…いいの、ホントに。
あたしはあたしがわかるのよ。
自分が見えてるから、ちゃんとわかるの。
…帰らないよ。
月の光の降る王宮の中庭で、異世界から召還された少女はそう言って確かに少し微笑んだ。 いつもは太陽のように屈託のない笑顔が、銀色の光に縁取られてなんだか透き通るようだったことを、魔法研究院最年少の緋色の魔導士は、その後も繰り返し思い出すのだった。
「ねえ、メイ。このごろは、どんな感じですの?」
淡い紅色の髪の少女が、少し首を傾げていきなりそんな問いを口にした。
クライン王国の王宮の昼下がり、王女ディアーナの居間でのお茶会の最中である。
「ふえ?」
口の中にクッキーを詰め込んだまま、問いかけられた当の本人──藤原芽衣はぱちくりとひとつ瞬きをした。極上のクッキーをじんわり味わってからごくりと飲み下し、やっと返事をする。
「どんなって、何が?」
「いやですわ、もちろんキールのことに決まってますでしょ!」
「はぁ?」
メイはもう一度ぱちくりしてから、今度は香りのいいお茶をひと口すすった。
「元気だけど。…昨日は、ちゃんと家に帰ってたでしょ、あいつ。ね、アイシュ?」
「はい〜」
のんびりした調子で相づちを打ったのは、亜麻色をしたふわふわの猫っ毛を無造作に後ろで束ねた青年である。
王女と見習い魔導士と宮廷付き文官がお茶を飲んでいるというのは、一見妙な取り合わせではある。元はと言えば、お菓子作りの得意なアイシュに、ディアーナがお茶会用のクッキーを焼くよう頼んだのだ。
それを届けに来たのが、ディアーナとメイがお茶会をちょうど始めるところで、例によって人の言うことに嫌とは言えない彼は、二人に引っ張り込まれて一緒にお茶を飲むことになってしまったのだった。
「キールも、しばらく前はなんだかとてもとても忙しがってましてね〜、全然家に帰ってこなかったんですけど〜。でも、このごろは、週に2、3日は帰ってきてくれます〜」
彼独特ののどかな口調で、アイシュはにこにことそう言った。
「あたしは、毎日帰んなさいよって言ってるんだけどさ。聞きゃしないのよ、キールったら」
メイはもう一つクッキーをつまんで口に入れる。
「いえいえ〜、メイが言ってくれるから、キールも聞くんですよ〜。僕がどんなに言っても、無視するばっかりでしたのにね〜」
「そっかなー」
てへへ、と照れ笑い半分にメイは頭をかいてみせる。
実際の所、召還魔法の研究が大詰めを迎えていた秋頃までは、キールはろくに家に帰らないどころか、夜も研究院の自室で仮眠を取るだけ、というような日々が続いていたのだ。
その実験が同僚たちの妨害によって失敗に終わり――それがきっかけとなって、メイは元の世界には帰らない、とキールに告げたのである。
それからしばらくは、ほっとしたのか召還魔法の研究を中断していたキールだが、魔法研究院としては研究を続けたいテーマであったこともあり、元々研究責任者をやっていた彼が引き続き担当することになって、間もなく研究は再開されていた。
メイとしては、もう自分は帰らないと決めたのだから、やらなくてもいいのにとも思うのだが、研究院としてはせっかく予算と優秀な人材を集めて進めてきた研究を、途中でお蔵入りにしてしまうのは惜しいという意見が大きかったらしい。そう言われると、大した理由もなくもう要らないからやめますというわけにもいかない。
そして、いったん始めると、やはり魔法理論や時空の理の解明に熱中してしまうのが、真理の追究を道とする魔導士の本質である。キールも、なんだかんだ言って、また熱心に研究に打ち込むようになった。
