キールは、微かにため息をついて、机の上に広げた魔導書から目を上げた。
瞳を閉じて、軽く額を押さえる。指のすきまから魔導書をちらりと見下ろすと、彼は本を閉じて椅子から立ち上がった。どのみち、さっきから開いてはいたが、内容は全然頭に入っていなかったのだ。
いったん立ち上がりはしたが、それから何をどうしようというつもりがあったわけではない。結局、もう一度どさりと椅子に身体を投げ込んで天井を見上げる。
(……)
朝から、ずっとこんな調子だ。まだ、メイがいなくなって1日目だというのに。
キールは、唇を僅かに歪めて苦笑を浮かべた。
(…まったく…)
予想はしていたが、彼女がいない──それだけで、自分の日常がこんなにがらんとしてしまうのか。
想いを伝えた時にも、彼女がいなくなったらきっと自分は立ち直れない、と言ったことがあった。けれど、今思えばその時は、本当にどんな気持ちになるかを分かっていたかどうか怪しいもんだ、と彼は自嘲気味に思った。
彼女を帰した実験の後、シオンに、嬢ちゃんがいなくてお前も寂しい10日間になるな、とからかわれた時は、
「久しぶりに静かになりますから、溜まっている仕事を片づけますよ」
と言い返した。もっとも、シオンは全然信じていない様子で
「ま、どれくらいはかどるかやってみな。いつもの半分もできれば、ごほうびをやるぜ」
と言ってけらけら笑ったのだったが。
たった半日で、キールはシオンの言葉があまりにも見事に的を得ていたことを知った。
朝、廊下を歩いていても、おはよう、と朗らかに駆け寄ってくる彼女の姿がない。食堂で食事をしていても、前に彼女は現れない。おもしろ半分、心配半分に牛乳を勧める声も聞こえない。彼の部屋を覗いて、課題ができなかったと舌を出す悪戯っぽい顔も見えない。
研究院の廊下は妙に長く、玄関ホールの天井はうつろに高く、自分の研究室は静まり返って落ち着かなかった。
(…こんなに、静かだったか、この部屋は)
キールは目を閉じて、メイが来る前の自分の毎日を思い出してみようとした。けれど、それはもうずいぶん遠い昔のことのようで、灰色の霧の向こうにぼやけて見えなくなってしまったかのように感じられた。
飽きることなく、この部屋で研究に明け暮れていたはずだ。今だってそれは同じはずなのに――彼女が来る前は、一体どんな風に一日が過ぎていたのだったか。
(あいつが来てからだって、半日やそこら、顔を見ない日だってあったじゃないか)
キールが研究に熱中したり、メイが出かけていたり、もちろんケンカをして互いに意地を張っていたり――半日、1日と会わない時もあったけれど――でも、確かに彼女は存在していたのだ。研究院に、この町に、この世界に。
今、メイは、この世界にいない。
それだけで、世界中の意味が変わってしまったかのようだった。
それでも、1日目はなんとかやり過ごしたが、2日目の午後になると、ますます研究院にいづらくなってきて、キールはとうとう休みを取って家に戻ろうと思いついた。
事務の担当者に簡単な届けを出すと、受け取った魔導士は目を丸くしてキールを見た。研究院に入って以来、徹夜、泊まり込み、あげくは数週間に渡って家に帰らなかったりすることはあっても、早退だの休暇だのは一度もなかったキールのことだ。それも仕方ないことだろう。
それでも、普段のキールなら、その好奇心にあふれた視線に対して短い皮肉のひとつも口にしたかもしれない。が、今の彼は少しもそんな気になれず、ただ相手の視線を無表情にやり過ごして外に出た。
