キールは、探していた目当ての薬草を一通りザックに詰め込んで身体を起こした。
「…よし、まあひとまずこんなもんかな」
短く頷くと、顔を上げる。そこで彼は、ふと我に返ってあたりを見回した。
「…メイ?」
何となく、無意識にそこにいると思っていた彼女の姿が見えない。立ち上がった彼は、もう一度周囲を見渡してから軽く額に手をやった。
「…ああ、そうだっけ」
弁当の番をしていろ、と追い払ってしまったことを思い出して、彼は少しばつの悪そうな表情を浮かべた。バスケットを置いた場所からは、ずいぶん離れてしまったらしい。
(急いで戻るか)
ちらりと太陽の位置を見上げてから、来た道を足を早めて戻り始める。もう、昼はだいぶ過ぎてしまっているようだ。
(悪いこと、したな)
せっかくメイが朝から腕を振るって弁当を作ってくれたのに、ずいぶん待ちぼうけを食わせてしまった。きっと膨れていることだろう。
研究のための材料集めに出かけてきたのは確かだが、彼もメイが一緒に来ると言ったことが嬉しくないわけではなかった。性格からして、素直にそれを表せるはずもなかったが。
(…さっきは、きつく言い過ぎたかな)
森に着いたときのやりとりをふと思い返して、彼は気まずげな表情で前髪を斜めにかき上げた。
普段使うことのない薬草の名前を、全部覚えていろと言うのは無理な話かもしれない。特に、バルメオ草はたいてい補助魔法に使う触媒だが、メイの補助魔法は基本的にキールがかけてやることが多いから、余計に印象が薄かったのだろう。
(…まだ、1年も経ってないんだからな、あいつが魔法を勉強し始めてから)
後でゆっくり思い返せば、そんな風に考えられるのだが。
兄のようにすんなりと引いてしまうわけでも、シオンのようにあからさまに挑発してくるのでもなく、対等の位置でぽんぽん言い返してくるメイには、つい言葉が一人歩きして言い過ぎてしまう。
しまった、と思っても、すぐに謝ることもできない彼の不器用さが、ますます事態を悪化させることが、今までもよくあった。
「キールは、メイにきつすぎます」
メイの親友の一人、アンヘル族の若者シルフィスが、かつて彼にそう言ったことがある。
あれは、メイの私物を長老たちが実験で壊してしまったときのことだったか。
「彼女は女の子なんだから、優しくしないといけないです」
いつも穏やかな彼(彼女?)に似ず、シルフィスは表情を曇らせて、けれどきっぱりとそう言ったものだ。その時キールは、わかった、努力する、と答えたのだったが――
(…努力、していないつもりはないんだけどな…)
キールは、ふうと息をつくと目を上げて、あたりを見回した。見覚えのある景色が目に映る。確か、出発点はこの辺だったはずだが、と思いながら、彼はメイの姿を探した。

(――あ…)

記憶していたのから少し離れたところに、彼女はいた。
丸く開けた空き地の真ん中あたりで、倒木に腰かけて空を見上げている。木々を漏れ出た陽の光が、まるで彼女だけを照らし出すように柔らかく降り注いでいた。
シンプルな、黒いミニのワンピース。白いケープが、陽の光を淡く反射して、彼女の顔や、さらさらの栗色の髪を霧の中のように輝かせている。
(……)
まだ、だいぶ遠くて彼女の表情は見えない。
ふと、メイは空に向けていた顔を今度はゆっくり地面に向けた。膝から下を小さく跳ね上げて、枯れ葉を蹴飛ばす。黄金色の落ち葉が幾枚か、ぱっと彼女の足元に舞い上がった。
キールは、いつの間にか止めていた足を、それが合図だったかのようにもう一度運び始めた。いつもより少しゆっくりとした歩調で、けれど少し大股に、メイの方へ歩み寄る。
彼女の表情が見て取れるほどの距離に近づいたとき、メイの方もキールの踏む枯れ葉の音に気づいたのか、ぱっと顔を上げてこちらを見た。近づいてくる彼を認めて、さっとメイの顔が明るくなる。彼女は腰掛けていた倒木からぴょんと立ち上がると、彼に向かって手を振って見せた。
「キール!」
「ああ」
手をふりかえしはしないが、小さく頷き返しながらキールはメイの顔を見た。

