすみ、キール」 「ああ、おやすみ」 キールの後ろを回ってドアに向かいかけて――メイは、ちょっと立ち止まった。キールがそれに気づいてふと顔を上げかける。 不意に、その首にふわりとメイの腕が巻き付いた。 柔らかな感触が背中に押しつけられ、メイの髪がさらりと頬に触れる。 「…キール、だいすきっ」 驚きに固まるキールの耳元に、メイの声が囁いた。 かと思うと、ぱっと彼女の感触は彼を離れ、ぱたぱたぱたと足音がドアへ向かう。 扉が開く音、閉まる音、駆け去ってゆく足音。 再びあたりがしんと静まってから、キールはようやく大きく息を吐き出した。 机にひじをついて、額を押さえる。 「……………寝るか」 今日は、もう仕事になりそうもない。 灯火の消える魔法研究院の窓を、満月が明るく照らし出していた。 |