もっとも、以前のように寝食を忘れて、というペースではなかったが。というより、メイがそうはさせなかったと言った方がいいかもしれない。キールが、研究に没頭してしまうと、家に帰るどころか寝ることも忘れてしまいそうになるのは以前と変わらない。
「キール、ちゃんと寝なさいよ!身体壊すよっ。もう、焦ることないんだからさ、もーちょっと余裕持ってやりなよ!」
と、メイがそばでうるさく言わなければ本当にそうしていたかもしれない。
若き秀才、人付き合いの悪い皮肉屋の緋色の魔導士に、遠慮なくものが言えるのは、先輩である筆頭宮廷魔導士のシオンとメイくらいなものだ。双子の兄のアイシュも言うのには言うが、キールの方がまともに聞かないことも多い。それもあって、キールが家に帰らない日が続くと、アイシュはメイに訴えることが多くなっていた。
「メイ〜、キールはまた無理してませんか?ここのところ家に帰ってこないんですよ〜」
「あー、また?ほんとにしょうがないわねー、いいわ、言っとく」
もうおなじみのようになってきたそのやりとりがあると、メイはキールの所に乗り込んで行って、ちゃんと家に帰れと説得するのである。
「これが一段落したら、言われなくても帰る」
「いつでも続きできるんだから、家にくらい毎日帰りなさいよ。もう、急いで完成させようなんて思わなくってもいいんだからさ、そんなにムキにならなくてもいいじゃん」
「ムキになんかなってない。区切りのつくところまでやりたいだけだ」
「だから、もうすこしゆとり持ってやりなさいってば。アイシュだって心配してるよ」
「兄貴がどう思おうと関係ない」
「関係なくないよ、あたし、頼まれてるんだから」
アイシュのことを出されるとどこかむっとするキールだが、結局メイに押し切られて不承不承帰宅する、というのがいつものパターンだ。
キールにしてみれば、自分がやりたいと言っているのに、なぜメイはアイシュの方の肩を持つのか、と言いたいところなのだが、それを口に出せるような性格であるはずもない。結局、メイに「あたしだって心配してるんだから」などと言われてじっと見つめられると、普段の無愛想な表情のままで、
「分かったよ、帰ればいいんだろ、帰れば」
と言い捨ててぷいと帰宅するのが常である。もちろんメイには、それが照れ隠しのポーズであることはすっかりお見通しなのだが。
そんなキールの表情を思い浮かべて、メイがくすりと笑った時、
「ねえ、キールが研究院に泊まり込むのって、メイとできるだけ一緒にいたいからじゃありませんの?」
ディアーナが、胸の前で指を組み合わせると、瞳をきらきらさせながらそう言った。
「そんなこと、ないない」
ディアーナのロマンチックな想像は、しかし当のメイにあっさり否定されてしまう。ディアーナは、不満そうにメイを見た。
「だって、メイは研究院に住んでるんですもの、だから」
「関係ないわよ、それは。だって、研究院に泊まってる日も、家に帰る日も、顔を合わせてる時間ってそんなに変わんないもん」
メイは、ぴらぴら手を振って見せながら、もう片方の手をアイシュ特製のクッキーにまた伸ばす。
「キールは、研究院にいる時間って、まず9割は部屋にこもりっぱなしね。もう、本の山と巻物の山に埋もれちゃってさ、いちんち中研究ばっかり」
「まああ…」
ディアーナは、瞳を見開くと、大きくため息をついた。彼女はといえば、あまり勉強が好きな方だとは言えない――これは、かなり控えめな表現だが。
「よく、頭から文字があふれ出しませんわね。…でも、じゃあメイとはいったいいつお話してるんですの?」
「だから、あたしがキールの部屋に押し掛けてくの」