膨れているか、怒っているか、それとも―――泣いているのか、と思った。

屈託のない笑顔で手を振っているメイを見て、キールはほっとしたような、それなのに胸の奥のどこかがちりりと痛むような不思議な感覚を覚えるのだった。
「もー、おそーい!お昼だいぶ過ぎちゃったじゃない。それで?薬草はうまく集まったの?」
目の前に戻ってきたキールを見上げて、メイはちょんと両手を腰に当てて見せた。
「ああ、一通りな。まだ欲しいのもあるが、それはここらにはなさそうだ」
「そっか。じゃあ、お昼にしよ?」
メイは頷いて笑うと、枯れ木の向こうからバスケットを引っぱり出した。ぱちんとふたを開けると、まず大きな布を取り出して枯れ葉の上に広げる。その上に、まるで魔法のようにどんどん並べられていくランチを眺めて、キールは少し目をぱちくりさせた。
「さあ、座って座って!どーしたのよ、キール?」
もうちゃんと布の上に座り込んでいるメイを見おろして、キールは、ああ、と頷いて腰を下ろす。
「はいっ、メイちゃん特製ピクニックバスケット!どんどん食べて!」
色とりどりのサンドイッチ、一口サイズのフライドチキン、小さなカップに盛られたサラダ。不思議な形に切られたソーセージを眺めて、キールはちょっと首を傾げる。
「これを、お前が作ったのか?」
「そーよん。どう、見直した?」
にこにこしながらメイは胸を張ってみせる。
「…まあな。誰にでも取り柄はあるもんだな」
「もー、またそーいうこと言うー。ま、食べてみて?もっと見直すからさ」
メイにせかされて、キールは料理を口に運んだ。
「どお?」
「…ああ、…」
瞳をきらきらさせてのぞき込むメイに、うまい、と素直に口にしかけたがつい、
「悪くないんじゃないか?」
と言いかえてしまう。メイは、ちょっと唇をとがらせかけたが、すぐにぷっと吹きだした。
「食事のマナーがなってないわよ、キールってば。こーいう時はたとえお世辞でも、おいしいって言うもんじゃない?」
そう言って、チキンをひとつ口に放り込んで、メイはにっと笑う。
「ま、ほんとにおいしいんだからお世辞になんないけどさ!」
「言ってろ」
キールは、すっかりいつもの調子のメイに苦笑しながら、サンドイッチに手を伸ばした。
しばらくは、メイが料理の苦労話をしたり、いつもの他愛ない会話をやりとりしたりして、にぎやかな昼食が続いた。
バスケットの中身があらかた片づいた頃、メイは最後のひとつのチキンを確保して目の前にかざしながらこんなことを口にした。
「あーあ、でもクラインにもお醤油があったらなー、キールにほんとのあたし風唐揚げ、食べさせてあげるのにねぇ」
「オショーユ?」
聞き慣れない響きに、キールは軽く眉をひそめて聞き返す。
「なんだ、それは?」
「あ、あっちの、あたしの世界…の中の、あたしの国の調味料だよ。うーんとね、大豆って豆から作るの。黒くってしょっぱくて、とってもおいしいんだよ」
「…へえ」
「やっぱ、唐揚げは醤油味がベストよ。作ったげられなくて残念」
メイはそう言うと、チキンをぱくりとほおばった。もぐもぐやりながらぱんと両手を合わせて、ごちそーさま、と頭だけこくんと下げる。
「お前、口の中のもの食い終わってから言えよ」
キールは、まだ口を動かしているメイを見ながら言うと、ひょいとひざの上のパンくずを払い落とす。
「…ごっそーさん、うまかった」
ぶっきらぼうに言うキールの顔を見やって、メイはえへへ、と満足げに笑った。
(まあ、キールがこれ以上のこと言ってくれるとは思えないもんねー)
嫌みを言うときやケンカするときはぽんぽんしゃべるのに、ほめたり感謝するときは極端に言葉が少なくなる。メイは、キールのそんな不器用さを思って、くすりと忍び笑いを漏らした。キールが、いぶかしげにメイを見る。
「なんだ?」
「ううん。…ねえ、どんな草、見つけてきたの?」
「ああ…」
キールは、森に来た時のやりとりを思い出してちょっとためらったが、思い直して傍らに置いてあったザックを取り上げた。逆さまにして中身をばらばらと布の上にあけると、種類別により分けながら説明を始める。
「…これが、ケジュ草。乾燥させて、煎じ薬にする。痛み止めだ。こっちは、アカライザの実」
「きれいだねー、野いちごみたい」
「使うのは、中の種だ。解毒の魔法の触媒に使う」
「じゃあ、周りの実は食べてもいい?」
「馬鹿、果肉は毒だぞ」
「えー、解毒の魔法に使うのに?」
「そうだよ。これくらいじゃ死にやしないが、身体がしびれるからな、食うなよ。お前は食い気が旺盛だからやりかねん」
「なによー、人を食欲大魔人みたいに」
次にバルメオ草が出てくると、メイはちょっと身を乗り出してじっくりのぞき込んだ。
「はー、これが、そう。なるほど、ぎざぎざだ」
どこか真剣なメイの横顔をちらりと見やってから、キールは解説を続けるのだった。
説明が一通り終わると、メイは並んだ薬草やら実やらをしみじみ眺めて言った。
「…でも、ほんと、魔法に使うっていうのに、なんか普通の草だねー」
「なんだ、そりゃ」
どこか的はずれなメイの感想に、キールはあきれたように彼女の顔を見る。
「だって、その辺に生えてるのと、特別変わった形してるって訳じゃないじゃん」
「当たり前だ」
「もしかしたら、あの裏山にもひっそりこういうのが生えてたのかもしれないなー」
「裏山?」
「うん」
メイはこっくりしてあたりを視線で指し示す。
「この森って、子供の頃に行ったことある、おじいちゃんちの裏山に似てるなってさっき思ってたんだ。だから、ここに生えてるものなら、あそこにも生えてておかしくないよーな気がしてさ」
「……」
キールは、薬草を見下ろすメイの横顔を見やって、ふと言葉を飲み込んだ。

