それから2日後の朝、キールがメイを呼びに部屋へやってきた。その日の講義の準備をしていたメイは、きょとんとして戸口に現れた彼を見た。
「どこに来いって?」
「ソレイン長老の部屋だ」
魔法研究院は、魔法の種類とその研究の内容によっていくつかの系統に別れている。その中で、キールの属する系統の長老が、ソレインだった。
「あー、あのおじいちゃん?」
「…お前なぁ、長老をそういうふうに…」
「だっておじいちゃんじゃない」
メイはけろりというと、部屋を出てきた。
「了解、じゃ、行こ?」
ソレインの部屋につくと、メイは中にいるメンバーを見渡してちょっと首を傾げた。
(なんか、見覚えあるような?)
長老以下、緋色の肩掛けの魔導士がキールを入れて3人、緑の肩掛けが2人。そして、メイ。
(…あ、召還魔法の研究してるメンツだ)
彼女がそう気づいたとき、キールが口を切った。
「では、関係者がそろいましたので、召還魔法の研究結果についてご報告させていただきます」
淡々としたよそ行きの声に、メイはキールの横顔を見つめる。彼は、一同の顔を見渡しながら、言葉を続けた。
「第1回目の実験以後、理論の再構成及び魔法陣作成にご協力をいただいてきましたが、このたび召還及び帰還魔法がひとまず完成に至りました」
メイは、キールの言葉を頭の中で繰り返した。
(…完成?)
先日の、キールの様子が不意に彼女の頭の中に蘇った。
なんだかとても疲れているような、そのくせ妙に優しい瞳でメイを見て──
「…従いまして、今回、完成した魔法陣の実験を──」
「あたし、帰らないから!」
メイは、頭の中に何かが閃いた瞬間、そう叫んでいた。キールの報告を聞いていた一同が、驚いて彼女を見る。
キールだけが、まるで彼女が叫ぶのを知っていたかのように、ゆっくりと彼女の方を振り向いた。
「…静かにしないか、メイ」
「だって!」
「俺は、完成した、と言ったんだぞ」
そういう彼は、いつもの、小憎らしいくらい落ち着いた表情だ。メイは、彼の瞳の奥を探ろうとしたが、眼鏡の向こうの緑の水晶からは、どんな表情も読みとることができなかった。
「つまり、帰還と召還、双方向の術式が可能なんだ」
「…そう…ほうこう…?」
「行くことも、帰ることもできるってことだ」
大きく目を見開くメイから、居並ぶ魔導士たちに視線を戻して、キールは説明を続ける。
「…実験では、まず異世界からの被召還者、メイ・フジワラを彼女の世界に帰還させます。その後、再びこちらに再召還を行います。これによって、術式の経過のより詳しい解明が期待できます」
声のないざわめきと、視線の囁きとがしばらく魔導士たちの間に交わされる。
メイは、ただ息を飲んでキールの言葉に聞き入っていた。
「今回完成した魔法陣は、多大な魔力を消費し、また、空間を不可逆な段階まで偏向させる可能性が高いため、連続して使用するのは難しくなっています。同一世界同士の連結は、3回が限度と思われます」
「連続しなければ、可能なのかね」
緋色の魔導士の一人が問いかける。
「理論的には可能です。ただし、逆説的に言えば連続して使用した方が、同一世界との往来が容易です。その双方の点を勘案して、最適な間隔は10日──これがぎりぎりです。
十分に間隔をあければ再度の使用は可能ですが、最低でも空間の安定が当初の状態に戻るまで、1年程度の期間が必要だと思われます」
その後も、魔導士たちの間でいくつものやりとりがかわされた。メイにはまだちんぷんかんぷんな、高度な魔法理論の話や、魔法陣の構成についての議論、補助魔法の配置。彼女は、長老や先輩たちのどんな質問にも、少しもためらわずにすらすらと答えを返すキールを、息を詰めて見つめ続けていた。
やがて、最後まで質問を繰り返していた緋色の魔導士の一人が、納得した表情で口を閉ざした。緑の魔導士たちはとうに聞き手に回っていたし、メイはそれ以前に聞いて理解することをあきらめている。長老は、その場のみんなを見回して頷いた。