穏やかに晴れた青空も、今の彼にはただがらんとした青い空洞にすぎない。メイがいたら、「いいお天気―!」と嬉しそうに言うだろうな、と考えて、キールは僅かに微笑を浮かべた。
普段通り夕方に帰宅したアイシュは、弟が先に帰っているのを見て、目をぱちくりさせた。帰らないことはあっても、先に帰っていたことなど王都に来てから一度もなかったキールである。
が、アイシュは口に出しては何も言わず、ただ、ただいま、と挨拶をしてにっこり笑った。
「お腹が空いたでしょう〜?夕飯にしますね。何か食べたいものはありますか〜?」
「別にない」
「ん〜、それじゃ、何かキールの好きなもの、作りますね〜」
膝に書物をのせてはいるが、それを開くわけでもなく居間のソファに長くなっているキールを見やって、アイシュは少し表情を曇らせた。しかし、声は明るく励まして言う。
手早く夕食の支度を整えると、アイシュはキールを食卓に呼んだ。キールは、面倒そうにテーブルにやってくる。
「ささ、いただきましょう〜。一緒に晩ご飯なんて、ずいぶん久しぶりですね〜」
「……」
キールは、黙ったままスプーンを手にして、温かいコンソメスープをすすり始める。
しばらくは、当たり障りのない話題をアイシュがちらほらと話しながらの夕食が続いた。
いつものキールなら、興味のない話題はうるさいなと切り捨てたかもしれない。が、今日はああとかうんとか、短い相づちを打ちながら黙々と食べている。けれど、それは話に興味があるからではなく、逆に全然聞いていないからだということにアイシュも気づいていた。
食事が終わると、アイシュは香りのいいコーヒーを入れてキールの前に置いた。そうしてから、砂糖壺を引き寄せて、スプーンに砂糖を2度すくって自分のカップの中に入れる。
牛乳も甘い物もだめなキールは、ブラックコーヒーを飲む。
「…2日目ですねぇ…」
クリームもたっぷり入れたコーヒーを一口飲んでから、アイシュはほうっとため息をついて言った。キールは黙ったまま、カップから立ち上る湯気を視線で追う。
「…姫さまもね、いつもにも増してお勉強に身が入らないんですよ〜。メイはどうしてるかしらって、そればっかりです」
「無事に帰ってるさ」
「そうですねえ…」
アイシュは目を細めて宙に視線を遊ばせる。
「メイが戻ってきたらお茶会をするからって、姫さま、僕にいっぱいお菓子の注文をなさるんですよ〜。ナッツケーキ、チーズタルト、フィナンシェ、ミルフィーユ…そんなにたくさん、食べ切れませんよって申し上げるんですけれどね〜、でも、メイが好きだからってあれもこれも追加なさるんです」
「…女ってのは、どうしてあんなに甘いもんが好きなんだろうな」
キールの頭の中には、ほんの数日前の夜、アイシュのクッキーを嬉しそうにかじっていたメイの姿が浮かんでいたのかもしれない。
「明日になったら、またリストが伸びてるかも知れません〜」
「馬鹿正直にみんな作らなくてもいいだろ」
「いいんですよ〜、僕も作りたいですから」
「無駄になるかも知れないぞ」
短く言ったキールの口調に、アイシュは緩めていた口元をふと引き締めて彼の顔を見た。
「…どういう意味ですか、キール…?」
「言ったとおりだよ」
言葉こそ、以前の彼のように皮肉っぽかったが、今のキールの表情はそういった余裕とはほど遠かった。
「10日後に、いえ8日後に再召還魔法を行うんでしょう?まさかあなたが、その魔法に自信がないのに、メイを帰したりした訳はありませんよね〜?」