メイは、えへへ、と笑う。どこか照れたような、嬉しそうな笑顔。
「でも気をつけないとねー、部屋にあるもの壊したりしたら、そりゃあもうすっごい怒るんだから。皮肉と嫌みの雨あられよ」
「そういうところは、ちっとも変わりませんのねえ」
もうちょっと甘やかな恋人たちの話を聞きたかったらしいディアーナは、ちょっとがっかりしたように小首を傾げてため息をついた。けれど、すぐに気を取り直したように、また指を組み合わせたいつものポーズで、瞳を輝かせてメイを見る。
「…でも、もうお付き合いをはじめてからずいぶん経つのですもの、キスくらい、なさいましたでしょ?」
「…え、やだなぁ、ディアーナったら〜」
メイは真っ赤になってぶんぶん両手を振る。
「いいじゃないですの、お話なさいましな」
「何言ってんのよ、もぉ、いいじゃん、そんなこと〜」
「…ええええええ〜〜!」
女の子同士の会話をぽかんと聞いていたアイシュが、ようやくそのやりとりの意味を理解したのか、素っ頓狂な声を上げた。
「…キ、キ、キスって〜、キールがですか〜!?キールと、メイがですか〜〜!?」
「やー、もう、参ったなー、ディアーナもアイシュも」
ぽこぽこと自分の後ろ頭を手のひらで叩いて、誰に見せるでもなく「参った」ポーズを演出しながら、メイは魔法研究院への道をたどっていた。
あの後、動転したり感涙にむせんだりと大騒ぎだったアイシュと、メイの話を聞きたがりながらアイシュにも、あなたはどうなんですの、とつっこもうとするディアーナとでお茶会ははちゃめちゃだった。なんとか二人をかわして、メイはやっと王宮を後にしたのだ。
残ったクッキーはおみやげにと包んで、持ち帰ってきた。
(今夜のおやつにしようっと。キールに、お茶でも入れたげて)
もっとも、キールは甘いものが全然だめだから、クッキーは自分用だ。白いレースペーパーの包みをそっと両手で持ち上げると、ふわりと甘い匂いがして、メイは思わず微笑を浮かべた。
(…キス、かぁ…)
微かに頬をばら色に染めて、メイはくすくすと忍び笑いを漏らした。
自分が、帰らないと言い、キールが、一緒にいて欲しい、と言ってくれたのは、去年の秋のこと。お互いの想いが通じ合ったのは、その時からだった。
とはいえ、研究院では今までと同じ日常が続いていく。メイは授業や課題が毎日びっしりだし(しばしば抜け出すのも相変わらずだが)、キールも上級魔導士としての仕事が絶えることはない。それに二人自身にしても、メイがいきなりおしとやかになるわけでも、キールの毒舌が消えるわけでもないのだ。なかなか、恋人同士、といった甘いムードに浸れる時間はやってこなかった。
それでも、あれから数ヶ月も経てば、少しはそんな機会もある。
初めてのくちづけは、キールが魔法の道具に使うという木の枝や薬草を取りに行くのに、メイもくっついていった郊外の森の中だった。メイは、その時のキールの優しい瞳や、あたりに降るようだった小鳥の声を思い出して、思わず頬がゆるむのを感じた。
「うふふふ、やっだー」
誰にともなく、照れ隠しの言葉を呟く。
けれど、それからもそう機会があったかというとそうではなく、多分回数を数えれば両手で足りてしまうだろう。メイとしてはちょっと物足りないと言えば物足りないのだけれど、毎日キールの近くで暮らせることで、とりあえずはそんな不満もさほど大きな固まりにはなることもなく、日々を過ごしていた。
思い出に浸りながらゆっくり歩いていた彼女だったが、夕焼けに染まり始めた空をふと見上げると、遠くから神殿の鐘の音が聞こえてきた。
「…いっけなーい、もう門限が近いじゃん!」
