平穏な或る日のお話 〜風呂篇〜

N星人様     



 どんな1日であろうと、日は暮れる。薄っすらと空を茜に染めていた太陽もやがて落ち、世界は月と星が支配する領域になる。
 件の夫婦も夕食を済ませ、居間で食後の茶など楽しんでいた。
「キールってば、割と味付け上手いよね。今度から食事は当番制にする?」
「御免だ」
 ソファに足を投げ出し、読みかけの本から目も上げず、仏頂面のままで青年は応じる。予想通りの答えに、少女はくすくすと笑いを漏らした。
「そう?今度、いっしょにアイシュにお料理習いに行こっか」
「嫌だ」
 彼が作った2度目の食事は、最初よりも少し慣れたのか、火加減も満足のいく仕上がりになっていた。彼女としては少しくらい彼の奮闘ぶりを拝見したかったのだが、例のごとくキッチンから追い出されてしまった。
 ちなみに今飲んでいる紅茶も、彼が淹れたものである。説教や文句は飽きるほど言ってくるくせに、妙に過保護な夫は、利き手を怪我して不自由な彼女が火に近づくことさえ許さなかった。
(まあ、大事にされてるのは悪い気しないわよねー♪)
 怪我をしたのは痛かったが、滅多にできない体験もいくつかあった。差し引きすれば今日はそう悪い日じゃなかったよねー、と能天気に思いながら、少女は残っていた紅茶を飲み干した。
「さって、と♪そろそろお風呂が沸いたかも」
 流しでカップを濯ぐと、メイは風呂場の方に向かった。白いタイル張りで広めの浴室は、この借家における彼女のお気に入りのひとつである。
 新しく張ったお湯は、ほこほこと温かい湯気を立ち上らせている。そっと左手を浸してみると、理想的な温度が感じられた。
「ん、沸いてる沸いてる」
 主婦らしく脱衣所の用品を点検した後で、彼女は再び居間に戻った。若き夫は、相変わらず本に没頭している。
 テーブルの上に置かれたままのティーカップを片づけながら、少女はさりげなく声をかけた。
「キール。お風呂沸いてるから入っちゃってね」
「ああ」
「お湯は抜かないでね、あたしが入った後で抜いとくから」
「わかった」
 読書中に質問されると生返事を返してしまうというのは、どうやら彼の悪い癖であるらしい。深く考えもせず肯いて、面倒臭げにソファから立ち上がった時点で、彼はようやく疑問を持つことができた。
「・・・おい」
「んっ、何?」
「さっきお前、なんて言ったんだ?」
「んー、だからお湯は抜かないでねって」
「その次は」
「へ?ああ、あたしが入った後に抜いておくからって」
「・・・・・・」
 ふうううぅぅぅ、と形容し難いほど長い溜め息の音が、居間を満たす。
 その発生源たる青年は、1度天井を見上げ、その視線を床に下ろし、再び溜め息を漏らした後で、おもむろに口を開いた。
「馬鹿かお前は!怪我人の自覚があるのかッ!!」
「きゃーきゃーッ!?今度は何よ〜〜〜!!」
 またしても落ちかかってきた雷に、冗談ではなく涙目になる少女。
 脅えた子リスのように縮こまる彼女に、しかし青年は容赦しなかった。
「包帯も取れてないヤツが、風呂になんか入れるかっ!!」
「あ、それはへーき。ほら、こうやって・・・」
 解説するよりやってみた方が早いと判断したのだろう。少女は小声で風を呼ぶ呪文を唱えた。
 異世界人であることが何らかの作用をもたらしたのかもしれないが、メイは魔法術に長けていた。いっそ天才と言ってもいいかもしれない。何せ、文字などろくに読めなかった召還当時でさえ、中級以上の武術魔法をなんなく使いこなしたほどであるから。
 理論よりも実践で伸びていくタイプである。その分失敗も凄まじかったが。
 その彼女が、風の精霊に呼びかける。停滞している居間の空気がほんの一瞬、ざわりと騒ぐ声をたてた。
「ほーら、空気の膜。こうすれば水を弾いてくれるんだよー♪」
 得意げに突き出した―――実際は少し二の腕を動かしただけ―――彼女の右手は、包帯でぐるぐる巻きになっている。その数cmほど上を覆うようにして、確かに透明な膜が存在するのを、キールは視覚と魔法力の双方で感知した。
「こんなもん、いつ考えたんだ」
「さっき。できないかなーと思ってやってみたの。こっちにはビニールなんてないもんね」
 彼女の生まれ育った元の世界なら、防水のための資材は山ほどある。そこからヒントを得て作ってみた『風の精霊製・ビニールもどき』は、製作者の思惑以上に良い出来栄えであった。
 破れる心配もないし、ゴミにもならない。もちろん有害物質も発生しないし、実にエコロジカルだ。
「ね?これでいつもどおりお風呂に入れるでしょ?」
「そして濡れた床ですっ転んで、怪我を増やすわけだな」
「・・・・・・」
 根本的に、右手は動かないのである。いかに防水しようが、不自由さは変わらない。そしてそれをカバーすべき慎重さや周到さに、彼女は恵まれていなかった。
 反論できずに黙り込む少女。青年は苦い顔でたたみかけた。
「とにかく、今日は風呂に入るのはやめとけ」
「えー」
「えーじゃない。別にいいだろ、1日くらい」
「良くないよぅ!」
 メイは強固に反発する。年頃の少女としては、埃っぽいまま寝台に入りたくないし、何より一緒に眠る人がいるのだ。
(だって、やっぱ、キレイな身体でいたいんだもんっ!!)
 余人が聞いたら砂を吐いて倒れそうな理屈だが、新妻としては譲れない一線だ。
メイは目の縁を真っ赤にして睨んだ。
「絶対、入るのっ!」
「あのな・・・」
 妻帯者になったとはいえ、基本が朴念仁なキールである。そんな可愛い女心など察するわけもなく、ただ困った奴だと少女を眺めていた。
 そのまましばらく、不毛な睨み合いが続く。
 と、メイが何かを思い付いたようにポンを手を叩いた。
「あ、じゃあさ、こうしない?」
「何だ」
「キールもいっしょに、お風呂に入るの」