「──魔法は成功するさ。それは自信がある」
「それなら、どうして…?」
キールは、少しの間迷っているようだった。けれど、胸を灼く不安を誰かに吐き出したい気持ちが、普段の兄への反発心に勝ったらしい。瞳こそアイシュから逸らしたままだったが、彼は口を開いた。
「…魔法が成功しても──メイがこっちを選ぶとは、限らない」
「…選ぶ…」
僅かな問いを含ませて、アイシュが繰り返す。
「──あいつは帰りたがってた。分かってたさ、それは。当たり前だ」
「でも、メイはここにいることを選んだんでしょう?キールの側に、一緒に──」
「選んだって──それで帰りたくなくなるわけじゃないだろう」
キールの言葉は、心の奥の一番柔らかな部分を無理矢理削り出すナイフに似ていた。
「帰らないって言ったさ。だけど、生まれて育った世界を、親や家族や友達を、思うのをやめさせることができるか?」
「…キール」
キールは、そこでふと口をつぐんだ。コーヒーの黒い水面をじっと見つめる。
「…あいつに、魔法陣を持たせてある。…俺が召還魔法を発動した時、それを持ってれば──あいつはここに戻ってくる」
キールの言葉の外に含まれた意味に気づいて、アイシュは息を飲んだ。
「…選ぶ、というのは、じゃあ…」
キールは、兄の視線を避けるようにふらりと立ち上がった。
「キール、メイにそれを言ったんですか──魔法陣を手放したら、ここへは──」
「言ったさ」
キールは、短く吐き出す。
「だから、わからない。メイが──」
微かに声をとぎらせて、キールは言い直した。
「…兄貴のケーキが、無駄になるかどうかは、な」
キールは、夕食前と同じようにソファにどさりと腰を下ろした。アイシュは、冷めていく弟のコーヒーカップをしばらく黙って見つめていた。
やがて、ふっと顔を上げて、視線を宙に向ける。
「…じゃあ、僕はやっぱり、ケーキをたくさん、たくさん焼きます〜」
キールは、少しだけ視線をアイシュの方に動かした。
「僕は、帰ってきてくださいねって言って、メイはうんって言ってくれましたからね〜。今は、それを信じます〜…それに」
アイシュは少し微笑んで弟の方に顔を向ける。
「…メイは、キールのこと、好きなんですから〜。きっと、キールがメイに帰ってきて欲しいって思ってるのと同じくらい、キールのところに帰りたいって思ってますよ」
そう言ってから、アイシュはちょっと困ったような笑い声をたてた。
「…あ、まだ彼女もいない僕がこんなこと言っても、説得力ないですか〜」
あはは、と頭をかく兄をちらりと見て、キールは微かに苦笑を浮かべる。そんなに気楽に納得できれば、これほど滅入ったりはしていないのだが。
メイが、自分を好きだと言ってくれた――そのことを疑っているわけではない。
16の少女が、今までのすべてを捨てても、自分を選ぶと言ってくれたこと――それが、どれほどのことか。キールは、メイのその気持ちを――苦しみを本当に知ることは、きっと自分にはできないのだろうと、ぼんやりと思っていた。
想像することはできる。思いやることもできる。けれど、彼女の現実を抱えているのは、世界中で彼女ただ一人なのだから。
だから、分からない。
目の前にいるから、メイは自分の手を取ってくれた。
向こうの世界に戻ったら。
彼女の本来の世界に立ち、懐かしいものたちに囲まれ、大切な家族と再会したら?
それでも、それを再び手放して、彼女は戻ってきてくれるだろうか。
―――それほどの、存在だろうか、自分は―――?