飛び上がって叫ぶと、メイは、研究院に向かってダッシュを始めるのだった。
研究院の近くまでくると、もう日はだいぶ傾きかけてきていた。が、門限にはどうやら間に合ったようだ。メイは、首を巡らせて建物を見渡した。
(…あ、キール、いるいる)
彼の部屋に明かりがついているのを見て、小さく頷く。外から帰ってくると、こうしてキールの部屋を確認するのが、もう癖のようになってしまっているのだ。
そのまま院の玄関の扉に向かいかけたメイだったが、ふと足を止めてもう一度キールの部屋の方を見た。瞳をくるりとくるめかせると、一瞬考えた後、そちらに向かって歩き出す。
建物の周りの植え込みを抜け、彼の窓の下まで来ると、彼女はそっと背伸びをして中をのぞき込んだ。予想通り、机に向かってせわしなくペンを走らせているキールの姿が見える。 いつもの、濃紺のローブに黒いマント。無彩色に近い服装を、緋色の肩掛けだけが鮮やかに彩っている。アイシュと違って度が入っていないため、素通しに近い眼鏡を透して見える緑色の瞳が、忙しく書物の上を行き来していた。
メイは、クッキーを持ち直すと、軽く窓ガラスを叩いた。
こつこつ、と堅い音がして、キールがふと顔を上げる。その視線が一瞬室内をさまよってから、窓から覗いているメイを捕らえた。
「やっほー」
メイは、小さく笑ってちらちらと手を振ってみせる。キールは、それを見て取るとペンを置いて立ち上がった。
「…何やってるんだ、お前」
窓を開けた彼の第一声はそれだった。
「ただいまー、キール。ねえ、入れてよ」
「まだ門限前だろう。扉はちゃんと開いてるぞ」
少し半眼になって、キールはメイを見下ろす。メイは、むっとして彼の顔を見上げた。 以前にも、メイがキールの部屋の窓を訪れたことがあった。その時は門限を過ぎていて、他に入れるところがなかったからだったのだが――
その時初めて、二人の心が少し触れあったと言ってもよかっただろう。一緒に呪文を書き写す作業をしながら、ぽつりぽつりと話をした。その時のことを、メイはずっと大事に覚えている。
「窓を叩けば入れてやったのに。次からはちゃんと言えよ」
キールはあの時、そう言ってくれたのだ。
(覚えてないのかなぁ、キールのやつ)
メイが、ぶっすりとそう思ったとき、不意に目の前に手が差し出された。
「…ほら、つかまれ」
驚いて見上げるメイに、キールが手を差し伸べたまま無愛想に言った。
「一人でよじ登って、また転ばれちゃかなわんからな」
「…うん!」
メイは、目をぱちくりしてから、大きく頷いてその手につかまる。壁にとんと足をついて力を込めると、引き上げてくれるキールの手にすがって窓枠の上に飛び上がった。
「…おっと、っととと…」
そこまではよかったが、勢い余って思わず前へよろめきかける。
(やば!)
転ぶ、と思った瞬間、さっと強い腕が彼女の身体を抱き留めた。ふわり、とキールの腕の中に倒れ込む形に受け止められて、思わずメイは彼のローブにしがみつく。
キールは、すとん、とメイの身体を床の上におろすと、片手を伸ばして窓を閉めた。
「…お前、結構重いな」
「な、なんですってぇ!?」
キールの腕に抱き留められて、ちょっとどぎまぎしていたメイは、あんまりといえばあんまりな彼の言葉にかっとなった。
「なによっ、それが女の子に向かって言う言葉!?もー、信じらんない!デリカシーってもんがないの、あんた!」
「扉が開いてるのに窓から無理矢理入ろうってやつに、デリカシーを語る資格があるのか?」
「…う゛…」
メイは、ジト目でキールを見上げる。
(…だって、あの時ああ言ってくれたのに。…やっぱ、忘れてんのかしら?)