「…よくやってくれた、キール・セリアン。今回の功績は、まさに君のものだ」
「いえ、そのお言葉は実験が成功してからいただきます」
キールは、軽く頭を下げるとそう言った。
「…では、帰還魔法の実験は3日後、夕刻の鐘の二刻後とさせていただきます」
居並ぶ魔導士たちがそれぞれに頷き、メイの方を見る。キールは、他のみんなから一呼吸遅れて、ゆっくり彼女の方を見た。
「…それでいいか、メイ」
「…え、あ、うん」
なんだか、思考力に一時停止がかかってるみたい、と頭のどこかで思いながら、メイはこくりと頷いた。
彼女の返事が合図だったかのように、ばらばらと魔導士たちが立ち上がり、扉をくぐって出ていく。メイは、それをぼんやり見送った。
他の魔導士たちが出て行ってしまうと、キールは長老に会釈をしてメイの背を軽く押した。
「ほら、行くぞ、メイ」
彼の声に、ようやく我に返ったように、メイはキールの顔を見上げて目を瞬かせる。
廊下に出て、後ろで長老の部屋の扉が閉まると、メイはくるりとキールの方を振り向いた。
「……あたし、帰れるの?」
「そう言ったろ」
「帰って、それで、またここに戻ってこられるの!?」
「そう言った」
「ほんとに、ほんとに!?ちゃんと、ここに?!」
「そうだ」
「………すごいっっ!」
メイは、頬を紅潮させるといきなりぴょんとキールの首に飛びつく。
「お、お、おいっ――」
予想外のメイの行動に、キールは真っ赤になりながら彼女の腕を引きはがそうとする。
「すごい、すごいよ、キール!さすがっ!」
「わかった、わかったから離れろ――」
「やったね、もー、天才!えらいっ!」
うろたえまくるキールにひっぺがされながら、メイは鈴のような笑い声をあげた。
「ありがと、キール!もお、すっごい感謝だよっ!」
「…嬉しいか?」
頬を染めて満開の笑顔で笑うメイを見やって、キールは短く苦笑した。
「うんっっ!」
力一杯頷き返すメイの頭を、いつものようにぽんと軽くなでる。
「…今回の魔法は、お前の魔力も計算に入ってる。3日後まで、体調崩すなよ」
「まっかしといて!」
メイはガッツポーズを作ると、天井に向かって拳を突き上げた。

 それからの3日間、メイはそれこそ大騒ぎだった。親友のディアーナやシルフィスに帰れることを知らせ、そして10日後の帰還とおみやげを誓ってみせ、騒ぎを聞いて顔を出したセイリオスにもついでに土産のリクエストを聞いて、彼を苦笑させた。レオニスには、彼が辞退するのもかまわずにこの世界でのいわゆる「骨董品」を持ってきてあげると一方的に約束をする、ガゼルには20回くらい戻ってくると約束させられて怒り出す、町へ出ればイーリスに受けそうなアクセサリを探してくると請け合う。町はずれのリュクセルの屋敷まで行って、ラジカセの部品を探してきてあげると約束し、王宮ではシオンに、俺の愛を振り切って帰っちまうのか、と彼一流の芝居めいた口調で訴えられて、返事代わりに10日分のボディブローを置き土産にした。アイシュの所に顔を出したときは、彼にいつもの調子で、きっと帰ってきてくださいね〜、と言われて、軽い調子で請け合った。アイシュは、メイを見て何か言いたそうだったが、彼女がつむじ風のように立ち去ってしまったので、やっと口を開きかけたときにはもう彼女は彼の前にはいなかった。アイシュは、彼女が出ていった扉を見つめて、キールの所に、ね、とちいさく呟くのだった。

 当のキールはと言えば、まるで台風の目の中にいるように、静かに過ごしていた。
――少なくとも、外見は。魔法陣や巻物を最終的に細かくチェックし、オーブの配置を計算し直し、触媒の枝や薬草を5回は揃え直した。研究院を出入りするたびに顔を覗かせるメイを、いいからこっちは任せてちゃんと準備をしておけよ、とそのたびにさりげなく追い払って。

 実験の前日、メイがまたキールの部屋にやってきた。扉のところで顔を覗かせ、中を見回す。