キールの胸にいつもくすぶっていたその不安が、今はちりちりと消すことも鎮めることもできない炎のように、内側から彼を灼いているのだった。
アイシュはテーブルを立つと、ゆっくり両手をそろえて椅子の背に置いた。
「…キールは、メイに、ちゃんと、帰ってきてくれって言いましたか〜?」
キールは、いきなり核心に切り込まれて、ふと息を止めて兄の顔を見上げた。
分厚い眼鏡を透かして、自分と同じ色の瞳が穏やかにこちらを見ている。
アイシュはのんびりした口のきき方や、いまひとつの運動神経のせいで、仕事以外ではずいぶんぼんやりした性格のように言われることも多いが、けしてそうではないことをキールは知っていた。確かに自分に向けられる感情には妙に疎かったりはするが、人の感情が読めない人間ではない。
それに、鬱陶しく思えるほど、近くにいて、自分のことを昔から知っている存在でもあるのだ──
答えられないキールに、アイシュはちいさくため息をついた。いたわるような、困ったような微笑を浮かべて。
「…やっぱり、言ってないんですね」
見透かされた悔しさと、分かってくれる人がいる安堵感の間で板挟みになって、キールはぷいと横を向く。
「仕方ない、人ですね〜、キールは」
アイシュは、椅子の背に置いた両手に、視線を落とした。
「…キールの考えていることも、分かります〜…でも、それは、やっぱり言わなきゃいけなかったんじゃないでしょうか」
意見するとか、諭すとか言うほど強い口調ではなかった。むしろ、半ば独り言のように、小さくアイシュは呟いて、テーブルの上のコーヒーカップを取り上げた。カップとソーサーの触れあう、かちゃん、という音を聞いて、ふと視線を戻したキールに、アイシュはにっこり笑いかける。
「…コーヒー、さめてしまいましたからね〜、今度は紅茶を入れましょう。ブランデーを、落としますね〜」
そう言って台所に入っていくアイシュを、キールはちらりと見送ると視線を窓の外に向けた。満月が、ゆっくりと上りつつあった。
メイがいなくても、魔法研究院の日常はさほど変化なく続いていく。キールは、期限の迫っていたレポートをひとつ、やっと提出して、長老の部屋を出た。
彼女の姿がないことに、慣れられるわけではない。それでも、仕事はやってくるし、何かやらなければならないことを抱えている方が、多少なりと気が紛れる。
けれど、彼は自分の研究室に戻りかけて、ふと寮へ向かう廊下との分かれ道で立ち止まった。
(……)
しばらくためらった後で、メイの部屋へ向かって歩き出す。
メイの部屋は、2階の一番手前にある、個室としては広い部屋だ。もっともそれは彼女が優遇されているというわけではなく、元は倉庫だったものを、空き部屋がなかったのでやむを得ず居室に転用したからだった。そのせいで広さの割には窓が小さく、メイはいつも文句を言っていたものだ。
ドアの前に立つと、いつもの癖で無意識にノックをする。ドアの鳴るこつこつ、という音に、彼はふと我に返る。
(…返事があるわけないだろ)
苦笑いを浮かべてから、ためらいがちにノブを回して扉をすこし押し開く。身体を半分だけドアの隙間に滑り込ませて、彼は主のいない部屋の中を見回した。
「…片づけていったのか、あいつ」
いつもは、書き損じの魔法陣やらレポートやらが散らばり、借りてきた本が読まないまま山積みになっていたり、お菓子の残骸が転がっていたりする部屋の中が、きちんと片づけられている。
空っぽの机の上を見つめて、キールは扉の枠に体をもたせかけた。
少し薄暗いな、と思って、それがカーテンが引かれているからだと気づいた時、キールの胸の奥でなにかが音を立てた。
(…このままかもしれない)
彼女が戻らなければ、この部屋はきちんと片づいた今のまま閉め切られ、忘れられ、いつかまた倉庫に戻されるのかも知れない。
(――――)
『ちゃんと、戻ってきてくれって言いましたか?』
アイシュの問いが、自分の声と重なって胸の奥に響いた。
(…言えないさ)
言いたかった。口に出かけた。でも、言えなかった。