メイが、胸の中でそう愚痴ったとき、キールがため息をつきながら身を返した。机の方に向かいながら、ぼそりと言い捨てる。
「…まあ、俺も入れてやるから言えって言ったけどな」
「え」
メイは、キールの背中を一瞬見つめてから、口元に思わず浮かんだ笑みをクッキーの包みで隠した。
「なんだ?それ」
振り向いたキールが、メイの手にあるレースペーパーの包みに気づいて尋ねる。
「あ、クッキーだよ。アイシュ特製」
「…ああ、そういえば、昨日なんか作ってたな」
兄がお菓子作りを始めるたびに家中に漂う甘い香りを思い出して、キールは顔をしかめた。甘いものが苦手な彼にとっては、バニラエッセンスの香りはうんざり以外の何ものでもないのだ。
「ディアーナのお茶会に、焼いてきてくれたの。残ったのをもらってきたんだー」
嬉しそうに言うメイを、キールはしかめっ面のままで見下ろした。
「姫のところで食ったのに、まだ入るのか?あきれるな、まったく」
「甘いものは入るところが別なの」
メイは澄ましてそう言うと、キールに笑いかける。
「キール、今夜も遅い?」
「どうしてだ」
「クッキーあるし、お茶入れたげるよ。休憩時間ぐらいとれるでしょ」
「…俺は、そんなもの食わんぞ」
「当たり前じゃん、これはあたし用。キールには紅茶ね。前にシオンにもらったのがあるから、あれ使うね」
「…ああ」
シオン特製の紅茶は、知る人ぞ知る一級品だ。何回かごちそうになった時のその味を思い出して、キールは頷く。メイは満足げにこっくりすると、ぱたぱたと扉の方へ向かった。
「ま、その前に晩ごはんだ!じゃあ、また後でね!」
「…食い気の固まりか、お前は」
部屋から出ていくメイの背中に、キールはぼそりと呟いた。幸いそれは、もう彼女の耳には届かなかったが。
メイの足音が扉の向こうに消えてしまうと、キールはまた机の方に戻った。が、椅子には落ち着きかねて、なんとなく書棚の前に立つ。一冊の本の背表紙に指をかけるが、しばらくためらったあげくやはり取り出すのをやめる。彼は、短くため息をついて窓の方に目をやった。
(…まったく…)
キールは、亜麻色の前髪を斜めにかき上げると軽く額を押さえた。メイが入ってきた部屋の窓を、指の隙間ごしに見つめる。
いつかの夜の再現のように、窓から現れた彼女。一瞬腕の中に舞い降りてきたメイの身体の重みを思い返して、キールは小さく咳払いをする。いくら彼が研究マニアの朴念仁だと言っても(これはメイがケンカの時に言った台詞のひとつだが)、恋する少女を腕に抱いたすぐ後に、先刻までと同じ調子で研究に集中できるわけもなかった。
それでも、やがてひとつ息をつくと、キールはゆっくりとした足取りで机に歩み寄った。複雑に絡み合ったいくつもの魔法陣。そして、補助呪文でびっしり埋まった巻物の山。机の上に広げられた最後の一巻を、彼は無言で見下ろした。
メイをこの世界に呼んだ、召還魔法。以前に二度目の実験をしたときは、同僚たちに魔法陣を書き換えられて結局失敗に終わったが、元々の理論構成そのものには自信があった。
新しい魔法陣を作り上げていく過程で、さらにいくつもの補助理論を組み込み、応用を加えて、確実なものへと磨き上げてきたのだ。
(どうしろって言うんだ…)
キールは、誰にともなく、口の中で呟いた。あとわずかの空白を残すのみの巻物をじっと見つめる。これが書き上がれば、次にやることはひとつしかない。
(…あいつには、言わなきゃな)
軽く目を閉じて、一息に呟く。
そう、メイには伝えなくてはならない。
召還魔法が、完成するということを。
その夜更け、メイは約束通りクッキーの包みとお茶道具一式を乗せた盆を捧げ持って、キールの部屋に現れた。
「キール!お茶入れてきたよっ、休憩にしよう」