さっき、一人で座り込んでいるメイを見て、―――泣いているのじゃないかと一瞬思った。

(『おじいちゃんちの裏山』、か――)

子供の頃のこと。身の回りの、小さなこと。
彼女の回りを当たり前のように包み込んでいた、ささやかで、大切なこと。
向こうに、元の世界に置いてきてしまったたくさんのこと。

「あたしの世界には、魔法はないけど、でも薬草っていうのはちゃんとあったよ。あたしはよく知らないけど、でもおじいちゃんはそういうの、詳しかったみたい」
メイはそう言って笑うと、慎重な手つきで薬草のひとつを拾い上げた。
「……帰りたい、か…?」
低い声で、呟くようにキールが問いかける。メイは、驚いたように彼を振り向く。
どう答えようか、迷っているような間を一瞬おいて、彼女は笑ってみせた。
「…またぁ。…子供の頃の話だよ、もうずいぶん前の。ちょっと思い出しただけだってば。何にもない森の中なんて、どこでも似たような感じなのかもね」
軽い調子に話を切り替えようとして、けれど、キールの表情がゆるまないのに気づくと、メイはちょっと困ったように言葉を切った。
2、3度瞬きして、少しうつむく。
「…そりゃ、さ。思い出したりはするけど。…でも、仕方ないよ、それがあたしだもん。あたしの世界で16年暮らして、それで今のあたしになったんだもん。全部、なくしちゃう訳にはいかないよ…ゼロにはならないもの。…でも」
メイは、キールを見る。
「…あたしは、ここにきて、ここにいるのよ」
(キールのそばに)
「こっから先、あたしのいるとこは、ここなの」
キールは、自分の姿を映している、メイの茶色の瞳を見る。
「……そっか…」
彼は、瞳でちいさく頷くと、メイの顔から視線をそらせて、照れたように前髪をかき上げた。さらさらの亜麻色の髪は、かき上げてもまたすぐに額に落ちかかる。
キールは、木立に視線を向けて、少し長いため息をついた。

