| N星人様 |
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利き手の怪我というのは厄介なもので、日常生活の大半に修正を強いられる。けっこう複雑な指使いが必要な仕事をするとなれば、不自由は尚更だ。 だからメイは、茫然と立ち尽くしたまま唸っていた。 「うーー・・・むむむむむ・・・」 彼女が目の前にしているのは、最近やっと使い慣れてきた真新しいキッチン。背景に負けず劣らず新品の調理器具が並ぶ中で、少女は枯葉色の瞳いっぱいに『困惑』の2文字を浮かべていた。 「ど・・・どーしよ。お昼ごはんが・・・作れないよぅ・・・」 左手だけで頭を抱えながら―――右手は包帯をぴっちりと巻かれている―――メイは再度唸る。 怪我をしようが何だろうが、時間は流れるしお腹は空く。もうすぐ正午の鐘が鳴ろうかというこの刻、いつもの癖で台所へと向かった彼女は、利き手を全く動かせない自分に気付いて途方に暮れた。 「朝・・・の残りは無いしねー・・・。 とほー、今日はスパニッシュオムレツでも作ろうと思ってたのにな」 午前中。夫(この呼称を使うのには未だ抵抗がある)と共に行った実験の最後に、彼女は粗相をしでかした。その結果が、この『石のように』固まって動かぬ右手というわけだ。 口は素晴らしく悪いが根は優しい夫は、ぶつくさ言いつつも彼女を労り、気遣ってくれた。彼をあまり心配させないためにもいつもどおりの生活を、と張り切った途端に、この体たらくである。片手、しかも利き手の逆では、卵すら割れない。 右手を治す中和剤が出来上がるのは、明日の朝。してみれば、今頭を抱えてみたところで、どうなるものでもないのだった。 「うう・・・どーしよ」 どうなるものでもないが、とりあえずまた唸る。その時、 「何やってるんだ、お前は」 すっ、と。音も無く、悩める新妻の背後に立つ影。 亜麻色の髪の魔導士。ラボラトリーの主催者であり、新居の主でもある青年が、キッチンの入り口から中を見やっていた。 「あ、あや?キール?」 ふいに降ってきた声に驚きつつ、メイは慌てて向き直る。 「中和剤の調合はもういいの?」 「さっき終わった。あとは時間を置くだけだ・・・って、お前は何を?」 「何をって、もうすぐお昼ごはんの時間だから準備をしよーかと」 「・・・・・・」 あからさまに呆れた目をして、青年は眼鏡の位置を直す。ふう、と小さな溜め息を漏らした後、彼はすっぱり言い切った。 「馬鹿か、お前は」 「何でよ」 「利き手をケガした奴が、包丁だの火だのを扱う気か!?二次災害が出るに決まってるだろうが、少しは考えろっ」 頭ごなしの説教口調は、独身時代と同じである。保護者から配偶者に名目と実質が移っても、性格が変わるわけではないのだ。お互いに。 「んじゃ、お昼ごはんどーしろって言うのよ」 「外に出ればいいだろう」 「ダメ。食材がもったいないもん」 優良なる主婦を目指す少女は、その提案を即座に否決した。 「あたしは毎日、ちゃーんと計算してお料理してるんだからねっ。 今日のお昼で手持ちの材料をきっちり使い切る予定なの」 「料理するお前がそれじゃ、予定もなにも無いだろうが」 「いーの!大丈夫だってばキール。そんな難しいもの作るわけじゃないし。 左手でも包丁くらい・・・」 にこにこ笑って、メイは無造作に包丁を手に取る―――が、指が柄に慣れていないせいで、刃物はするりと宙に逃げた。 「あ」 とすっ。 意外に穏やかな音が、足元で響く。 「・・・・・・」 「・・・・・・」 そろそろと。若夫婦がそろって下へと視線をずらすと、磨きぬかれた包丁は美しいまでに完璧な姿で床に刃を突き立て、静かに揺れていた。 彼らの爪先からそう遠くない場所で。 「・・・・・・メイ」 「え・・・えへへ・・・」 「・・・・・・・・・」 「・・・うん、やめときますぅ・・・」 ものすごい目で睨まれて、少女はしくしくと項垂れる。