「キール、ちょっといい?」
「なんだ?…もう準備はいいのか」
「んー。っていうかぁ、ほら、来たときのまんまで帰んなきゃまずいじゃん?だからそんなに持ってくもの、ないし」
メイはちょんちょん、と部屋の中に入ってくると、床の上を見回した。
「また、本が増えてる」
「蹴るなよ。…で、なんだ」
「うん、向こうでの対応なんだけど」
メイは、机の前のキールの方を見て、両手を前で組むと、視線で促す彼に口を開く。
「どういうふうに言おうかなって。こっち来てた間のこと」
「どうと言ってもな」
「…ファンタジーの王道だとね、やっぱ信じてもらえない訳よ、普通。異世界に行ってましたーなんて言ってもうそつき呼ばわりされちゃって、悲しみに沈むヒロインっていうのが一般的かなーって」
「……」
キールは、椅子の肘掛けに頬杖をつくと、天井を見上げながらしゃべるメイを見やった。
「でなきゃ、サイアク精神病扱いかなー。ま、それはちょっち極端なコースかも知んないけど。どっちにしても、信じてもらう手間暇が惜しいじゃん?10日しかないんだもんね」
メイは、自分でそう言って頷くと、キールの方を見た。
「…で?」
キールは、やはり短く促す。
「うん、だから、基本は覚えてませんで通そうかなって思ってんの。…でも、やっぱとーさんやかーさんには、ちょっとくらい信じて欲しいかなぁ。どう言えば、無理なく説明できると思う?」
「俺に分かるか」
というのが、キールの返事だった。唇をとがらせかけるメイにキールは短く肩をすくめてみせる。
「お前の世界で、魔法で召還されたっていう事実がどれだけ信憑性を持って聞こえるかは、俺には分からないんだからな。お前の世界で、それはあり得ないことだと一般的に思われてるなら、親にも信じさせるのは、難しいんじゃないのか」
「…うん」
メイは、唇に指を当ててちょっと考え込んだ。
「でも、信じてもらえなくって、家出だったとか思われちゃって、へたに家に閉じこめられたりしたらさ、みんなへのおみやげ、買いに行けないじゃん?せっかくの10日間だから、ちょっとは遊びにも出たいし」
「…土産なんて、どうでもいいだろ」
キールは、僅かに瞳を細めてメイを見た。
「まず、自分のこと、考えろよ」
「だって約束したもん」
「誰もお前の約束なんて、期待してないって」
「またぁ、そーいうこと言う」
ぷっと膨れるメイに、キールは椅子から立ち上がって彼女の方にやってきた。そばに来た彼を見上げるメイの身体を、くるりと扉の方に向かせてそちらへ押しやる。
「いいから、もう寝ろ。安定した魔力が必要なんだから」
「じゃ、明日も補助魔法かけてよね?」
首をひねって肩越しに見上げるメイに、キールは短く頷いた。
「ああ、分かってる」
満足そうに笑うと、メイは扉にととっと歩み寄った。ひょいと外に出ると、振り返って小さく手を振る。
「おっやすみ〜」
「ああ、おやすみ」
扉が閉まる。キールは、しばらく遠ざかるメイの軽い足音を聞いていたが、やがて小さく息を吐き出すと机に戻るのだった。

 そして、夜が明けると、実験の当日だった。
穏やかに晴れた空を見上げて、メイは一日そわそわして過ごした。
(なんで夕方なのかなー、朝イチにしてくれれば、こう、待つヒマなしでたたーっと進むのに)
キールは、こういう時空魔法に関係する魔力は、夜の方が強まるからだと教えてくれたのだったが、メイの気持ちとしては今日だ今日だと思いながら待つのはなかなか落ち着かないものがある。
キールとは、朝一度会っただけで、それから顔を合わせていなかった。彼は、朝からホールにこもりきりで魔法の準備をしているのだ。メイは、自分も手伝うと言ったのだが、
「お前がいると気が散る」
と追い払われてしまった。時間の前になったら来い、とだけ言われている。