しばらく会話がとぎれて、遠くで鳴く小鳥の声だけが静かな森にこぼれていく。
メイは、キールの横顔を見つめた。銀色のイヤーカーフに、ちらりと陽の光が反射して光る。
(…子供の頃の話とかすると、気にしちゃうんだ)
育った家、両親、弟、学校、友人たち。思い出話や、かつての身の回りの話を、好きな人にできないのは、ちょっと寂しい。
(気にしちゃうんだろうな。あたしは、ただ聞いて欲しいだけなんだけど)
それでも、彼女を呼んだのも、彼女を帰そうとしたのも、そして彼女をここに引き留めることになったのも、彼だから。
(帰りたがってそう言ってるって、聞こえちゃうのかな)
帰りたくないと言えば嘘になる。けれど、同じくらい、ここにもいたい。
繰り返し繰り返し、何度も胸の中で呟いてきたフレーズ。
選べないことを選ばなくてはならなくて、迷って迷って。
それでも、選ばないことで、自分で決めないことで後悔したくなかったから、今こうして彼の側にいる。
未来なんか分からない。でも、いつか何かで苦しむとしても、それが自分で選んだことなら、せめて他の何かのせいにして恨んだりはしないですむ。
どうするのが一番の幸せかなんて、先まで見通して決められることじゃないんだから――
それなら、今の自分の心が一番望むように。

(ま、少なくともただいま現在は、キールといて、シアワセ、だよね)
彼女は、そう呟いてみて、ちらと照れ笑いを浮かべた。
(デート中だし。…あ、キールは仕事でもあるけど)
ふと、さっき手に取った薬草をまだ握りしめていたことに気づいて、メイはあわてて掌を開いた。
「これ、もうしまうね」
メイの声に振り向いたキールは、彼女が手にした薬草をぴらぴらと振っているのを見て頷いた。
なるべくごちゃごちゃにならないよう、薬草を種類別に中に戻すと、メイは袋の口を締めてキールに渡した。
「はい」
「ああ、サンキュ」
「で、これから、どーすんの」
弁当の容器やらナプキンやらをバスケットに片づけると、メイはキールにそう尋ねた。
「…そうだな、森の中を迂回して、丹雪草を探しながら戻るか」
「えー、もう戻るの?」
唇をとがらせるメイに、キールは珍しく素直な苦笑を見せた。
「それでも、帰る頃にはいい時間になるって。…行くぞ」
「はーい」
約束通りバスケットを持つと、メイはキールと並んで歩き始める。さっきの言い合いで懲りたらしく、キールは今度は探す丹雪草の特徴をわかりやすく教えてくれた。
「さっきも、そーやって教えてくれればよかったのに」
というメイの言葉に、軽く額をこづき返しはしたが。