還す魔法を紡ぐ自分が、選択肢を示す自分が、示しながら片方を選べと言うことはできなかった。
自分が、この世界が、彼女にいて欲しいと望むように、向こうの世界にも、彼女に戻って欲しいと望む権利がある。
そして、メイにも。
あんなに、元の世界を思っていたメイに、それを思うなということはできない。
――彼女自身の世界を選ぶなということは、できない。
幾度も、幾度も、伝えずにおこうかと思った。
あの魔法陣を手放せば、ここには戻れないと言うことを。
何度も、胸の中で繰り返してみた。
ただ、けして手放すなと、それだけを言い含めて持たせればいいんだ、と。
やり方はかなり複雑になるが、彼女自身にあの魔法陣を刻む方法だって、なかったわけではない。
けれど。
けれど、そうしたら、きっと自分は戻ってきた彼女の瞳を真っ直ぐ見ることが出来ないだろうということも、彼には分かっていた。
戻ってきた彼女の瞳に、涙が浮かんでいたら。
彼女の口から、戻りたくなかったと言う言葉が零れでもしたら。
―――それで、何もかもが壊れてしまう。
そして、二度と元には戻らないだろう。
伝えずにおくことも、約束を求めることもできなくて。
結局、彼に出来たのは、事実を伝えることだけだった。
我ながら頑なだと思う。馬鹿だなとも思う。
(――それで、あいつが戻らなくても――仕方ないさ)
仕方なくなど、ないのに。もしそうなったら、と、かけらでも想像することすら、息が出来なくなるほど苦しいのに。
キールは、扉の枠に手をついて、ゆっくりと身を起こした。そっと後ずさって、音を立てないよう静かにドアを閉める。ほんの僅かな間、扉を見つめてから、彼は身を返して歩き出した。いつもより少しゆっくりと、足元の敷石を見つめながら。
夕刻の鐘が鳴って、一刻ほどが過ぎた。
キールは、いくつかの明かりが灯されているとはいえ、やはり薄暗いホールの中を見回した。研究院の魔導士たちはまだ姿を見せていなかったが、前回の実験の時と同じように、メイの友人たちはちらほらと顔を見せはじめている。
銀髪の騎士見習いの少年は、一番乗りでやってきた。キールに召還実験のことを聞こうと勢い込んできたようだが、彼の態度を見てやめたらしい。所在なげに大きな魔法陣や高い天井を見回しながら、実験の開始を待っている。
彼に少し遅れて、メイの親友の一人、シルフィスもやってきた。ホールの薄暗がりでも透き通るように輝く金髪を背に流して、静かにホールに滑り込んでくる。彼(彼女?)はキールに黙礼をしてから、ガゼルのところへ行って、しばらく低い声で話をしていたようだった。
続いてアイシュが、そしてディアーナがシオンを連れて現れる。ディアーナはキールに声をかけて実験のことを聞こうとしたようだったが、シオンに、術者の集中を乱すと魔法が失敗するかもしれんぜ、と脅かされてしぶしぶホールの片隅に引き下がった。
当のシオンは、
「貸し、な」
とキールに短く片目をつぶると、ディアーナのお守りに徹することにしたらしい。色々召還魔法のことを聞きたがるディアーナを軽くいなしている。
キールが気がつかないうちに、レオニスも現れていた。シルフィスとガゼルが近寄っていったので、それと気づいたのだ。前回と同じように、入り口近くの壁際に立ち、部下たちの言葉にも短く答えるだけで、黙って腕を組んでいる。
その頃になると、魔導士たちも現れ始めた。一角に陣取って、魔法の技術的なことについて、ちらほらと囁きあっている。
最後に、セイリオスが現れた。さすがに皇太子を無視するわけにもいかず、キールは出迎えて短く挨拶をする。セイリオスはそれを受けると、
「…頼んだぞ」
と、キールに頷きかけた。キールは黙って頭を下げると、魔法陣の方へ戻っていった。
そして、前回と同じように、召還魔法が始まった。夜の水面に滑り出す船のように、静かに音もなく、呪文の流れが周囲の魔力を取り込み、呼び寄せ、異界の門を開く場を形成してゆく。魔法を扱う者たちの目には、それがいかに複雑で精巧で、信じられないほどの重なり合いを持った魔法陣かが見て取れただろう。