メイは、部屋の中を見回した。いつもはキールに見苦しいから片づけろと小言ばかり言われているのだが、さすがに10日も空けるとなると少しは片づけておかなきゃという気になったおかげで、今はシルフィスの部屋と比べても引けを取らないくらいきちんと整理されている。
(よし)
メイは頷くと、窓から外を見た。研究院の庭の樹が、風に揺れているのが見える。
(──うちの庭、クロッカスあたりがもう咲いてるかな)
彼女は、自分の世界の自分の家の庭に思いを馳せた。それも、もうすぐこの目で見ることができる。メイは、くすぐったげな微笑をうかべて立ち上がった。

ホールに入ったメイは、そこにいる顔ぶれに驚いた。魔法研究院の、この間の魔導士たちは当然なのだが、ディアーナ、シルフィスをはじめとして、アイシュやレオニス、ガゼル、シオン、なんと多忙を極めるはずの皇太子殿下までいる。
「わあ、なんだぁ、殿下まで来てくれたんだ?」
「ああ、見送りくらいはしたいと思ってね。我々の実験のせいで君にはずいぶん迷惑をかけたけれど、やっと一区切りがつけられるわけだ」
「お兄様ったら、どうしてもここに来るって言って、謁見を3つも明日に延ばさせたんですのよ」
横からすっぱ抜くディアーナに、セイリオスは、こら、と妹を軽く睨む。
「あはは、ありがと、殿下」
「まったく、挨拶なら俺がスペシャルなやつをちゃあんと言付かって差し上げると言ってるのにさ」
後ろから、夕闇の青色の髪をした筆頭宮廷魔導士が口を出す。
「却下だ。お前に女性あての伝言を頼むほど、私は礼儀知らずじゃない」
「おお、なんてことおっしゃるんだか」
シオンは、ひょいと肩をすくめると、メイの方を見て微笑んだ。
「ま、嬢ちゃん、気楽に行って帰って来いや。キールの魔法なら大丈夫だ…って、まあこっちに来ちまったのはあいつの魔法の失敗からだっけな」
悪戯っぽく言うシオンを、セイリオスが視線でたしなめる。
「こら、シオン。…メイ、しばしのお別れだが、もう一度会えることを信じているよ」
「やだな、もちろんじゃない」
笑って首を振るメイの手を、ディアーナが横からひしと捕まえた。
「…ほんとに、ほんとですわよ、メイ?」
「…ディアーナ」
驚いて薄紅色の髪の親友を見たメイは、彼女が泣き出しそうな表情をしているのに気づいて目を瞬かせた。
「きっと、戻ってきてね?また、お茶会をしましょうね」
「…大丈夫だよ、10日したら、キールがちゃんと呼び戻してくれるんだから」
「ええ、ええ、そうですわよね…でも、わたくし…」
ディアーナのスミレ色の瞳から、透明な滴がぽろりとこぼれ落ちる。
「…姫、メイが困っていますよ」
透けるような金髪の剣士が、うつむいたディアーナを支えるように声をかけた。
「シルフィス…」
シルフィスは、メイを見て穏やかに微笑みかけた。
「よかったですね、メイ。気をつけて…っていうのもおかしいですけど、無事に、戻ってきてください」
「…うん、ありがと」
ディアーナが、メイの手を離して、自分の涙をそっと華奢な指先で拭う。
「ごめんなさいね、メイ、おかしなこと言って。…でも、わたくし、つい…いつも、仲良くおしゃべりしてましたのに、メイがほんとは、ほんとに遠いところから来た人だったんですのねって──急に身にしみてしまって」
「…私もですよ、姫」
シルフィスが、ディアーナをなだめるように言った。それからメイの瞳を見て、ちょっと困ったように微笑む。
「メイは異世界から来たって、頭では分かっていたのに、なんだか…今になって、急にしみじみ実感してしまって。…でも、待っていますから。また、10日後に会いましょう」
「…うん」
メイは、なんとなく胸がいっぱいになるのを感じながらシルフィスとディアーナに頷いて見せた。今まで、ちょっと帰ってくる、くらいのつもりだったのが、不意に大変なできごとの中心にいるような気がしてきて、周囲を見回す。
レオニスは、入り口近くの壁際に黙って立っている。ガゼルはその側に、神妙な面もちでやはりおとなしくしている。アイシュは、ホールの中程にある灯りの側で、両手を前でぎゅっと握りあわせてこちらを見ている。メイは、一番近くにいたレオニスとガゼルの方へ、小走りに駆け寄っていった。