さっきの名誉挽回とばかりに、メイは張り切って薬草を探しながらとことこ歩く。
「ばっちり見つけてあげるから、見てなさいよ」
「まあ、期待はしてないが、やるだけはやってみろ」
「もー、もうちょっと助手のやる気を引き出すようなこと、言えないの?」
「誰が助手だ」
「あ・た・し。美人助手って、男の憧れじゃない?」
「俺は興味ない。まあ、お前がそうかどうかってのは、また別の話だけどな」
「あ、しっつれーなやつ!」
メイはぷんと膨れてみせる。キールは笑って、ぽんとメイの頭をなでた。
「…ま、じゃあ今だけ、お前を助手に任命してやるよ」
「…おっけー!がんばっちゃう!」
メイは彼を振り返って笑うと、ととっと小走りに進んだ。
1日に1回はキールにかけてもらう、魔力を安定させるための補助魔法。
(…でも、今のは、それじゃない、よね…?)
キールの手の感触が嬉しくて、メイはふふっと笑った。
(おっと、薬草薬草、っと)
ふわふわ舞い上がっていきそうな気持ちを無理矢理とっつかまえると、地面に向けて集中しようとする。
しばらく行くと、だんだん背の低い木が増えてきた。下草も、ごちゃごちゃ固まって生えている灌木に隠れて、なんだか探しにくい。
(…お、あれは?)
その中に、ちらりと見えた葉が探す草の特徴に似ている気がして、メイは枝を押しのけると首を伸ばして茂みの向こうをのぞき込んだ。
とたんに、はねかえった枝にぴしりと額を叩かれる。
「うきゃ!」
彼女は思わずよろけて、ととっ、と2、3歩下がった。
「メイ!」
キールの声がしたかと思うと、メイの身体はふわりと濃紺色のローブに後ろから受け止められた。とっさに閉じていた瞳を、弾かれるように開く。
「…大丈夫か?」
キールの声が、今まで聞いたことがないくらい近くから聞こえた。
「う、うん、だいじょ――」
どぎまぎしながら、なんとか口にしかけた返事が不意にとぎれる。
キールの指が、メイの額にそっと触れていた。枝の当たったあたりを軽くなでると、少しためらってから前髪に触れる。
メイの心臓が、跳ね上がるように打ちはじめた。瞬きもできないまま、身体を固くする。
キールの手が、ゆっくりとメイのまっすぐな栗色の髪を梳いてさらりとこぼす。
ひと息、間があってから、キールはそっと腕をメイの身体に回した。
ローブに包み込まれるように、後ろから抱きしめられたまま、メイは自分の心臓がどきどき音を立てているのを聞いていた。
(…や、やだやだ、キールに…聞こえちゃうよ)
背中から回された腕が、優しく自分を包み込んでいる。髪に、キールの頬が触れているのを感じる。
(……キール…)
メイは、小さく息を吸って瞳を閉じた。全身で、こんなにも近くにいて、自分を包んでくれている彼を感じる。
「…メイ…」
耳元で、キールの声が彼女の名を呼んだ。やさしい、聞いたことのないくらい柔らかな声。
メイは、ふっと瞳を開いた。少し、身体をねじって彼の顔を見上げる。キールの腕が僅かに緩んで、メイの身体をゆるりと回す。
キールの、透き通った水晶のような緑色の瞳が、すぐそこにあった。
今までで、一番近くに。
その緑色の水晶が、ためらうかのようにすこし揺れたかと思うと、ふわりと近づく。
反射的に、メイは瞳を閉じる。
柔らかな感触が、唇に触れた。
ぱさり、と小さな音をたててバスケットが枯れ草の上に落ちたのも、メイは意識していなかった。遠くから、相変わらず小鳥の声が聞こえてくるのも。
 かるく触れていただけの、不器用な唇がそっと離れて――そして、また重なる。
一度目より、ほんの少しだけ深いキスに、メイはキールの胸に置いた手に微かに力をこめた。
流れが止まってしまったかのような、優しい時間の後――ゆっくりと、二人の唇が離れる。
メイは、ためらいながらおずおずと瞳を開いた。そのとたん、見下ろしているキールと視線が合ってしまう。
彼の瞳がまぶしくて、思わず顔を伏せたメイを、キールの腕が抱き寄せた。
彼のローブに頬を寄せて、メイはまた瞳を閉じる。
「……びっくり、したか…?」
キールの、困ったような照れたような、なんとも言いがたい声が耳元で囁いた。
声を出せないまま小さく頷くと、メイは彼のローブをつかんできゅっと顔を埋めた。
「……すまない…」
「…なんで謝るの」
メイはすこし首を起こすと、瞳だけで彼の顔を見上げた。
「…いや、その…今日は、色々言い過ぎちまった――し、その、なんだ…」
キールは、何と言っていいか心底困っているような表情で、メイの瞳を見下ろす。
「…いつも、困らせてるかな、と、思って…」
メイはくすくす笑うと、キールの背に手を回してぽふんと抱きついた。
「…へーき。あたし、キール、好きだもん」
いきなり直球を投げ込まれて硬直したキールの胸に、メイは目を閉じて頭をもたせかける。
「……」
キール、と口の中で呟いたメイを、キールはそっと抱きしめた。ためらいながら、彼女の栗色の髪に唇を触れる。
メイは、背中に回されたキールの腕に包まれながら、ローブの胸に頬をくっつけて小さく息を吸い込んだ。
(…キールのにおいがする)
書庫の、古い本や巻物のにおい。インクや、薬草のにおい。
(1日外にいたくらいじゃ、取れないよね)
くすりと口の中で笑うと、メイは彼の胸に顔を埋めた。