それと知らない者たちの目には、召還魔法は光の揺らめきに見えた。彼女を送り返した時の光とは少し違う、白から虹色に変化する不思議な色合いの光。前回と同じように、魔法陣の一番外側から、月の光のヴェールのように輝きの幕が立ちのぼる。
帰還の魔法の時、オーブに向こうの世界が映し出されると知った参観者たちは、固唾をのんで光の幕とオーブとを交互に見つめていた。幾重にも重なるように立ちのぼり、中心の真円を取り巻いて輝く光の壁が、いっそう明るさを増す。かと思うと、中心から虹色に輝く光が高く高く吹き上げ、集まった人々の目を吸い寄せた。
「オーブが!」
叫んだのは、誰の声だったろうか。その場の全員が、いくつかあるオーブのそれぞれを一斉に見つめる。
「…前と…同じ──なのか…?」
目が痛くなるほど見つめながら、シルフィスは自信なげに呟いた。確かに、オーブの中には見たこともない光景が映っている。けれど、それが前回と同じ景色なのかどうか、シルフィスには判断できなかった。あるものは室内に見え、あるものは屋外に見える。どれも、前に見たものと似ているようであり、どこか違うようでもあった。
「……おかしい…?」
ディアーナは、傍らにいたシオンの低い呟きにぎくりとして彼の顔を見上げた。彼女の視線の先には、今まで見たことがないくらい真剣な彼の表情があった。夢中で彼の腕をつかむと、叫ぶように問いかける。
「なんですの!?…なにがおかしいんですの、シオン!?」
けれどシオンは、ディアーナに答えを返さないまま、光の塔にも似た魔法陣の輝きを、食い入るように見つめ続ける。
祈るように見守り続ける人々の視線の中で、魔法陣の光はゆっくりと衰えつつあった。
一番外周の魔法円から、立ち上っていた光の幕がすうっと消えてゆく。
それに引きずられるように、その次の壁が、そしてその次が。
「…消えちまう!?」
叫んだのは、銀髪の騎士見習いのようだった。隣にいたレオニスの唇が、声のないまま、メイ、と微かに動く。ディアーナの隣にいたセイリオスは、堅く唇を引き結んで、輝きを失っていく魔法陣を見つめ続けていた。
そして、中心に輝いていた最後の光の塔が消えた。
何事も起きないまま。
一瞬、ホールはまるで真の暗闇に閉ざされたかのようだった。
それでは、メイは戻ってこないのだ。
キールは、ただその事実だけが、かたりと音を立てて胸の底に落ちるのを感じた。
戻らないことへの悲しみでも、驚きでも、怒りでもなく。
ただ、奇妙に静まり返ったうつろな音が、胸の奥に響いていた。
メイは戻ってこない。
ここには、もう彼女はいない。
この先、ずっと。
キールは僅かに顔を上げた。
世界の意味が、ふいと消え失せたかのようだった。
魔法も、自分も、今立っている地面も、何もかもただ空虚な、あるだけの存在。
未来永劫、ただあるだけの──意味のない存在。
──なにも、頭に浮かばない。
永遠のような、暗黒の一瞬だった。
「……あれ…っ!」
短い叫びがアイシュのものだと、キールは気づいてさえいなかった。
けれど、次の瞬間、金色の光が彼の視界の端をよぎった。同時に、波紋のように魔力が泡立つのを感じる。
彼は弾かれるように瞳を上げた。
さっき一番高く光を吹き上げていた魔法陣の中心の、その高みと同じくらいの位置に、目を射るような金色の輝きが生まれていた。波立ち、あふれてくる魔力の流れが、そこからみるみるうちに広がってゆく。魔力に形があるなら、その輝きを中心に、ざあと音を立てて渦巻き、脈打つのが見て取れただろう。
さあっ、とその輝きから虹色の光が射したかと思うと、今まで星のようだった煌きが、まるで風船が膨らむように広がった。その分、少し明るさが薄れて──
「──メイっ!──」
ディアーナの、悲鳴のような、泣き声のような叫びが響いた。
金色の光の泡の中に、メイが浮かんでいた。
見守る人々の口から、声のない歓声が上がる。