彼女がやってくると、いつもはしんと静まり返ったこの部屋の空気が、急に生き生きと動き出す。普通の人には見えない、様々な精霊たちを映すことのできるキールの目には、メイの周りではあらゆる精霊たちがにぎやかにざわめくのを見て取ることができた。
「もー、お茶しにくるって言ってるんだから、場所くらい空けておいてよー」
メイはぶつぶつ言いながら、盆をおく隙間もないほどうずたかく書物や巻物の積み上げられたキールの机を片づけ始める。
「おい、あまりその辺にさわるな」
「さわらなきゃ片づけられないじゃない。文句あるなら自分でやってよ」
「ちゃんと系統立てて積んであるんだ、勝手に崩すな。…こっちの脇机に置けよ」
いつもはオーブが置いてある小さな机を指すと、キールはそのオーブを取りのけて本棚の下の段に押し込んだ。
「はいはいっと。…うん、まあ載るかな」
メイは机の上に盆を置くと、片隅から予備の椅子を引きずってきて腰を下ろした。この部屋で、この予備の椅子に座るほどゆっくりする人間は滅多にいない。アイシュとシオン、そしてメイくらいなものだろう。
「はい、キール。シオン特製紅茶だよ。うーん、いい香り!」
メイはポットから紅茶を注ぐと、にっこりとキールにカップを差し出す。
「ん」
キールはそれを受け取ると、視線を手元の魔導書に落としながら一口含んだ。
「こらー、ありがとうは?それに、休憩にしようって言ってんのよ。ちょっとくらい本、放しなさいよ」
「……」
キールは、カップを宙に支えたままメイを見た。軽く唇をとがらせていたメイは、キールの視線に少し目をぱちくりさせる。
「…なに?」
「…いや」
まだカップを同じ位置に浮かせたまま、キールは視線を彼女から外す。
けれど、その瞳は膝の上の魔導書にも戻らない。
「なによ、キール。どしたの?なんかあったの?」
メイが、首を傾げてキールの顔をのぞきこむ。
「なんでもない」
「でも、ぼーっとしちゃって」
キールは、顔をメイの方にねじ向けて、ゆっくり言った。
「…甘いものの匂いがして、気分悪くなっただけだ」
「…もー!」
メイは、たちまちぷんと頬を膨らませると、がさがさと音を立ててクッキーの包みをほどいた。
「ひとが心配してやれば、なんてこと言うのかなー、こいつは!こおぉんないい匂いなのにねー」
クッキーが現れると、今度は彼女の顔がぱっとほころぶ。
「うふふふ、おいしそー!どれからいこーかなっ」
くるくる変わる、彼女の表情。研究院の静かな空気の中で、底によどんだ澱のような感情の行き来を、それさえも距離を置いて眺めていた自分には、めまぐるしく戸惑うばかりだったにぎやかな少女。自分のペースを乱されて、苛立ち、頭を抱え、運命を呪ったこともあった。
けれど、今は――
キールは、クッキーをのぞき込んでいるメイの表情を見つめて、すこし微笑んだ。
(…今日は、やめよう。今夜言うのは――)
一夜の猶予くらいは、女神様も大目に見てくれるだろう。
(なにも、会えなくなるわけじゃない。終わる訳じゃない)
メイは、ひとつのクッキーを選び出すと、嬉しそうに笑う。
「昼間は、あんな騒ぎのせいで結局全種類は食べ損なったもんね!」
「…騒ぎ?」
キールは、彼女の言葉を短く繰り返す。彼女といれば、もうさほど珍しくもない単語だ。
「何の騒ぎだ?お前、また王宮でなんかやったのか」
「え、やだなー、騒いだのはどっちかっていうとディアーナとアイシュだよ」
「…兄貴?」
キールは意表をつかれた人物の名に、思わず目を瞬いた。
「なんで兄貴がお茶会なんかにいたんだ。…騒いだって、なんでだ?」
「…えー、あー」
メイは、クッキーをくわえて困ったように唸る。
「…まあ、いいじゃん。乙女の秘密ってことで」
「…兄貴のどこが乙女だよ」
「あたしが乙女なの」
わざと澄ました表情を作ってクッキーをかじるメイに、キールは僅かに苦笑を浮かべる。
「…よく食うな、ほんとに」
「いいじゃないの、お菓子は女のエネルギー源なのよ」