「隊長さん、ガゼル」
「……」
レオニスは、いつもの無言のままで、けれど瞳にどこか優しい色を漂わせて、自分の胸くらいまでしかない小柄な少女を見下ろした。
「あたし、帰ってくるね。そんで、戻ってくる。おみやげ、期待してて」
「…気を使うな」
レオニスは、短く答えた。
「私は、魔法のことはよく分からんが…無事、戻ってこられたなら、それが一番の土産だろう」
「そうだぜ、メイ」
レオニスがいるので、王族の方々のいる場所へ一人で顔をつっこみに行くわけにも行かず、メイに話しかけたいのを我慢していたらしいガゼルが口を切った。
「帰って来いよな。絶対、絶対だぞ!約束したんだからな!」
「もお、ガゼルったら」
メイは、腰に手を当ててガゼルを見る。
「あんたったら、こないだから何十回おんなじこと言ってんのよ。分かってるわよ、約束したから」
「ほんとだからな!」
勢い込んで繰り返す少年にぴらりと手を振って見せて、メイは今度はアイシュの方を振り向く。
「アイシュ」
「はい、メイ」
アイシュは、いつものようにおっとりとした微笑を浮かべて、歩み寄ってくるメイを見た。
「大丈夫ですよ〜、メイ。キールを信じててください。…少しでも不安なところがあったら、キールがあなたを帰還魔法で帰すなんて言うわけがありません〜」
灯りの加減か、いつもは彼の容貌を隠してしまっている分厚い眼鏡が透けて見える。その向こうの、キールと同じ緑色の瞳が優しく微笑んでいるのを見上げて、メイはふと胸がつかえるような気がした。
ホールの向こう側、一番奥にいるキールの方を振り返る。
さっきまで、魔法陣や触媒の最後の調整をしていたキールが、いつの間にかすべての準備を終えて、魔法陣の手前に立っていた。
「――キール…!」
思わず小さく叫んで、彼女はキールの方へ走り寄る。栗色の髪を揺らせて駆け寄ってきた彼女を見て、キールはほんの少し、唇を緩めた。
「キール、あたし…」
「もう一度、補助魔法をかけるぞ」
キールは、メイの言葉を遮ると、軽く彼女の額に触れた。メイは思わず、一瞬目を閉じる。その、彼女の顔を見下ろしてから、キールは参観に――そして見送りに集まった人々の方を向く。
「…みなさんは、魔法陣から離れていてください。量的には僅かですが、あなた方からの魔力の干渉を避けたい」
その言葉に応じてホールの端へ下がっていく人々を見送ると、キールはメイを促して魔法陣の真ん中へ歩き出した。
大きな魔法陣だった。中央に立つと、見守っているみんなの顔は、ホールの隅の影になってほとんど見えない。メイは、足元に記された、魔法陣の意味の中央を示す図形を見つめた。
「メイ」
キールの声に、顔を上げる。目の前に、鈍い銀色に光る腕輪が差し出された。
「…なに?」
「この腕輪は、中に魔法陣と、補助魔法呪文を書いた紙が仕込んである。…10日後、再びここで魔法陣を発動させたとき――」
キールは、身振りで短く周囲の魔法陣を指す。
「この腕輪の魔法陣が、お前の魔力に呼応して、確実にここと、お前のいる場所の間に異界の門を開く道しるべになる」
メイは、シンプルな形の腕輪をキールの手から受け取った。
「ビーコンの発生装置、ってことね」
「…?」
「あ、いいの、いいの。うん、分かった。これつけてれば、ここに誘導されるってことでしょ」
一瞬訝しげな顔をしたキールに笑いかけて、メイはすぽんと右の手首に腕輪をはめる。
遠い灯りを反射して、腕輪は鈍く輝いた。
次に口を開くまで、ほんの一瞬、キールは間をおいたようだった。
「…だから」
メイは顔を上げてキールを見る。
「もし、こちらに戻れない事情ができたら」
キールの緑色の瞳を見る。
「この腕輪を、外すといい」
自分の姿が映っている、ふかい緑色の水晶。
「それで、ここへの再召還魔法は発動しなくなる」
(キール?)