彼女は、一心に足下を見つめていた。まるで、体のバランスを取るのに全神経を集中しているかのような真剣な表情が、光のヴェールを通して見て取れる。
ゆっくりと、光に包まれたまま、メイは降下を始めた。僅かに身体が傾き、彼女の唇が、おっとっと、と言う形に動く。
キールは、一心に彼女の姿を見つめながら、雲の上を歩くように足を踏み出していた。
2歩、3歩──少しずつ、足を速める。
彼の動きが視界に入ったのか、メイが顔を上げた。視線が、ふとさまよってからキールを見つける。
彼女の顔が、ぱっと輝いたかと思うと、右手がひょいと肩のあたりまであがり、小さく振られた。
「やっほー、キール」
彼女の唇が、確かにそう動く。
(……)
キールは、足を緩めて彼女の姿を見つめる。
(…お前、…──)
泣き出したいような、怒り出したいような、何とも言えない感情がどっと胸の中に吹き上げた。
(…俺が、こんなに──さんざん、──参ってたってのに…お前ときたら──)
ほんとうに、いつも彼女には振り回されっぱなしだ。出会った時も、今までも、そして、きっとこれからも──
ゆっくりと、メイの身体は地上に近づいてきた。それにつれて、金色の光もどんどん薄れてゆく。頼りなげに降りてくるメイの下にたどり着くと、キールは彼女の姿を見上げて待った。
あと一息で地面、と言うところまで来た彼女の身体を、腕を伸ばしてつかまえ、思い切り引き寄せる。
きゃっ、という驚きの声。
キールは、久しぶりに聞くメイの声を耳に甘く感じながら、腕の中に滑り込んだ彼女を全身で抱きしめた。
メイ、と呼んだつもりだったが、それは声になっていなかった。それきり、ただ目を閉じて、彼女を抱く腕に力を込める。少女は、すがしく甘い香りがした。
夢ではない。
幻でもない。
今、腕の中にメイがいる。
その温もりを、重みをひたすらに確かめる。
「…キール」
しばらく、おとなしく彼の腕の中で目を閉じていたメイが、顔を上げて呼んだ。答えない彼に焦れて、背中に回した手で、ぱふぱふ、と彼のローブの背を叩く。
「キールぅ、みんなが」
「…あ」
キールは、はっと我に返った。
十数人のギャラリーのことを今更ながらに思い出して、ざっと身体中の血が顔に集まるのを感じる。
が、あわてて振り向いたその視線の先で、ホールのドアはゆっくり閉ざされるところだった。
最後にちらりと、魔導士たちを追い立てて行くらしいシオンの青い髪と、ディアーナの背を押すようにして出てゆくアイシュの服の色が、ドアの隙間から覗いて、消えた。
ばたん、という重い音と同時に、ホールには二人だけがぽつんと取り残される。キールは、一瞬呆然として閉じた扉を見つめた。
「…なに、…どうしたの」
メイも同じだったらしく、ぽかんとした調子で呟く。キールは、自失から立ち直ると、大きく息を吐き出した。
(…気をきかされた、ってことか)
「…もしかして、気、きかされた?」
キールが胸の中で呟くのと同時に、メイがそう口を開く。キールは、メイを振り向いて、彼女の大きな茶色の瞳を見下ろした。何事もなかったように、くるりと瞳を見開いてキールを見上げている彼女の表情。
不意に、キールの目の前にさっきの光景が蘇った。魔法陣は、確かに一度完全に沈黙した。あの状態から、再び発動するなんて信じられない。それに、あの光景は、どう見ても理論上予測していた発動の様子とは違うのだ。まあ、高低はある程度の誤差を予想していたから、魔法陣の上空のあの高さに現れたのはいいとして。
「…そうだ、メイ、お前、何があった!一体どうしたんだ、理論では――」
「だって、お風呂入ってたんだもん!」
「……は?」
いきなり投げつけられた答えに、キールは絶句して彼女を見つめる。なぜここで、風呂などと言う単語が出てくるのか、キールには理解の範囲外である。
メイは、両手の平をキールに向けて、まあまあ、と押さえて見せた。
「…ちょ、ちょっと待って、待ってね、ええと――、キール、召還実験始める時間、早めたりした?」
「…いや――してないぞ」
もしかしたら、気がはやって2分や3分は早かったかも知れないが、早めると言うほどずれてはいなかったはずだ。