あっと言う間に三つ目のクッキーに取りかかるメイを見やって、キールはひょいと彼女の方に手のひらを差し出した。
「…ひとつ、くれ」
「……は?」
メイが信じられない言葉を聞いたという顔で、それでなくても大きな瞳をますます大きく見開く。
「ひとつくれって言ったんだよ」
「…あんたが?これを?」
メイが、大きく瞳を見開いたまま、キールとクッキーを順番に指し示す。
「エネルギー源なんだろ?じゃあ、一個くれよ」
「…女の、って言ったんだけどなぁ」
メイは、クッキーの山をかき回して、底の方からひとつ拾い上げた。興味津々に瞳を輝かせて、キールの掌の上に載せる。
「はい、一番小さいの。でも、甘いよ?アイシュの作ったのだし」
念を押すメイにはかまわずに、キールはそれを喉の奥に放り込むと、間髪入れず一気に紅茶で流し込んだ。
「…それ、意味ないじゃん」
あきれたように言うメイの方は見ないままで、目を閉じてふうとため息をつく。メイが、そんなキールを見つめて心配そうな表情を浮かべた。
「…やっぱ、キール、ヘンだよ?…疲れてるんじゃない?」
「いや――」
否定しかけて、思い直して短く頷く。
「…そう、かもな」
「もう、今日は帰りなよ。ちゃんと、家で寝た方がいいよ」
「…そうするか」
いつになく素直に頷くキールに、メイはいぶかしげな目を向ける。
「…ほんとに、疲れてるみたい。じゃ、ここ、片づけるから、キールも早く──」
「いいさ、お茶くらい飲んでいけば」
腰を浮かせて、机の上を片づけようとするメイを、キールは視線で引き止める。
「せっかく入れたんだろ。それくらいかまわないから」
けれど、メイはううん、と首を振った。
「キールが疲れてるのに、あたしだけお茶飲んでても、楽しくないもん。また、元気なときに一緒に飲も?」
そう言って少し首を傾げるメイの瞳には、真剣な心配の表情があふれている。キールは、その瞳に少し笑い返した。
「そうだな」
メイはこっくりすると、お茶道具を盆の上にまとめて立ち上がった。
「ちゃんと、早く帰ってね。アイシュだって、心配するよ」
「兄貴のことはいいって」
「よくないよ、今日だってね──」
と言いかけて、メイは、あ、と天井を睨んだ。
「…なんだ?」
キールが、言葉を切ったメイの顔を見る。彼女は、キールの顔を上目遣いに見上げた。
(…あの調子じゃ、キールが帰ったら、きっとアイシュ、今日の話しちゃうわよねー)
それなら、先に話して置いた方がいいかもしれない。メイは、ちょっと迷ってから口を開いた。
「…あのね、さっきの、乙女の秘密なんだけど」
「…あ?」
キールは、いきなり話題を戻したメイに、面食らって彼女の栗色の髪を見下ろす。
「アイシュが騒いだワケ。あのさ、えーと…」
いつもは歯切れのいいメイにも似合わず、困ったようにうつむく彼女を、キールは訝しみながら見守った。
「…あたしと、キールが、その…キスしたこと、あるっての、聞いたもんだから、それで──」
「…ちょっと待て」
キールは、どっと疲れが襲ってくるのを感じて額に手をあてた。
「なんでそんなこと話すんだ、お前は!」
「あ、あたしが話したんじゃないよ、ほんとに!あのね、ディアーナが聞きたがって、もーガンガンつっこまれちゃってさー、ごまかそうとしたんだけど──」
困ったように言い訳するメイの言葉を聞いて、キールはため息をついて目を閉じた。
顔を合わせるたびに「メイとは、仲良くやってますの!?」と瞳を輝かせて聞きたがる王女の姿が瞼の裏にくっきり浮かび上がる。あの姫が相手では、さしものメイも普段どおりにはいかないだろう。
「…ごめんね、その…」
「…いい」
照れたように頬を染めて、申し訳なさそうにキールの顔を見上げるメイに、キールはちょっと手を振って見せた。
「…やっぱり、家に帰るのはやめた。こっちで寝る」
「ええ?でも──」