「長老たちには、3回の連続使用が可能だと言ったが、――俺は、2回しか使わない」
メイは、右手首を腕輪ごとぎゅっと握りしめた。
「次は、きっかり10日後の、この時間だ。…分かったな?」
「……うん」
メイは、頷いた。
キールの瞳に、微笑が浮かぶ。
「大丈夫だ、任せとけ。――ちゃんと、帰してやるから」
そして、一瞬、メイの瞳を見つめる。
メイも、キールの瞳を見つめる。何かを探すように。
「――集中、してろよ」
最後にそう言い残すと、キールは身を返した。早足で魔法陣の外へ出てゆく。メイは、その背中をじっと見送ると、大きく息を吸い込んだ。

 キールの、低く呪文を詠唱する声が、ホールの高い天井に反響する。呪文が紡がれていくにつれて、魔法陣の最外縁から淡い光の壁が立ち上がってゆく。メイは、キールの声を聞きながら、順々に内側の円に沿って吹き上がる幾重もの光の筒を見つめていた。内側になるにつれて、光は強くなる。全身を真っ白な光に包まれて、とうとうメイは、まぶしさに耐えきれずに目を閉じた。それと同時に、いつか感じたのと同じ耳鳴りがし始めているのに気づく。
(――これ)
初めて、ここへ召還されたときも、こんな感覚があった。
不意に、彼女の胸は高鳴り始めた。
(帰れるんだ)
頭の中に、懐かしい景色が広がる。
(キール!すごいよ、ほんとに帰れるんだよ!)
メイは、呪文の詠唱を続けているキールに、胸の中で叫んだ。

 ディアーナたちは、魔法陣の中に幾重にも光の壁が立ち上がるのを、固唾をのんで見守っていた。やがて、最も中心のあたりから、天井を突き抜けるかと思えるほど高い光の壁が吹き上がる。せわしなくあたりを見回していたディアーナが、セイリオスの腕をつかんだ。
「…お兄様、あれ…!」
魔法陣の周囲に配置されたオーブには、彼女たちの見たこともない景色が映し出されていた。1回目の実験の時のオーブを覗いていた魔導士が、おお、と叫び声をあげる。あの時と同じ景色だ、と興奮したように叫ぶ魔導士の言葉を聞いて、一同は息を飲んで光の壁を見上げた。
やがて、ゆっくりと光は衰え始める。外側から、幕を切って落とすように、光の壁はすとんと魔法陣に吸い込まれてゆく。
――最後の壁が消えたとき、その中心に、メイの姿はなかった。
一瞬の沈黙の後、ゆっくりとキールは一同の方を振り向いた。
「…実験は成功です。メイ・フジワラは、彼女の世界に帰還しました」
その宣言を聞くや、魔導士たちの一角に、どっと歓声がわき起こった。
――メイの友人たちは、それぞれにまだ息を詰めて魔法陣を見つめていたり、長い長いため息をついていたり、ただ黙って天井を見上げていたりしたのだったが。


 目を閉じていても差し込んでくるような光の洪水が、不意に反転して真っ暗になった。
かと思うと、ゆっくりと明るさが戻ってくる。それと同時に、痛いほどに高まっていた耳鳴りが、潮が引くように遠ざかり始めていた。
(――目を、開けなきゃ)
メイは、自分にそう言い聞かせた。その前に、目を閉じたままで自分の状態を総点検する。
手も、足もちゃんと動く。倒れてはいない。2本の足で立っている。もう、耳鳴りもほとんど消えた。
(――ええい!)
メイは、胸の中で気合いを入れると、ぱっと瞼を開いた。
夕闇の迫る、ビルと瓦屋根の町並み。
微かに流れてくる、クラクションの音。
排気ガスのにおい。
メイは、勢いよく腕を上げると、周囲のものを片っ端から指さし点呼しはじめた。
「…車!…バイク!…自転車!…電柱!…ビル!…学校前のパン屋さん!」
くるりと後ろを向いて、煉瓦製の柱にどん、と手をつく。
「…学校の門!」
メイは、大きくバンザイをして飛び上がった。
「…やったぁ!キール!――やったよっっ!大成功!帰ってきたよーーーっ!」
そして、ぱっと向きを変えると、すばらしい速さで走り出した。懐かしい、自分の家の方に向かって。