 どれくらいの間、そうして寄り添い合っていただろう。メイは、遠くで微かに鐘の音を聞いたような気がして、すこし顔を上げた。メイの髪に触れていたキールの手が、そっと降りて彼女の肩に置かれる。
「…そろそろ、帰るか」
キールの顔を見上げたメイに、彼はそう言った。
「えー、もう?」
この台詞、今日2回目じゃん、と思いながらメイは抗議の声を上げる。
「門限に遅れるだろ。二人揃って締め出しを食らいたいか?」
「…う。それは、避けたいかも」
そうなったときの状況を頭の中に思い描いて、メイは顔をしかめた。それでなくても妬みの多い最年少の緋色の魔導士と、良くも悪くも目立ちまくっている異世界からの魔導士見習いに、これ以上非難される種をこしらえるのは、あまり好ましくない気がする。
(んー、残念)
ふと、肩先にすっと風が通りすぎて、彼女は小さくくしゃみをする。その音に、キールが彼女の方を見た。
「寒いのか?まったく、せっかくの予算なのに、そんな短いケープなんか買うからだ」
「だって、可愛いから気に入ったんだもん」
メイが唇をとがらせて言い返したとき、ふわりと彼女の視界を黒いものが横切った。あれ、と思う間もなく、肩にキールのマントが巻き付けられる。
「…着てろ。風邪なんか引かれちゃかなわない」
「でも…キールが寒いよ」
「俺は肩掛けがあるから平気だ」
ずり落ちないようマントの襟元をつかまえてキールの顔を見上げるメイに、彼はそう答える。
「あ、じゃあ、あたしにその肩掛けの方、貸して?」
「ダメだ。お前がこれの持ち主だと思われたりしたら、緋色の魔導士全体の品格に関わる」
キールはいつもの調子でそう言うと、ひょいと足元のバスケットを拾い上げた。
「なによー、そこまで言う?」
言い返しながらも、キールのマントの暖かさに頬が緩むメイに、キールはふいと振り向いた。
「…ほら、行くぞ」
目の前に差し出された手に、メイは驚いて彼の顔を見上げる。すこし、頬が赤く見えるのは、早すぎる夕映えのせいではなさそうだ。
「…うん!」
メイが飛び立つように彼の手を取ると、キールも軽く握り返す。表情は、やっぱり照れ隠しの仏頂面のままだったが。
二人は森の中を、王都の方に向けて歩きだした。さすがにキールも手をつないでいてはいつもの速さで歩くわけには行かず、メイに歩調を合わせてゆっくり歩む。
「丹雪草、見つからなかったね」
「まあ、仕方ないさ。他のが全部揃ったんだから、上出来だ」
「えへへー、メイちゃんのおかげかな?」
「なにもしなかったろうが、お前は」
いつものそんな会話も、お互いになんとなく口調が柔らかい。
「あ、でも、さっき丹雪草っぽいかなー、っていうの、見たんだけど」
「先に言えよ、そういうことは」
「んー、だって…さ」
照れたように少しうつむくメイに、キールも何か思い当たったようにぷいと前を向く。
「…まあ、いいさ。もう戻る時間もないし、また別の時に探すから」
「あ、じゃあ、その時も、あたしついてくるね?」
「…それまでには、もっと薬草の勉強しとけよ」
「えー。お弁当グレードアップ!の注文なら、簡単におっけーなんだけどなあ」
「じゃあ、課題にその分野も加えといてやる」
「ひっどーい!オニ!」
メイが、つないだ手をぶんと振る。キールが、横目でメイを見る。
「誰がオニだ。助手なんだろ、だったら知識も必要だな」
「…うう、課題の時は、助手やめるー」
他愛のない会話を交わしながら歩くうちに、森の木々はだんだんまばらになってきた。
枝の合間を透かして、遠くに王都の門が見え始める。メイはそれを見て取って、ちょっと唇をとがらせた。
(もう町かぁ、つまんないの…)
キールが、町中でも手をつないで歩いてくれるとはとても思えない。せっかくのデートも、これでおしまいだ。
(残念無念。…まあ仕方ないっか。また、次もある…よね)
メイが、胸の中でそう呟いたとき、不意にキールが口を開いた。
「…あそこの、いちいの木までな」
「え?」
訳が分からずに彼の横顔を見上げたメイだったが、キールの怒ったような照れ隠しの顔を見て、その意味を悟った。
「…うん、あそこまでね」
軽く彼の手を握って振る。キールはやっぱりこちらを見ない。でも、耳が少し赤くなっている。メイはくすくすと笑った。
(キールったら、かわいーんだ)
くだんのいちいの木の所に来ると、キールはいったん足を止めた。メイの手を離すと、ぽんぽんと彼女の頭を2回なでる。
「もう、子供じゃないってばー!」
「行くぞ」
くるりときびすを返して、キールはすたすたと歩き出す。メイは大急ぎで足を早めてそれを追っかけた。
「ねえ、バスケット、持つよ!」
「かまわない、俺が持つ」
「だって約束だもん」
「俺がいいって言ってるんだ」
二人の会話は、夕暮れの近い王都の門に吸い込まれていくのだった。