「帰ったら、兄貴のやつ、ケーキでも焼いて待ってそうだからな」
一瞬、華やかなデコレーションケーキを掲げて、にこやかに弟を迎えるアイシュの姿が鮮やかに脳裏に浮かんで、メイは思わずぷっと吹きだした。
「…笑い事か、まったく」
情けなさそうに言うキールの顔を見上げて、ごめんごめん、とあやまりながら、笑いが止まらない。
「…でも、ほんとにそうしかねないかも。アイシュったら、大騒ぎだったんだよ、もう涙浮かべて感激しちゃって。『ううう、キールもちゃんと女の子とお付き合いできるようになったんですね〜』なんて言っちゃって」
おかしそうにアイシュの声色をまねてみせるメイを見下ろして、キールはぶっすりと言う。
「兄貴に言われたくない」
「あはは、そうだよね〜、それで、ディアーナもアイシュに、あなたはどうなんですのって――」
楽しげに、今度は親友のおしゃべりを再現してみせようとしかけたメイは、ふとそこで言葉を切った。
「…どうした?」
「…ん、ごめん、キール、疲れてたんだよね。ついしゃべっちゃって」
「いいさ」
メイは、ふといつもと違う何かを感じてキールの顔を見上げた。
いつもは、キールはもうちょっとあっさりおやすみを言う。メイが雑談に熱中しそうになると、明日も課題がどっさりあるんだからさっさと寝ろ、と話を切り上げるのはキールの方だ。それなのに今日は、帰りかけたメイについて扉の前までやってきて、寝ろともいわずに話につきあってくれている。
「どーしたの、いつもは、いつまでもしゃべってないで早く寝ろって言うくせに」
「…じゃあ、早く寝ろ」
素っ気ない言葉とは裏腹に、キールの宝石のような緑色の瞳が、ふっと苦笑してメイを見た。 眼鏡の奥のその瞳に柔らかな光が浮かんだかと思うと、彼の手がふわりとメイの頬に伸ばされる。指先が、微かに頬をかすめて、まっすぐな栗色の髪に触れた。
メイの心臓が、とくんと跳ね上がる。
(…キス、する…?)
今までの幾度かのくちづけも、こんな感じだった。なんとなく、互いにいい雰囲気になって、キールが優しい表情を見せてくれて――。メイは、1、2度瞬きして、そっとキールの瞳を見上げる。
が、キールの手は、メイの髪を一度、軽く梳いただけでふっと離れた。
僅かな間をおいて、ぽん、と彼女の頭にキールの掌が触れる。
「…おやすみ。ちゃんと寝ろよ」
いつもの言葉とともに、キールはメイから視線を離し、扉をすいと引きあけた。
「…あ、うん。…おやすみ」
メイは、拍子抜けしてキールの顔を見たが、気を取り直して盆を抱え直すとその扉から廊下へ踏み出した。出てから、あ、と振り返って念を押す。
「もう、ちゃんと寝ないとダメだからね?」
「わかってるって」
キールは、短く片手をあげてみせると、メイに頷きかけてドアを閉めた。静かに閉ざされたドアを眺めて、メイはちょっと唇をとがらせて、首を傾げる。
(…ちょっち、期待したのになぁ)
そう呟いてから、自分で自分の独り言に照れて、えへへ、と肩をすくめる。
(ま、研究室では、そーゆーのはナシかな)
どうもキールは律儀というか堅物というか、研究室は仕事の場なのだから、そこで女の子とどうこうするなんてとんでもないと思っている節がある。「シオン様じゃあるまいし」とぼそりと漏らすのを、メイは聞いたことがあった。
(まあ、確かにシオンはそーいうとこ、どうしようもないけどさー)
王宮きってのプレイボーイと名高いシオンは、しょっちゅう女の子が執務室に出入りしているという噂なのである。その彼を反面教師にしているもので、いっそうキールはそういう面でお堅いのかもしれない。
(んじゃ、これ片づけて寝ますか)
メイはよいしょ、と盆を持ち直すと、ぱたぱたと厨房の方へ向かうのだった。
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