 間。

 地獄のような静寂。

(・・・あ、やっぱ駄目かな〜?)
 黙りこくってしまった夫を見つつ、メイは内心冷や汗をかいていた。
 半分は冗談のつもりだった。が、常識的で身持ちが堅い彼にしてみれば、冗談にしても刺激が強すぎたかもしれない。
 何を言い出すんだ、と怒鳴られるか。それとも、冷ややかな目で見られるか。どっちにしても覚悟が必要で、少女は急いで身構えた。
 青年の唇が、ゆっくりと動く。雷の到来を感じた少女は、その瞬間肩を竦めた。
(わっ、怒られる!!)
「妙案だな」
「へっ!?」
 思考を真っ白にした少女は、目をまんまるにして立ち尽くす。
 今、彼はなんと言ったのだろう。
「あ、あああの、きーる?」
 しどろもどろで尋ねる間にも、亜麻色の髪の青年はテキパキと動く。さっさと2人分の着替えを用意すると、少女の手を引いて風呂場に向かっていった。
「ちょ、ちょっとおお!!?キール、何、何してんのあんたっ!」
「ほら、早く来い。湯が冷めるだろうが」
 ふらつく足取りのメイを引きずるようにして、青年は脱衣所に彼女を押し込む。
そして呆然とするばかりの少女を余所に、手早く『準備』を進めていく。
「ぎゃーーー!!なんで服脱がすのっ!?」
「何でって、服を着たまま入る風呂があるか」
 恐ろしいことに、青年の目はマジだ。そして少女の服のボタンを外すのに、まったく動揺を見せない。いつもの・・・というか、彼女の知っている彼は、こんな風に平然とした顔で女物の服を脱がせたりしないのだが(語弊)。
「うぎゃあーーっ!!なんで服脱ぐのよ〜〜〜!!?」
「だから、風呂に服は着て入れんとゆーに」
 どこまでも冷静に突っ込むが、少女は聞いていなかった。
 真白き湯気の立ち込める浴室。連れ込まれ、その扉を閉められる寸前、少女の泣き声がこだました。

「きーるのばか〜〜〜!!もうお嫁にいけない〜〜〜〜!!」
「・・・お前がそれを言うか・・・?」


              (つづく)