多少だが、自分が『うっかり屋さんの慌てんぼさん』だという自覚はある。面倒を起こさないと言い切れないことは、今の粗相が証明した。 (うう。卵が勿体無いけど、しょーがないか・・・) そのまま、とぼとぼ退散しようとしたところ。入れ替わりに青年がキッチンに入っていくのを見て、少女は思わず飛び上がった。 「き、キール!?あんた何するつもりっ!?」 袖口を幾つか折りながら、彼は苦々しく答える。 「・・・お前が動けないなら、俺がするしかないだろうが」 主語を省いたその言葉に、メイはますます驚愕の表情になって叫んだ。 「やるのっ!?あんたが料理をーーーー!!?」 「悪いか」 妻があまりにぶっ飛ぶものだから、少々機嫌を損ねた様子で、若き夫はじろりと睨む。 「い、いや、悪かないけど・・・出来るの?」 「兄貴がやるのを見てる。一応はな」 彼には双子の兄がいて、王宮で文官として働いている。英才の誉れも高いエリートなのだが、その華やかな肩書きと相反するように、本人は常春の花のように呑気な性格をしていたりする。 その兄は、『平地ですっ転ぶ』『1本道で迷う』『パニくると目の幅涙を流す』等、常人にはなかなか真似できない特殊な芸当を幾つか持っているが、その中には『天才的に料理が上手い』という、実に有益な能もあった。 ちなみにどれほどの腕前かというと―――クライン王家の姫君が、彼の作った菓子をお茶会御用達に指定するくらいである。そんな兄の手さばきを身近に見ていたのだから、キールが料理に対してまったくの素人でないのは理解できる。 できるが、それにしても・・・。 「柄じゃないわね」 「やかましい」 言われたくないことをドきっぱり言われ、青年は仏頂面のままそっぽを向いた。 まったく、自分の柄ではないことなど一目瞭然に分かっているのだが。 「だいたい、お前が食料を無駄にしたくないって言ったんだろうが!」 「あ、そーだったね・・・」 「分かったら、そこに突っ立ってるな。邪魔だ」 犬でも追い払うような仕草で、乱暴に手を振るキール。それが照れの反動であることは、子どもでも分かろうというものだった。 一瞬きょとんとした後で、メイは密かに笑いを噛み殺した。 (きーるってば・・・) 邪険な態度の中にあるのは、ひどく不器用な気遣いの心。 「何見てるんだ」 「えーっと、あ、はいはいっ!退散しまーっす!!」 彼の不機嫌が本格的になる前に、少女はさっさと逃げ出す。初めは隣接したダイニングに移動したのだが、緑の瞳に再び睨まれた。 「向こうに行ってろ」 「向こうってドコよ」 「・・・何処でもいい。お前に居られると落着かない」 むっとした表情が、淡い赤に染まっている。メイは内心で『きゃ〜〜っ』と歓声を上げた。 (やだもう、キールってば可愛すぎッ!!) 「おっけー。んじゃ、部屋にいるから出来たら呼んでねっ」 「わかった」 本当は、調理器具と格闘する夫の後ろ姿などじっくり眺めてみたかったのだが。 そんなことをしたが最後、ほぼ間違いなく永遠に昼食が出来上がらないだろうことは想像に難くない。鳴り出す直前の腹具合から言って、それは勘弁したい事態だ。 「火の元に用心してね」 「さっさと行け」 「はーいはいっと」 大人しく引き下がり、借家の2階に在る私室に向かう。 がたんっ 『わっ』 階段の3段目に足をかけたところで。多少派手な物音と、何者かの声が聞こえた。 しかし少女はクスクス笑っただけで、気付かない振りをして階段を上っていった。 正午の鐘から半刻後。完成した昼食のメニューは、ゆでたまごとハムのサンドイッチとポテトサラダだった。 イモの茹で加減が少し固いと妻は思ったが、にこにこと満面の笑顔ですべて平らげた。 ごちそうさま、と言われた夫は、居心地悪そうに肯いただけである。左手の人差し指に巻かれた絆創膏については、2人とも何も言わなかった。 「ね、夕ごはんも作ってくれる?」 「・・・今日だけはな」 (つづく) |