メイは、うんうん、と頷いて首を傾げて見せる。
「じゃあ、やっぱ、あっちとこっちってずれてるんだわ、少し」
「ずれてる?」
「うん、時間が。…あのね、あっち戻ったら、ここより日付が前だったの、一ヶ月くらい」
「一ヶ月…30日くらいか?」
キールの問いに、メイはこっくり頷いた。
「だから、もしかしたらキールが呼び戻してくれるのも、あっちでの10日より少し早いんじゃないかなって思って――大体見当はつけてたんだけどさぁ」
メイは、ちいさく舌を出して笑って見せる。
「ちょっち、読み間違っちゃった。ほら、あたしとしてはさ、心新たにこっちに戻るに当たって、お風呂で女を磨いてから来よっかなーなんて思ったワケよ。で――」
言葉を切って、右腕をひょいとキールの目の前に差し出してみせる。
「お風呂入るのに、これつけてられないじゃん?お湯で魔法陣がにじんだり消えたりしたら、こっち戻れなくなっちゃうかも知れないもん」
10日前にキールがくれた腕輪を、メイはきゅっと握りしめて笑った。
「んで、はずしてたの。だけど、お風呂から上がって、まだつける前にいきなりこれが光り出してさ――」
キールは、腕輪からメイの瞳に視線を戻した。
「もう、あせったあせった!もうちょっとよゆーあると思ってたからさ、おみやげとか部屋に置いてたし、第一、ちゃんと服、着終わってなかったし」
その言葉に、思わずキールはメイの服装を見下ろす。
「…今は着てるわよ、キールのスケベ!」
すかさずぐーぱんちをキールの胸元にぽんと当ててから、メイは続ける。
「だから、大急ぎで、あれ試したの、ほら前にキールが教えてくれた呪文」
「…呪文?どれだ」
「浮遊魔法やった時に、教えてくれたでしょ、魔法陣の効きめを伸ばすやつ」
「…ああ――」
キールは、目を見開いて、何事もなかったように笑うメイの顔を見つめた。
「うまく効いたみたいだったから、速攻部屋にかっとんで行って、おみやげ取って来ちゃった」
言われて初めて気づいたが、メイは以前に来た時に持っていた鞄よりも少し大きなショルダーを下げている。それにしても――キールは思わず額を押さえた。
「…なんて無茶するんだ、お前は!」
「えー、いいじゃん、帰ってこられたんだし」
「そういう問題じゃない!そんな、双方で呼応しあう魔法陣の、一方だけを無理矢理活性化するなんて――ひとつ間違ったら、また別の異世界に飛ばされるか――世界の狭間で消し飛ぶところだったんだぞ!」
「そーなの?」
メイは、ちょっと顔をしかめて見せてから、またキールを見上げてにっこり笑った。
「…でも、こっちにはキールがいてくれるから。きっと、何とかしてくれるって思ってた。ちゃんと、呼び戻してくれるって」
「―――」
小言を続けようとしていたキールは、メイの笑顔を見つめて声をとぎらせた。
彼女が戻らないのではないかと恐れてうつむいていた自分。もう戻ってこないと思いこんで、立ち尽くしたきり何もできなかった自分。
なのに、メイは戻ってきてくれた――こんなにあっけらかんと、こんなに当然のように。
不意に、何かがこみ上げてきそうになって、キールは慌ててくるりと身を返した。
「……まあ――いい……無事、だったんだから」
一呼吸おいて、ふわりと左腕に温もりが寄り添う。
キールの左腕を取って、メイが嬉しそうに彼の顔を見上げて笑っていた。
「…ありがと。ごめんね、心配かけて」
キールは、声が出せないまま、右手で軽く彼女の頭をぽんぽんとなでた。メイが、くすぐったげにくすくすと笑う。
「…ここ、片づけないとダメかな?」
メイが、キールの左腕に寄り添ったまま、ホールの中をふと見回して呟く。
「…いいさ、明日で。…ああ、まあ――オーブと、巻物くらいは片づけとくか」
「うん、手伝うね」
とりあえずオーブと、持てるだけの巻物をかき集めると、二人はホールを出た。
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